第17話
リビングに戻ると、今度は姉が御手洗いを貸して貰おうと、席を立った。園部さんは先ほど僕にした説明と同じ物で、トイレの場所を教えるが、僕は慌ててそれに補足をした。
その説明だと菊姉も物干し部屋に辿りつくだろう。そして僕が園部さんの下着を見た事を悟る。その先は想像もしたくなかった。
僕の補足を聞いた園部さんは一気に顔を赤らめた。
その表情を見て僕はヒヤリとしたが、園部さんは何も言ってこなかった。
しかしよく考えればそれは当然と言えた。エッチとか変態とか言いながら、何か投げてくるかとも思ったが、それはアニメとか漫画の見過ぎだろう。
説明を失敗したのは園部さん自身であり、僕を咎める事は出来まい。寧ろ僕は被害者に属するのだ。
くそぉ。もっと被害者面して堪能してくればよかったよ。
僕は椅子に座り、そしてテーブルを挟んで園部さんと向かい合った。
そこに流れる気まずい空気。
「……見苦しいものをお見せしてしまって」
「……まぁ何というか、本当に一瞬だったので」
そして流れる気まずい空気。
「えと、もう宿題は済ませましたか?結構な量でしたが」
「え、えぇ。昨日のうちに」
そして流れる気まずい空気。
「新しいクラスは賑やかになりそうですね。お祭り好きが多そうというか……」
「そうね、篠武学園は1学期に行事を盛り込んでるから。これから忙しくなりそう……」
そして流れる気まずい空気。
僕はなんとかこの気不味い雰囲気を打破しようと話題を見つけるべく、脳を忙しなく働かせた。
そして、我が学園の最大の謎である理事長について、園部さんの見解を伺おうと口を開く……。
……ことは出来なかった。
何故なら目の前で起きたことに驚いてしまったから。
何故なら目の前で園部さんが自らの頬を両手で叩いたから。
「ごめん藤島君。時間もないし、話題を変えるわ」
そういった園部さんの瞳には戸惑いや、気まずさはもう無く、言ってみれば、覚悟を決めた者の目つきをしていた。
その凛とした姿に自然と僕も、背筋が伸びた。
「ちょっと待っていて」
そう言うと園部さんは車椅子を操り、一度居間を出た。
◯◯◯◯
1分も経たない内に園部さんは戻ってきた。そして先ほどと同じ場所、テーブルを挟んで僕の目の前に車椅子を止める。
その手には木製の額縁を抱えていた。裏板がこちらを向いているので何が描かれているのかは見えないが、確かに半切判の額縁を抱えている。
「これを見て欲しいの」
やがてその手に抱えた額縁を僕に手渡してきた。
そこにあったのは言うまでもなく、絵。
しかし、僕は思わずその絵を取り落としてしまいそうになる程動揺してしまった。その驚きを隠しもせず園部さんを見ると、彼女は黙ってただ頷いた。
もう一度僕はそれを見る。
それは絵だった。
それは、僕の描いた絵だった。
「私ね」
そして彼女は語り始める。
「私ね、中3の文化祭の時、美術室に飾られた貴方のこの絵を見たの。空から天使の羽が舞いおりている、この絵を」
「その時、とても感動した」
彼女の紡ぐ言葉は空気を次第に暖かくするような、そんな柔らかさがあった。
「ほら、私達って色々と競ってたでしょ?」
少し笑って照れ臭そうな顔が、とても印象的だった。
「でもね、その時は素直に、あぁ負けたなって思えたの。そこに悔しさも未練もなかった。心にすっと何かが落ちて、静かに波紋が広がっていって、気付いたら涙が出てた」
「絵の中で風を感じて、光を浴びて、描かれている羽と一緒に踊って、その喜びに胸を熱くして、そして少しの寂しさに胸が苦しくなった」
「そんな体験初めてだった。周りの音が全く聞こえなくなって、涙を拭おうにも体が動かなくて、鼻水まで垂らしながら馬鹿みたいにそこに何十分も固まってたのよ」
「藤島君が見ている世界はこんなにも美しいのかと、心が震えたわ」
「あなたの
彼女の言葉が切なく僕の心に触れた。
「それから私はより色んなことに心血を注ぐようになった。貴方の世界を私はきっと見ることは出来ないけれど、それに勝るとも劣らない私の世界を、私だけの世界を見ようと必死になった。貴方のお陰で私は更に前に進める、そう思った。必死になればなるほど周りは私から一線を引くようになるけど、貴方は私のすぐ近く、もしくは私より前で嫌味に笑って私を挑発してくれる。お互いに切磋琢磨していける」
「うまく言えないけど兎に角、貴方は私にとってそんな存在だった」
それは園部さんだけではない。
僕も彼女の姿を見て、何度も。
そう何度も……。
「でも」
空気が変わった。
「気付いたら、貴方は遥か後ろで蹲っていたわ」
「それを見た時の私の気持ちが分かる?」
その表情は怒りというより、悲しみや寂しさを表していた。
「まず最初に裏切られたと思った。次第に怒りが湧いてきて、そして貴方を哀れむ様になった。そしてやっぱり寂しかった」
「……私は許さないわ」
それは決して大きな声ではなかった。しかし、そこに込められた想いは、願いは計り知れない。だからこそ、こんなにも胸に突き刺さるのだろう。
「休み時間寝たふりをする貴方を許さない。つまらなさそうに昼食を静かに食べる貴方を許さない。やる気の欠片も感じられないその顔を許さない。目立つ事を恐れる貴方を許さない。絵をやめた貴方を許さない。張り合いのない貴方を絶対に許さない。口だけ達者な貴方を許さない」
「私の隣にいない貴方を許さない」
「貴方がなんと言おうと引きずり上げてやる」
ーー絶対に。
園部さんはそう締めくくった。
彼女の言葉はどこまでも自分勝手だ。他人の事を一切考えず自分の意見を押し付けているだけの言葉。
何も着色せず粧飾せずありのままの彼女の願い。
だからこそ彼女の気持ちが痛いほど分かってしまった。
何故彼女が再び僕に絵に関わらせようとするのかが分かってしまった。
−−彼女は今孤独なのだ。
周りにどれだけ自分を慕う者がいても、どれだけ親しい者がいても、彼女は今孤独を感じずにはいられないのだ。
彼女が優秀すぎるから。自分と同等の力を持つ者がいないから。有りの侭の自分を出せる相手がいないから。
そしてその状況を作ってしまったのは他でもない僕なのだろう。
少し前までは彼女が全力で当たれる藤島陽平という存在がいた。彼女にとって唯一対等にやっていける存在が……。
僕のお陰で彼女は孤独に成らずに済んでいた。
しかし、ある日その男はただのボンクラとなってしまった。
その結果彼女は高い頂に一人残されてしまう。
他の者は相変わらず自分を見上げるばかりで、張り合ってくる物はいない。
友達はいる。慕ってくれる人もいる。褒めてくれる人もいる。
しかし競ってくれる人がいない。
自分を高めてくれる人がいない。
それは酷く退屈で、つまらない日々。
あの頃が懐かしく、愛おしく。
だから彼女は再び僕を高みへ引っ張りあげようとしている。
孤独から逃れる為に。
「もう一度言います。私に絵を教えて」
やっぱり園部茉莉子は自分勝手だ。
しかし僕は彼女を責めることは出来なかった。
恐らく僕が彼女の立場になったとしたら僕は彼女と同じことをしてしまうだろうと思ったから。
もしかしたら此度の世話係の話も、怪我をした機に僕を立ち直らせる様と思いついた話なのかもしれない。漠然とだが、そう思った。
「私、貴方の絵が好きなの。この絵だって里山先生に無理言って貰ったの」
「まず絵を描いて。そして……」
ーー戻ってこい、ヘタレ。
言外にそう言われた気がした。
否、そう言われた。
◯
この絵は、僕にとっても思入れ深いものだった。
中三の体育祭でみた天使。
僕は彼女の姿を見て、負けたと思った。それ程までに、その姿は神々しく、なにより美しかった。
何度も描くのを止めようと思った。でも出来なかった。僕はあの光景を何としても、自分の手で永遠に残していたかったのだ。
描きたくないのに、描かずにはいられなかった。
それ程までに強い衝動に駆られて描いた絵は、これが初めてだったと思う。
体育祭終了後、周りが文化祭展示に向けた作品を作っている間、僕は到底そこには出せそうにないその絵に掛かり切りになっていた。
遂には美術部顧問里山の目に止まり、僕の反対を押し切られ、文化祭に出されてしまったのだが……。
文化祭が終わると、直様回収しようと顧問を尋ねると、売ってしまったと言っていたこの絵。
学生の絵を、それも本人の了承もなしに、そんな馬鹿な話があるか言ったが、無い物は無いと頑なに言い張られてしまったのだ。
見ただけでは僕が何を題材に描いたのか分かる人は居ないだろうが、それでも恥ずかしさを感じずにはいられない。
こんな所にあったとは。
数年ぶりにこの絵を見る僕の身体は震えていた。
あぁ、この気持ちは何ていったか。
この胸に広がる暖かさは。胸を締め付けるような高揚感は。この浮遊感は。
何といったか。
気づくと僕は笑っていた。
気づくと僕は泣いていた。
声もなく、ただただ、笑い、そして泣いていた。
ーーあぁ、そうだ。
嬉しいんだ。
僕は嬉しいんだ。
彼女に認められていたことが。彼女にまだ諦められていないことが。
嬉しくて嬉しくて堪らないんだ。
思わず笑うほど。思わず泣くほど。
僕は再び絵を見つめた。
そして、あの日の彼女の姿を思い出していた。
どれだけ月日が経っても、その光景は色あせることなく僕の脳裏に描かれる。その事に悔しさと、気恥ずかしさを抱きながら、僕は目の前の絵を眺める。
あぁ、やっぱり遠く及ばない。
あの美しさ、あの存在感、あの儚さ、あの高揚感、あの切なさ、何もかも表現しきれていない。
これは不完全だ。あの光景はこんなものではなかった。
まだ負けている。
僕は右腕に疼きを感じていた。
今ならどう描くだろう。今の僕ならどう表現するだろう。
あぁ、絵を描きたい。
絵を描きたい。
絵を描きたい……。
この絵の続きを描きたい。
その欲求は嘗てない程の高ぶりを見せ、何かを溶かそうとしていた。
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