第3話

 目を開けた瞬間から、身体の中で何かが燻っているのを感じていた。

 それは只管に不快で、しかしその嫌悪感をも、そいつはエネルギーとして取り込み、その感覚は大きくなっていくばかりだった。

 気付けば四肢の指先は忙しなく暴れ、全身の筋肉はモズモズと無秩序に伸縮を繰り返している。


 それに抗おうと、どれだけ無動を心がけようとも、拍動は激しさを増していき身体は動を求め、どれだけ心を落ち着けようとも、胸中は色々なもので混沌とし何かを叫んでいた。

 僕はその訴えから耳を塞ぎ、目を瞑る。

 しかし、五感を閉ざそうとも、自分自身の心根から沸き起こってくるそれから逃れる術はなかった。

 耐え兼ねて、頭の下に敷いていた枕を思い切り天井に向かって投げつけた。やがてボスリと床に着地したそれからは当然文句や罵声が返って来る事もない。微動だにせず静かに横たわっていた。


 それが心底ムカついた。


 その穏やかな状態は、まるで今の僕が求めている物の様で。

 枕は煽り顏でその様子を僕に見せつけている、そんな気さえした。

 それだけじゃない。

 本棚も、カレンダーも机も椅子も、僕が視認できる何もかもが静かで、まるで眠っている様だった。それらから目を逸らすと天井が目に付いた。しかし、それすらも寡黙に僕を見つめ返してくるばかりで……。


 この中で僕だけが違う。

 僕だけが何かに翻弄されている。

 その事にやり場の無い苛立ちを覚えた。


 やがて焦燥は頂点を迎え、唸り声と共に思い切り身体を起こす。


 それは突発的な動作であったが、その刹那、これだと思った。腹筋に力が入った瞬間、髪が無造作に揺れた瞬間、耳が空を切る音をとらえた瞬間。

 その一瞬だけ僕は無心になれた気がした。

 僕は静を求めていたようで、その実、動を求めていたのかもしれない。

 

 それならばと、僕は勢いよく立ち上がった。


 ベッドの上をトランポリンよろしく飛びまくる。

 高く、もっと高く。

 相も変わらず高みの見物を続ける天井に一矢報いるべく、僕は頭突きをした。額にジワリと痛みが来たが、清々しい気分になれた。


 次は腿上げを。

 ベッドのクッションが足の勢いを吸収し、身体が重く感じられた。アニメーションのような軽やかな動きは出来なかったが、不快ではなかった。

 超高速ラジオ体操、正拳突き乱打、回し蹴り、コサックダンス、蛸ダンス。

 どれも軽やかな動きではなかった。疲れはすぐ溜まり、ますますその動作は鈍くなるばかりだ。

 でも構わなかった。


 僕はただ、兎に角身体を動かしていたかったのだ。


 再びベッドをトランポリン代わりに、トリプルアクセルとばかりに、身体を捻らせた。

 当然三回転半も出来るわけない。精々一回転と少しの所で足はベッドに接した。しかし、気持ちはトリプルアクセルだった為、勢い余り足を縺れさせ、僕の身体はとうとうベッドから放り出される。

 背中と肘に激痛が走った。

 しかしその痛みすら何処か心地よかった。


 そのまま床の上に寝そべりながら痛みが引いていくのを待っていると、電灯から垂れた紐が揺れているのに気付いた。首の角度を変えるとベッドのシーツがメチャクチャになっていて、僕の暴れた爪痕が部屋に確かに残っている。

 それはとても見ていて気持ちのよい光景だった。


 ふと、今の僕の状況が脳裏に過ぎった。

 まるで俯瞰するように僕は僕の姿を思い浮かべたのだ。


 ベッドの上で暴れまくった結果汗だくとなり、息切れしながら、自室の床に寝そべっている高校二年生の男子。


 それが今の僕の状況だった。


 失笑した。

 爆笑ものだった。

 気付けば腹を抱えて笑っていた。


 何て僕は馬鹿らしいんだろう。幼稚なんだろう。高校生にもなって家の中で大騒ぎをして、疲れて床の上に横になっているなんて。

 馬鹿すぎる。アホすぎる。

 バカと天才は紙一重なんて言うけれど、僕の場合どんだけ分厚い紙がそこにあるんだろうか。きっとブブブ厚い紙だな。ブブブって屁みたいだな。

 つまりブブブ厚い紙ってのは屁厚い紙か?

 鼻が曲がりそうな紙だな。


 ここで一句。

「鼻曲り 曲がった先でも 鼻曲がる」

 鼻の長さなんてタカが知れてるんだから、曲がった所でその曲がり先も異臭の攻撃範囲内に決まっている。鼻曲げる前に息止めろ。んで異臭放った奴は責任持って周辺の空気全部吸い込め。


 そもそも屁と言えば、あのベリベリっていう音の奴何なの?

 あの破壊力やばいんだけど。絶対尻裂けてるよ、あれ。

 ん?でも尻は元々裂けてるのか?なら避けるのは穴か?でも穴は裂けても結局穴だよな?


 てか「穴」て漢字、カタカナで縦読みしたら「ウハ」って読めるから、アナみてウハって喜んでるみたいで変態臭が拭えない漢字なんだよな。

 変態臭いから鼻つまも。「穴」は必死に空気吸えよー。


 鼻つまむと言えば、鼻をつまんで引っ張れば鼻高くなるとか何とかって話あるから、鼻つまみ者って美容効果あるんじゃね?その論でいうと周りの人が屁こいたら鼻高くするチャンスだな。

 

 屁を頻繁にこく夫の妻は鼻が高い。

 何この妻。「ワタクシの夫は頻繁に屁をこいて立派ざますわ、おほほほ」とか胸張って言ってる変態妻にしか見えない。


 こんな感じに僕の頭の中では尻滅裂な思考が繰り広げられ、どうでもいい事が浮かんではそれが笑いとなった。普段は屁でもないような事が、今の僕には全てが爆笑ものだった。


 止まらぬ笑いに次第に腹は痛みだし、顔は火が吹き出そうに熱く、酸素が足りずとても苦しかった。


 それでも尚、僕は呪われたかの様に笑い声を上げ続ける。

 まるでこのまま笑い死ぬのではないかと、そんな予感さえ覚えた。

 死ぬまで踊り続ける呪いの靴の話があったが、その呪いを受けた女性は両足首を切断され助かったという。僕がこの呪いを解くにはどうすれば良いのだろう。

まぁ、ケツでも裂ければ痛みで笑なんか吹っ飛ぶんだろうけど。


 よし、屁をここう。

 ケツが裂ける様なドでかい奴を。

 ベリベリ言わせようぜ。


 そして下っ腹に力を込め始める自分が可笑しくて、また笑いは深くなった。



◯◯◯○



 それからどれだけの時間笑い続けていただろうか。


 終わりの無いものなどある筈もなく漸く狂い笑いも終わりの姿を見せ始めた。

 それを齎したのは、純粋に体力の限界だった。もう声も出そうにない程僕は疲弊していた。


 笑いが治ってくると次第に身体は落ち着きを取り戻し、頭は冷え、僕は漸く冷静さを取り戻していく。


ーー理性を取り戻す。


 それを意識した瞬間、僕の頭の中で警告が鳴り響いた。エマージェンシーエマージェンシーと、赤い光が頭の中でクルクルと回る。

 そして僕は必死に先程の様に頭の中で下らない事を考えた。しかし、それらは本当に下らなく感じられ、先程のように笑う事が出来ない。

 当然だ。普段の僕は、そこまで狂ってはいない。そこまでアホではない。


 警告に従い必死にアホになろうとするが、それは体力的に難しかった。先程まで如何してああもアホに成れていたのか不思議なほどに、僕は至って普通の精神状態だった。


 理性を取り戻した僕は、頭の中で冷静に物事を考えようとする。

 そしてその思考の足は僕の恐れている領域に踏み込もうとしていた。


ーーダメだ。それはマズい。


 必死に注意を他に向け抵抗を試みるが、そんな僕を嘲笑うかの如く、嫌みたらしく、僕の思考は無遠慮に歩を進めていく。


 その先にあるのは……。


 僕は狂っていなければいけなかった。必死に身体を動かし、下らない事に夢中になって真面な思考を出来なくしていなければならなかった。


 奇行を止めてはいけなかった。

 笑いを止めてはいけなかった。

 

 狂いを終わらせてはいけなかった。


 しかし、もう終わってしまった。

 終わったならば始まるのは必至な訳で……。


 もう僕は真面な考えを取り戻している。

 真面な考えで、ある感情を導き始めていた。


「やぁ、こんにちは」

 そいつはご丁寧にも挨拶を交わしてくる。


 僕はそれでもそいつから目を離す。

 見たくなかった。聞きたくなかった。

 そいつの全てが気に食わない。


 考えるな。考えるな。


 しかし僕は考えるのを止めてくれない。

 意識しまいと思えば思うほど、それはより意識している事と同義だった。

 

 あとは認めるかどうかだ。


 でも如何しても僕はその感情を認めたくなかった。こんな気持ちを自分が持つなんて絶対に有り得ない。

 しかし、もう結論は出ていた。

 認めようが認めまいが、結果が全てだ。


 それでも、僕は抗い続けなければならなかったのだ。簡単に認めてはいけなかったのだ。

 でも、抗っていた時点でもう手遅れだったのだろう。その時には既にもう胸の中にはこの感情は存在していたのだから。

 

 そこまで抗い、否定して、認めざるを得ない状態になって漸く僕は諦めの心境で、その感情に触れてみた。


ーー僕は園部茉莉子を心配している。


 実際に受け入れ、頭の中で転がしてみても、やっぱりそんな風に思うのは不思議だった。


 僕は園部さんに対しての嫉妬していた。

 それは恨みに近い嫉妬だった。


 何故僕は落ちぶれているのに、彼女は未だ輝いているんだ、と。


 全ては自業自得なのは分かっている。

 僕が落ちぶれる切っ掛けを齎したのは例の女子高生であり、友人と思っていた周りの人達だ。

 しかし、結局の原因は自分にある。僕がもっと人の機微に敏感だったら。或いは鈍感だったら。根性があったら。自らを律する心があれば。今からでも変わろうとする気概があれば……。


 だから園部さんに嫉妬するのは御門違いという事も理解できている。憎むなんて甚だしいとも思う。でも、頭で理解できるのと納得するのは別だ。思考と感情がすれ違う事は珍しくもない。


 だから僕は園部茉莉子という人に嫉妬していた。

 学校ですれ違うと胸が痛かったし、いっその事彼女も落ちぶれろと、そう思った事は数え切れない。

 元が対等だっただけに、惨めさ情けなさ呆れ等といったものは一入で、それらは嫉妬となって僕の身を焦がした。

 彼女が目立てば、賞賛されれば、輝けば輝く程、僕は一層陰りを増し、優秀だった頃のプライドが情けなく騒ぎ出す。

 

 だから。

 そんなちっぽけな僕だから……。


 こんな事を思うなんて認められなかった。

 受け入れられなかった。


 園部茉莉子が入院している。

 足を怪我して陸上部引退を余儀なくされている。


 内心喜ぶにしろ心配をするなんて……。


 しかし、いま胸の中を支配するこの感情はそれ以外の何物でもなかった。

 

 足は大丈夫だろうか。泣いているのだろうか。どんな心境なんだろうか。


 彼女を慮る疑問が次々に湧いて来た。

 その度にザマァみろ等と悪ぶろうとするが、心配する気持ちを抑える事は出来なかった。

 僕は園部さんを心配している。どんなに否定しても、その事実は覆りそうになかった。


 そして。


 彼女を心配していると認めた僕は、新たな衝動に抱える事となる。


 それこそ絶対ダメだと、僕は再び自分に抗う。


 しかし僕の目線はドアに釘付けだった。


ーーまったく。

 

 人間は自分の事すら思い通りにならないなんて。


 深く溜息を一つ吐いた。


 吐き出したのは、諦め。


 次の瞬間、僕は自室から飛び出した。


 僕は園部茉莉子に会いに行く。

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