第4話

 人口約3万人程の周りを海と山に囲まれた町、周山海すさんみ町。

 それが僕の住む町の名前だった。

 自然豊かぐらいしか褒める言葉がなく、また、そういった地域に近年ありがちな過疎化が急激に進行していた。

 そして、そんな周山海町の中心地から少し外れた山の麓に周山海総合病院はある。看護師である母の勤務先であり、園部さんの入院している場所だ。

 町の人間がちょっとした病気や怪我をした時、大体この周山海総合病院のお世話になるだろう。

 そして、前述の通り山の麓にある為、そこへの道中には坂道が多い。そしてそれが大層急勾配で、自家用車かバスでアクセスする人が殆どである。


 そんな中、僕は自転車でそこを目指していた。それがどれだけ大変な事かは地元の人なら直ぐに分かる事だろう。

 漕げど漕げど平地の時と比べて一向に前に進まない自転車。嫌味ったらしく吹いてくる春の強烈な向かい風。

 ただでさえ体育の授業以外は運動という行為から離れた暮らしを送り、それすら真面にしてないのに。更に言えば、春休み中ずっと家に引きこもっていたのに。そんな僕が準備運動もなしにして良い運動ではなかった。

 明日は絶賛筋肉痛間違い無し。

 と、まぁそんな僕がハードな運動をすると、息は荒々しく、髪はボサボサ、全身から染み出る汗のおかげで服と背中がベッチャリな訳で……。普通に街中歩いていたら職質されそうな程、不快感、嫌悪感満載な状態である。

 でも不思議と僕自身は、それを不快とは思わなかった。興奮して神経が鈍感になって居るのか、とりあえず前にしか意識は向いていなかった。


 途中足に水が掛かったが、それも気にならなかった。

 恐らく水溜りでも轢いたのだろう。



◯◯◯◯


 

 園部さんの病室の前に着いた時、僕は既に疲れ果てていた。受付の看護師さんが大丈夫かと聞いてくるくらいであった。

 

 何度か深呼吸をし呼吸を整えてから、その扉をノックする。

 コンコンと、軽快な音を期待したが、どうやら疲労は腕にも来ているらしい。どこか野暮ったさを感じさせる音が鳴った。


 程なくして室内から女性の声が聞こえ目の前のスライドドアが少し開かれ、その声の持ち主であろう人が扉から少し顔を出してきた。


 恐らく園部さんの母親。

 娘に似て綺麗な顔立ちだったけど、普段よりは確実に窶れている事がすぐに分かってしまった。きっと愛娘が怪我を負って心労が絶えないのだろう。

 僕が軽く会釈をすると、その女性は一瞬目を見開き首を傾げたが、すぐにその表情に笑みを浮かべてくれた。そして「よく来たね」と歓迎し、中に通してくれた。

 何故首を傾げたのか少し疑問だったが、まぁ同年代の男が一人で娘を見舞いに来たら、少し驚いたり、不思議に思ったりするものだろう。

 深く気にせず、僕はそのまま入室した。


 室内には、レースのカーテンから暖かな光が差し込み、桜色の春を十分に感じられる、透明で心地よい空気が漂っていた。白い壁に白いカーテン、そして白いベッド。視界はとても明るかった。


 そして、そんな中に園部茉莉子は居た。

 

 ベッドの上で半身を起こし、こちらを見ていた。

 久し振りに見る彼女は、大きく目が見開かれ、ベッドの上で固まってしまい身動きが取れないといった様子だ。僕の突然の来訪に驚いたのだろう。

 確かに何のアポイントも無く僕が見舞いに来たとなれば、驚きを隠せないのは仕方ない。それ程までに、僕らは長い縁はあれど、頑なまでに交流を持たずに来たのだから。


 目を覚ましてから時間がそんなに経っていないのか、いつも綺麗に流している長い黒髪は少し乱れていて、寝起きといった様相である。服装は可愛いらしい熊が正面に装飾されたピンク色のパジャマでどこか幼げな印象を受けた。

 先程まで何をしていたのか検討は付かないが、僕が姿を見せた事でその動作途中で身体を停止したのだろう。中途半端な高さで上げられた両手がプルプル震えているのは、見ていて面白かった。


 普段のイメージとは違うが、確かに園部茉莉子がそこにいた。


「出て行って」


 僕が挨拶をしようと口を開いた時、園部さんがか細い声でそう言った。

 勿論言葉の意味は分かった。でも、言葉の意図が分からなかった。だから頭の中にはクエスチョンマークが踊っていた。


「ちょっと外で待っていて」


 そう言って掛け布団を胸の高さまで手繰り寄せた彼女の耳は赤く染まっていた。

 依然として僕はよく状況が飲み込めないでいたが、彼女の様子が普通ではないという事は分かった。

 だから、取り敢えず言われるがままに回れ右をし、つい先ほど通ったばかりのドアを再び開け、室外に。


 僕の目の前で園部さんの母親が申し訳なさそうにその扉を閉じた。


 そこに至っても僕は何故退室させられたのか理解が出来ない。

 しかし、扉の向こうから聞こえて来る会話がその答えを教えてくれた。

 

 室内からは、鏡だったり、櫛だったり、服といった単語が聞こえて来る。

 どうやら身なりを整えているらしい。


 それも当然の事か。


 自分より遥かに劣っていて、彼女からしたら虫ケラ同然な存在かもしれない人間とは言え、仮にも同級生のそれも異性に、起床した時のままの姿を見られるのは気分が良くなかったのだろう。

 待たされても仕方がない。

 甘んじてこの退屈な待ち時間を受け入れようではないか。


 待っている間、スマホでも弄ろうかとズボンのポケットに手を突っ込む。

 が、お目当ての物は無かった。反対のポケットも確認するが結果は同じで、次は太もも周辺からお尻を撫で回す。その手は膝まで達したが、当然そんな物があるという感触はしなかった。


 ポリポリと頭をかく。


 頭が特別痒いというわけではないのだが、暫くその状態が続き……。


 次の瞬間、僕の右手は髪を鷲掴みにしていた。

 

 覚悟を持ってした行動の先に後悔がないわけじゃない。

 寧ろ覚悟がいる行動とはその覚悟が必要になった要因と常に隣り合わせになると言うわけで、途中で尻込みしてしまうことは少なくない。


 だから今の僕のこの状況は実に人間的で、僕が特別ヘタレと言うわけではないと先ず言っておきたい。


 しまった!やばいやばい!!来てしまった!!!何してんの僕!!!!


 ここまで来てしまった自分を恨む気持ちが膨らんで行く。

 身体がムズムズしても、気になって仕方なくても、やはり止めておくべきだった。お見舞いとかそんなキャラじゃないし、そんな関係でもないじゃん。

 絶対変に思われる。気があるんじゃ無いかと思われたらどうしよう。うわ、キモい。僕マジでキモい。

 正直今すぐ帰りたい。足の部分は布団が掛けられて見えなかったけど、思いの外元気そうだったし、もう用は済ませたと言っても過言ではない。

 でもここで帰るとか常識的におかしいし。

 どうしようどうしよう。


 髪の毛をクシャクシャと掻き乱し、イライラを頭皮にぶつける。

 もし禿げたら園部さんのせいだな。

 毎朝起きたら枕元に細い毛がいっぱい抜け落ちてて、でも髪量はそんなに変化はなくてどうしたのかしらって毎朝地味に悩む呪いを掛けてやる。

 今は大丈夫だけど将来どうなるかわからない、そんな不安を一生抱えて生きるがいい!

 ふははははははは。

 

 まじで逃げたい。


 そうこうしている間に、無情にも再び部屋の扉が開かれた。

 そして園部さんの母上は自分は邪魔になるだろうからと何処かに行ってしまう。呼び止めたかったが、その後ろ姿はあっという間に扉によって遮られてしまった。


 個室に二人きり。

 そんな状況が緊張や気まずさを生む。ちらりと園部さんの方へ視線をやるが、どうにもばつが悪く、直ぐ逸らししまう。


 どうせ気まず過ぎて直視は出来ないんだからと、僕は部屋を見渡した。


 窓が半分明けられカーテンが風に靡き、それに伴い光と影が床の上で踊っている。窓からは山が見渡せ、そこには緑を背景にピンク色で一筆引いたかの様に桜の花道が見えた。

 窓とベットの間にテレビが置いてあり、その反対側には臍の高さくらいの棚が置かれていた。その上には赤色と黄色、そして桃色の花が入った花瓶があり、その横には色紙が立て掛けてある。きっと花よりもカラフルに見舞いの言葉が書かれている事だろう。

 そして寄せ書きの隣にはノートパソコンが閉じられた状態で置かれていた。暇つぶしに動画でも見るのか、はたまた、音楽でも聞くのだろうか。中々高そうなヘッドホンが繋がっていた。


 僕はそこまで部屋を見渡してから漸く、再び園部さんに焦点を合わせる。


 そして息を呑む事を強要される事となった。


 そこには、それ程までの圧倒的な美しさがあった。


 真っ直ぐ流れる何色の干渉も無に化す様な黒髪と、汚れなど露も知らない様な白肌は見事に対照的だった。どちらを見ようとも観る側に躊躇いを与える程に美麗である。

 手櫛で髪を梳っている姿は、何処か挑発的で、まだ17、8という若さにも関わらず妖艶とも言える艶やかさがそこには有った。

 その艶やかさを増長しているのは恐らく憂いを帯びた目元であろう。赤く泣き腫らした様な痕があった。突然我が身に欠陥が生まれた衝撃は並大抵のものではなかったことだろう。いくら園部さんと言えど、枕を濡らす毎夜を送っている、という事か。しかし、その陰りが彼女の美しさに拍車を掛けているのだから何とも言い難かった。

 彼女を見る者は、きっと罪悪感を抱かずにはいられない。その美しさを前に、誰もが自分の汚れを意識せずにはいられない。そして、そんな自分が彼女を見る事の烏滸がましさを痛感せざるを得ないのだ。


 それ程までに、彼女は神秘的に美しかった。


 僕がその目元を見ていたからか、遂に園部さんと目が合った


 園部さんは朗らかに微笑みを称え、その可憐な唇を紐解く。


「お待たせしました」


 完全無欠の園部茉莉子はこうして僕の目の前に君臨したのだ。

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