第拾頁

「……それはそうと、宝珠があるようには見えないんだが」

 急かすでもなく、ふとエンが問うた。

「えぇ。きちんと受け取って来ました……少し、待っていて下さいね」

 それは、エンに対して答えたというより、他の人々に向けても放たれた言葉だった。

 ススス……と少年は部屋の中心に足を進める。ピタリ、と静かに足を止めると、キッと真上を見上げた。ドーム状に作られた硝子の天井から、燦々と日の光が差し込み、冷たく澄んだ純粋な青の空が見える。パッと一度胸の前で両手を合わせて印を組むと、すぐに高々と頭上へ掲げる。更に数種の印を空に刻みながら、胎の底から鋭い声を絞り出した。

『――散開せし紺の砕片・彷徨う天地の咆哮・裏庭に咲いた真の緑は囁く』

 そこで圭太は決められた順序で手足を数回打ち鳴らし、最後にパンッと胸の前で両掌を打ち合わせた。渾身の力を込めて集中する。自然、両足が肩幅に開き、少々前傾姿勢になる。

 ふわり、と色のついた風が──若葉色の風が圭太の周囲にまとわりつき始めていた。

『我が内に刻まれし清風の疾走の痕跡よ、今再びここにあれらを収束し、我が力の助けと成せ! ──────現れ出でよ!』

 呼び声に応えるようなその光は頭上の天蓋から降り注いだのか、それとも圭太自身から発せられたものか。

 一瞬、圭太の姿が若葉色に光り輝く竜巻の中に消えたかと思うと、すぐに眩い緑色の閃光がドーム状の天蓋を貫いた。あまりの眩さに一同は思わず目を庇う。中には体を丸めてしゃがみこむ者もいた。

 しかしそれも一瞬である。光の脅威を感じなくなった人々が顔を上げると、そこではすでに次の変化が始まっていた。

 目を閉じ、眉間に皺を寄せ何事かぶつぶつと呟いている圭太のその両手の間には、すでに淡く緑色に光る宝珠が出現していた。それは、大人の頭よりも大きい、巨大なもの。周囲から歓声が上がる。

 ──あぁ! あれはまさに、シルフさまの宝珠……!

 人々は安心感とともに、懐かしさを覚えていた。

 ミシミシと部屋が軋んでいる。

 機械が稼働し始めるような奇妙な音と共に、方々の壁から、圭太の方へ無数の光の筋が伸びていく。すると圭太は宝珠をふわりと宙へ置いた。

 光が、巨大な硝子玉のような宝珠を絡めとり、そのまま中空へ固定する。

「……お……おぉ……まさしく昔の通りの姿じゃ…………」

 神殿内最長老でもある神官長が、思わずそう呟いて脱力したかのように地に膝をついた。

「これで…………もう、皆帰れます。さぁ、皆さん、そこに集まって、じっとしていて下さい……」

 額にびっしりと汗の玉を浮かべて少年は言った。少し息も荒い。

「大丈夫か……?」

 ランディが気遣わしげにそう問うのに、圭太はしっかりと頷いて見せた。一同は心配ではあったが、そんな少年を信じることにする。

「…………そう言えば、レム、お前は帰らないのか?」

 そんなことをふと少女に問いかけたエンに、「はい」という少女の声と、「えっ?」という圭太の声が同時に返って来た。

「ん? あぁ、そうか、圭太には言っていなかったな……彼女は、俺が助けた子供のうちの一人だったんだ。でも、神殿で保護しようとしたら、この通り若葉色の髪になってしまってな。神官たちが、帰るまでは是非ともと言って、神官の勉強をさせていたんだよ」

「そうだったんですか……! どうりで言葉が通じたんですね。……あっ、そういえば僕は、貴女の名前もまだ直接聞いなかったような……」

「レムです。……私がこちらへ飛んできたのは、三年前ですけどね。だから、貴方の従兄の方とは、本当に何の関係もないんですよ?」

 心配そうな顔で、レムは言った。圭太は思わず微笑んだ。

「けれど、どうして帰らないんだ?」

 今度はエンがレムに、心配そうに言う。

「私には、もう家族がありませんから、少しでも役に立てるなら、ここに残りたいと思うのです」

 にこにこと彼女は言った。エンはついすまないと言い、彼女は首を振り、それより、と言った。

「ケイ君。貴方には家族がいらっしゃるのでしょう? 本当にいいのですか?」

「はは……僕は、もう決めたんです。……家族に何と言われようと、僕は家族を――人を護るための役に立ちたいと、そう思うんです」

「……そうですか。ご自分で、きちんとお決めになったんですね」

 レムは、それなら安心です、と、満面の笑顔を見せた。それに対し、圭太も胎の据わった者特有の落ち着いた笑みを向ける。

「……それでは、そろそろ……今から、空間移動の魔法の呪文詠唱に入ります。皆さんは、その床の魔法陣の中から出ないように、静かに待っていてください。心配は何もありません。すぐに帰ることが出来ますから、落ち着いていてください」

 圭太のその科白を聞いて、子供たちは少し緊張した様子を見せた。皆、出来るだけ、部屋の西方の床に描かれた、大きな風の魔法陣の中央へ寄る。

 たくさんの若葉色を纏うそのくたびれた私服姿の少年は、部屋の中央……丁度魔法陣の真東に立つ、不思議な様子のオブジェへと近付いていった。

 先ほど圭太の呼び声によって作り上げられたそれは、風の宝珠と、それを取り込むぐるぐる巻きの紐、といった面持ちであった。光の紐があちこちの床や天井や壁の四方八方から生えるようにして伸び、宝珠を支えているのである。

 圭太は頭上六十センチ程の位置に宝珠を頂く形で、その真下に直立して手を翳した。

 すぅ、と一度大きく息を吸う。

『…………現に行き渡る涼やかな調べ、草原を翔け巡る豊穣の吐息、麗らかなるは姫神の切片、慈悲深き精霊の唄い……』

 長い長い、詠唱が始まる。呪文はあちらの世界のどの言語とも、この世界の標準的な言葉とも大きく異なる言語からなるのだそうだ。発音に気をつけながら、少年は慎重に音を紡いだ。

 大きな魔法であればあるほど、その呪文の詠唱時間は長くなる。この魔法は、世界をまたにかけるもの。最大の魔法のうちのひとつと言っても過言ではないものだった。

 詠唱が進むにつれて、宝珠のもつ薄緑色の美しい光がその強さを増し始める。圭太の周りでは、小規模な空気の対流が起こり始めていた。それとともに、儀式の間に描かれた風の魔法陣は、うっすらと発光を始めていた。

 エンは、六年前までのことを思い出しながら、この儀式の様子を見守っていた。

 エンは念力を使うが、それら自分の力自体を消費するものとは違い、魔法というものは他者への呪文による呼びかけによってその存在へと助力を請い、受け取ったその力を自分の精神力と呪文とで制御して発動するものであると、彼は先代シルフから聞いていた。

 危険を冒してまで自分とセインの居場所を交換するという荒業を行ってくれた、そしてそれを許してくれた、先代の六人の神官たち。彼ら恩人たちがいなくなって、もうあの役目が用を成さなくなっていても、何かできることはないかと、今ままでずっと、迷い込んできた者たちの保護をやってきた。この六年間に、迷い込んできた者たちというのは、市哉と、レムと、そしてここにいる子供たちと、圭太である。それだけでは自分の責務を果たせないと、気性の荒くなった魔物たちからアマリアを守る活動にも参加している。自分でも、何だか必死になっていた気がする……。

 けれどきっと、これからは、六年前までと同じような心境で暮らせる。もちろん、だからといって都市の警護活動に参加することをやめる気もないが、きっと、魔物の気性は今よりも大人しいものに戻ると思われる。

 これからは、次元に歪みを作った対価を、きちんと果たしていける望みができた。ひょっとしたら、もう得ることは無理かもしれないと思いかけていた希望を、得ることができた。

 しかしその希望をもたらしたのが、圭太であるということには、少し複雑な感情を抱いていた。親友の従弟であり、まだ小学五年生であり、地球にまともな親兄弟を残している、まだあどけない少年。年の割には大人びた様子を見せることもあるが、まだ、本当に、たった十一歳の、少年でしかない、大神官……こんな子に、大役を任せることになるという、申し訳なさが、消えない。それは神が選ぶことであるといい、自分にどうこうできる問題ではないのだが、自分の住むこの世界の危機を、今のところこの少年一人に背負わせることになるなどと……。

 しかし、そのことは変えられない事実であり、そうであるなら自分は少年をずっと助けよう、守っていこうと、そう、誓おう……。

 彼が色々と物思いに耽っていると、いつの間にか、少年の詠唱は最終段階に入っていたようだった。

『……迷い、たゆたい、凝り、惑い、影を侵食する光よ、今、光の庭に戻らん!』

 次第に強くなっていた、空気の対流と、光。どれもが一瞬、より強いものとなった気がした。

 そして。

 室内が静寂を取り戻した時には、もう魔法陣の中に人影は一つもなかった。

 ぺたん、と圭太が尻餅をついた。それを合図にするようにして、その場の緊張が一気に解けて、二十人近い人々は皆しばらくその場に呆けていた。

 少年は肩で息をする。衣服は滝のような汗でぐしゃぐしゃだった。

 そんな少年に、少女は近づいていく。

「お疲れ様でした。魔法の無事成功を、お喜び申し上げます……聖風大神官シルフ様」

 聖、と付くようになったのは、六年前、それぞれに対応するように、邪風大神官ウィンディノスとかを名乗る者などが現れたためであった。

「…………敬語は、仕方ないのでしたね……」

 ふらふらな様子でありながら、少年は嫌そうにそう言う。まだこだわっているらしい。

「はい、慣れるしかないのです」

 だから、少女はそうきっぱりと、往生際の悪いこれからの上司のお尻を叩く。

「……う~ん、俺はどうも、市哉の従弟としか見れないから、敬語が出ないな」

「使わないで下さい!」

 圭太は懇願するように言った。

「大神官様!」「シルフ様」

 内心拒否したくても、既に周囲の神官たちが目を輝かせて歓喜の叫びを飛ばしている。本当に、相当な持ち上げられようである。自分はまだ、単なる子供だと言うのに。

「あぁ、六年前に閉ざされた力が、再び蘇りました……!」

 年老いたその神官はそう言って、さっそく医療棟の復活を図ります、と、嬉しそうにきびすを返した。

「それよりもそれよりも、アマリアにお披露目をしなければ。シルフ様、衣装の着付けを致しましょう! あぁ、なんておめでたいことでしょう!」

 そんな中年の女性神官に、さすがに圭太はげっそりした。

「申し訳ありませんが、今日は疲れましたので……結界の方にも、取り掛からなければ……」

「あらやだ! 私ったら、先走ってしまいまして……! どうかお許しくださいませ!」

 真っ青になる女性に、逆に圭太の方が慌てた。

「いえ、貴女こそ、どうかお気になさらず!」

 人の上に立つというのは、大変なことである。

 と、ドラマか何かでの誰かの台詞が脳裏をよぎった。

「あぁ、皆さん、もうよろしいですから、本日は解散です! 私はもう、休みます……!」

 そう自棄のように叫んでこの場を走り去ろうとする圭太を、大勢の腕が引き止めた。

「お待ちくださいませ! 大神官様のお部屋はこちらでございます!」

「……あぁあぁぁ……僕はあの部屋で構わないのに……」

 圭太は早速、弱音を吐いていた。

 神殿の奥へと連行されていくそんな少年の姿を、青年と少女は少し悪戯っぽい視線で追っていた。

「……一気に皆さんの空気が明るくなりましたね」

「そうだな。……良かった……んだよな?」

「本人が選んだのですから、それで良いのなら良いんですよ、きっと」

「……そうなんだろうか?」

「そうですよ」

 そう断言するレムは、本当に嬉しそうに、笑顔を浮かべていた。

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