第7話

 時計を見ると朝の5時半だった。高校生活が始まって以来、こんな時間帯に目を覚ましたことなどあっただろうか。


「痛っ」


 布団の温もりが名残惜しかったがベッドから出る為上半身を起こすと、その瞬間腹部に痛覚が走った。


 その痛みが、僕に昨日の出来事を思い出させる。

 自室で汗だくになるまで騒ぎ、その後自転車で坂道を駆け上り、そしてーー。


 今更ながら昨日という一日は黒歴史の巣窟だと、僕は身悶える事となる。

 そして例の痛覚が再び身体を襲うのだ。


 ベッドから降り、傍の窓のカーテンを開けて外を見てみた。薄暗いが、確かにそこには見慣れた風景が広がっている。

 家や電信柱が立ち並んだその先に辺りを囲むように山がある。その山と灰色の空との境界線を白い光がなぞっていて、其処だけが朝の光を独り占めしている様だった。

 これがあけぼのと言う奴か。

 春はあけぼのとか言うけれど、あけぼのが見られる時間に目覚めてねーよ、とディスっていたのに、遂に春のあけぼのに出会ってしまった瞬間だった。

 そして実際に目にしたからこそ分かるのだが、春も夏も秋も冬も布団の中が一番だ。


 以前はこの景色をよく絵に描いた。

 一番身近に見える風景という事もあり、馬鹿じゃないかと思う程にこれを模写していたのだ。それこそ何十何百枚と描いたのではないだろうか。

 なんの変哲もない、日本津々浦々何処ででも見られそうなそんな景色だったが、不思議とコレが好きだった。


 しかしそれはもう昔の話で……。


 欠伸なんて出そうにもなかったけど無理にしたもんで、随分不自然な欠伸が漏れた。

 そしてそろそろ一階に降りようかと伸びを一つ、思い切り。


 そして死んだ。

 筋肉痛、キツイっすね。



◯◯◯◯



 食事を済ませると、髭を剃って顔を洗い歯を磨く。それらを済ませて制服に着替えた時には、まだ朝だと言うのに筋肉痛のおかげで疲労困憊だった。


 ようやく準備が済んだと、居間のソファに倒れこむ。

 テレビをつけると朝のニュースが流れてきた。何処何処で殺人事件が起きたやら、児童虐待の話、誰々が離婚したやら、紛争が起きてるやらと四角い顔したお兄さんが読み上げている。

 しかし失礼な話なのかもしれないが、そんな世の中の問題は僕には関係無くて、今日の僕の問題は筋肉痛で身体が痛いと言うことだ。

 他に挙げるとすれば、それは僕が春のあけぼのに出会った理由にも関係してくるのだけども……。


ーーそろそろかな?


 テレビの左上に表示された時間をみてそうぼやく。


 正直憂鬱な気分だった。

 身体痛いし、学校面倒臭いし、極め付けは例のソレだ。

 昨日の朝までは、今日がこんな日になるとは夢にも思っていなかった。いや、夢には思っていたのかもしれない。具体性はなくとも、今日という連なりの毎日に何か特別性を期待していたのは否定できないのだから。

 それがこんな形で訪れるとは……。


 ピンポーンと甲高い音が家の中に響いた。


 とうとう来てしまったか。

 再び時間を見ると、予定時間ピッタシだった。


 あまり待たせる訳にも行かない。身体を起こして玄関に向かおうとするが、筋肉痛と言う呪詛で全身を縛られたこの体では思う様に動くことができなかった。


 ソファに横になったのが失敗だったか?

 一度寝てしまえば僕はもう容易には起き上がれない身体となっていたのだ。ボクシング漫画とかでよくある「座ったらもう立ち上がれねぇ」とかいうカッコイイ状況っすわ。


 仕方がなく、どーぞー、と声を張る。

 リビングの戸は開いているので玄関の外にも聞こえる筈だ。


 しかし、腹筋に力を入れた為、全身の筋肉が叫び声を上げた。

 あまりの痛さに悶絶していると扉が開く音が聞こえて来て、次に陽平君と、僕を呼ぶ声がした。

 僕は再び全筋肉に鞭を打って「ここです」とその呼びかけに答え、そして、やはり痛みに悶えるのだった。



◯◯◯◯



 車内で感じる僅かな揺れさえ、今の僕に掛かれば殺傷性をもった攻撃となる。せめて痛みに合わせて呻き声を上げたいのだが、残念ながら、それが出来ない状況にあった。僕の隣の席には園部さんが、運転席にはその母である智美さんがいるからだ。

 流石に家族以外のそれも女性が近くに居るのに、イヤラシイ声と勘違いされるやもしれぬ声を上げる訳にはいかなかった。


 僕が痛みと戦っていると、智美さんは昨日病室でも聞いたのだが、確認とばかりにお世話係についての説明をし始める。


「朝は今日ぐらいに迎えに来るから、駅に着いたら茉莉子のフォローお願いしますね。本当は学校まで連れて行ってやりたいんだけど、私も主人も仕事で朝が早くて。これでも時間ギリギリぐらいなの。本当にごめんなさいね。」


 やるべきことは主に登下校のサポート。

 園部さんの今の脚の状況では一人で登下校するのが困難なのは言うまでもないだろう。

 しかし両親は仕事をしている為、どうしても送り迎えをしてあげることが出来ない。

 そういう事で、毎朝車で駅まで送るから、そこからは僕が園部さんを学校まで連れて行ってくれ、そうなったのだ。

 その結果別に大したことでは無いのだが、朝が早くなった。そう、あけぼのに出会ってしまう位には。

 この時間だと、いつも乗っていたのより2本早い電車に乗る事になる。田舎の2本前は結構前だ。時間にして大体1時間は早くなる。ただでさえ元々電車の都合で定刻より大分余裕を持った登校をしていたので、こんなに早いとなると学校に着いても他には誰も居ないだろうから、暫く暇になるだろう。

 まぁ、人が来ても暇なのには変わりないのだけれど。


 ともあれお礼として月一万くれるらしく軽いバイト感覚である。どうせ学校には行くのだし、朝起きて車椅子押すだけで月一万は中々に美味しい。


「帰りは昨日も行った様に私の勤め先の駅前のパン屋に連れて来て貰えると助かるわ。そのままソコで待ってたら6時半頃にはこの車で家まで送るし、先に帰るならバス代は払うから」


 昨日知った事だが、智美さんは駅前のパン屋でパンを焼いているらしい。僕もよくそこのパンを買うのだが、レジはバイトの子に任せているらしく、店内で会った事は無かった。


 そこのパンは本当に美味しく、優しい味がするのだ。その事を昨日パン職人に伝えると、本気で照れ始め、少し疲れた。



◯◯◯◯



 家を出てから15分程で車が駅のロータリーに入った。


 車の外は少し肌寒さを感じられ、吐く息も白い。

 二の腕を摩りながら周辺を見渡すと、いつもより1時間程朝早いと言うだけなのに、駅がいつもより大分質素に感じられた。空気も薄く白く澄んでいる様な気がする。


 智美さんは運転席から降りると、荷台から車椅子を出した。

そして折りたたんであったそれを開くと、園部さんが座っている側のドアを開け、そこに車椅子を止める。

 僕は筋肉をほぐすべく、ふくらはぎを伸ばしながら、それら一連の動きを眺めていた。


「陽平君、頼めるかしら?」


 智美さんが僕の方を向いてそう言った。一瞬クエスチョンマークが頭の中を飛んだが、すぐに何を頼まれたのか分かり、そして少し自分を恥じた。


 頼まれる前に自分で気付くべきだった。園部さんを座席から車椅子に移すのは結構な力仕事と言えるだろう。曲がりなりにも僕は男で、ならば力仕事は僕の役目である。


 気づかなくてすみませんと頭を下げ、園部さんの傍に駆け寄った。

 すると園部さんは腕を使い、自分で身体の向きを変え、脚がこちら側を向く態勢をとる。

 その結果腿の下に敷かれて居るスカートが少し捻れていた。スカートが長めで、尚且つ両足には包帯が巻かれていたため、大して露出部分は多く無いのだが、ただスカートが捻じれたというその事実が一つあるだけで、なんとなくエロチックに思えてしまうのは思春期男子の永遠の定めであろう。僕がエロいのではない。思春期男子がエロいのだ。


 そしてその事が僕にある懸念を与えた。


「あー、これから園部さんを持ち上げてこの車椅子に移すのですが。貴女もゲームとかでご存知の事と思いますが、この世にはテンプレと言いますか、起こりやすい現象と言うのがありまして。現実世界では決して起こりやすいとは言い難いのですが、しかし注意するに越した事はないので、先に述べておこうかと思います」


 園部さんはいきなり何を言い出すのかと怪訝そうな顔でこちらを見る。


「それと言いますのも、これから持ち上げるに当たって、触ったら駄目な所に手が触れてしまったりとか、重さで顔が歪んだりするかもしれない、という事でして」


 呆然とした様子で口をポカンと開けている園部さんを放って、僕は更に説明を続ける。


「ですが絶対それはわざとで無いし、貴女が重いと言うわけでも無いと思うのです。人の体重はどんなに軽くても40キロはあるものです。それは人としては軽くても、荷物としては重いものです。だから何が起きても暴れないで頂きたい。二次災害まで起きるのが二次世界ではお決まりなんで」


 まぁ、いきなりこんな事言われてもどう反応を示して良いか分からないのだろう。今の彼女の頭の中はクエスチョンマークが踊っているに違いない。

 しかし話した内容は理解している筈だ。


「では、失礼します。もたれ掛かってきて下さい」


 僕は両手を軽く開いて、受け入れ態勢を整える。

 一瞬園部さんが戸惑いを見せたが、程なくして僕に覆い被さる様に身体を預けてきた。肩辺りに回された両の手が、遠慮がちに僕の服を掴むのが感じられ、そこがヤケに擽ったかった。

 そして、それこそお約束通り、良い匂いが僕の感覚器官を刺激してきた。


 僕は園部さんの膝裏に右手を入れ、左手は背中に回し、抱える態勢に入る。

どうやって担いだら良いのか分からなかったので、取り敢えずお姫様抱で挑戦してみようという算段だ。


 いさ、持ち上げん。


 が、その意気込みはただの意気込みであった。

 間僕の全身を痛覚が襲ったのだ。何故少しの間でもこいつの存在を忘れていたんだろう。良い加減やめてほしいが痛いのはしょうがない。


 そう、奴の名は筋肉痛。


 結局園部さんを持ち上げることが出来ず、一旦身体を離し愛想笑いを浮かべる。

 

 園部さんは横を向いてぼそりと……。


「……しょぼ」


 智美さんは後方で腹を抱えて笑っていた。


 ぐうの音も出なかった。

 

 その後、僕は痛みに耐えながらリベンジを果たした。



◯◯◯◯



 普段より一本早い電車はやはり学生が少なく、今いる車両内には制服を着ているのは僕達だけだった。

 僕は車椅子スペースに園部さんが乗った車椅子を停めると、その斜め後ろで吊革を持って立ち、その持ち手を軸にいろんな方向に身体を反らせストレッチをしていた。大分ストレッチが気持ち良いと感じられるようになってきたので、筋肉痛も山を越えたと言えよう。


 園部さんは片手で手摺を握りながら英単語帳を開いて勉強をしている。ページを捲るテンポは一定で、単語を覚えていると言うよりも、確認していると言う感じだった。


 そう言えば今日からは三年生で、所謂受験生なのか。


 身体も満遍なく伸ばしたと感じたので僕も何か勉強しようと鞄の中を探る。

 が、何もなかった。

 今日は午前中に始業式と大掃除、LHRが済むと午後からは入学式で、二三年生は帰宅することになっている。つまり授業は無く、その為何も持って来ていなかったのだ。鞄の中は見事にゴミしか入っていなかった。


 スマホでも弄ろうかと思ったが、どうやらそれすら忘れてきているらしい。今日は筋肉痛やらお世話の事やらで頭がいっぱいだったからだろうか、普段ではあり得ない事である。


 しょうがないので、外の景色をボーッと眺める。でもそれは、突然怪物とウルトラマンが戦うなんてドラマチックな出来事が起こるわけでもなく、退屈な物だった。


 だから視点が定まらずキョロキョロとあちこちに目をやってしまうのもしょうがないことなのだと思う。


 新聞を広げているおじさん、女性がドヤ顔で写っている吊り広告、車椅子スペースにつけられている金属製の手摺に歪んで映っている僕の顔。

 こんな風に点々と移動し続ける僕の視点だが、よく止まる場所があった。


 園部さんの持つ英単語帳である。


 まぁ、よくあるよね。不躾と分かっていながらも人が読んでるのを覗き見してしまうことって。


 特に暇な時はさ。


 ちら見の回数は次第に増えていった。

 いっそガン見したろかと思い、じっと見つめるが、段々と背徳感みたいな物が感じられてきて、耐えきれず目を逸らしてしまう。

 しかし気付けばまたそこを見ているのだ。


 それを何回繰り返しただろうか。

 やがて電車はトンネルに入り、車内は一気に暗闇に包まれた。外の景色は消え、代わりに窓には車内の様子がぼんやりと映し出される。

 その中には園部さんも当然いた。

 相変わらず単語帳に目をやり俯いた状態で、顔をはっきりと見ることが出来ない。前髪がまるでベールの様に彼女の素顔を覆い隠していた。


 不意に、そこに隠れている物を覗き込みたい、と。

 そんな衝動に駆られた。

 隠れていたり覆われている物を意識した途端、それを見てみたいと思う事は人間の本能だろう。


 どんな表情をしているだろうか。澄ました目をしているのだろうか。案外眉間にシワが寄っているかもしれない。


 そんな風に映る彼女の写し絵を見つめていると、やがて電車はトンネルの出口を迎えようとしていた。瞬く間に陽の光で車内が明るくなっていく。


 その瞬間だった。


 窓に映る彼女の唇が微笑みにその形を変えた気がした。

 しかし次の瞬間には電車はトンネルを抜け切り、窓にの中の世界は霞み消え、はっきりとその弧を捉える事は叶わなかった。


「The moment when she saw him, she felt fear.」


 突然、流暢な英語が耳に入って来た。声の発信源であろう園部さんを見ると、彼女は依然として単語帳に目を落としたままで。

 しかしそれは明らかに彼女から発せられた物だった。


「Please translate it into Japanese.」


 続けてそんなEnglishが聞こえてくる。

 そこまで聞いてようやく彼女の意図することが分かった。彼女の言う英語を和訳しろと言っているのだ。

 どうやら暇を弄んでいたのを察せられたらしい。

 これは彼女なりの親切なのか、そう思うと照れ臭かった。


「The moment when she saw him, she felt fear.」


 僕は頭を掻いてから、英文を訳す。


「彼女は彼を見た瞬間、恐怖を感じた」


「Because he stared at her with indecent eyes」


「なぜなら彼が嫌らしい目で彼女を見ていたから……。」


「She seems to break into tears.」


「彼女は泣き出しそうです。………ごめんなさい」


 そんな感じで電車の中での時間は過ぎていき、駅に着いて僕が車椅子を押しながら学校に向かう間もこれは続いた。

 ほんの少しでも間違えると、園部さんが嬉しそうな指摘してくるので結構必死になってしまった。



◯◯◯◯



 学校に付くと下駄箱で新しいクラス分けを確認する。

 僕の名前は3年5組の所にあった。


 自分の名前を見つけた後も、どんな人がいるのかと、そのクラス分けの紙をざっと眺めるが、よく意味の分からない3字熟語、四字熟語やら五字熟語があるだけで、なにも有益な事はなかった。

 しかしその中に園部茉莉子と言う五字熟語を見つける。


 なんだ、同じクラスか。

 小六の時以来かな?


 その事を彼女に伝えるともう知ってるとの返事が返ってきた。恐らく昨日の内に貼られていたクラス分け表を学校に来ていた人が写真に撮り、SNSか何かで拡散させたのだろう。当然ボッチたる僕は知らなかったけどね。


 下駄箱の中は案の定スッカラカンで、まだ誰も来てないようだ。


 園部さんは前かがみになり靴を脱ぐと、手提げ袋からスリッパを取り出す。車椅子に乗ったままだと、靴を脱ぐ事すらしんどそうに見えた。なんなら靴を脱がして上げてもいい。他意はない。

 園部さんはスリッパに履き替えると脱いだ靴を僕に渡してきた。そして下駄箱のある一角を指さす。

 どうやら、そこに入れてくれ、という事らしい。

 自分でやれよと一瞬思ったが、園部さんが指差すのは一番上の箱で、座ったまま靴を仕舞うのは大変そうだ。


 僕はそれを受け取ると、指示された所に仕舞った。


 先まで女子が履いてた靴だ、とか興奮はしていない。少し鼻の穴が広がっただけだ。他意はない。



 車椅子のタイヤにカバーを付け、新しい教室へ向かう。廊下に響く車椅子のミチミチと言った感じの音が何処か心地よかった。


 教室の前に着くと、扉に手を伸ばし開けた。

 普段ならこの時間だとまだ閉まっているから鍵を職員室まで取りに行かないといけないんだけど、今日は初日だからだろうか、既に開いていた。


 車椅子を押して室内に入ろうとする。

 が、不意にちょっとした初物信仰が湧いてきた。このままでは今年の3年5組の教室に一番最初に入る生徒が園部さんになってしまう。


 僕はその場でターンし、バックしながら教室に入った。その動作は不自然そのもので、勘のいい園部さんにはその意図が伝わったかもしれない。


 そしてそれに気づいた彼女の顔には呆れ半分、そして少し悔しさもあるのでは、と思う。

 今は後頭部しか見えないから、真相は分からないけど、それは気分の良い想像だった。ガキのする事と思いながらも、彼女に顔を見られてないのをいい事にニンマリと笑顔を作る。


 こうして僕はご機嫌に新学年を迎えた。

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