第伍頁

 ふと気がつくと、真っ白な天井が遠くに見えていた。布団の感触が柔らかくて気持ちいい。

 数秒ぼんやりとして、少年は何となく上半身だけ起き上がった。

「気分はどうだ?」

 そんな声が聞こえてきたので、圭太はしっかり座りながらそちらの方へ視線を泳がせてみた。部屋の真ん中ほどにあったテーブルを囲む椅子のうちの一つに、その声の主は腰掛けていた。

「……エンさん? 僕は一体……?」

 ぼんやりする頭で懸命に記憶を手繰り寄せる。確か、ナクォールに飛ばされてきて、エンさんたちに助けられて、風の神殿まで来て……。そうだ、竜巻に巻き込まれたんだ。それで何故かものすごく気持ち悪くなったのと、背筋に妙な悪寒が走ったのとで悲鳴を上げて……それから先の記憶がない。

「風の神殿に来たことは覚えてるな?」

 問われて、圭太はぼうっとした様子で頷いた。

「お前が倒れてから、まだ一時間半くらいだ。ここは神殿の中だ。知り合いの神官に通してもらって、休ませてもらってる。……大丈夫か?」

「えぇ。少しだるいですけど、その他に問題はありません」

「そうか……お前、ちょっと鏡見てみろ」

「へ?」

 エンの意図が掴めずに圭太は一瞬固まった。

「いいから」

 そう促され、差し出された繊細な装飾をもつ銀の手鏡を覗き込む。

「…………………えッ? えええええッ!」

 鏡に映るのは、明るい緑の髪と瞳をした自分だった。それだけではない。睫毛、眉毛、爪も同じ色に染まっている。だが最もショックだったのは何やら左目付近に額から頬にかけて妙な刺青のような緑色の文様がどでかく貼り付いていることだった。思わずごしごしと強くこすってみるが取れるはずもない。

「ちょ、ちょっとエンさん! 仕掛け鏡で僕を驚かせる気ですかッ?」

 少年はすっかりうろたえていた。

「心外な。そんなことをする意味がない。どういう経緯でそうなってしまうのかはまったく見当がつかないが……特にその紋章は……お前が風の大神官の力を引き継ぐ者だという証だ」

「……はい……? なんですかそれッ」

 噛み付くように絶叫しかける圭太。

「俺が聞きたいくらいさ……どうして異世界から来た少年を、風の神が見初めた?」

 エンもだいぶ混乱している様子で、そう言いながら頭を抱えている。

「……しかし、ということは、強力な空間魔法を使えるものが、再び現れたということになるのか? 圭太、お前のおかげで、皆が地球に戻れるようになるかもしれない」

 エンのその言葉に圭太は目を白黒させた。

「……そんな、どうすればいいかなんて僕は……」

「お前の体調が良ければだが……儀式の間へ行ってみないか? 何か方法が思い浮かぶかもしれない」

「……そうですね。できるだけのことは、やってみたいとは思いますけど……あの、もしかして……僕は、地球に帰っちゃ、まずいってことですか? 僕が帰ってしまえば、またこの世界には大神官がいなくなる……」

「……すまない、その辺は俺から言えることでもないからな……よく知らないというのもあるが」

 そう呟くように言ったエンは本当に申し訳なさそうな様子だった。

「……この世界の人々の要請次第ってことですか……?」

「それもあるかもしれんが……この世界の仕組と、何よりお前次第だ。お前が地球に戻ればそれは大神官不在ということになって新たに誰かが選ばれることになるのか、それともお前が死ぬまで現れないのか……誰か神官たちの中に知っている者がいるかもしれない。だが何にしろ最後はお前の意思だ。お前一人が苦しむようなことになったら、この世界の人間だって気持ちよくはないからな」

「……そうですよね。……まぁ、こんな外見で帰ったりしたら、家族がぶっ倒れるでしょうけどね……とりあえずその部屋へ向かいましょう」

 圭太は諦めたようにそう言った。


 見るからに仰々しそうな装飾の施されたその巨大な扉は、どう見てもそれは古い金属特有の黒く鈍い光沢を持っていたが、エンが押すと意外にも簡単に開いた。

「そう言えばここに入るのも大神官様たちがいなくなって以ら……い……宝珠がなくなってる?!」

「……何ですか? おーぶ?」

 扉を中途半端に開いたまま硬直したエンに、圭太も中を覗き込もうとしたが暗くてよく見えなかった。

「この部屋の中心には占いの水晶玉が巨大化したようなのが仕掛けられてて、それが緑色にぼんやり光ってたんだ」

「電気みたいなものですか?」

「いや、仕組みはよく知らないんだが、それを使って大神官様たちは色々な奇跡を行っておられたような気がする……単なる明かりじゃない。おそらく大神官様がいなくなってしまったら、共に消えたのだろうな……」

「えっ……じゃぁ、それが未だにないってことは、僕は何なんですか? 大神官様とかじゃないんじゃないんですか?」

 エンは気のせいかその圭太の声音には少しの歓喜かもしくは安堵が含まれているように感じた。……無理もないのだろうが。

「……いや、残念ながらその紋章が現れるのは大神官に選ばれた者のみだ。それ以外の者に現れることは絶対にない」

「……す、すみません……」

 圭太は思わず謝っていた。

「……何故謝るんだ?」

 きょとんとしてエンが尋ねた。

「えっ? 何故って……あれ? 何故でしょうね?」

 謝った本人が混乱して首を傾げている。エンはその様子に苦笑した。

「変なヤツだな。さすがは市哉の肉親だ」

「……な。い、市兄なんかと一緒にしないで下さいよ~! 僕はあそこまで世間とずれまくってはないつもりですっ」

 慌てて真剣に抗議した圭太に、エンはますます喉を震わせる。

「随分な言い様だな……彼の汚名を返上したいと思いつめた顔をしていたのは一体誰だったか?」

「そ、んなこと言われても……っ」

「ははは、すまない、からかいすぎたか? ……それで、どうだ? 何か思い浮かばないか?」

「……あ……いえ……ダメです、何も……」

 そう言って部屋を見回す圭太の眉間には深い皺があった。

「……俺は、変な力はかなりあるが、魔法の原理についてはさっぱりでな。先代の大神官様が行われていた魔法の儀式なら何回も見ているが、全然理解していない。だから、俺からの助言はできない」

 エンもそう言って肩を落とした。

「……まぁ……こうしていても仕方がないのは確かですし、とりあえずまずはやっぱりエンさんたちが今まで保護してこられた人たちに話を聞いて回りませんか……? これのことは……何か今は考えたくありません……」

「……お前の体調がいいならいいが……まぁ、そうだな、少し落ち着こう……」

 二人ともげっそりとした様子で、その儀式の間を出た。


 神殿の中には、神官の詰め所以外にも、人が休めるようになっている部屋がいくつもあった。それは神殿が災害時などにおける避難所の役割も担っていることもあるが、風の神殿の場合、その役目の一つに《癒し》というものがあり、言わば病院のような役割も果たしていたためである。法力の源へ通じる扉のような役割を負っていた大神官が不在となって早数年、現在では風の魔法を扱えるものが限られているので、人々はほとんどが魔法ではなく薬草医術に頼っており、嘗てのように部屋は埋まっていない。そのためここに異世界からの来訪者たちが保護されることになったのだった。

「じゃぁ、君は、本を読んでいるときではなくて、ナクォールのことを考えていたらいつの間にかこの世界で倒れていたんだね?」

 小五の圭太よりも数歳年下とおぼしきその少女は、緑色の少年に少し畏怖する様子を見せながらもこくりと頷いた。

「ありがとう。必ず地球へ帰してやるから、俺たちを信じて待っていてくれるか?」

 エンがそう言うと、少女はぐっと唇を引き結んで、こくこくと何度も頷いた。

 そうやって何人もの少年少女たちに話を聞いていると、異世界に飛んでしまった瞬間というのは、本を読み終わった時とか、読んでいる途中とか、読み終わってしばらくして、ある日本の中の世界のことを考えていていつの間にか、というバラバラなものであることが分かった。

 余談だが、子供たちの部屋を回っている間にまた、一度ごく弱い地震が起きた。少年はもう、いちいち驚かなくなっていた。

 圭太が休ませてもらっていた部屋に戻ると、二人は少し黙り込んだ。

「……疲れたか?」

 最初に口を開いたのはエンだった。

「……えぇ、少し……」

 少年はごそごそとベッドに這い上がるとそのままうつ伏せにぽすんと倒れた。

「……大丈夫か?」

「はい。……けど、どう解釈するべきなんでしょうか? やっぱりどうも市兄のせいだけだとは言えないと思うのですが……」

 突っ伏した状態から、顔だけ椅子に座るエンの方へ向け、圭太はもごもごと言った。

「あぁ。俺もそう思う。前にも言ったが、市哉の本はただのきっかけに過ぎないんだろう。……きっかけっていうのが原因じゃないとも言えないのは確かだが、多分あいつの意図したことじゃないということは確実に言えるさ」

「ですよね。やっぱり、あの人がそんな拉致とかそういうこと考える訳がなかったんだ!」

 そう言いながら、圭太はぼんっと枕に頭突きした。

「……でも、ということは地球のことを強く思えば、帰れるってことですかね」

 枕に頭を突っ込んでいるため、声がくぐもってしまっている。しかしエンはきちんと聞き取り、こう返答した。

「……いや、皆きっと地球に帰りたいなんて常に思ってるだろうから、そういうことじゃないんだろう。皆がこっちに来てしまったのは、市哉の本という具体的な文字で記されたものを読んで、この世界を確実に観測してしまったことが原因なんだと思う……あいつの文章力がどんなものかは知らないが、それを考えると相当なものだったんだろうな……信じ難いが。

 ……まぁそして、こちらにはあちらのことを記した本などないし、ちなみに俺は国語、五段階で三だった人間だ。お前がすごい文章力の持ち主でもない限り、記憶の中の地球を頭の中に具現化できるような文章をこの世界に存在させることは無理だ」

 圭太はのろのろと首を反らし、枕に顎を突き立てるような感じで顔を上げた。しかし目が半開き状態で、今にも眠ってしまいそうな表情をしている。

「なるほど……ちなみに僕は、国語は三段階中の『できる』程度です……市兄の本、一度、読んで見て下さい。見た目とあの性格からはまったく想像できませんが、こんなことになる前は、巷で結構持ち上げられてたくらいの腕ですから……それよりも」

「それよりも?」

 そんな単語を聞くとは思っていなかったというように、エンは鸚鵡返しに聞き返した。

「……何かどうも……さっきからどこかへ行かなければならないような気がしてならないんです……」

 圭太は眉間に皺を寄せ、その皺の寄った部分を軽く握った右手の拳でコンコン、と叩いた。

「……何だそれは」

「分かりません。でも何だか、妙に引き寄せられそうというか、何と言うか……」

「……風の神の仕業か……?」

「…………僕は、一体、どうなってしまうんですか……!」

 圭太は再び顔を枕に埋め、両腕でそれをぎゅっと締め付けた。

「…………まぁ……今日はもうゆっくり休め……今日はお前を見た神官たちがかなり狂喜乱舞していて話しにならなかったが、あっちも明日には落ち着いているだろうさ。あの人たちなら何か知っているかもしれないしな」

「……はい……」

「じゃぁ、俺は隣の部屋にいるから……ゆっくり休めよ」

「はい……」

 エンは、問答無用に突然降りかかって来た奇妙な事態に心を苛まれている様子の少年を気にかけながらも、その部屋を後にした。

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