第13話
昔から絵を描く事が好きだった。
きっかけは確か、父の似顔絵だった。
5歳頃だっただろうか。幼稚園でのお絵描きの時間、周りの子達が両親の絵を描いているのを見て、僕は自分には父親が居ない事に気付いたのだ。
僕の家族は、母と姉だけ。父は居ない。
でもそれが悲しいとは思わなかったし、寂しいとも当時の僕は思わなかった。
知りもしない存在が居ないと気付いても、だからなんだと僕はある意味で達観していたのかもしれない。
今でこそ、父が居たら僕はどんな人間になっていただろうか、とか。遺影での朗らかな笑顔しか知らない父はどんな風に起こるのだろうか、とか。そんな風に哀愁の念にかられる事は有る。
しかし当時の僕はそんな事は全くなく、ただ周りの人に描けて、僕には描けない。その一点が、何より悔しかったのだ。
特にある人の描くその絵がとても憎らしかった。
だから僕は家で父を描く練習をした。写真でしか知らない父を只管描いた。
そして母にその絵を見せながら、これはお父さんかと聞いた。
自分の描いた父の絵が本当の父の姿に似ているか知りたくて、無邪気にそう母に問うたのだ。
それを受けた母は僕が父の事を知りたがっているのと思ったのか、それから母は父の話を語り始めた。
父の人柄。父との思い出。父の好きなところ。嫌いだったところ。僕は正直な話、絵が父に似ているかどうか知りたかっただけなので、その話に興味は沸かなかった。だから実を言うとその時の話を余り覚えていない。
でも母は何時まで経っても喋り続け、その語りには終わりが見えず、気づけば僕は眠っていた。
そして、母の話を聞く内に父を身近に感じる様になったのか、僕はその眠りの中である夢を見た。
幸せそうな四人家族の夢を。
母の膝の上で目を覚ました僕は、起きるや否や、その夢をすぐ絵にした。
母と父の間に僕と姉が、皆で手を繋いで。
その絵を描き上げた瞬間、何か暖かい物に包まれた様な気がしたのをよく覚えている。夢中になって描き上げたその絵は、それまで僕が描いてきたどの絵よりも良い物に思えた。
だから直ぐ様それを母に見せてあげた。
母は泣いた。そして笑った。
何故泣いているのに笑っているのか。
当時の僕にとって、それはとても不思議で理解の出来ない事だった。それはある程度大人になった今でも、大して変わらない。その時の母の感情を言葉に出来る人は、誰も居ないだろう。母自身も恐らく……。
ただ、抱き締めてくれた母の温もりが心地よかった。
良い絵だね、と褒めてくれた、その事がとても嬉しかった。
そうして、僕は絵を描く事が好きになったんだ。
父の絵を描いた。母の絵を描いた。姉の絵を描いた。
絵を見せる度に褒めてくれ、それが嬉しくて夢中で絵を描いた。
やがて色を付ける事を覚え、風景を描く事を覚え、心の内面を描く様にもなった。もはや僕は絵画の虜だった。
キャンパスの前では何もかもが自由で、そして刺激的だった。絵を描く事に没頭するあまり、気付けばそれだけで一日を過ごしていたことも少なくなかった。
だというのに……。
ここ1年と少しは、絵など一度も描いていない。落書きすらしていなかった。
別に絵が嫌いに成ったわけじゃない。絵を描くのに飽きたわけでもない。
ただ、捨てたんだ。
自暴自棄になっていたあの時、楽になりたくて僕は何もかもを投げ捨てた。 その中に絵も含まれていた。
美術部を辞め、画材を捨て、今まで描いてきた作品を捨て……。
その行為が自分をどれだけ苦しめるかも知らないで。何が自分にとって大切なのか、取捨選択すらせずに。唯我武者羅に、幼子が泣き散らしているかの様に僕は絵を辞めた。
あれから時間も少し経ち、落ち着いて当時を思い返す事が出来るようになった今ならば、あれは短慮の極みだったと、僕は心からそう思う。
僕にとって描画は一時の勢いで捨てて良い物ではなかった。その事は今尚、絵の事で苦しんでいるのが何よりの証拠だ。
絵が好きならば、また始めれば良いと他人は言うかもしれない。
手があり目があり耳があり鼻があるのだから。五体満足なのだから。何時でも再開すれば良いじゃ無いか。スポーツみたいに体力が密接に関係する物でもないのに……。
僕だって、何度もそう思った。それが正論だろうし、それが出来ればどんなに良いだろうと、僕は何度も何度も自分が再び筆を握る光景を夢想した。
でもそれが出来ないのだ。手を伸ばそうとしても、再び向き合おうと思っても、それを憚る自分がいるのだ。
それは多分、絵を愛していた時の、絵に没頭していた時の僕の亡霊。
僕が捨てた僕の残滓。
そいつは僕に囁くのだ。
捨てたのに、やっぱりと言ってまた拾うのか?お前にとっては結局その程度の物だったってことじゃ無いのか?そんなお前はまた何かの拍子に捨てるのでは無いか?そんな事が許されると思っているのか?
簡単に捨ててしまったからこそ、簡単には拾えなくなってしまっていた。後悔しようにも、苦しみを伴わず捨ててしまった僕に、そいつは後悔する権利を与えることすら認めない。
捨てたのは他でも無い僕なのに、その捨てた物を仇なす事を許さない僕がいた。愛しいが故に手を伸ばし、愛しかったが故に手を引っ込めてしまう。身の程知らずで卑小な矜恃が、身の程知らずにも見栄を張りたがって、身動きが取れなくなってしまっているのだ。
自分で自分の首を締めるとはこの事だろう。
絵の事を考えるたびに息が苦しく、頭に血が上ってしまう。
◯◯◯◯
土曜日の朝。
ここ数日早起きをしていた為か、今日も朝早くに目が覚めてしまった。遮光カーテンから薄く光が顔を出していたが、部屋の中はまだ暗い。
耳を澄ませると、遠くの方でバイクの音が聞こえた気がした。鳥の囁きも微かに聞こえる。
静かな朝だった。
スマホを確認すると5時半になるかならないかの時間を示していた。それを見た瞬間、考えるまでもなく二度寝コースは確定となり、再び目を瞑る。気づいた頃には寝ているだろうと、しばらく布団に籠もったまま動かずにいた。
が、どうにも寝付けなかった。
理由はなんとなく分かっていた。
どうしても、考えてしまうのだ。あの事を……。
布団の外はまだ肌寒かった。
それでも僕は軽く身震いをしながら自室を出た。何もせずにジッとしていると嫌な事を考えてしまうからだ。
廊下は昨夜電気を消したきり真っ暗で、我が家はまだ眠りの中にあった。とっさに階段の電気をつけようとしたが、暗さに慣れた目が、階段すぐ近くの姉の部屋の扉が開いているのを見つけた。
その瞬間、姉が低血圧で起きてきて文句を言う姿が目に浮かんだ。
僕は暗い中、足元に気をつけながら、踏み板がミシミシ言うのすら煩わしく思いながらも一階に降りた。
居間に入り、今度こそ電気をつけると、一気に光を感じた僕の瞳がギャーギャー騒ぎ始める。
某大佐の名台詞を頭の中で叫びながら、二三度瞬きをし目を慣らした。
食パンを2枚手に取り、それをオーブントースターにかけた。焼けるのを待つ間にソファーの上に放ってあったリモコンで目の前のテレビの電源をつけると、途端に我が家に音が溢れ始める。
昨夜放送された今人気絶好調俳優の
ここでは大音量でも、二階ではそんなに気にならないのは分っているが、思わず見てしまったのは、姉に対する恐怖心みたいなものが骨身に沁みているからだろう。姉を中途半端に起こしては己の永眠に近づく。
情けなさ半分、安堵半分に僕は音量を下げた。
そうこうしている内にトースターが、後もう一歩で下ネタとなる単語を叫んだ。それを聞くなり頭の中でそのしょうもない下ネタを完成させながら、食器棚から平らな皿を取り出し、その上にほんのり焼け焦げたパンを二枚乗せる。冷蔵庫から持ってきたマーガリンを薄く塗ると、それを元の場所に仕舞い、皿を片手にソファーに深く腰掛けた。
そのままテレビを見ながらパンに齧り付く。
母か姉がこの場にいれば、食卓で食べろと苦言の一つや二つ言われるのだろうが、幸い今は僕一人しかここにはいない。二人はまだスヤスヤ夢の世界にいることだろう。
パンを食べ終えると、そのままソファーに横になった。この時間のテレビはニュースばかりでつまらなかった。
次第に退屈さを感じ始め、頭の中では考えない様にしていた事、つまりは昨日の園部さんとの一件いついてを考えていた。
そして様々な後悔に悶え苦しむ事となる。
意味の分からない発言をしてしまった。なんだ「すなわち僕に見惚れてた」って。アホすぎる。
そもそもここ最近の僕の言動は目に余るものがあった。それもこれも、理由が誰にあるのかは明白だ。誰とは言わないが、彼女の世話をし始めてから、僕のクールぼっち生活に少なくない変化が生じているのは間違いない。
ぼっちと化してからの僕は、基本的に寡黙で冗談なんていう奴でもないし、対抗心を燃やして口論するような奴でもなかった。
ごく稀に思い出したかのように周りがする、僕を笑う様な内容の話でさえ、耳に入ってきても、激昂することなく静かに寝たふりで通すほどのヘタレ根性の持ち主だったというのに。
どうも彼女が相手となると、昔の血が騒ぐのか、対抗意識がメラメラと沸き起こってしまうのだ。タチの悪いことに、彼女との言い合いは思いの外楽しく、対抗しようとすること自体、烏滸がましい相手だと分っているのに、つい歯止めが効かなくなってしまう。
そして極め付けが昨日彼女に思い切り怒鳴り散らしたという例の一件だ。
あんなに勢い任せに叫ぶなんて、幼稚すぎた。しかも物にまで当たるなんて。アレが誰の席だったかは知らないけど、本当に申し訳ない。
勿論彼女にも非はあるだろう。僕が苛立っているのは外目にしても明白だっただろうし、彼女はそれを重々承知の上で僕を煽ってきたのだから。何よりも触れてほしくなかった領域に、警告を無視して突っ込んで来たのだから……。
彼女は僕に絵を教えてくれと言った。
園部さんがあそこまで執拗に要求をしてきたからには、何か裏があるのは間違いないだろう。
しかし、それは大して気にする事ではなかった。というよりも、その表の要求がヘヴィーすぎて、裏とか云々は気にならない。気にする余裕がない。
彼女の表の要求、絵を教えるには、即ち僕は絵を描かなければならなくなる。
絵を描く。
絵を描きたいと誰よりも思っているのは他でもない僕だ。でも……。絵を止めたことを一番後悔しているのも当然僕だ。でも……。絵を描きたい。でも。筆を握りたい。でも。指先を絵の具で汚したい。でも。絵の具の匂いを嗅ぎたい。でも。完成させた絵を眺めたい。でも。でも、でもでもでも……。
沸き起こってくる欲求の数だけ、否定が生まれてくる。
ソファーの上でモジモジと芋虫のように動く僕は酷く気持ち悪かったに違いない。しかしそのキモさを自覚することなく僕は、悶え苦しみ葛藤していた。
ーーだから気づかなかった。
「何やってんの?あんた」
突如として聞こえてきた女性の声に僕は行動を急停止させた。
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