第2話 帰還
5年という月日は長いようで短い。1年が過ぎる度にあれだけ騒がれた事件も、徐々に世間の関心は薄れていった。無論、被害者の家族は常に事件の解決を願っている。だが、忽然と消えた少年少女達を探す術はもう、誰にも無かった。唯一の手掛かりは某国だと思われるが、現在、政府は某国に対して、強い制裁を発動しており、尚且つ、過去の拉致被害者達の問題もある為に迂闊に動くことは出来なかった。
被害者の一人、前田祐樹の母親、怜奈も毎日、悲嘆に暮れていた。無論、祐樹の姉も居るので、日頃は気丈に振る舞うも、一人になると、泣いていた。
彼が使っていた部屋はいつ、帰って来ても良いように念入りに掃除をして、元のままにしてある。失踪してから、5年。被害者家族の中には諦める者も出て来た。相手は犯罪国家だ。多分、もう生きていないかもしれない。そう言い出す者も出て来た。だが、怜奈は諦めなかった。週末になると駅前でビラを配り、支援の呼び掛けをしていた。拉致された子ども達が唯一助かる方法は政府による交渉しか無い。その為の呼び掛けだ。
被害者家族が苦痛の日々を過ごす間、政権は交代し、新たな総理大臣になった大村貞利は苦悩していた。日本周辺国家の経済や政治に大きな歪が生まれていたからだ。いつ、崩壊してもおかしくない隣国の状況を見て、日本の経済などを守る為に色々と考えねばならなかった。そこに防衛大臣がやって来た。
「総理・・・始まるかもしれません」
「動乱か?」
「いえ・・・アジア全土を巻き込むような争いになる可能性があるかと」
「アジア全土だと?それに日本が巻き込まれる可能性は?」
「非常に高い。それしか言えません」
防衛大臣の言葉に大村総理は苦悶の表情をする。
「経済面だけでも苦労していると言うのに・・・。あの大国は世界を道連れにするつもりかね?」
「多分、そのつもりでしょう。自分だけが世界から落ちこぼれないために世界を巻き添えにするつもり満々です。いざとなれば自衛隊は全力を持って、闘う準備は出来ています」
「その覚悟だけで終わってくれる事を望むよ。それよりも我々の戦いが先だ。一人の命も流さず、誰も赤貧に苦しめずに乗り切るぞ」
世界経済はアジアの大国の経済成長がマイナスへと転化した事で混迷を極めていた。それでも日本は技術力と盤石な経済基盤にて、持ち堪えていた。反日問題などを受け、時間を掛けて周辺国との経済関係を後退させ、新たな経済圏の確立を急いだ結果が良い方向に出たようだ。だが、アジアの大国は軍事力を前面に押し出して、アジアに強い脅威を与えていた。
尖閣諸島を巡っては激しいつばぜり合いの様相を呈していた。大国の艦隊と護衛艦隊が僅か数十メートルの距離で睨み合う異常事態。そんな光景がアジア各地で見られるのだ。
日本全体が緊張している時、新潟沖に一艘の木造船が浮遊しているのが発見された。最初に発見したのは海上自衛隊の対潜哨戒機P-1だった。すぐに海上保安庁へと通報され、巡視船が確保に向かった。
海は平穏だった。巡視船の船長は海原を漂う小さな木造船を発見した。
「北の船か?」
双眼鏡で覗く限り、特徴は一致する。
「船長、呼び掛けに応答する気配ありません」
幾度か、スピーカーによって呼び掛けをした。だが、船上に人影は無い。船長は最悪の事態を想像した。
「拿捕する。近付けろ」
船長の命令で巡視船はゆっくりと木造船へと近づく。大きさが違う為に接触すれば、一撃で木造船は分解して、沈没する為に、巡視船からボートが降ろされた。そして海上保安官を乗せたボートは木造船に近付く。彼等は短機関銃を構えながら木造船へと乗り移る。
「こちらアルファリーダー。目標に乗り込んだ。デッキはクリア。中の検索に移る」
「ブリッチ了解。十分に注意されたし」
無線連絡を終えた海上保安官は短機関銃を構えながら、ライトで中を照らした。小さな木造船なので、検索する程の広さは無い。ライトで照らすと床に倒れる人影を発見した。数は5人。ピクリとも動かない。
「アルファリーダー。人が5人、倒れている」
「生きているか?」
「不明。これよりバイタルチェックをする」
海上保安官の一人が倒れている人の首筋に手を当てて、脈を測る。
「生きているぞ。脈は弱くなっているが、大丈夫だ。すぐに応急処置をする。病院に搬送準備を」
脈を測った海上保安官はそう指示を出す。
海上保安官は5人の体をデッキへと運び出す。明るい場所に出すと、彼らがまだ、10代中頃の少年少女というのがわかった。
「こんな子どもがこんなボロボロの船で沖に出たのか?」
「脱北かも知れませんね」
「まぁ、良い。とにかく巡視船に移して、ヘリで病院へ搬送する」
海上保安官達はテキパキと行動して、5人の少年少女を病院へと搬送した。
病院は警察官によって厳重な警戒態勢が敷かれていた。少年少女達が何をするかわからないからだ。万が一にも逃げられてしまえば、どのような問題が起きるかわからない。新潟県警本部は機動隊も投入していた。
医師の診断は極度の栄養失調と脱水症状だと判明した。それと体中に虐待を受けたような痣や傷が多く見られると。彼等がどれだけ苛酷な生活を送ってきたかが、容易に想像が出来る程だった。
どれだけ眠っただろうか。いや、死んだのだろうか。いっそ、死んでしまえば、どれだけ楽なのだろう。僕はそう思いながら目を開いた。最初に目に映ったのは天井だ。どこかの建物の天井のようだ。
「少年Aが目を覚ましたわ!すぐに笹倉先生を呼んで」
女の人の声が聞こえた。そして、すぐに顔が見えた。若い看護師さんのようだ。
「声が聞こえますか?」
突然、そう言われても何を言って良いのかわからない。
「大丈夫ですか?」
看護師はそんなことをお構いなしに何度も呼び掛ける。仕方が無しに答えた。
「はい」
「返事がありました」
看護師がそう言うと、遅れて、中年男性がやってきた。白衣を着ているから医師だろう。
「目を見せてくださいね」
彼はペンライトで目を照らした。
「ふむ。言葉はわかるかなぁ。通訳の人を連れて来てぇ」
医師の指示で一人の男性がやって来た。彼は北の人のようだ。流暢な北の言葉で話し掛ける。
「言葉がわかりますか?私はチョウ・ナンビョンと言います」
僕はゆっくりと重たい口を開く。
「私は前田祐樹です」
「まえだ・・・ゆうき?」
北では無い名前を聴いて、通訳のチョウは戸惑う。
「何て言っているの?」
医師が尋ねた。チョウは我に返って、素直に伝える。
「名前がまえだゆうきと言うらしいです」
「まえだゆうき・・・?日本人みたいな名前だな」
医師もピンとは来なかった。だが、その場に居合わせた警察官の一人がその名前で何かを思い出した。
「前田祐樹・・・富山で起きた集団拉致事件の被害者の一人ですよ」
その言葉にその場に居た全員が驚く。医師は慌てて日本語で問い掛ける。
「君は本当に前田祐樹君かね?」
混濁する意識の中、僕は素直に「はい」と一言。そのまま眠ってしまった。
前田祐樹の帰還。それは一大ニュースとして、日本中に流れた。そして、その日の内に他の4人も覚醒した。
大下加奈子
加藤泰治
塩田隆夫
村田舞
5人の名前が判明した為、家族が呼ばれて、確認作業が始まった。親は一目でそれが我が子だと解り、涙した。無論、DNA検査も行うが、間違いなく、本人だった。
大村総理は5人の身元確認が終了した事の報告を受ける。
「それは大変、喜ばしい事です。それで・・・他の人達はどうなったか聞きましたか?」
「いえ、まだ、彼等の健康状態の問題がありますから。明後日には聞き取り調査を開始しようかと思っていますが」
「そうですか・・・場合によっては世論が動きます。そうなれば、是が非でもあの国から残りの人質を救出する為の動きをしなければなりません」
大村総理は疲れたように言う。総理秘書官もその様子に困惑する。現状において、アジアの大国に関わる国との緊張は危険だった。それは戦争への入り口だからだ。出来れば、伏せておきたい事案だ。だが、まだ、子ども達があそこに残っているかも知れない。そうなれば、世論は政府を突き上げるだろう。
「こう言っちゃなんだが・・・なぜ、このタイミングなんだ」
「総理・・・これは高度な戦略なのかもしれません」
「だろうな。とにかく国家安全保障会議で検討させろ。これは極めて政治的な判断が必要だ」
日本国政府は国民の大騒ぎとは別に静かに動き出した。
僕は意識が戻り、病院の個室でただ、テレビを見ていた。テレビなんて5年ぶりだと思う。それを見るだけで、僕は地獄から帰って来たのだと思えてならない。時折、訪れる看護師さんが優しく声を掛けてくれるし、病院食は不味いとか昔、聞いた気がするけど、この5年間に食べた物からすれば、これは確かに食事であり、絶品だった。とにかく、何をするにも僕は幸せだった。何より幸せは家族との再会だ。母親はずっと病室で寝泊まりをしてくれる。どれだけ、この時間を待ち侘びていただろうか。
すると、数人の男達が病室にやって来た。母親は「息子はまだ・・・」と押し問答をするが「いえ、他の被害者の事もありますから」と言って、男達は押し切ってベッドの脇へとやって来た。
「前田祐樹君だね。私は富山県警の渡瀬と言います。刑事をやっていてね。君と少し話をしたいんだが、良いかね?」
彼は笑顔でそう尋ねて来た。僕には断る理由など何も無いので、素直に話をする事を了承した。
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