第6話 不快

 将来の不安は大きい。

 いや・・・それは現在の不安なのかもしれない。

 一時は幸福だと思えた事も、半年も過ぎれば、誰にとっても日常へと溶け込んでいた。

 僕という存在もすでに特別では無い。だけど、僕というちっぽけな存在は、未だに何処か、この平穏・・・日常に溶け込めずにいる。それはまるで合わないピースを無理矢理嵌め込んだパズルのようだ。

 いつか、何かの衝撃で、そのパズルは崩れてしまうのではないか。そんな考えが僕の気持ちをヌメリと気持ち悪く、舐めていく。

 生き残ってしまったボク。

 それを後悔する時がこんなにも早く来るとは思っていなかった。

 どうしようも無く、自殺を考える瞬間がある。

 あの地獄を潜り抜けたと言うのに。皆の分まで生きると決めたはずなのに。

 平穏がボクを深く・・・鈍く・・・斬っていくのだ。

 痛い

 痛い

 痛い

 それは心の痛みなのか。夜はまるで眠れない。

 他の奴等もこの苦しみを味わっているのだろうか?

 こんな時こそ、同じ境遇だった奴等と話をした方が良いのだろうか?

 わからない。

 ただ・・・怖い。

 日々が過ぎていく中で・・・誰にも知られずにボクの心は崩れ始めていた。

 他人と会う時は常に笑顔を心掛けた。皆、心配をしてくれる。必要以上に。

 憐み

 その言葉の本当の意味など、実は誰も知りはしない。それを酷く、屈辱的なんだと言うことを。

 毎日は地獄だ。真綿で首を絞められる地獄だ。平和過ぎて、平穏過ぎて、皆が良い人過ぎて・・・地獄だ。

 僕はもう・・・元の日本人には戻れないかも知れない。

 ブワッと涙が溢れ出た。止めようにも止まらない。止まらないんだ。

 溢れ出す涙を堪える事も出来ずに、僕はただ、部屋の中で蹲った。

 死にたい。

 殺して欲しい。

 死ね。

 死んでしまえば良い。

 殺してくれ。

 お願いだ。

 殺す。

 頭をグルグルと回る誰かの言葉。

 お願いだ。もう、ボクを苦しめないでくれ。

 「夕飯の用意が出来たわよ!」

 部屋の外から母親の声がした。僕は我に還った。

 「あぁ・・・今、行くよ」

 知らぬ内に顔は笑顔を作っていた。それはまるで仮面のようだ。

 やがて・・・僕はどうなるのだろう。そんな事を考えていると、一人の男に声を掛けられる。すでに警察による身辺警護も外され、ただの人になった僕に誰が声を掛けようと気にする者など誰も居ない。

 「ちょっと良いですか?」

 「はぁ」

 僕は笑顔のまま、気の無い返事をした。

 「私は、徳山と申します」

 「はぁ」

 知らない苗字だ。誰だろうか?

 一瞬、マスコミとも思ったが、目の前の男はそうには見えなかった。年齢なら20歳そこそこの若者。ただ、身体は細身だが、妙に鍛えられた感じだ。

 「あの・・・どんな用事ですか?」

 「あぁ・・・ちょっと、聞いていただきたい、お願いがありまして」

 彼は白い歯を見せて、笑う。それは清々しい笑顔のはずなのに、僕にはどことなく、危険を感じさせた。だけど・・・それはどことなく、現在のボクをこの地獄から救い出してくれそうな気がした。

 「お願いと言われても・・・困るな」

 僕は少し困惑した表情を浮かべる。それは照れ隠しだろうか。

 「ははは。難し事じゃありませんよ」

 徳山は笑う。僕は徳山に言われるままに、近くの喫茶店へと向かう。

 富山の田舎にある喫茶店なんて、どれも小さくてショボイ店ばかりだ。入れば、婆さんが店番をしている。

 徳山は、ホットを二つ注文した。婆さんが時間を掛けて、淹れたコーヒーは何だか香りのキツい。ドブ水のようなコーヒーだった。一口飲んだだけで、苦みのみが舌の上をローラー掛けしてから、喉へと濁流のように流れていった。

 「それで・・・本当にお願いとは何ですか?」

 徳山を前にして、もう一度、尋ねた。

 「あぁ・・・簡単な事なんだが、君は今の人生が楽しいかい?」

 「楽しい?」

 唐突の質問に僕は混乱した。質問の内容は理解した。だが、それはどのような事を望んだ問いなのかわからない。僕は何を、どう、答えれば良いのだろうか?

 「あ、あの質問の内容がわかりません」

 「ははは。そうか。難しかったかな。じゃあ・・・こんな何も無い世界で飼い慣らされて生きていて、良いのかい?君はそのために多くの同級生を殺して生き残ったのかい?」

 「はっ?」

 僕は一瞬、怒りが込み上げた。どす黒い何かが喉から湧き上がりそうだ。それは決してさっきのクソ不味いコーヒーでは無い。僕は徳山の清々しそうな笑顔に吐き気を覚える。

 「あの・・・もう、帰って良いですか?」

 「帰って・・・良いのかい?」

 徳山の目は酷く・・・ボクを捕らえて離さない。一瞬、僕はあの国の事を思い出した。そうだ。あの国だ。あの地獄だ。

 「あ、あなたは・・・」

 「ここはコーヒーがクソ不味いな。大阪なら、とっくの昔に潰しとるんやけどな」

 徳山は笑いながら言う。そして、伝票を手にした。

 「まぁ・・・また、会いましょう。楽しみにしてますよ」

 そう言って、彼は去って行った。

 残された僕は・・・とても心が痛くて・・・ポッカリと空いて・・・不快だった。

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