第捌頁

 ぞわり

 何とも言えない感覚が彼の肩を震わせた。

「──れ、レム……歪みが……!」

「エンさん! ……直ぐにランディさんたちに連絡しますね!」

 少女が大慌てで部屋を飛び出していった。彼はパタパタという足音を背中に聞く。通信玉を扱えるのも、現在ではこの少女一人──いや、圭太が現われた今では試してみれば復活しているかもしれないが。

「たの、む……」

 首筋の裏を妖怪にでも弄られているかのようだった。思わず自らの体を抱え込む。

(……やは、り……慣れないな……これには……)

 ふぅう、と長く息をつくと少しだけ落ち着いた気がした。じっとりと厭な汗があちこちに滲んでいる。こちらの世界へ移住してきて、早十三年ほど。もう何度も──そう、最近は特に──感知してきたとはいえ、この意識を弾き飛ばされそうになる感覚にはどうしても慣れることができないでいる。

(しかし、これで──市哉が故意に何かしていたわけではないと言えるんじゃないのか)

 そう、これは空間の歪みに誰かが落ちたときにエンが感じる悪寒だった。

 軽い足音とともにレムが帰ってくる。

「エンさん、ランディさんたち丁度アマリアに近い所にいらっしゃったそうです! すぐにその場へ向かった方がいいのか、それとも待ってる方がいいのか言ってくれって……」

「そうか、ありがとう……ではすぐ行くと伝えてくれるか? それでみんなどの辺りにいるんだ?」

「もうすぐ雷の神殿の外側くらいという辺りだそうです」

「分かった」

 そしてエンは、だるい体を引きずるようにして、都市の中を南西に走った。



 あまりの目まぐるしさに眩暈がする。思わず目を指の腹でぎゅっと押さえていた。それでも、腰から地面に落ちそうになるのは何とかこらえた。そんな圭太の様子に、風の大神官はふっ、と微笑んだ。

『……何もかも、本当に急で、申し訳ありませんね。けれど、時間がないのも事実です。繰り返しになってしまいますが、私は単なる残留思念に過ぎません。時が経つにつれて、薄れていってしまう存在……きっと、今私が伝えることができたことは、当初伝えたいと思っていたこと全てではありません。けれど多分、最低限のことはお伝えできたはず……』

 少し心残りがありそうではあったが、彼は満足できているようだった。

 伝えられた知識の中には、魔法やその原理だけではなく、大神官の役目に関するものもあるようだった。一度に大量の知識が流れ込んできたため、まだ頭がぼうっとしている気がする。けれど意思の疎通に支障をきたすほどではない。

「……僕たちのいる地球には、こんなに生き残ることに一生懸命にならなくても、安全に一生を終えられる国がいくつもあります。僕もそんな国で育ってきました……」

『……自分がぬくぬく育ってきたことを疎みますか? けれど……決して地球のごく一部だけが優遇されているというわけではありません。技術的に……一般的に『進んでいる』と言われていたとしても、それはそれで不幸だと思いますよ、少なくとも私は。

 …………何故、貴方が選ばれたんでしょうね?』

「……えっ?」

 それは圭太自身が一番聞きたい問いであって、それを自分に聞かれた少年は多少面食らった。

『……貴方がこちらへ飛ばされてきたのは……きっとその理由は他の子供たちと同じではなかったのでしょうね。きっかけは同じでも、貴方は最初から選ばれていた。

 けれど、その意味は何処に求められるのでしょうね? 神はどうして自らの手でこの酷な世界の状況を変えようと思わないのでしょうか?』

「…………意味を、求めるなということですか?」

『自分で見つけ出せってことさ』

 シルフの科白に、圭太は少し思案げな顔をした。

「……あの……ほかにちょっと疑問に思ったのですが……世界の間を何かが色々と移動しまくってたら、危ないんでしょう?」

 圭太はどうも納得がいかないという顔をしてそう問うた。

『…………そう思うだろうなァ、普通は』

 シルフは当然当然、と言って頷く。

『大神官の入れ替わりで天変地異が起こったなどとは聞きませんからね。恐らく他の人々とは違って質量の完全な入れ替わりが行われるのでしょう。けれど、そういう移動でない場合、今のように地震とかそういったモノが頻発したり、魔物の気性が荒くなったりするという訳です。これを世界の均衡が崩れ始める前兆とする見方がやはり多いですね。けれど、実際に世界が壊れたことはないので、確実なことは言えないのでしょうが……。

 ……話がちょっと長くなってしまいましたか』

 彼はしまったという顔をしたが、圭太はけろりとして答えた。

「いえ、おかげで謎だったことがたくさん解けました。表裏の世界は結構助け合っているんだなってことが分かりましたし、大神官が選ばれる、ということも、何となく」

『そうですか……』

 ほっとしたように彼は笑ったが、すぐにまた真顔になって続けた。

『それから、大神官の空席が、風の神殿のものだけではないということは、既に知っていますね?』

「はい」

『アマリアを包む結界がもうだいぶ弱くなっています。他の方が見つかるまで、貴方が一人で耐えなければならない』

「……はい」

 それを聞いて圭太は自分の中の不安が大きくなるのを感じた。しかしもう決めたのだから、逆にその不安を糧に、気を引き締める。

『実は地球から法力容量の大きそうな人を召喚するという手もない訳ではないのですが』

「……ぇえっ?」

 少年は思わず我が耳を疑った。しかし言った本人の青年は飄々と肩をすくめて言ってのける。

『まぁ、その方々が必ず大神官に選ばれているとも限らないからなぁ。神のみぞ知るってヤツさ』

「……そうですよね。そんなにうまく行くはずない……」

 圭太は斜め下に視線をやってため息をついた。

『まぁ、そんなに気を落とすなよ。……いい加減喋りすぎたかな』

 彼ははにかんだ。

『消える直前の蝋燭みたいなものでしょうね。……てか、知ってることできるだけ教えたかったんだが……』

「き、消えるって……!」

 圭太は思わずおどおどした。

『……あぁ、ほら、そろそろのようですね』

「……な、何がで……あっ」

 よく見てみると、彼の姿がどんどん薄くなってきているのが分かった。何かがキラキラと、拡散し始めている……

『やっぱり人前に姿現したり何たりは消耗を早めるみたいだなァ……まぁ"役割"終えたっちゃそうだが、かわいい後輩だからなぁ……もっとたくさん教えてやりたかった』

「そんな、充分ですよ……」

 そういう圭太の表情は悲しげであった。そのことに安心しながら、彼は"自分"というものが曖昧になっていくのを感じた。

『もう、移動の術、分かるな? ここから神殿まで、帰れるな?』

「はい」

『宝珠も……ちゃんと渡したよな? 何だか分かるな?』

「はいっ」

 今までの態度からして、そんな心配そうにしてくれるのが何だか意外で、圭太はおかしくなってしまい、笑いながら頷いた。

『……もし我々がもっと強くて、邪神官と名乗ったあの者たちをはるかに凌駕する力を持っていたなら、あるいはお前に番が回ってくることはなかったかもしれない』

「いいえ……そんなのは単なる結果にすぎないじゃないですか……」

『あはは、お前が次期で、良かっ……』

 最後まで言い終わることは出来なかった。けれど消えてなくなる瞬間の彼の顔は、本当に、開放されたものの笑顔だった気がした。

やさしげなそよ風がほんの一瞬吹いた気がした。それに乗って、光の粒子が手を伸ばす間もなく霧散する……。

 圭太はしばらく、ほんの今まで彼がいたその場所を見つめていた。

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