第14話


「何やってんの?あんた」


 葛藤のあまり、芋ソファーの上で虫の様にムズムズと悶えていた僕だが、突如として聞こえてきた女性の声に、その動きを急停止させた。

 そして今まで自分がどんなに気持ち悪い奇行を無意識下でいていたのかを瞬時に理解した。理解、してしまった。

 恐る恐る声のした方向に顔を向けると、そこには姉がいた。


「や、やぁ菊姉。おはよう。早いお目覚めだね」


 3つ上の実姉である藤島菊音に僕は朝の挨拶をする。朝の挨拶は大切だ。互いにいい気分になれるって、真面目な小学生がよく言ってる。だから、僕らもお互い良い気分になってさ、気持ち悪い事なんて忘れ去ろうぜ。


「陽平、何してたの?」


 姉は僕の挨拶は無視して、無視して欲しいところを注視している様だ。

 まぁ、朝起きてきたら、ソファーの上で実の弟がウネウネ身体を拗らせていたのを目にした日にゃぁ、そう問い質したくなるってもんだろう。

 ある意味、無視されるよりも、こうして直に聞かれる方がこちらとしても助かるのかもしれない。

 だからと言って、何をしていたとかは答え難いのだけど……。


「まぁまぁ菊音さん。ここに座りなさいな」


 僕は身体を起こし、ソファーの左端に寄り、空いたスペースを右手でポンポンと叩いた。


「何か今のアンタに近づきたくない」


 その気持ちもよく分かるよ。得体のしれない行動をしている、または、していた人の側にって中々近寄りたくないものだよね。

 幼い頃から一緒に育って慣れ親しんだ弟であっても、そう感じるのは危険センサーがしっかりと作動している証拠だね。それは良い事だ。弟としても姉の危機管理能力は気になるところだからね。グッドだ。


「男たる者、避けては通れぬ戦いというものがありましてね。僕は只今悪戦苦闘してたわけですよ」


「で、何と戦ってたの?」


 菊姉の目は思い切りバカを見る目だ。バカを見るからバカを見る目をするのか、バカが瞳に映っているからバカを見る目になるのか。誰にも分からない、人類の永遠の命題だろう。


「……過去の自分と」


「またバカな事したの?」


 菊姉は嘆息と共にそう言った。どういう思考回路でそのような結論を導いたかは理解に苦しむが、その通りであった。簡潔だが、だからこそよく的を射ている。流石我が姉である。グッドだ。


「で?何したの?」


「……ノーコメント」


 菊姉は最初から深く聞くつもりは無かったのか、意味深にふーん、と鼻をならすと、漸く僕の隣に腰を下ろした。

 菊姉が座って、ソファーが揺れた瞬間、菊姉の胸も揺れた。寝起きで例のお方が不在だったというのも、その運動を目立たせた一因を担っているだろう。例のお方というのは勿論、武羅邪亜である。

 菊姉は何というか、とても扇情的な体付きをしている。弟である僕にとったら、どこが揺れようと寄せられようと押し付けられようと、それはただの物理的現象としか認識はしない。

 が、他の男は恐らくその破壊力に鼻の下を伸ばしきるに違いない。そして困った事に、菊姉は顔も中々に整っていた。キツめのお姉さんといった面持ちだが、その身体つきも相まって、M気を持つ男からしたら、正に理想の一つと言えるような容姿をしている事だろう。

 彼氏がいるのか、いたのかはよく知らないのだが、菊姉の事だから意識してか、せずしてかは知らないが沢山の男を誘惑しているだろうことは知らなくても分かる。その屍達に南無三。


 緩めのパーマが掛かった明るめの髪を鬱陶しそうにゴムでまとめ、菊姉はだらしなくソファーの背凭れに思い切りもたれ掛かった。


「陽平、肩もんでぇ」


 菊姉は怠そうにそう言った。その言葉を聞いた瞬間僕は立ち上がり、菊姉の背後に回る。

 この姉のお願いは命令であり、それに逆らうべからず。

 それが僕が我が家で17年間暮らしてきて学んだ一つの極意だ。逆らった日にはどんな仕打ちが待っているか分かったものじゃない。菊姉の機嫌を損ねて良かった事など何一つとしてないのだ。


「肩凝ってるのよね」


 現在大学3年の菊姉だが、肩こりの原因の一番は、毎夜毎夜熱を上げる乙女ゲームにある。

 そして休日だというのにこんなにも朝早くお目覚めということは、考えられることはただ一つ。

 徹夜でゲームをしていた、だ。暗い部屋の中で寝ずにゲームをやっていたら、肩が凝るのも当然だろう。あと胸でかいし。


「で?昨夜は誰を落としたの?俊?建?」


 菊姉からは毎日のように乙女ゲームの話を聞かされる。

 そのおかげで、知りたくもない知識はドンドン増えていき、恐らく乙女ゲーマーかぶれ程度の人よりはよっぽど幅広く、そして奥深く語る事が出来るだろう。実際強制的にだが、姉のお気に入り作品はプレイしているし……。

 何が悲しくて、二次元のイケメンたちに対して男である僕がトキめかないといけないのか。

 ……あいつらマジでカッコイイよな。


「タケル様よ!もう聞いてよ!最っ高だったんだから!!」


 菊姉は目をキラキラとさせて昨日の攻略劇を語り始めた。この感じだと、いずれ僕も建を攻略するようになるかもしれない。

 普段なら辟易とするその話題だが、今は余計な事を考えずに済んで少し助かった。



◯◯◯◯



 それからどれだけの時間タケル様について聞かされただろうか。

 テレビは煩いと途中で菊姉の手によって電源を切られた。語りに熱が入ってきて身振り手振りが加わり、肩揉みをし続けると怪我する危険が生まれたので早々に切り上げ、僕はソファーの端に座り直していた。肩揉みを頼んだのは菊姉だが、その事に何も文句を言わず菊姉はタケル様について夢中になって語った。


 タケル様が出てくる乙女ゲーのヒロインに転生したら余裕でタケル様を落とす自信がある。てか、いつのまにか様付けで呼んでるあたりで、大分菊姉に洗脳されているのだろう。良かったよ。タケルって名前の友達いなくて。


 菊姉も語り尽くした後、落ち着きを取り戻し、疲れたから寝てくると二階に上がっていった。

 

 受験生だし勉強でもするかな、と菊姉にならって僕も自室に戻った。


 そして取り掛かるは化学の問題。問題集を左に置き、ルーズリーフに答えや計算を書き込んでいく。

 

 簡単だった。

 僕は例の一件以来あらゆる事に対して怠惰だけど、勉強はソコソコ出来る。というのも授業に出てたら、大体分かるし、ボッチなので学校の休み時間などに教科書を読んだりもするので地味に勉強はしているのだ。

 だからテストでも良い成績を取ってしまう。定期テストでの僕の順位は大体2位か3位だ。全国模試では県内一位をとった事もある。でも、その結果を話す友達もいないので、周りからはソコソコ勉強できると思われているみたいだが、それがどのレベルかまでは知られていない。僕が主席入学した事も、最早遠い記憶の彼方に追いやられている事だろう。

 別にボッチに思い入れがある訳でもないが、変に注目されてしまうよりは、自慢などせず根暗と思われていた方が良かった。

 まぁ、昨日墓穴を掘って園部さんにはバレテしまった訳だけど。


 今解いてるのは五年前の某国立大の入試時に出題された問題だった。少し捻られている程度で基本がしっかりしていれば、悩む事はない程度のものだ。


 そんな解き甲斐のない問題が続き、僕は次第に退屈を感じ始めてきていた。 


 シャーペンで遊ぶ時間が増え、左手はいつの間にか閉じられていた問題集の表紙を撫でていた。滑らかな感触のその表紙はとても触り心地が良い。

 そこに描かれている、この問題集のマスコットキャラである恵ちゃんは、くすぐったそうに笑っている気がした。


 確実に男子高校生を狙いに描かれた様な恵ちゃんはとても可愛らしい。所々で可愛くポーズを決めながら問題のヒントをくれるその姿に思わずにやけてしまうのも仕様がないというものだろう。そしてそんな恵ちゃんに応援されながらだと、問題を解くのも中々にやる気がでるものだから、よく考えられて問題集も作られているものだ、と関心する。


 暫く恵ちゃんを眺めた後、そろそろ再開するかと、適当なページを開き問題を見た。今度はそこそこ難しいとされる私立大の過去問だった。


 問題を読むと、頭の中で解答のプロセスを思い浮かべる。これもやはり、簡単な問題だった。

 

 それは、ルーズリーフに答えを書き込もうとしたその瞬間だった。


 僕は思わず目を見開いた。


 そんなバカなと何度も瞬きをする。しかしその事実は変わらない。より確実な物として僕にその事を教えるだけだった。


ーー恵ちゃんが描かれていた。


 ブレザーも、頭身も、顔も、よく描かれた恵ちゃんが、その紙の上で笑いながら手を振っている。


 右手を見る。恐らくこの手がルーズリーフの余白にそれを描いたのだろう。


ーー無意識の内に。


 否、恐らく自分で描いているのは気づいていた筈だ。全くのブラインドでここまで綺麗に描く技術は僕にはない。だとすれば絵を描く事に熱中する余り、その事以外に思考が働かなくなっていたのか。

 絵を描く快感が脳を麻痺させたのか。


 こんな事は1度もなかった。どれだけ絵を描きたいと思っても、こんな事は1度もなかった。

 落ち着け、落ち着けと言い聞かせるが、無駄だった。


 相変わらずモノクロの恵ちゃんは満面の笑みでこちらを向いている。


 笑いが一つ溢れ、思わず天井を見上げた。


 全ては彼女のせいだろう。


 彼女の言葉は、僕をここまで掻き乱しているのか。


 なんという事だろう。


ーー絵を描いてしまった。


 二度と描くまいと、どれだけ腕が疼いても描くまいと。


 そう思っていたのに。


 こんなにもあっさりと。こんなにもあっけなく。バカみたいに……。


 再び絵を描いてしまった。


 その事実が酷く、僕の胸を締め付けた。


 僕はルーズリーフを握りしめる。


 笑ったらいいのか、泣いたらいいのか分からなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る