エトランゼ ❷

「ハアァァ! ハァッ! ハァァァッ!」


世の中で目覚めの悪いものとして、早朝に老人のあげる念仏ほど当てはまるものはないのではなかろうか。


だが恐るるなかれ、今朝目覚めたオレの眼に飛び込んできたのは猛烈なスピードで型を執り行う念仏以上に不快な太極拳ババアだった。


オレの記憶が確かならばこのばあさんは昨夜相当な瀕死状態だった。

それがどうだ。今や本場中国の朝をも凌ぐ元気のよさ。

実に、最悪の朝である。


「ハァァッ……あっ、おはようございます」


オレが起きたのを見てばあさんがやたら丁寧な挨拶をする。

つられてオレもボサボサの頭でお辞儀した。


「よかったらどうですか、ご一緒に」

「イエ結構です」


キッパリ誘いを断ると女が見当たらないのを気づいてたちまちオレは不安になる。最悪のシナリオが思い浮かんだのだ。


(まさか……捨てた?)


「ばあさん! 孫、どこ行った?」

「はい? いえ起きたらおりませんでしたけど」


やっぱりそうだ。

おそらく最初からそのつもりで…。


昨夜蹴られたアバラが疼く。

いよいよマジで警察沙汰かもしれない。


「ところでお宅、どちら様ですか?」


間違いない。

ボケボケのばあさんを置いてどっかに逃げた。この線だろう。


「ばあさん、悪いことは言わない。一緒に警察行こう! 今ならまだ間に合うかもしれない」


ばあさんの手を引いて部屋から出ようと玄関のドアを開ける。

と、そこにタイミングよく立っていたのは見覚えある長い黒髪の女だった。


「あんたウチのフミちゃんどこ連れてくのよ」

「…いや。う〜ん、警察?」


女はにっこり笑う。


「ふゥぐっ!」


お約束のように部屋の中へ蹴り戻されるオレ。だが今回ばかりは納得いかない。


「違うだろ! おまえがいなくなったから心配したんだろうが!」

「買い物行ってたんだって。そこにコンビニらしきものあったでしょ?」


おそらく必要ないものまで色々買い込んだコンビニ袋をこたつテーブルにドスンとおろす。ついでに放ったのはオレの財布。


「…いい加減説明をしろ説明を! 今朝だってばあさんの太極拳で起こされてんだぞオレは!」

「太極拳じゃないよ。フミちゃんのは八極拳」

「どっちでもいいよ!」

「もー大きい声出さないでよー!」


暴力女はそう言うと「はい」と1枚の絵葉書をオレに差し出した。

そこには海に佇む真赤な鳥居が写っている。


「なにコレ。…どこ?」

「厳島神社。なんか広島とかそっちの方にあるんだって」

「…ここ、行くんか?」


女はこくんとうなづく。


「やっぱ警察」

「ちょちょちょ、なんでよ!」

「ウソつけおまえ! 第一、今ここ神奈川じゃねーかよ! なんで広島行くヤツが飛行機とか新幹線でブーンじゃねーんだよ?」

「それは…その……ウチがお財布、落としちゃったから」

「はぁー? なにその言い訳。そんなんじゃ歌丸師匠は笑わねーぞ!」

「しょうがないでしょー! 本当のことなんだから! ……とにかく! ウチはフミちゃんとここにどうしても行かなくちゃいけないのー!」

「待て。待て、わかった。じゃあ百歩譲って聞くがなんで警察に電話するの邪魔すんだ? 大体、昨日も雨ん中あんなところで何してたんだよ」

「ぅ…それは……」

「ほれみろ。やっぱりやましいことがあるから言えねえ」

「…………さらったから」

「あ?」

「フミちゃんさらってきたからだよー!

千葉の老人ホームから!」

「ぉおお……お、まえ…な ん じ ゃ そり ゃ ! なおさら悪いわボケ!」

「しかたないじゃん! そうでもしないと一緒に居られないんだから! 他にどうしようもないんだもん!」


黒髪を振り乱し半ば逆ギレと言わんばかりに女はオレを睨む。


「…なによ、あんただってなんなのよ。恩着せがましくウチとフミちゃん助けて。中途半端に手を差し伸べたらそれでおしまい? 最後まで責任とんなさいよ!」


なんてヤツだ。呆れて物も言えない。


これだから女ってのは嫌だ。自分が思い込むと周りのことなんて全く考えやしない。


「それとも困ってるウチとフミちゃん見捨てて追い出すの? …ありえない。人として最低じゃないそんなのって!」


女はそう言うとこっちの喧騒などおかまいなしにこたつでテレビを観ていたばあさんにワザとらしくすがりついた。

ばあさんは全く構わずテレビにかぶりついている。


(…ん? 待てよ……)


タモさんのテレフォンショッキングに違和感を察知して少し考える。


「タモォォォオオああアアァァー!!」

「なっ…、なに!」


オレの声にビビってたじろぐ女を尻目に急いで出かける支度を開始する。

その場で服を脱いで着替え出すとまた女はぎゃーぎゃー騒ぎ出した。


「ちょっ…あんた、なんなのよいきなり脱ぎだして! レディーの前でしょ!」

「うるせぇー! 学校だっつーの! しかも単位のかかったテスト!」


昼まで寝てたのかなんてマヌケなんだオレは!


このままじゃ午後からのテストに間に合わない。ヒゲも寝ぐせも取り合わずアタフタするが気が急くほどに何をしていいかわからない。


「なに、あんた学生なんだ?」

「見りゃわかんだろーよ!」

「わかんねーよ」


おそらく今からチャリぶっ飛ばしてギリギリか、どちらにせよかなり微妙なところだ。


そんな時なのに女はいちいちツッかかってくる。


「ねー、ウチらのこと助けてくれるの」

「あ? いまそれどころじゃねえだろ!」

「ねー」

「知らねえっつーの!」

「ねーぇー」

「なんだようるせーな! わかったよ! 助けりゃいいんだろ助けりゃ! あー!」

「ホント? やったー! よかったね、フミちゃん!」


切羽詰まってるオレにもはや考えている余裕などなかった。

適当に食いかけのスナック菓子を口に頬張って、筆記用具をカバンにブチ込む。


「フミちゃん、これで宮島行けるよー!」

「ああ、ああそうなの。ありがとうね、ひなちゃん。…ところでお宅どちら様ですか?」


ばあさんと目が合う。

この緊急時に一瞬時が止まる。


「この親切な人がね、ウチとフミちゃんが広島行くの手伝ってくれるって!」


言いたいことは山盛りあった。

こんな状況じゃなければさぞ冷静にツッこめたかもしれない。

なのに情けないことにこの時オレが言えたのはたった一言だけだった。


「ふ、風呂場の洗濯物たたんどいてー?」


世の中ってこんなものなのだろうか。


黒髪女のやたら元気な「オッケー☆ まかしといてー!」に腹立たしさと悔しさ噛み締めながらオレは部屋を飛び出した。


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