第12話



「私に絵を教えて。そしたらこの録音を消してあげる」


 そう言った彼女は酷く蠱惑的な微笑みを浮かべていた。

 悪魔の如くその天使は微笑み、僕を惑わせる。深く暗い海の底に閉じ込められ、そこから見える唯一点の日の光を見つめている様に、僕はその美しさに見惚れていた。

 刹那的でいて永久的な時間の檻に僕は囚われてしまったのだ。


 言葉が出なかった。

 息が出来なかった。

 音が消えていた。


 それはまるで言葉の意味を解さない赤子の様に。呼吸の仕方を忘れてしまった様に。または脳髄が潰されてしまった様に。


 何もかもが僕の中でシャットダウンされた。


 どうしてそれ程までに彼女の笑顔に見惚れたのだろうか。今までの見てきた彼女の微笑みとは違う何かが、そこにはあり、それは明確に僕を揺さぶった。

 彼女の何かが、今までとは違ったのだろうか。

 目には見えない何か。

 例えば彼女の心が。例えば心の声が、心の仕草が、心の心が。

 そんな変化がこうも、僕を惑わしたというのだろうか。


 しかし、そんな疑問はどうでもよかった。


 彼女の言葉が僕の脳味噌に染み渡った瞬間、僕はそんな疑問の事など忘れ去る事になるのだから。

 彼女のその微笑みさえも、どこか遠くに捨て去られることになるのだから。


「どう?悪くない交渉だと思うけど」


 僕は目を瞑り、軽く首を横に振った。


「そうね、毎日は大変でしょうから月と金の週二回でどうかしら」


 大きく息を吸い、もう一度首を振る。


「ごめん。断るよ」


 肺の底の方から何とか捻りだして、漸くそう答えることが出来た。言いようの無い疲れが、どっしりと僕の肩にのし掛かかる。


 それ程までに彼女の提案は、僕にとって何よりも重い物だった。


「私部活辞めたから、放課後暇なのよ」


 呼気と吸気を何度も繰り返し、冷静さを理性を逃すまいと、その尻尾を掴む。そうして居なければ何かが壊れそうだった。


「僕らは受験生なのだから、時間に余裕が出来たのならば勉強をするべきだ。先程の録音は好きにしていい。悪いけど、僕は園部さんに絵を教えることは出来ないよ」


 何が何でも、断らなければならない。たとえ録音を使われ周りから白い目で見られる事になろうとも構わなかった。


 この天秤が動く事はない。


「私、陸上を必死にやっていたけど、模試では日本一大学A判定なの。そんな成績優秀な私は定期テストはいつも一位。でも模試では時たま校内順位で2位となることがあります。さてその時の一位は誰なんでしょう?」


 尚も食い下がってくる園部さんに、僕は苛立ちを感じずには居られなかった。

 もう諦めてくれ。放っといてくれ。


「それは毎日の勉強の賜物であって、絵を教えながらその成績をキープ出来るとは……」


 身体がメラメラと熱を持ち始めてくる。


 しかし園部さんは、そんな僕の状態を知ってか知らでか、挑発的にニヤリと笑い、その表情に僕の血は益々滾り、身体中の毛孔から血液が噴きだしそうだった。


「あら?誰が貴方の事といったかしら?」


 落ち着けと僕は何度も自らに念じ続ける。しかし既に手遅れだろう事は自分が一番よく分かっていた。


「今まで確信はなかったけれど、これではっきりしたわ。と言うのも、現3年生で定期テスト成績の上位を取る顔ぶれは毎回殆ど一緒だけど、2位3位の辺りがいつも誰なのか不明瞭だったの。それで主に成績上位者達が躍起になってその人を探していたのだけど、結局見つけるに至っていない。まぁ私は何となく貴方かなとは思っていたけど」


「少し静かにしてくれ」


 それ以上は駄目だ。


「貴方頭は凄く良いのだから、それも入試では私を抑えて代表挨拶した位なのだから、週に数時間程度、他の事をしても大丈夫じゃないかしら」


「……うるさい」


「あぁ、因みに、本当に蛇足なんだけど、言わなくても良いのだけれど、全員参加模試は今までに11回あって私が一位を取った回数は8回よ」


「黙ってくれ」


「まぁ何はともあれ、お互い優秀なのだから学力云々はこの場合断る理由にならないわ。寧ろ良い息抜きになるのでは?」


「黙れ」


「だから私に絵を教えて」


 黙れ。


「ねぇ」


 黙れ。黙れ。


「藤島君、この録音決して欲しいんじゃないの?」


 黙れ黙れ黙れ。


「黙ってないで何か言ってよ」


 黙れ黙れ黙れ黙れ。


「ねぇ、藤島君?」


 黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ


「絵を……」


 その瞬間、僕の中で必死に繋ぎとめようとしていた物が切れた。


 僕は近くにあった机を蹴飛ばした。

 椅子ごと巻き込んで倒れたそれらは、不快な音を撒き散らす。机の中から、ノートや教科書といったものが飛び出した。


 僕はもう一度、それらを蹴飛ばす。


「黙れっつってんだろぉがっ!!!」


 腹の底から出た僕の咆哮は教室内の空気を震わせ、そして瞬く間により遠くへ響き渡って行った。

 そしてその後、この世には何も存在していないのではないかと錯覚する程の静寂が訪れた。

しかしその静寂は、刃が当たればそれだけで切れてしまいそうな緊張感を持っていて……。


 そして刃は降ろされた。


 僕の手によって。


「僕が断っているのが分からないのか!?賢い園部さんの事だ。それ位わかる筈だ。何故更に追い打ちをかける様なことを言うんだ!絵は教えない。絶対にだ!!!」


 僕は思うがままを撒き散らした。そこには遠慮も体面も何もない。


 我慢できなかった。我慢の限界だった。


 僕は大抵のことは笑って許せる。

 でも、どうしても他人に触れられたくない物があった。誰にでも一つや二つ、そういった物はある筈だ。


 僕にとってのそれは、絵だった。

 園部さんは僕のタブーに触れ、そして撫で回すかの様に触り続けた。そんな彼女の行いに、とうとう堪忍袋の緒が切れてしまったのだ。


「ごめん、言い過ぎた」


 鬱憤をぶち撒けると、僕は幾らか落ち着きを取り戻していた。右足の甲に走る痛みが、喉をチクチクと刺す痛みが僕の行いを責めている様に感じられた。


 倒れた机と椅子を起こし、散らばった教科書等を拾う。幸い、変に折れたり破れたりした物は無かった。

 僕は綺麗にそれらを机の中にしまい込むと、改めて園部さんと向き合った。

 真っ直ぐ此方を見返す彼女からは、先程の僕の暴走への恐れや、戸惑いといった物は全く感じられなかった。


「本当にごめん」


 僕はもう一度、そう謝った。


「私の方も、少し煽りすぎた。でも、」


 園部さんはこう言葉を続けた。


「もう少し、私の提案を考えてみてほしい」



◯◯◯◯



 その日はそれ以上僕と彼女の間に会話は無かった。


 静かにいつもの道を帰るだけ。


 ふと上を見上げると桜の中に緑がぽつぽつと見え始めているのに気付いた。

 それらは白の様な桜色の中によく目立ち、色のバランス的にも少し悪い印象を受ける。


 僕はこの緑が見え始めてきた頃の桜が苦手だ

。見ていると急かされてる様な、焦らされている様な、なんとも言えない気持ちになる。

 心の中でどちらか一方に染まってくれと言わずにはいられなくなる。


 もどかしさを感じる。

 今日もそうだった。


 僕は足を止め、頭上にある一枚の緑を注視した。

 なぜこんなにも苛立つのだろうか。


 僕が何の前触れもなく立ち止まっても園部さんは静かに前を向いていた。


 僕はその後ろ頭を眺めながら、再び歩き始めた。

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