第24話
今日はこのまま帰ることになった。
僕は荷物を取りに教室へ向かった。
春ともなると、日中は大分暖かくなる。それは数十人が固まった教室では暑く感じるほどだ。どこの教室も窓や扉が開けられており、教師の声がよく廊下に響いていた。
授業中に廊下を歩いている為か、気になる人は気になるみたいで、授業を受けながらも、こちらをチラチラ見てくる人は多かった。僕はなるべく視線を気にしない様に正面を向くが、誰もいない廊下は、遠近感による先細りが顕著に見え、何時もより長く感じられた。
3年6組の室内は、ちょうど体育の授業だったらしく誰もいなかった。
これは二つの意味で、嬉しい事だった。
一つ目は、単純に目立ずに済んだ事。授業の途中にクラスメートが顔にガーゼを当てて戻ってきたら、奇異の目で見られる事は必至だっただろう。
まぁ、明日は暴力事件の当事者として少し注目を浴びるだろうから、どちらにせよ奇異の目が我が身体を刺すには違いないのだけど。
そして二つ目はスマホが使えるという事。
篠武学園も授業中は、当然スマホの使用禁止である。しかし今は授業中と言えど、ここは無人の教室。使用してもそれを咎める人が居ない。
僕は園部さんの母、智美さんに電話を掛けた。
何度かの呼び出し音の後に通話が始まった。掛けた時間不自然だったからか、何か良くない事が起きたのか心配したらしく、智美さんは少し慌てていた。
僕はやんわりと智美さんを落ち着かせ、そして、気分が悪く早退する事になったから園部さんを送ってやれないと言う事を伝える。
程無くして電話を終えると、今日は帰りの手伝いが出来なくなったという事と、智美さんが学校まで迎えに来る事になったという旨を綴ったメールを園部さんに送る。そして一応、同様の事をメモし、彼女の筆箱にも入れて置いた。
ここまですれば、確実に伝わるだろう。
これで心置きなく帰れる。
◯◯◯◯
正面玄関で常田先生に見送られると、僕は菊姉が乗ってきた車に乗り込んだ。
僕が後部ドアを開けようとすると、菊姉は「アンタも前」と言い、僕を助手席に座らせた。
目の前に広がるフロントガラスからは、暗い空がよく見えた。
やがてエンジン音が鳴り、車が揺れ始める。
菊姉はナビを自宅に設定すると、車を発進させた。
帰道、菊姉は終始無言だった。
何か話しかけようとも、そんな事が出来る雰囲気じゃなかった。
音が煩わしかったのかラジオはすぐに切られ、車内は静かだった。運転好きな菊姉はいつも鼻歌を歌いながら車を走らせるのに、それも今はない。外から聞こえて来る生活音も、車の走る音も、その静かさを際立たせた。
呼吸をするのも苦しい程の静寂が流れていた。
菊姉の方を恐る恐る垣間見ると、全くの無表情がそこにあった。
安全確認の度に、その顔がこちらを向き、その度に僕は身を縮こまらせる。直進だけの道だったらどれだけ良かったか。
自然と僕の目線は下に向いていった。右手の人差指で、左のそれを叩きながら、僕は時間が過ぎていくのを待った。
学校を出てから、何分経っただろうか。
ポツポツと窓に何かが当たった音がした。経験的にそれが何か分かったが、顔を上げて窓を確認してみると、そこに数粒雫が付いていた。
雨が、降り始めた。
やがてその雨脚は強くなっていき、ワイパーも全力で左右に振れる。雨粒が車を刺し、痛々しい音が嫌でも耳に入ってきた。気付けば僕は雨の不快な音の連なりに埋没していった。
やがて家に着いた。
菊姉は苛立ってるのか、いつもは一発で決まる駐車を何度もやり直している・我が家の駐車場には屋根がなく、窓が雨に濡れていて視界が悪いのもその一因だろう。結局、左側が塀ギリギリに駐められ、助手席に座っていた僕は身を捩じらせて車から出た。荷物もあったが、それはどう考えても取り出せそうになく、回り込んで運転席から取った。
その際も雨は勢い良く降り続け、僕の身体はすっかり濡れてしまった。菊姉もその場で傘をささずに僕を待っていて、やはり雨で濡れている。
運転席の扉を閉めると、菊姉に右腕を掴まれた。掴んだ手は震えていて、それは力強く握っている為か、雨に濡れていて冷えているからか、或いは別の理由からか。それは僕には分からなかった。
ただ、その手を振り払うことは出来ず、そのまま引きずられるようにして僕は帰宅した。
「そこで待ってて」
そう言うと菊姉はまず風呂場に向かった。
言われた通り玄関で待っていると、菊姉はタオルを持って来て、それを僕に放り投げた。すると、そのまま再び風呂場に戻っていった。。
雨に晒された時間は恐らく1分にも満たなかったけれど、髪はシャワーを浴びたように濡れていて、制服は絞れる程水を蓄えている。
一通りタオルで拭き終わると、靴と靴下を脱ぎ、ズボンの裾を捲り上げる。そうして玄関を上がった僕はリビングに入り、ここ最近は使用頻度の減ったストーブを付けた。
灯油ストーブの点火始めの独特の臭いが、鼻についた。
数分後、菊姉は頭をバスタオルで拭きながらリビングにやって来た。それと入れ替わるようにして、僕も風呂場に向かう。
顔にぶつかるシャワーの水が心地よかった。40度程の温水がとても暖かく感じられ、身体が芯から温まっていく。
それでも気分は晴れなかった。
部屋着に着替えてリビングに戻ると、タオルを頭に巻いた菊姉がソファーに座ってテレビを見ていたが、僕の姿を見ると入れ違いにリビングを後にした。恐らく髪を乾かしにまた風呂場に行くのだろう。
僕はソファーに腰掛けると付いたままのテレビを見る。
それは何年か前のそこそこヒットしたドラマの再放送だった。最近は少し露出の減った、当時大人気アイドルが主演の学園恋愛ドラマだ。少女漫画が原作で、菊姉が全巻揃えている物だった。僕もそれを無理やり読まされていたので、ドラマの内容もよく分かった。展開が読めるその気楽さが、今は何だか良かった。
程なくして菊姉がリビングに戻ってきた。
その瞬間僕は、一気に緊張してしまったが、菊姉は何も言わず僕の隣に腰を落ち着けた。そしてそのドラマを一緒に静かに見た。
ドラマはヒロインがその好きな人に振られる所で終わりを迎え、続きは明日の同じ時間から、と宣伝が流れた。結末を知っているので、続きはそんなに気にならないが、漫画を読んでいた時は先が知りたくて、そこから一気に読んでしまったのを覚えている。
テレビでは賑やかなCMが流れ、次は別のドラマの再放送を流すと言っていた。どうやらこの時間帯はドラマの再放送ばかりしているらしい。
次に始まるのは、大家族を描いたドラマで何作も続編が出た人気シリーズの物だった。しかし、そのドラマはCMを見る限りあまり興味を引かれず、これからどうしようかと思い悩んでいる内に、次第に隣の菊姉の存在が、より意識して感じられるようになった。
ちらりと隣を見ると、無表情でテレビの明かりを眺めている。
気付けば、あの車内での空気が蘇っていた。菊姉の呼吸音や、微かな衣擦れの音でさえ、敏感に反応してしまう。
次第にドラマが始まり、小さい子供達が家の中でワイワイ騒いでいるシーンが流れた。その子らの恐らく姉が、静かにしなさいと、子供らを怒鳴り散らす。そしてその姉が辟易した顔を見せ、賑やかなオープニング曲が始まった。
「……アンタが全部悪い訳じゃないのは分かっている」
菊姉はボソリとそう言った。
その瞬間、騒がしいテレビの音量が一気に小さくなった様な感覚を覚えた。
「聞いた話だと3対1で揉めてたんだって?」
僕は頷く。
「どうしてそんな事になったの知らないけど、アンタが本来、事なかれ主義なのはよく知ってる。だから、向こうから絡んできた事は言われなくても分かる」
「……」
「事なかれ主義のアンタがどうして相手を挑発したのかは知らないけど、アンタが唯闇雲にそんな事をする程バカじゃないって事も分かる」
「……」
「アンタがどれ程の覚悟でそうしたのかは私には分からない。だから本当は私が口を出すべき事じゃないのかもしれない」
「……」
「でも結局殴られたのはアンタだけで……実質被害があったのもアンタだけで……」
次第に菊姉の声はか細くなっていく。僕を見つめるその双眸は、その心情を顕著に表していた。
「正直アンタをどう叱れば良いのか分かんないけど……っ」
溢れる感情を抑えようとするその声は震えていて、か弱くて。でもその言葉が、想いが、僕の胸に深く突き刺さった。
「別にアンタがカッコ悪くても良い、髪がボサボサでも服がダサくても良い。勉強が出来なくても良い。友達が少なくても良い」
ついに一筋、その頰に想いの雫が伝った。
「絵を描かなくても良い。夢がなくても、やる気がなくても怠け者でも、この際は別にどうでも良い。でもさっ…でもさ……っ」
突然、菊姉が覆いかぶさってきた。
「ばか!ほんとうに、バカ!!」
ポコポコと僕の心を叩きながら、そう言う菊姉の瞳からは、もう止めどなく涙が溢れていた。
「アンタが殴られたって…気絶したって電話で聞いてっ……、もう何で私がこんな想いしないといけないのよ!!私を心配させないでよっ!!!私を、泣かせないでよっ……っ」
ホンの少しだが意識を失った、学校はその事も菊姉に伝えた筈だ。
その時の菊姉の心境は想像に難しくなかった。きっと僕も母や菊姉が、と電話を受けたら、気が気でなくなるだろうから。
「……ばか」
大粒の涙が一つ、また一つ、その頰を濡らしていく。
その涙の前には、言い訳も冗談も出てこなかった。
「ごめん」
だから、こう言うしかなかった。
ただ、そう言うしかなかった。
やがて菊姉は僕の胸に顔を埋める。
抱き寄せた肩はとても小さかった。
「ごめん」
◯◯◯◯
あれから、僕たちは菊姉の部屋で、今日見たドラマの原作を読んでいた。
菊姉はベッドの上で、僕はベッドを背もたれに床の上で。時たま、菊姉が僕の頭を蹴ってきたが、今日ばかりは何も文句は言えなかった。それを分かっているからか、菊姉は楽しそうに足先で僕の頭を小突く。
しかし、その頻度は次第に増えてきて、流石に鬱陶しく感じられた。つい僕も反撃をしたくなってしまうのは仕様がない事だと思う。
「菊姉ってブラコンっていうか、僕の事大好きだよね」
弟の僕が言うのも何だが、菊姉は結構なブラコンだと思う。一般的な姉というのは、弟と関わろうとはせず、居ない存在として扱う事が多いらしい。
しかし菊姉は扱いが雑な感はあるが何かと構ってくるし、実を言うと乙女ゲーに限らず、何かにつけて菊姉の推しキャラは僕に似た感じのが多い気がするのだ。
それに今日だって……。
その事も理由に含めて、こうやって茶化すのは本当は駄目なんだろうけど、こんな事で僕と菊姉の仲が壊れるという事もあるまい。
それよりも困った風にブラコンを否定する菊姉が楽しみだ。図星だけにきっと狼狽えてくれると思う。
しかし予想に反して、菊姉はそれを鼻で笑った。
「まぁブラザーコンプレックスなのは認めるわ。弟が愚かすぎて姉としては複雑な心境だもの」
それは明らかに今日の出来事に触れて、僕を愚かだと言っていた。そして、そう言われては、僕は向けた刃をボキボキにうへし折るしか無かった。
「此度は本当に申し訳ございませんでした」
菊姉は軽く微笑んだ。
「私に歯向かおうなんざ、57年早いのよ」
「何故中途半端というか、そんなに正確な年数を?」
「だってアンタ65で総入れ歯生活になるから。その入れ歯を私に向けるだけで、多分私は怖気付くと思うわ。それまでの辛抱ね」
「65でも僕の歯は元気だよ。生涯現役だよ僕の歯は!」
毎日歯磨きしてるしね。
それに未来の技術では歯を再生出来るかもしれないじゃないか。
「じゃぁ一生私には歯向かえないわね」
菊姉は楽しそうに笑った。
「こうなったら一生僕は愚かなままで居てやる。菊姉がどんなに立派になってもどんなに出世しても、その弟さんは…って影で言われ続けるんだよ。地味だけど、ちょっとした汚点にはなる。それが僕の歯向かい方だ。一生僕に対して劣等コンプレックスを抱き続ければいいんだ」
僕が拗ねたようにそう言うと、菊姉はまた笑って、
「本当にバカね。私が一生ブラコンなのは当たり前の事じゃない」
意地悪げにそう言った。
結局僕等は不器用だ ぴーぱー @peaper2231
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。結局僕等は不器用だの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます