第19話

 絵を教える事になったのは良いが、何処でしようか、と考え始めると色々問題があった。

 極論を言えば、描く物と紙さえあれば何処でも出来るのだが、そう世の中都合良く出来ているものでもない。


 まず初めに、教室という案が出た。しかし三年の教室は一階にある為、外から目撃されやすいと言う理由で却下となった。

 放課後の教室で二人きりの男女が机を共にして何かしているという光景を見たとしよう。

 僕ならば拳を握りしめ、奥歯に力を入れる事になるだろう。側からはカップルが一緒に勉強しているという、the青春の風景にしか見えない。

 僕と一緒にいる相手が普通の一般人であれば、それ程意識する事でもないのだろう。だが、あいにく相手は園部茉莉子という学園のアイドルだ。園部茉莉子に彼氏がという噂が流れでもしたら、一騒動であろう。

 それに園部さんのファンクラブの頭らから、次はないと言われている。その事も含めて成るべく目立たない様にしなければいけなかった。


 そして、そもそも学校では難しいという事に気づく。学校で絵を教えたとなると、どうしても避けては通れない問題点が一つあったのだ。

 それは、帰りが遅いのを目撃されるという問題だ。

 今までは園部さんがまだ部活動をしていたから下校時間すぐに帰らなくても不思議に思われなかったが、これからは違う。絵を教えた後ならば、帰るのは6限目終了の下校時間から最低でも1時間後くらいにはなるだろう。部活もないのにその間何をしていたのだと勘繰る者がいるかもしれない。少なくともファンクラブは、不審に思うだろう。


 そして出たのが、どちらかの家という案だったのだが、これもすぐ却下となった。

 家だと車椅子に乗った園部さんをそこまで連れて行かなければいけないので大変なのだ。そして家に二人きりになる可能性が高い。それはたとえその気がなくても、モラルが許さない。


 そうして最終的に落ち着いたのが園部さんの母、智美さんの働いているパン屋だった。

 僕は毎日そこへ園部さんを送ってからバスで家に帰っているのだが、園部さんはその後、営業終了時間まで店の休憩室で勉強をしているらしい。それに僕も智美さんから、その時間まで待っていたら家まで送ってくれると言われていた。つまりはそこで何か時間を潰す事をしていても良いという事だ。 

 それならば絵を教える事も可能だろう。


 パン屋の中ならまず人目には付かないだろうし、二人きりでもないので考え得る中で最善の場所と言えた。


 ただ唯一の懸念事項は園部さんの母上たる智美さんの視線だ。娘と同じくらい大きな目を長く細めて、憎たらしい笑みを向けてくるに違いない。

 それは想像しただけで辟易とした。


 しかし、物は考えよう。

 どうせ智美さんから部活もないのに帰りが遅いのは何故かと勘繰られ、二人で放課後何かしているのがバレるのは必至なのだ。

 その結果あられもない想像を膨らまされるよりは、マシと言えるかもしれない。

 そんなこんなで智美さんのパン屋に決定した。


 そして。


 僕は今、美術室の扉の前にいた。

 園部さんは下駄箱で待ってもらっている。

 画材を取りに来たのだ。当然パン屋にそんなものは無く、あるのはシャーペンとノートくらいだろう。それでも別に良いのだが、折角なのだから少しはマシな物でと思い、ここにやってきた。


 美術室の隣の美術準備室には僕の使いかけのスケッチブックと鉛筆が有る筈なのだ。家にあった画材は絵を止めた時に全て捨ててしまったが、美術室に置いていたものは、そこに近づきたくなかった事もあり、そのまましている。

 既に捨てられているかもしれないが、その懸念は杞憂に成るだろうと、確信にも似た予想が僕の中にはあった。

 と言うのも僕が美術部員だった時、美術準備室には数年前に卒業した人のスケブ等でごった返していたからだ。つまり数年前不要になった筈の物が、捨てられる事もなくワンサカあるのが準備室なのだ。僕の所持品もその中の一つとして埋もれている事だろう。


 この学校の美術室は、僕達の教室のある本館から渡り廊下を渡って行く別館(B棟と呼ばれている)の一階の隅にある。

 美術部員か、授業の芸術科目で美術を選択している人ぐらいしか高校3年間の内に此処へ来ることはまずないだろう。美術部があるといってもその人数は高が知れているし、多くの生徒は音楽や書道を選択しているので、美術選択者の人数も少なく、この学校で美術室のお世話になる生徒数は滅法少ない。

 美術室が何処にあるかすら知らない人もいる筈だ、というのは美術部の自虐ネタだった。


 そんな地味な美術室に、かつて僕は美術部の一員として毎日通っていた。しかし美術部を辞めてからは、芸術科目は音楽を選択していたこともあり、一度も来たことはなかったのだが……。


 僕は感慨深くその扉を見つめた。つい昨日までは再びここに来る事になるとは夢にも思っていなかった。

 僕の心境のせいか、扉が厚く、重そうに見えた。少し緊張しているのかもしれない。そう気付くと、ますます心臓は緊張の様相を呈し始めた。

 廊下は薄暗く、扉の向こう側から光が淡くガラスの部分を透けているのがよく分かる。扉を開けるとその淡い光は色を増し、僕はその輝きに目を眩ませるのではないか、そんな想像をしてしまった。


 しかし、その想像は現実にはならなかった。

 僕が眩しさを感じなかったのは、ただ単純に美術室内の光量がそれ程なかっただけなのか。

 それとも、その室内の雰囲気のせいなのかは分からない。



 入室すると教室の奥の方で作業をしていた女子生徒が、立ち上がりこちらに歩いてきた。重たそうな長机が並べられて出来た道を縫う様にしてやってくる彼女の事を僕は知っていた。


 九重幸。

 僕が一年の時、彼女も同様に新入部員の一人として一緒に活動していた。

 彼女は制服を校則通りに着ており、スカートが他の女子より長く感じられた。髪は肩口で綺麗に切りそろえられており、全体的にキッチリとした印象を受けるも、体の線が若干細く、儚い感じも受ける。


「何か御用でしょうか?」


 少し怪訝そうな響きを持ったその声は少し高めで細く、それは僕の知っている当時と同じで少し懐かしかった。

 しかし、向けてくる視線に含まれた小さなトゲを僕は感じていた。

 僕はその視線に耐えかねて、目をそらす。それが不自然に思われない様に辺りを見渡すが、特に目につく物はなかった。

 ただやけに部員が少ないのは少し気になった。

 他の部員は休んでいるのだろうか、室内には九重さん以外誰も居ない。僕が所属していた当時は、美術部は参加自由だった為、毎日欠かさず来るという人は少なかった。だから部員全員が揃うということは稀なのだが、ここまで人が少ないのは驚きだ。

 部員が減ったのだろうか。それとも今はまだ部活勧誘の期間だから、他の人は外で勧誘しているのだろうか。


「あの……」


 九重さんの訝しげな声に僕は、ハッとし、先ほどの問いに答える。


「えっと、準備室の方に僕が使っていたスケッチブックとかその他諸々を取りに来たんだけど、まだある?」


 そう言うと九重さんは一瞬呆然とした表情を見せた。しかし、すぐに落ち着きを取り戻し口を開く。


「はい。準備室にあったと思います」


「そっか。良かったよ。捨てられてなくて。持ってっても良いかな?」


「元々藤島君の物ですし。良いですよ」


 彼女はそう言うと一礼し、踵を返し元いた席に歩いて行く。

 

 その態度は余りに事務的で寂しかった。

 九重さんはよく僕にアドバイスを求めて来ていた。僕の集中力が途切れたのを見計らって来ていたのか、邪魔に感じた事も少なく、僕も邪険にせず快くそれに応じていたのだ。

 同級生だが可愛い後輩の様に感じる事もあって、彼女との時間は決して嫌いではなかった。

 もう一度絵を始めたのだから、出来ることなら、また作品を見せ合ったりしたいものだ。


 昇降口に飾ってあった、登下校で毎日通る桜並木の道の絵は九重さんが描いたものだった。園部さんからその絵の話題を振られた時は焦っていて、あまり良く見なかったけど、今日の朝改めて鑑賞した所、上から目線の様だが随分上手になっていた様に感じた。

 彼女は丁寧な絵を描くが、面白みに欠ける印象があったのだが、あの昇降口の絵は桜が開花する前の生命力の蓄えといったものが確かに感じられた。


「あの桜並木の絵、」


 思わず僕の口から零れた言葉に、九重さんが立ち止まった。


「とても良かった」


 それは心からの言葉だった。もっと色んな言葉で言えない物かと思ったけれど、言葉を尽くせばその分その想いが安っぽい物に成ってしまう気がした。だから、それ以上の言葉は出てこなかった。


「……そう、ですか」


 それきり彼女は何も言わなかった。



◯◯◯◯



 美術準備室は美術室の中で通じていて、廊下からは内側から鍵が掛けられている為、入ることは出来ない。


 準備室の扉を開けるとその中は相変わらず薄暗く、埃っぽかった。重々しい雰囲気が漂っている。

 窓はカーテンに覆われ、光といえば僕の後ろから差し込んでくる物だけで、この扉を閉めると恐らく真っ暗になるだろうと予想された。

 明かりをつけても、入って来た時の印象は変わらず、重厚感を感じずにはいられなかった。

 それは部屋の中が、背の高い棚に覆われているからだろう。紙や備品、美術関連の本やらがそこに入れられており、また、不気味な男性の頭の石膏だったり、やけにカラフルな鳥の模型も飾ってあり、何と言うか、カオスだ。


 それらを眺めながら、お目当ての物を探す事数分。

 漸く見つけた。


 F4サイズのスケッチブック。表紙に僕の名前が書かれていた。

 確か新しく買ったばかりで、それほど使った記憶はないけれど、埃を被っているせいか、随分年季の入った物にも感じられた。

 埃を払って適当な所で開いてみると、そこは白紙だった。


 この紙はどんな気持ちでいたのだろうか。再び誰かが汚してくれるのを待っていたのだろうか。捨てた僕を怒っていただろうか。


 そこから一枚ずつゆっくり丁寧に遡って捲っていった。そこに込めるのは謝罪か懺悔か懐かしみか。

 ザラリとした紙の感触が生々しく、指先に残った。


 何枚捲っただろうか、ようやく絵が描かれた所に当たった。


 人物画だった。

 瞬間、僕は赤面する。僕はそのページを綴じ具の所で破ると折りたたんで、カバンの中にしまった。

 鼓動が激しくなっている。


 それは長い間放置されたスケッチブックからの細やかな嫌がらせだったのだろうか。

 そう思っていいほどに、僕は懲らしめられた。 

 

 けれど思いの外気分は良かった。 

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