エトランゼ ❺

次の日、学校から帰ると部屋には誰も居なかった。


大方、ばあさん連れて散歩にでも行ってんだろうと即座に本能で察知したオレはアスリートの敏捷性で部屋着に着替え、カーテンを閉め、ティッシュの用意をした。


そして机の中に潜ませていた写真立てを取り出すとおもむろにベッドに横たわる。


オレが唯一持っている彼女の写真。

去年夏にサークルで行った海での集合写真…を無理矢理パソコンを駆使し、引き伸ばした代物である。

写真の中で彼女は赤と白のストライプ柄のビキニ姿で楽しそうに微笑んでいる。


この写真を見る度、彼女のこんな笑顔。

この時以来、久しく見ていない現実を強引に思い出させられる。

切なさと苦しさとやるせなさが相まって、オレはほぼ1週間振りぐらいに自らを汚れへと貶めるのであった。


まさに禊。

だがそんな性なる、もとい、聖なるパーソナルタイムをジャマする者がいる。ある意味で儀式と言って過言でない行為故に静寂が絶対であるにも関わらず、


「ただいまー! ねえねえ知ってる? 駅前のラーメン屋、今、すっげえ安いの! オープン8周年記念とか言って8円で…」


寝転がって半分尻を露出した状態のオレと目が合ってひなこの時が止まった。


安易に想像つくだろ?

その後のリアクション等は。


「ギャーーーーー!!!!」

「ふゥぐッ!」


ひなこの投げた買い物袋がオレの腹部を直撃する。

それから追加で飛んできたのは雑誌・食器・その他もろもろ部屋にあった硬めのブツだ。

およそ30分の間、その一方的な迫害は続き、ようやくひなこが冷静さを取り戻したのはすでにオレが結構なダメージを負った後だった。


「最低」

「オレの家だここは」


何故か正座でオレとひなこは話す。

引き戸越しに向こうの部屋から聞こえる声は未だオレに対する軽蔑の念で満ち満ちている。


「最低」

「知ってるわ。何度もゆーな」


沈黙はただ流れる。

本当に最低なのは弁解すら面倒に感じるこの空気感か。


「…それってこないだ居た大学の人?」


床に転がっていた写真立てを向こうの部屋から伸びた手が指差す。


「……あー」

「すきなひと?」

「…元、カノのひと」

「へー…」


なんだこの不毛な会話は。

このままどこか遠くへ逃げ去ってしまいたい。


「なんで別れたの?」

「なんでって…。話すと長くなる」

「いいよ長くても」

「いろいろあるんだよ男女の仲には」

「わかりづらい」

「……暗くなるんだってさ、オレと話してると」

「へー。それが理由?」

「そう」

「短いじゃん」

「短いな」


西陽が差してオレンジ色に染まった部屋が微妙で、曖昧で、意味不明な時間をゆっくり垂れ流す。


「まだ、好きなんだ?」

「…………」


ひなこの問いかけは今時の若者内でも比較的目立つオレの執着の強さを浮き彫りにする。

困るのはオレ自身がそれにプライドを感じ始めているところだろう。


外から聞こえるユルい豆腐屋のラッパに反応して立ち上がると、考えるのをやめたオレは写真立てを拾って机の上に伏せた。


「…てゆーか、あんたって暗いの?」


体育座りのひなこはツラリとたやすくそんなことをオレに聞く。


「暗い……と、思う。根暗」

「え? 言われて凹んでるんだ?」

「傷つきやすい年頃なんだよオレは」

「へー…そうなんだ。そんな風に見えないけど」

「そうなんだよ。さあ、もう笑ってやってくれよこんなオレを思う存分」

「アハハハ!」

「笑うな、馬鹿」

「……よくわかんないけど。んじゃ世の中の人たちってみんなヒキコモリみたいなもんだね、その人からしたら」


そうだろう。


どんな憂鬱事項だって想像するに、こいつが過去受けてきたダメージに比べたら大したことない気がする。

あくまで予想だけど。

けど頭でわかってても、自分の力じゃどうにもならないことなんて世間にはどれだけあることだろうか。


「暗くなんてないよ。まだユキヒロと会って間もないけど、ウチにだってそれぐらいわかるし。それとも大学生ってみんなそんなんなの?」


なのに、何も言い返せない自分が目の前の小娘よりずっと年下の未熟者に思えて腹立った。


こいつが夜中にたった1人で戦った闇の深さを想像すれば、なんてちっぽけでなんて無力でなんて意味のないオレの悩みよ。


「だからさー。別に気にする必要なんてないんじゃない? そんなこと言われたからって」

「…なんか今ばかりはおまえが光り輝いて見える」

「今ばかりとはずいぶんねまったく。ウチは普段からオーラが身体中から噴き出してんのよ」

「嫌だよそんな女…」


それでもこいつなりの気の使い方になんだか平静を取り戻すオレがいる。

まんまと術中にハマってそのうち連帯保証人とか頼まれてもこの調子じゃきっと断れない。

いやそもそも全くの他人であるひなことばあさんを部屋に置いていること自体もはや手遅れに近いのではないか。


「あれ、そういやばあさんは?」

「え…………?」


オレの素朴な疑問にひなこの顔は途端に青ざめた。


「ギャーーーーー!!!!」


超音波にも似た振動にアパートの窓も震える。


「8円ラーメンの店に置いてきたんだった! ユキヒロ連れてくるからって!」

「なっ…! おまえ、馬鹿、部屋戻ってから1時間以上経ってんじゃねえか!」

「あんたがシコってんのがいけないんでしょーが!」

「シコっ……! お、おまえその表現はどうかと思うぞ女子として実際!」


慌ててオレとひなこは狭い玄関で靴を履くと部屋から飛び出した。



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