第18話

「藤島君。また明日」


 園部さんは僕をそう言って見送った。言葉少なだったが、何を言いたいか何となく分かった気がした。

 彼女が僕に言いたい事は一つだけだろう。そしてその全てを既に今日彼女は僕に伝えた。


 僕は何も言わずただ頭を下げ、園部家を後にした。



◯◯◯◯



 菊姉は静かに車を操って帰路を辿る。見慣れない住宅地を抜けると、そこはもうよく知った風景だった。


 相変わらず何もない町だ。

 しかし、水を張った田んぼが、綺麗な青空を映し出していた。田んぼが多いこの辺りは地上と天に二つ空があるような錯覚を覚えることがままあるのだ。この光景はちょっとした自慢だ。


 その二つの空に見惚れていると、気づけばもう家まで数百mという所まで戻ってきていた。


「ねぇ菊姉」


「ん?」


「どっかで昼食べていかない?」


 時間は昼には少し早かったが、僕はそう切り出す。

 ちょうど信号に捕まり、車が止まると、菊姉は僕の方を向き、何も言わず見つめてきた。

 僕はその目と真っ直ぐ向きあう。


「……いいよ」


 やがて車は再び動き出した。



◯◯◯◯



 やって来たのは、よく訪れる近所の喫茶店。

 ここのナポリタンは絶品で、月に1度は無性に食べたくなるのだ。今日もそれと、特製サラダ、そしてホットコーヒーを食後に持ってきてもらうように頼んだ。いつものメニューという奴だ。菊姉も全く同じものを頼んでいた。


 程なくして運ばれてきたナポリタンは相変わらず美味しかった。ケチャップと麺がよく絡み、そこにチーズの甘みがほんのりと加わり、口の中に幸せが広がっていく。ウィンナーの油とピーマンの苦味がアクセントとなり飽きさせず、一口食べ始めると、手が止まらなくなってしまう。


 あっという間に平らげるのは勿体なく、一口一口大切に大切に。


 しかし程なくして皿は空となってしまった。


 その空の皿を残念そうに眺めているとマスターがホットコーヒーを持ってきてくれた。いつもなら砂糖とミルクを気持ちばかり入れるのだが、今日は何だかブラックの気分だった。


 軽く息を吹きかけ口に含むと、苦味が口の中に広がり、思わず顔を顰めてしまう。そんな僕をみてか、菊姉の笑った。


「大人だねぇ」


 そう言いながら菊姉は見るだけで胸焼けしそうなほど砂糖を入れていた。僕はあんなの絶対に飲みたくないなと思うソレを、菊姉は口に入れると……。


「うん。美味しい」


 菊姉は満足気にそう呟くと、カップをソーサーに戻す。コツンとした音が小気味良く耳に響いた。


「で?」


「ん?」


「話はなに?」


「……」


「気付かないわけないでしょ?何年一緒にいると思ってんの」


 菊姉はため息を一つ吐いた。


「昨日の朝アンタは自分から私に乙女ゲーの話題を振ってきた。そういう時は大抵アンタは他の事を考えたくない時。そして急に食事をしようと提案して来た。状況的に考えて何か私に話したい事があるんでしょ?」


 やっぱりこの人は僕の姉で、多分一生敵わないなと、そう思った。

 確かに、菊姉のいう通りだ。僕は悩んでいたし、菊姉にその話を聞いて貰いたいと思っていた。


「話してみ?可愛い弟の話だし、5分くらいなら聞いて上げる」


 その表情は優しく、言って見れば姉の顔をしていた。

 思えば普段は僕に対してぞんざいな態度を取る姉だが、根はいつも優しい。


 僕がまだ幼く、母が毎日忙しい為寂しい思いをしていた時は、優しく抱きしめてくれ、一緒に泣いてくれた。

 テレビでホラー映画のCMを見て一人で寝れなくなった時は、一緒に布団の中で怖がってくれた。

 止ん事無き事情で鉛筆を何本も折り、母に新しく買ってくれと頼みにくかった時は、自分の鉛筆を分けてくれた。女の子に人気のキャラがプリントされたもので少し恥ずかしかった。

 小学、中学の体育祭では何回か、母の代わりに弁当を作ってくれた。焦げていたり、味が濃かったり薄かったりしたけど、何だか美味しかった。

 中学の文化祭の劇で主役をやった時は、最前列まで寄って来てビデオカメラを構えていた。ブレブレで、しかもステージ下から見上げるようにして撮ってあり、女装男子のパンツが見えた時は少し泣きたくなった。腕が疲れたのか、それとも撮るのに飽きたのか、途中で切られていたのはいかにも菊姉らしくて笑ったけど。

 高1の時、軽く人間不信になっていた僕に余計な事を考えなくて済むようにゲームの話を沢山してくれた。その時はドライブにも連れて行ってくれた。初心運転者なのに、ワイルドな運転で、怖くて、他の悩みが馬鹿らしくなった。


 いつも振り回されるけど、でも僕の姉はいつだって優しい。


 だから、そんな菊姉だから。


「絵を、絵をもう一回始めるのってどう思う?」


 そして僕は話し始めた。


 今まで抱えてきた葛藤を。また描きたくても、そんな自分を許せない自分がいる事を。絵に対する侮辱を主張する自分を。


 そして心境の変化を……。


 中々スラスラとは話せなかった。何度も頭の中で悩み考えていた事だけど、実際どう口にすれば良いか分からなかった。それでも一つ一つ、丁寧に自分を改めて納得させるように……。


 漸く話し終えた時、既に5分という時間は過ぎていた。


 それでも菊姉は静かに聞いてくれていて。

 そして一通り聞き終わった菊姉が最初に発した言葉は……。


「くっだらなっ!!」


 それだった。

 本当にそう思っているらしく、そんな事で悩んでいたの、といった感じに目を丸くしている。いや、まぁ確かに下らない葛藤だとは僕も自覚しているけど。


「そう言われても……」


 側から見れば、変な意地を張らずに素直になればいいじゃないと誰もが思うだろう。それでも、踏ん切りが付かなかったのだ。


「正直深く考えずやりたい様にやれば良いと思うけどね。やってみて止めたくなったらまた止めて。その繰り返しで良いじゃん。どちらにしろ将来が決定的にダメになる訳じゃないし。別にそれで飯食おうっていう話じゃないんでしょ?だったら母さんや私に迷惑が掛かる事でもない。後悔があったとしても、そんなの高が知れてる。死ぬほどの物じゃない。なら好き勝手やるのが一番だと私は思う」


「でも」


「まぁ、アンタの言うプライドとか、私にしたら屁でもない事だけど、そんなのは人それぞれだしね。否定するつもりもない。だから好き勝手やればっていうのは私個人の意見で絶対じゃないわ。まぁ心底下らないと私を思っているという事をもう一度言っておくけど」


 菊姉は軽く笑った。


「まぁ、どちらにしろ、もうアンタまた絵を描く事決めたんでしょ?」


「それは……」


「じゃなきゃこんな事相談しないものね。あんたの場合」


 僕は何も言えなかった。

 これも正しく菊姉のいう通りだったから。

 

 僕は園部さん宅で、あの絵を見て。園部さんの想いを聞いて。


 そして改めてあの不完全な絵を見て。

 僕はどうしようもない程また絵を描きたいと思っている。この衝動はもう、到底抑えられそうになかった。

 それこそ、今までの悩みがバカに思える程に。


「簡単に捨てたのにまた始めるのか、それは絵に対する侮辱じゃないか、だって?アンタ如きに一々絵の神様も腹立ててる暇なんかないって。てか腹立てるというより、腹抱えて笑ってんじゃない?自意識過剰な勘違いバカがいるって。私だったら爆笑してるわ」


 いや貴女、絵の神様じゃないし。


「ま。また描いて見なさいよ。私アンタの絵、好きよ?」


 菊姉にそう言われたのは初めてだった。賞をとっても、私には芸術分かんないと言っていた菊姉が、今ここでそういうのは少しズルかった。


 そんなこと言われたら、嬉しいじゃないか。嬉しくて思わず泣きそうになってしまうじゃないか。さっき園部さんの家で泣いてしまったばかりなのに。


「ほら泣かないの。相変わらず泣き虫なんだから」


 菊姉は困ったように笑う。

 手のかかる弟をあやす姉のその姿は、何だか面白かった。まぁ手の掛かっている弟は、僕なんだけど。


「あ、そうだ!家帰ったら私を描いてよ。ちっさい頃良く描いてくれてたじゃない」


 確かに小学生の頃はよく姉や母の顔を描いていた。

 その度に、私はもっと可愛いとか、私はもっと若々しいとか色々イチャモンを付けられていたけれど、ここは上手に描けてるとか、前より上手になったとか、そう言う言葉を貰うのが嬉しかったのを覚えている。


 段々似顔絵を描くのが小っ恥ずかしくなって、他の物を描くようになったけど、絵を好きになったルーツはやはりそれだった。

 だから、またそうやって始めてみるのも良いかもしれない。


「うん。……いいよ」


 それは僕が口に出して絵を描くといった最初の言葉だった。

 

 胸がとてもスッキリした。


「復帰第1枚目が私ってなんだか嬉しいけど、少し恥ずかしいわね」


「いや、実は」


 僕は無意識のうちに化学の問題集のマスコットキャラ恵ちゃんをうっかり描いてしまった事を話す。

 それを聞いた菊姉の第一声は……


「はぁぁぁぁぁ!!?」


 これだった。


 うん。気持ちは良くわかるよ。



◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎



 翌日、月曜日の放課後。


 1日の別れを告げる相手などいないボッチの僕は、反対に沢山の人と別れをしないといけない人気者の園部さんを待っていた。

 ったく、女子って言うのは「さよなら」言うだけに何であんなにも時間が掛かるかね。どうせ次の日また会えるんだから。

 「次の日の私は今日の私とは一味違うのよ、だから1日1日を大切にしなきゃ」みたいな事でも思ってるんだろうか。だからそんなに話をしているのだろうか。

 だったら味の変化を確かめるために、毎日なめないと。だって僅かな変化に気がつくのがモテる男の必須スキルなんでしょ?


「それじゃあ、帰りましょうか」


 漸く会話を切り上げ、園部さんは僕の席に近寄ってきた。辺りを見渡せば、もう僕と園部さんの他に教室内には誰も居ない。


 しかし、僕はその言葉に頷かなかった。


 それは園部さんにしたら意外だったらしく、頭を傾げた。


 やれやれ。

 そちらから言い出した事というのに。


 まぁ確かに、今日の僕は一味違うけどさ。


「月と金の週二日でしょ?」


「え?」


 僕の言葉はどうやら彼女の度肝を抜いたようだ。

 

「そう提案したのはそっちだったじゃないか?」


 その言葉を受けて、彼女は漸くそれに思い当たったようだ。

 

「それってつまり?」


「やらなくて良いなら、僕は一向に構わないんだよ?」


 菊姉の似顔絵を仕上げたい事だし。 

 

 こんなに素直にまた絵を描きたいと思える日が来るとは思わなかった。絵を描くのはやっぱり楽しかった。やっぱり好きだった。


 再開して良かったと、本当にそう思えた。


 その切っ掛けをくれた園部さんに、彼女の願い通り絵を教える事は吝かではない。ではないが、別にいいというなら、僕は今絵が描きたいから、とっとと家に帰るよ。


 意地悪げに彼女を見ると、園部さんはまだ目を見開いたまま固まっていた。その瞳は相変わらず大きく、零れてしまいそうだった。


「ばか!藤島君のばか!ホントばか!」


 突然園部さんは子供の様にそんな事を言い始める。


「え、なんで?」


「ばーかばーかばーか」


 満面の笑みだった。


「ちょっと何時もの園部茉莉子はどこいっちゃったんですか?」


「ばーかあーほ、へたれ」


 歌うようにして園部さんはそう言う。


「小学生ですか貴女」


「優柔不断、へのへのもへじぃ」


 いや、後のは意味が分からん。

 その後暫く僕は園部さんの意味不明な罵倒を浴びる事となる。


「この、へちまへちへちまっ!」


 いや、ちょっと意味わかんないんですけど……。

 キャラが崩壊してますよ?


 数分後園部さんが、羞恥に顔を染めたのは言うまでもない。


 記憶というのは残念ながら都合よく消せる物ではない。


 だから殴らないで。


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