第柒頁
「なぁ、圭太、人間の髪って、何で伸びるんだろうね」
髪、切りに行かないとなぁ、などと言いながら、市哉は突然そんな質問を放った。
「……はぁ? 伸びなかったらどうするの?」
「いや、あのね……だってさ、人間って猿から進化したんだって言われてるよね。でも猿の頭の毛は、生え変わりはするけど伸び続けはしない。一番人間に近いと言われるチンパンジーもそうだろう? だったら何で人間の髪の毛はずっと伸び続けるんだ」
「……い、市兄……?」
圭太はしどろもどろしながら、まだそんなこと習ってないし分かんないよと抗議した。
「あはは、ごめんごめん。何かふと気になってさ。猿が毛むくじゃらなのに人間が毛むくじゃらじゃないのは……とかいうのは衣服がどうのっていう話を聞いた覚えがあるんだけど、髪の毛ってどうなんだろうなって。何で伸びる必要があるのかな? やっぱ孔雀の雄とかみたいに見た目なのかな……髪型だけで結構印象変わるしなぁ……でも、男子の方が長くは伸びにくいとかって言うけど、男女の髪の差ってあんまりそういうことに関係ないよな……脳を守るためとかでもなさそうな気がするし……人間って不思議だよねぇ、色々と」
従兄はそうやってかなり長い間独りでぶつぶつと言いながら考え込んでいた。
圭太は、今自分が一番不思議に思うのはあんたなんだけど、等と思ったりした。
何だか右の頬が痛い。そう思ってみれば、痛いのは右頬だけではないような気がした。右腕を下敷きにして寝ているようで、それも痛い。少し痺れもあった。腰の辺りに、ちょうど自分が横たわっている床面のせり出した部分が当たっているようで、気づけばかなり痛かった。
「……ったぁ……」
呻きながら寝返りをうとうとすると、変にごりっとした感触がして、ますますあちこちの痛みが酷くなる。たまらず、今度は言葉も出ずに、飛び起きた。
「……えっ?」
周りを見渡そうとするがかなり暗くてよく分からない。未だに痛みを訴える体のあちこちを手でさすりながら、圭太は途方にくれた。
圭太のいるその場所はほぼ無風だったが、びょうびょうと、風のもののような音が遠くでするのが分かった。圭太の視界に入るのはごつごつとした岩ばかりであり、どうやらここは岩窟の中のようだった。こんなところで寝返りをうてば、あのような目にあうのは当然といえば当然である。しかし、何故こんなところに自分がいるのか。記憶は、神殿の一室で二人と話していたところで途切れていた。
「ここは、一体……?」
ぽつりと小さく呟いてみる。その声が存外に響いて、少年は少し驚いた。
ふと、ぼんやりした明かりを遠くに認めた。何となく惹かれて、圭太はとりあえず、そちらの方向を目指して歩くことにする。
(出口だといいけど……)
半ば祈りながら足を進める。近づくに連れ光は強くなっていった。暗く黒い空間をぼんやりと照らす、白い、とても白い光……。我知らず、歩調が早まっていた。もう何も考えず、ひたすら光に引き寄せられた。
もうあと一歩で届くという所へ来たその時、
カァッ
光が弾けた。
『……ごめん。勝手に飛んできてもらっちゃった』
眩しさに目を閉じたのはほんの一瞬。けれどいつの間にか、少年の目の前には少年と同じような若葉色をした青年が立っていた。歳はエンより少し下くらいだろうか。頼りなさげにふわりと十センチほど浮いた、透明な青年だった。
「……誰?」
頭の片隅に大体の予想が固まっていたような気はしたが、敢えて無視してそう問いかける。
『うーん、どう言えば一番いいかな? 僕は、この前まで風の大神官やってた奴だよ』
この前まで自分は大学生だったよ、というのと同じくらい軽い調子で彼は言った。そのあまりの何でもなさそうな様子に、少年は猜疑心いっぱいで聞き返す。
「……先代シルフは邪神官との戦いで帰らぬ人となってしまったのだと聞きましたが」
『僕は単なる残留思念だからねぇ』
また、彼はぼんやりと言った。圭太は頭を抱えたくなった。こ、これが、人々が尊敬してやまないという、大神官なのだろうか……? その任について自分が大いに思い悩んでいたことが、今突然馬鹿らしくさえ思えてきた。
「とても、敵を道ずれに一度お亡くなりになった方とは思えません……」
『あはは。そんなこと言って、君は一度死んだ人間と会ったことがあるのかい? ……まぁ、おちょくっても仕方ないけどねぇ」
彼は何やら人を小ばかにしたような様子でそう言い放った。圭太はますますたじろぐ。
『僕もね、さっき言ったように単なる残留思念だから、もともと生きてた彼とまったく同じ存在と言えるかどうかっていうのには自信がないんだ。死だのその先だのってのにはちょっと確たることを言えないからね。だから僕は先代シルフです、なんて確定して言えるのかは自分でもよく分からない。けどただ僕が、彼の思考パターンそのものと彼の記憶を引き継ぐ者で、彼が君に伝えたかったことを伝えるためにここにいるのは確かだと思う』
「僕に、伝えたかったこと、ですか……?」
圭太は怪訝そうな顔をした。これからその何かを伝えられるとして、何を伝えられるのか。それに対する不安や、恐怖や……そんな複数の感情が入り混じって、どう反応していいのかもいまいちよく分からない。
『まぁ、あんまりそう気負うなよ? 僕みたいなへろへろした奴でも務まった役目だ』
おどけるように肩をすくめて青年は言った。その態度にますます拒否感を積もらせる少年。くどい様だが、圭太の持っていた《大神官像》のようなものは、この彼とはかけ離れたものだったのだ。思わずこう、聞いてしまう。
「……いやあの……いつもそんな感じなんですか?」
元風の大神官だったらしい残留思念は、その問いに口を尖らせた。
『結構失礼な奴だよね。そんなわけないだろう? 公の場では、こう、凛々しくだね……』
その瞬間、空中をゆらゆらへろへろと漂っていた彼の表情が、きりりと引き締まった。心なし、宙にゆらゆら、ではなく、しっかりと固定された気さえする。透明な青年の手が、圭太の目の前に翳かざされた。
『これから貴方に、大神官として必要な知識を伝えましょう』
「えっ?」
彼の変化は本当に唐突だった。
「……えぇと」
圭太は、先ほどまでの彼のキャラクターとのあまりのギャップに、たいへん複雑な感情を抱いた。さすがにすぐには受け入れ難い。
「……聖風大神官シルフ……そんな呼び名を聞けば、今の貴方が一番しっくりくるのでしょうが……最初がああでは、ちょっと」
そんな少年に、彼は憤る様子でもなく、翳した手を下ろしながら、ふわりと笑った。その表情は、自分でも困惑しているのだと、そう語っていた。
『私も、今ではどちらが本来の自分か、分からなくなってしまいました。ずっとこのような調子で人と接していましたから、昔の自分の口調に戻った方が、むしろ違和感を覚えてしまいます』
「……ずっと、って……昔、って……しかし、結構お若くありませんか?」
『……実は、私はこれでも享年百九十三だったようですよ?』
「はぁ……!?」
いたずらっぽく笑いながら、さらりと放たれた爆弾発言。圭太の脳はその意味を噛み砕いて吸収することを拒否した。
『どういう訳なのかは分かりませんが、大神官になった者は代々不老長寿です。民を護る者が不在になることを避けるためなのだというのが一番妥当な謂れだとは思いますが……』
「……えっ、では、その……お亡くなりになった時も、そのお姿だったのですか……?」
『そういうことになります』
それを聞いて、圭太は俯いて口を噤んだ。しかしすぐに顔を上げ、不安そうに質問した。それは、質問というよりも、確認のニュアンスの強い問い。
「……じゃぁ、もしかして……僕も、そうなってしまうわけですか……?」
圭太の顔色は、一気に白くなったようだった。
『……お世辞にも喜ばしくは思えないという様子ですね』
先代シルフが、哀れむような表情でそう言った。
『やはり、無理もないことだと思います。……我々が、突然現れた邪神官と名乗る者たちを、自分の命を散らしてまで葬ったのも……もう、充分長く生きてきたから、そうすることで人間種族の存続の危機を救えるなら、それでいいと思ったからかもしれない……』
「そうやって、逃げた……?」
『……そうとも、言えますね』
思わず呟いた圭太に、彼は自嘲の笑みを浮かべて肯定するしかなかった。そんな青年の様子に、少年は何の気なしに言ってしまったことに自分でも驚き、どれだけ不躾な言葉だったかと言ってしまった後で後悔した。
「いえ、あの……すみません。しかし、百九十三歳ですか……? それだけ長ければ、本当に、充分そうですよね……在位期間は、どれくらいだったのですか?」
反射的に話題をすり替えると、元大神官は何事もなかったような様子で答えた。
『百七十五年です。十八で、私はこの神殿にやって来ました。……旅の途中で、寄っただけでしたのに』
「それでも、貴方は、その役目を引き受けた?」
『えぇ。私自身、この世界がなくなってしまうのは嫌でしたから』
彼は、にっこりと曇りなく笑った。
『しかし貴方は、もともとこの世界の人間ではないでしょう? きっと理不尽に思っているのでしょうね』
「…………そう、ですね……」
少年は少々気まずいものを感じながらも正直にそう答えた。しかし元シルフは飄々として言う。
『……と、確認したところで、私にはどうすることもできませんが……。これから貴方に伝えようとしていることの中には、空間移動の魔法も含まれています。その任を放棄して、この都市を捨てるのも、貴方次第ですよ。実際この都市は我々が消滅しても、六年間ずっと持ちこたえてきています』
「……僕が死ぬまで、次の……その……『神に愛でられた者』? ……は、現れないということはないのですか?」
さすがに心配に思い、圭太は恐る恐るそう聞いた。もしそれを肯定されれば、ますます選択しないわけにいかなくなると思った。しかし、聞かずにいられなかった。流して、気にかけていないふりをすることは少年にはできなかった。
『……現れません。神は時代に一人しか選びません。そしてこの世界は貴方の世界とは強固にリンクしています。時間軸も同じです。貴方がもとの世界へ帰り、この世界から姿を消したとしても、神は貴方を認識し続ける』
果たして元大神官はこれ以上ないくらいの完全な肯定の科白をくれたのだった。圭太はうすうす感じていたものが現実になってしまい、眉間の皺を深くした。
青年姿の残留思念は、少年の心中を知ってか知らずか、虚ろな表情で堰を切ったようにほろほろと喋り始めた。
『貴方が帰ってしまったら、この世界は持ちこたえられないかもしれない……。魔物の脅威ばかりではないのです。……異世界からの来訪者たち……彼らの出現地点で、瞬間的転移であれば起こるはずの大爆発……彼らの体積分もともとそこの範囲に存在してた空気とかの原子と存在が重なることで本来起こる筈の大爆発が起こらないのは、"転移"ではなく、瞬間的にではない"移動"をして、やって来てるせいなんだ。そしてこちらにせり出したその彼らの存在が、二つの世界の本来の形を歪め、均衡を崩してしまってる……扉の鍵を見つけたり、開いた亀裂に落ちたりした彼らは、もとの世界にいながら、こちらの世界に存在している……こちらの世界に、あちらの世界が進出するという状況になっているのです……戻る術を知りながら知らない彼らに……もとの世界と繋がっていながら繋がっていない彼らに、もとの世界をきちんと認識させて、ごく自然に帰すことは、現状では不可能なんです。その彼らを安全に押し戻す唯一の方法が、"空間移動魔法"を使うことなんです。それを使うだけの法力を持ってるのは、大神官クラスしか……異世界に迷い込んでしまう者たちを、元に戻さなければ、世界の均衡が崩れてしまいます。……陰と陽の、重なり、連なる、二つの世界、どちらもが、崩壊する……』
「…………結局は、自分のもといた世界も、なくなってしまうかもしれないんですね……? だったら……それを僕が止められるというのなら……」
圭太はそう言ってはっとした。急に淡々と情報を紡ぎだした彼の調子につられたものか、何だか今、自分でもはっきりと決めあぐねていた筈のことをうっかり口にしてしまいそうになったような……。
少年の真正面で揺らめく青年の表情が、にんまりとしたものになっていた。
「な、なんて表情をなさってるんです? それではまるで、性悪キャラ……」
圭太のぼやきを聞いた元大神官は、その表情の中の皮肉の色をますます強くした。
『性悪で結構』
彼はふよふよと漂いながら、悪びれる様子もなく胸を張ってそう言った。
『……まぁ、人間なんてみんな"いい人"に見られたい訳でさ。……でも偽善者だとか思われるコトを厭うんだよなぁ……だから、大義名分を探す。利他的行動の何が悪いんだろうねぇ? ……何でもかんでも偽善者扱いするようなヒネた奴らは、悩みが増えて哀れだと思うよ。……自分の"善"くらい信じてやれって……お人よしすぎるんだよ。だから本物の偽善者が霞んでしまうんだ』
何て傍若無人な大神官……それでいいのか? 彼の撒き散らす毒にそんなことを感じながらも、圭太は心にグサグサと針を刺されている気分だった。
「……僕は、大勢のためになら自分を犠牲にしてもいいと思うような人間なのかな?」
本人が首を捻っている。
『別にそれで悪いとかじゃないだろう? そうだからといって誰がお前を責める。……お前にこちらへ留まって欲しくないと思う、お前を傍に置きたいと考える、家族とか、友人とかか? ……けどな、誰がどう思おうと結局はお前が決めることなんだ。古巣を捨ててまで世界を助けたいと思うか……お前の身を案じてくれるような家族や友人を置き去りにしても、この二つの世界のために、生まれ故郷を離れられるかどうか……お前には決められるか?』
彼は、そう言って選択を迫った。しかしそういえば何もかも急すぎる気がする。何かと振り回されてばかりの状況に、少々理不尽さを感じなくもない。
「しかし、結構よく喋る大神官ですねぇ」
少し話を逸らす。気休めではあるが、少しの時でも、その決定の言葉を口にするのは延ばしたかった。
『だから、僕は残留思念なんだぞ? 思考の塊だ。心丸出しなんだ』
「なるほど……」
そう言われてみれば、会話をしているというよりも、何だか言いたいニュアンスの塊が頭の中に直接響いて来るような方法で話していた。と言っても圭太の方は口で喋っているのだが。また、元シルフにに圭太の心が読めるのかは不明だった。
『……それで、どうするんだ?』
どうやら心が読めるわけではないのかもしれなかった。こちらの心は、本当はかなり固まっている。しかし残留思念の彼は、急かすように、にやりとした表情を浮かべながら問うのだ。
「……任に……就かせて、頂きたいと思います」
……言った。とうとう言ってしまった。もう、きっと逃げられない。けれど、自分がやらなければ、きっとそう遠くないうちに二つの世界は崩れてしまうだろう。自分も家族も友達も生きられなくなってしまうかもしれない。どうにかしたいし、どうにかなると信じた。根拠は……目の前のこの青年。圭太にはそうとうな性格破綻者に思われた。けれど、先代大神官なのである。
その性格破綻者が、満面の笑みを浮かべた。
『これで安心して消えることができそうですね……気付けば私はここに留まらねばならないという強迫観念のようなものに駆られるままここにいました……それが何故だったのかって、きっと次がお前っていう異世界の人間だったからなんだろうなぁ。この世界の言葉、魔法の原理、世界の道理……何にも知らないお前だから、知識を伝えなきゃならなかったんだ…………しかし……大きな危険を避けるためとはいえ自らこの世界を放棄してしまったような状態だというのに……この状態では魔法を扱うことも出来ないので、ただ、このぼろぼろの世界をぼうっと感じ取っているしか……今だって……貴方の力に同調して、移動してきてもらうのが精一杯でした……それが、とても……』
その先の感情が確たる形を持って伝わる前に、彼は急に和やかな顔になった。
『ははは、性格がころころ変わるので、不思議でしょう? 私も、もう限界に近くて、不安定なのです……けれど、貴方が戻るか留まるか自分できちんと決めるのを、見届けたかった……』
彼は、そう言いながら、圭太の目の前にその透明な両掌を再び翳かざした。よくは分からないが、その行為は圭太に何らかの覚悟の必要性を感じさせた。
『それでは、いきますよ』
彼がそう言った瞬間、圭太は膨大な何かが自分の中に流れ込んでくるような感触を覚えた。目の奥が、ちかちかした。
「………………ッっっわ……!」
その眩しさを堪えるためか、思わず圭太は両腕を顔の前まで持ち上げていた。
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