お腹を空かせたケット・シー03
五月四日
本日の斗明学園は朝から大分騒がしかった。一年A組の丁度目の前のグラウンドに120人ほどの人だかりができていた。芸能人でも来たのだろうかと思いながら、別にあんま興味ないけどちょっと覗きにきました、ぐらいの表情で近づく。
「……」
人が多すぎて全く見えない。なんなんだこいつら?急に生きる目的見つけましたみたいなテンションで活発に野次馬しやがって。そんな野次馬の中心に近藤を見つける。
「近藤っ」
「おうレイン。見ろよこれ? マジヤバすぎ」
「ちょっとすいません通して下さい」
タイムセールに群がるおばさま方のように多少強引にグイグイと輪の中心を目指す。その先にいるのが近藤。朝から泣けてくる。
「なにかあったの?」
「見ろよこれ」
「なっ……なにこれ?」
「どう見ても血だろ。血」
たどり着いた輪の中心には、錆のような色をした畳二畳分ほどの血痕が砂を溶かすようにベッタリ付着していた。グラウンドに現れた赤茶色の水溜まりは、残念なことに付着後の時間経過をそれほど感じさせず、状態はかなりフレッシュだ。ヌラヌラと太陽の光を吸収し、現在進行形で乾燥に向かっていた。さらによく見ると所々凹んでいる。なにかで強く叩いたような後だろうか?それとも単に元からこうだったのか?周囲のあらゆるものが関係あるのではないかという思考が連続して現れる。それはきっとこの広範囲に広がる血痕という非日常のせいだろう。
「おいお前ら教室戻れっ あとその辺絶対触るなよ。ほらさっさと教室戻れっ」
野次馬達はまるで、突然数十本のロケット花火が倒れた時のように逃げた。パニックを実にわかりやすく表現したその姿は最高に情けない。それも覚悟で逃げた。なぜなら今私の目の前に立っている、昔のスポーツ刈りのようなヘアースタイルの男は一年生活指導&体育担当の前田だからだ。みんなが豆まきの時に、鬼を見て逃げ出す幼稚園児のようになってしまうのは当然のことだ。鬼など前田に比べれば可愛いもんだ。前田なら恐らくいくら豆を投げつけられても、大声で笑いながら口を開け、ドシンドシンと向かって来るだろう。だが我がクラスのバカ日本代表の近藤は違った。
「先生。これ人間の血すかね?」
「なんだよ。コレお前の血じゃねえの? なんだよ上原先生と賭けてたんだけどな。俺の負けか」
「警察呼んだんすか?」
「ああ。帰りにお前も一緒に連れてって貰うように頼んどいたから」
「……」
さすがありとあらゆるDQNを指導してきただけあり、バカ日本代表への扱いも上手かった。私の近藤に対する扱い方は彼から学んだと言ってもいい。私は近藤への対応のみに限定すれば前田をリスペクトしていた。
教室に入り席に座ると同時に、スピーカーから朝のホームルームスタートを知らせる音が鳴る。上原が教室に入るがいつもより少し表情が堅い。
「えーホームルームを始める前に大事な話がある。真剣に聞いて欲しい。多分お前等の中にも知ってる奴はいるとは思うが、最近この近辺に人を襲う凶暴な猫が出没している話がある。先生はそんな話信じてなかったんだが昨日……隣のクラスの生徒が襲われた」
静まり返っていた教室は一変し、全員が同時に口を動かす。まるですべてが一瞬で弾けるポップコーン。
「足を咬まれたらしくて、現在入院中だ」
やはり昨日近藤が自慢げに聞かせてくれた話は、都市伝説などではなく本当の話だったようだ。足を咬まれたと聞くと大したことがないように聞こえるけど入院しているとなると、そこまで軽い怪我でも無いだろう。昨日トマリの部屋にいたグレーの喋る猫の仕業だ。でも目的はなんだろう?化け猫の思考などいくら考えてもわかるはずがない。考えるだけ無駄だ。
それよりも今はトマリだ。トマリを探さなくてはならない。自らの意思で家に帰ってないのか?それとも誘拐されたのか?こんな時多分、トマリが行きそうな場所に向かえば良いんだろうけど、そんな簡単な場所にいるとは思えない。
「いいかお前等、夜は出歩くなよ。それと下校する時は一人で帰るな。あと面白半分で野良猫に近づくなよ特にグレーの猫にはな。怪我して授業が遅れてもいいって奴は好きにしろ。以上。日直っ」
そうして朝のホームルームは終了した。
隣のクラスの生徒がグレーの猫に襲われ、入院したと聞いてもみんなの表情はいつもとさほど変わらない。所詮他人に起きた出来事。自分には関係ない。そんな感じ。斜め後ろの席にいる中川ミチカは隣の席の増田ケイナにさも当たり前のように、今日放課後カラオケ行かない?などと言い始める。
上原のさっきの話はみんなの気を一瞬は引いたものの、話題の一つとしてはすでにその役目を終え、それほど気に留めておく必要の無いものになっていた。そんな風に事務的に日常に戻っていくクラスメイト一人一人の顔を見ながら、私の頭の中ではトマリを探して欲しいと言った時のコウジおじさんの憔悴した顔が焼き付いていた。単純な行方不明はわかりやすいぐらいにタチが悪く、何度トマリを最短で探す方法を考えても、最終的に辿りついた行き止まりには、大きな文字で発見不可能と書かれている。そんな気がした。昨日からトマリに送り続けているメールの返信は一度もない。
大量の送信履歴。
残りわずかの充電。
教室に響く笑い声。
コウジおじさんの消えてしまいそうな声。
常に前向きな教師。
マイナス思考の螺旋階段を見つめる私。
後ろ向きな私。
放課後。私はまず一番始めに思い浮かんだこんな田舎には似合わない植物園が併設されている市立中央図書館に向かった。
トマリは私と同じぐらい本の虫だった。中学の頃よく一緒に中央図書館に足を運んだ。私が推理小説に魅了されているのに対して、トマリは恋愛小説を狂ったように読み漁っていた。毎回同じ席に座り一言も話さず、ただ本を読むという時間を共有し続けた。大きな窓から入りこんだ夕焼けの光がトマリを包んでいたあの日のことを想い出す。恋愛小説を読んで純粋に涙を流していたトマリの横顔。
その日の帰り道、どんな話で泣いたのか聞いた私に、うさぎみたいに目を真っ赤にしたトマリは、鼻声でいびつと聞こえなくもない音で秘密と答えた。その時の破壊的な笑顔に完全KOされた私はそこで質問を止めたのだった。
市立中央図書館は昔から変わらず、人がほとんどいなかった。
私はまず館内を一周する。まばらな人達を一人ずつ確認していくが、予想通りというか、当然というか、やっぱりというか、館内にトマリの姿は無かった。最後に私は貸し出しを受け付けるカウンターに向かい中学の時からいる、お馴染みの少し小太りで黒縁眼鏡のおばさんに尋ねる。
「すいません。ちょっといいですか?」
「なんでしょう?」
スマートフォンに保存してあるトマリの写真を見せる。
「最近この子って、ここに来ました?」
怪訝な顔をするおばさん。なんだか少し恥ずかしい。
「ああこの子。よく来る子だわ」
「大体でいいんで最後に見たのってどれくらい前か、教えて貰えないでしょうか?」
「この子になにかあったの?」
「いや……最近会ってなくて、連絡先交換してなかったんで元気にしてるかなと思って……」
「確か……一ヶ月くらい前に見たのが最後かしら?」
「そうですか。ありがとうございました」
「今日はいいの?」
「え?」
「ほーん。今日は借りないの?」
「あっ はい。今度にします」
「そう」
小太りなおばさんは一瞬笑顔を見せ、自分の仕事に戻る。私は軽く頭を下げてその場をあとにした。
一ヶ月前からトマリはこの図書館に来ていない。あのおばさんは私の記憶だと朝から図書館終了時間まであそこにいる。おばさんの言葉は間違いないだろう。ただ残念なことに高校に入ってからトマリが月に何回のペースでこの図書館に来ていたのかは分からない。もしかして中学を卒業してからトマリは本を読まなくなったのだろうか?そんなはずない。読書好きはそう簡単に本嫌いにはならない。
私はとりあえず図書館から出て七浜町に近い海に向かった。海と言っても夏に泳ぎに来る観光客はいない。地元の人間ですら足まで浸かる程度。理由は苫小牧市の海は凄く汚いから。荒れ果てた砂浜。目の前には管理を放棄した流木やバーベキュー後の残骸。丸くて黄色い浮き。潮水を吸い込んだ雑誌。元のカラーがわからなくなった冷蔵庫。二度と物を収めることができなくなった箪笥。つまりゴミの砂浜。
私はトマリと何度も座った堤防に腰を降ろす。目印は右端のテトラポッドから十七個目の正面。中学の時あまりお金が無く、遊ぶ場所が皆無な苫小牧市に生まれた私達が訪れる場所と言えば、この汚れた海か中央図書館ぐらいしか無かった。三年の夏、この場所でトマリは一年の頃から好きだった先輩に、その気持ちをずっと伝えられずにいることを私に打ち明けた。それを聞いた私は簡単に当たって砕けろ的なことを言ってトマリを少し怒らせてしまった。「レインは二年半以上想っていた人に、当たって砕けた時の自分が想像できる?」と言った。それもそうだ。二年半という長い間たった一人の人間だけを想い続けたことが無い私は、その言葉の返答に困った。私は考えに考えて、「でも当たる気すら無いんならその先をいくら想像しても無意味だよ。成功も失敗も次に動き出そうと決めた自分の行動の結果なんだから。行動するってそういうことでしょ?」と、なんともそれっぽいことを言ったのだった。それに対してトマリは「今良いこと言っちゃったとか思ってるでしょ?」と口を尖らせながら私を睨んだ。私は「当然」と告げた。トマリが笑い私もその顔を見て笑った。
波のぶつかる音がトマリと私の笑い声と重なる。
一瞬完成した私の中にある小さな世界。
穏やかな世界。
スローな世界。
トマリを見つけられない今。
トマリの居場所。
想い出は想い出。
現実は現実。
横に長く延びた堤防の先。右を見ても左を見てもトマリの姿は無かった。捜索初日にも関わらずトマリを見つけるのが不可能な気がしてきた。すでにトマリ捜索とは名ばかりのトマリ&レイン想い出ツアーに成り下がっていた。ほんのわずかでも思考に空白を作ると、湧き上がるのは諦める言い訳だった。こんな小さい街で幼馴染一人見つけられない自分を呪い、トマリとの想い出をダラダラと脳内で再生させながら家路を歩いた。それが今の私に唯一赦されたトマリを見つける為の、準備体操だと言い聞かせて。
翌日。私は学園に向かうはずの日常を否定した。
考えすぎてキャパシティをオーバーした思考は逃げ場を失い、頭の中でシュルシュルと音を鳴らし動きまわっている。あのグレーの猫とトマリの笑顔が頭の隅でチラついていた。ただただ暗い部屋でストップすることを忘れたループが繰り返された。そんな悲しみの私にもリアルの世界の秒針はおかまいなしに刻一刻と一定のリズムを刻み、気づけば朝の目覚めから四時間が経過していた。
ふと、私はあのお気に入りの場所に行きたくなった。ここにいてもトマリを見つけることはできない。マイナスの思考が溢れ続けるばかりでなにも良いことがないと思った。ベッドから起き上がり、私服に着替えて逃げ出すように家を出た。
小高い山をゆっくりと登るとあの丸太で造られた高台が見えてきた。私のMY丸太椅子には今日も先客が座っていた。
「レインっ やっぱりきたな」
「リリィ……」
「リリィ……トマリを昨日探したんだけど、やっぱり見つけられなくて……」
「……そうか」
遠慮がちにリリィは呟いた。
「どうしよう……やっぱりあのグレーの猫が言った通りトマリはもう……死んじゃったのかな?」
「考えたんだけど、あのグレーの猫を探さないか?」
「探してどうするの?」
「あいつに全部吐かせよう。トマリの居場所、死んでるならどこに遺体があるのか。なぜこの街の人間を襲うのか」
「トマリすら見つけられないのに、たった一匹の猫を探すなんて絶対無理だよ」
砂浜から指輪を探すぐらい不毛だ。
「レインは知りたくない?」
「なにを?」
「あの化け猫がどうしてトマリは死んだなんて言うのか」
「どうかな……トマリの死んだって話も、喋る猫も、なんか現実味なくって……」
「今日さ、学校でいろんな奴に聞いて情報を集めたんだ。あの化け猫のこと」
「なにかわかったの?」
「アタシとレインが知らなかっただけで、結構前から学園内では噂になってたらしい。あの化け猫。一人うちの学園の生徒が襲われたの知ってるだろ? 名前は白須ミナイ。アタシと同じクラスのA組」
「襲われたって?」
「ピアノのレッスンの帰り道で太ももを噛まれた」
「それちょっと凶暴化した普通の猫なんじゃ……」
「いや、咬まれたというより太ももの肉をゴッソリ噛みちぎられた」
「……」
「白須ミナイが入院してる病院も聞いてきた。今から行って話を聞いてこようと思うんだけど、どうする?」
「……うん。行くよ」
そうして私とリリィは山を降り白須ミナイの入院する病院へ向かった。
苫小牧市立病院は市内で一番大きな病院というだけあり、午後12時を少し過ぎた時間でも院内は人で溢れていた。リリィが入口の総合案内で白須ミナイの病室を確認している。少し急ぎ足で私の元に戻るリリィ。
「聞いてきた。三階だ。三階の311だ」
「久しぶりに来たけどこんなに大きかったけこの病院?」
「アタシも久しぶりだ。まあ人の記憶なんてそんなもんさ」
院内にあるエスカレーターが私とリリィを上に運ぶ。三階に到着しリリィは廊下の端から病室の入口に取り付けられたプレートを確認していく。
「レインここだ」
「一人部屋?」
「そうみたいだな」
ネームプレートには白須ミナイの名前しか書かれていない。
「どうぞっ」
部屋の中から声がした。ちなみに病室の扉は閉まっている。ノックはまだしていない。私とリリィは顔を見合わせる。リリィが扉を開けて中に入り、私もその後に続く。
窓際に置かれたリクライニング式のベッドによし掛かり、肩まで伸びた髪を左右二つに纏めて、笑顔でこちらを見る白須ミナイの姿がそこにあった。嘘くさくないその笑顔は天真爛漫なキャラクターであることを瞬時にイメージさせた。
病室をぐるりと見ると部屋の隅の小さな台に、お見舞いの品として持ち込まれた黄色い花が花瓶に生けてある。太腿の上には今まで読んでいたであろう本の表紙になっている髪の長い骸骨が天井を睨んでいる。私もあの本は読んだ。でも少し前に読んだはずなのにあの本の犯人がなぜか思い出せない。テーブルの上にはその本のシリーズ八冊がバベルの塔に対抗するかのように高く積み上げられている。白須ミナイの読書スピードがどれぐらいの速さなのか知らないけど、足の怪我の入院中にあそこに積み上げられた本を全て読めるとは思えない。
「やあやあいらっしゃい。自己紹介とここに来た説明はいらないからね。あと犯人はまだ言っちゃダメだよ花園レイン。だってまだ三分の一も読んでないんだから。五月雨リリィはそこに座って。花園レイン。悪いけどそこにある椅子を出して座っちゃって。悪いけどウチの足はまだそこまで回復してないんだ。あとお見舞いの品を買い忘れたことを後悔する必要もないからね。君たち二人にはやらなくちゃいけないことがある。そんなことに時間を割いてる暇はない。今お見舞いというキーワードは君達を憂鬱にさせるかも知れないけど、病院を出た辺りで花園レインがそのことを思い出して、その足でウチに謝りにくるのは時間の無駄だ。だから先に言っといた。それと花園レイン。三島トマリ捜索は中止した方がいい。今この物語は君の思い通りにならない流れになってる。つまりそれも時間の無駄ってこと。よし二人とも座ったね。ウチがグレーの猫に襲われた時の話だよね? 正直この話は警察とか病院の先生とか親とか色んな人に話してウチも飽きてきちゃってるんだけど、あっ思い出したくないとか全然そんなんじゃないから安心してね。じゃあ始めるよ」
私はリリィの顔を見る。リリィは私と同様にジョン・レノンがコンビニの年齢確認ボタンについて店員と口論しているのを見たような顔をして、だらしなく口を開けている。私は白須ミナイと初対面である。恐らくリリィもだ。話が早くて助かるよとは言えなかった。そんな返しを超越した白須ミナイの第一声。
そう。これはまだ白須ミナイの一言目なのだ。いや、どうぞと言ったあとだから正確には二言目だけどってそんな政治家同士の揚げ足取りみたいなことは今はどうでもいい。本当にどうでもいいのだ。あらゆるやり取りを飛ばし飛ばしにした第一声マシンガンは、私とリリィを完全に撃ち抜き黙らせた。
というより……
そもそも……
白須ミナイという人間に……
説明など……
必要なかったのである。
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