第16話 六章 殺人鬼ごっこ その1 殺傷の偶身

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「もし、全ての人間に『殺し』のイメージを与えるような奴がいたとしたら、ソイツは『殺人鬼』だと思わないかい?」


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 蒼井茜が『殺意』と言う言葉を使う場合、あまり洒落にならないことが多いのだが、その時に限っては、子供の遊びのような比喩としての感情を抱いていた。

 殺風景な取調室に、強面の刑事が入れ替わり立ち代り、蒼井へと詰問をしてくる。その大半が顔見知りであるが、蒼井には関係ない。ただ、同じことを何度も話すという、いつものルーチンワークをこなすだけだった。

 刑事を目の前にして、蒼井の目は、様々なものを情報として吸収する。


 ―――

 ―――


 自然と意識してしまうそれらを、蒼井は強い意志で無視する。

 警察による再三の取り調べにうんざりし、普段ならば間違っても覚えないような殺意を覚え始めた頃に、蒼井はようやく解放された。朝から拘束され続けた無機質な取調室から、夜の街に放り出された彼は、やり場のない感情をもてあましていた。

 まあ一晩明かせと言われなかっただけマシだろうと、あえて自分に言い聞かせる。

 拷問から解放された蒼井は、そのまま、自宅ではなく市内のマンション街へと足を運んだ。

 その人物に会うのは気が進まないものの、こうして一日で取り調べから解放されたのも、その人物の暗躍のお陰だ。一度挨拶をしないと、後で何を言われるか分からない。

 門の前にガードマンがいるという素敵仕様の高級マンションを前に、蒼井はいつも通り若干の気後れを感じた。もう何度も足を運んだ場所ではあるが、出来ることならこのまま回れ右をして、とっとと自宅に帰りたかった。

 何もない自宅だけれど。

 安息だけはある自宅に。

 呼吸を一つ。傍目からはそれほど逡巡したようには見えない様子で、蒼井はガードマンに会釈してマンション内に入った。エントランス前で部屋番号を入力し、自分の名前を言う。自動ドアが開いたので、監視カメラだらけの廊下へと足を踏み入れた。

 最上階。

 未練がましくも、どうにかこの不幸から逃れるすべはないかと扉の前で数分間考えたが、これまでもそうだったように、何も名案は浮かばず、諦めのため息をついて扉に手をかけた。

 これほどのマンションの警備が馬鹿に見えるほど、扉は簡単に開いた。鍵ぐらいはかけろと、今さら言うのも馬鹿らしい。

「入るぞ」

 言って、無機質な感触のする室内へと足を踏み入れる。確かデフォルトでは木目の床だったはずだが、その上から陶磁の板を張り付けているらしい。何のためにそんなことをしたのか分からないが、おかげで床が冷たくて仕方がなかった。

 四つもの部屋があるうちの、一番奥の部屋。勝手知ったる我が家のようにそこまでたどり着き、さらに最後の逡巡を経た後、蒼井は扉を開けた。

 寒気がするほどの冷たい空気が押し寄せる。部屋の住人は、扉が開けられたとともに、こちらを振り返って来た。

「なあんだ。早かったじゃない」

「嫌なことは先に済ませる主義なんでな」

「ふぅん。それじゃあまるで、私の事を嫌っているみたいに聞えるけど?」

「そう言った」

 平淡な口調で返しながら、蒼井はその冷房が過剰に利いた部屋へと足を踏み入れた。

 その過剰なまでの冷房の理由は、部屋の住人を囲うようにして置いてあるコンピュータ機器だった。蒼井にはどんな用途に使うのか分からないような様々な機器がフル稼働している。個人でありながら、情報操作、隠蔽工作のエキスパートである彼女の所有物を理解する気なんて、端から起きない。

 そうした機器に囲まれながら、一人の少女が深く椅子に腰かけていた。アニメのコスプレなのであろう、過剰な装飾がされたピンク色のドレス風の服装をしている。アンニュイな表情と不釣り合いな明るい衣装のアンバランスさが、何とも言えない雰囲気を醸し出している。


 ――。近


 彼女の姿を見ながら、蒼井は言うべきことを言う。

「助けてもらったからな。礼だけはしとく。『しいちゃん』」

「……あんたからその呼び方をされると、なんかむかつくわね」

「じゃあ。笠倉」

「うん、それでよし」

 にこりともせず、剣呑な様子を隠そうともせず、コスプレ少女はうなずいた。

 笠倉小海。

 蒼井の同級生であり、長い付き合いの人間である。ただし、双方にお互いの関係を尋ねても、決して友人とは答えないだろう。

 それほど良い間柄ではない。

 腐れ縁が乗じて、奇妙な連帯感は持っているけれど。

「ま。積極的に助けたわけじゃないけどね」

 けだるげに笠倉は目の前の画面に向きなおると、つまらなそうに言った。

「あんたに余計なことを言われると、私が困るの。コバの友人の、私がね」

「じゃあ、礼は別にいらなかったか?」

「それは別。労力に対する対価はちゃんと払ってもらうわ。あんたには、今日から明日まで、隣の部屋にある学ランのコスをしてもらう。ポケットには刀子を入れてもらうから、警察には見つからないようにね」

「……随分とまともなコスプレだが、それはやっぱりアニメかなにかか?」

「へえ、あんた知らないんだ。あんたにうってつけのコスだから、今度原作も貸してあげるわ」

 笠倉はキーボードをタイプし始める。手持無沙汰となった蒼井は、しかしそのまま帰ることも出来ず、居心地の悪さと共にその場にたたずんでいた。

 話しかけようと思ったのは、気まぐれからだった。笠倉のコスプレ姿を見ていると、なんとなく聞いて見たくなった。

「今だから、聞けることだが」

「ん? 何」

「どうして小原とは、その、趣味の話をしなかったんだ」

 カタり、と。

 キーを叩いていた笠倉の指が、硬直した。

 そのまま黙ってしまわれると困る。沈黙に耐えきれなかったので、続けて言葉を被せた。

「お前らは仲が良かったと思ったが、それにしては、アニメの話なんかをしているところは見なかった。小原だったら、十分食いついてくると思うんだが」

「……私らの間には、アヤが居たからね。あの子は、そういう話題には興味なかったし」

 自分でも言い訳じみているのが分かるのか。笠倉は彼女にしては饒舌な程に、言葉を重ねる。

「それに、コバはどちらかと言うと小説趣味で、アニメはラノベ原作のくらいしかチェックしてなかったし。フィクション趣味とは言ってたけど、もっぱら映像関係はスルーしてたっぽいのよね、あの子。まあ、私も小説関係もある程度分かるから、話が出来ないじゃなかったけど」

 グダグダと言い続けながら、次第にばつが悪くなっていったのか、笠倉の言葉は尻すぼみになっていく。

 続けて生まれた沈黙を、どうしていいか蒼井には分からなかった。だが、それ以上に居心地を悪く思っているであろう笠倉は、蒼井に顔を向けることもなく、かといって何もすることなく、ディスプレイだけを眺めていた。

「あの子はね。フィクションの話をするときだけ、キャラを捨てるのよ」

 ぽつりと。

 笠倉は諦めたように、言葉を吐いた。

「この際だし、あんたでもいいや。少しは話せば楽になるし」

「キャラを捨てる、ってのは」

「そのまんまの意味。あの子は、常にフィクションごっこをしているようなものだった。けど、創作物の話になったときだけ、あの子は素の自分を出す。何も飾らない、ただの小原純奈。いつもつまらなそうに演技しているあの子が、生き生きしだす瞬間。それが、フィクションの話をしている時」

 笠倉の言葉に、蒼井は思い出す。自分が読んでいる本に、食いついてきた小原の様子を。確かにあの時の彼女は、とても生き生きしていたと思う。

「それは、いいことじゃないのか」

 何気なく、蒼井はそう聞いていた。

 全てが欺瞞だらけだった小原の日常を思うと、そうした素の自分を出せる機会と言うのは、とてもいいものではないのか。

 しかし、返って来た言葉は、とても辛辣なものだった。

「いいわけがないでしょ。あんな、つまらないモノ」

 吐き捨てるように、笠倉は言う。

「現実が嫌で、虚構を愛している子。それなのに、虚構の話をするときだけ、現実に帰ってくる。そんなの見ているこっちが痛々しい。あの子はね、創作物の話をする時に、同時に自分のつまらなさを確認するのよ。現実のつまらなさを、等身大の自分のつまらなさを、残酷なまでに見せつけられる。それでもあの子は話を止められない。だって、あの子はフィクションが好きだから」

「………」

「なんて、醜悪」

 激しい嫌悪感と共に、笠倉はその言葉を吐き出していた。

 蒼井には、その言葉の裏にあるものが分からない。どうして笠倉が苦しそうな顔をしているか分からないし、彼女が小原に向ける思いがどういうものなのかも、分からない。

 蒼井を置き去りに、笠倉は語る。

「現実なんて、醜悪なだけ。みんなみんな、キャラ作りしてればいいのよ。自分を見せる必要なんてない。自分の理想を演じてればいい。等身大の自分なんて気持ち悪いだけ。隠していればいいのに、見なければいいのに。それなのに人は、さもそれがすばらしいモノみたいに評価する。――ばっかみたい」

 ――嘘の方が。

 ――ずっとずっと、綺麗なのに。

 そう呟いた笠倉の声は、とても寂しそうだった。

「現実ほど醜悪なもんは無い。あんたにしても、きつみにしてもね。ねえ。殺人鬼さん?」

「その呼び方はやめてくれ」

 本気で嫌悪を感じて、蒼井は拒絶した。

 その呼び名で自分を呼ぶのは、この世で一人だけで十分だ。

「あっそ」

 あっさりと笠倉は引いた。

 再び彼女は目の前のコンピュータへと意識を向けた。パタパタとキーをタイプする音と、冷房の音だけが室内に響く。

 作業を続けながら、ぼやくように笠倉は言った。

「コバの不幸は、中途半端に才能を持っていたことなんだよね。それの価値を、自分で分かっていなかったことも含めて」

「……何のことだ」

「さあね。きつみにでも聞けば?」

 投げやりに、彼女は言い捨てる。

 笠倉の目の前のディスプレイでは、めまぐるしく画面が移り変わっている。何が起きているのか蒼井にはまったく分からないのだが、彼女はちゃんと理解しているらしい。作業の途中、確認でも取るように蒼井に聞く。

「コバの遺書の話、聞いてる? あの私小説」

「ああ。警察に届けられたという奴だろ」

 小原は、死の前に遺書を書いていた。

 ワープロ原稿で、プリントアウトされたものだから本人が書いたものと断定はできないが、彼女の自室にあったノートパソコンにも同様のデータが残っていたため、本人のものだろうとされている。

 それは、私小説のようなものだった。

「ちなみに、あんたは読んでる?」

「まさか。警察に押収されたもんを、読めるわけがない」

「ま、それもそっか」

 その時、部屋に機械音が響いた。

 何事かと思ったが、どうやら印刷機が稼働した音らしい。部屋の端に、コンビニや企業などに置いていそうな巨大な印刷機が設置されている。そこから、印刷された用紙が流れ出ている。

 断続的に響く機械音の中、笠倉が言う。

「ソレ、遺書」

「は?」

「だから、ソレ。警察にあったコバの遺書。今手に入れた」

 驚くことを平然と言いながら、笠倉の作業は止まらない。とても片手間とは思えない指の動きをしているのだが、それでも笠倉は、平静と変わらないように喋り続ける。

「きつみが読みたいって言ってたのよ。ついでだし、持ってってやって」

「いつもみたいにデータで送ればいいじゃないか」

「駄目。フォントの関係で、携帯端末だと見づらいから。あいつPC持ってないしね」

「なんで俺が」

「いいじゃない。どうせきつみと会うでしょ? それに、ついでにあんたも読んでいいから」

「別に、俺は」

「ああ、そっか」

 平然と。

 笠倉は、言い放った。

「あんたは、私小説じゃなくて、本物の遺書持ってるもんね」

「…………」

 一体。

 この女は、どこまで知っているのだろう。

 今に始まったことではないが、自身を丸裸にされているような寒気を覚える。昔からそうだった。今より技術面が充実していなかった頃でも、笠倉小海という女は、なんでも知っていて、全てを見透かしているような女だった。

 蒼井が黙っていると、笠倉はけだるげに言う。

「そう身構えないでよ。別に読ませろって言うつもりはないし。それに、電気が通っていない限り、盗み見るのは無理だから」

「意外だ」

 てっきり読ませろと言ってくるものだと思っていただけに、少し肩透かしだった。弱みを握られているだけに、脅されたら拒否することは難しい。

「ちょっと。人の事何だと思ってるのよ」

 不服そうに、文句を言う。

「どっかの誰かさんじゃないんだから、そこまで性格捻じ曲がっているつもりはないわよ。そもそも、人のラブレター読む趣味はないしね」

「ラブレターって……」

「似たようなもんでしょうよ。あのコバが、わざわざ最後に、特別に、あんただけに、用意したもんなんだから」

 その口調はどこか怒ったようで、それでいて、どこか寂しそうだった。

「あの子が本音を吐くなんて、本当に、珍しいんだからね」

 それは――

 さっきまで、現実を嫌悪する発言をしていた人間と同じ人間の発言とは、とても思えないものだった。

 百五十枚。

 全てが印刷されるまでの間、笠倉はひたすら、ぶつぶつとひとり言を呟いていた。

 それを蒼井は、ただ黙って聞いていた。

「ああ。つまらない。つまらない。現実なんてつまらない。虚構はこんなに素晴らしいのに。なんでみんな現実を見ようとするんだろう。目をそらせばいいのに。見なければいいのに。自分を飾ればいいのに。脚色すればいいのに。演技すればいいのに。嘘をつけばいいのに。騙せばいいのに。現実なんて、辛いだけ。苦しいだけ。痛いだけ。見苦しいだけ。醜いだけ。なのにそれをさも素晴らしいことのように言う。ちょっとでも失敗すればすぐに糾弾する癖に。ちょっとでも道を外れればすぐに断罪する癖に。更生を許さない癖に。ミスを許さない癖に。罪を許さない癖に。自分を棚上げにする癖に。人の事ばかり気にする癖に。いいところだけを見ればいい。悪いところなんて見なければいい。理想の自分を騙ればいい。理想の自分を演じればいい。本当なんていらない。本物なんていらない。虚構の中で、フィクションの中で、創作の中で、個性豊かで、情緒豊かで、夢にあふれて、希望にまみれて、本性なんて忘れて、自分を捨てて、楽しくおかしく、ワイワイ生きるだけで、それだけで、いいのに――」


 2


 蒼井茜が初めて人の死を見たのは、小学五年生の時だった。

 祖母が危篤状態になったという連絡を受けて、父に連れられて病院へと向かった。前から長くはないと言われていたからか、父はついにその時が来たかと、笑みすら浮かべてぼやいていた。まったく生き汚いんだから、などと冗談さえも吐いていた。そんな父の姿に、彼自身はそれほど大事ではないんだな、と思っていた。

 病院についても、父はそれほど急いではいなかった。ゆっくりと落ちついている様子で、病室へと歩いていた。そして、扉の前で時間を置いて、ノックをした。

 病室に入った瞬間、蒼井は目の前で命が散ったのを感じ取った。それ自体はいつもの事であり、彼にとって日常の一部に過ぎなかった。人間に限らない。命は必ず散る。自然と散るのではなく、必ず何かに奪われる。そのことを、わずか十年の人生で嫌と言うほど知っていた。

 しかし、その後に起こることは、知らなかった。

 父が、ベッドに歩を進めた。

 医師から何かを言われているようだが、その挨拶もほどほどに、父はベッドに向かう。終始背中ばかりを見せていたから、父の表情は分からなかった。だから、来る時と同様、笑っているものだと蒼井は思っていた。

 そんな父が、急にベッドにうずくまった。祖母が横たわっているベッドの上に、顔を伏せたのだ。

 嗚咽さえなかった。

 ただ静かに、静寂だけが病室を包んだ。

 父はそのまま数秒うずくまった後、すっと立ち上がった。医師に会釈をすると、すぐに病室を出た。途中、ケータイを取り出していたから、親族に連絡をしにいったのだろう。

 すれ違う瞬間、蒼井は確かに見た。

 父の目が、真っ赤に充血しているのを。

 その時に初めて知ったのだ。――これまで当たり前のように接してきた人の死が、途方もなく、重いと言うことを。



 蒼井茜は、命が奪われる瞬間と共に生きて来た。

 ふと気をやると、すぐそばには命が散る風景があった。特別なことではない。人が平静に生きているだけでも、周囲では生命が死んでいっている。人に限ることはない。動植物。昆虫。微生物。それらの死を意識する人間が少ないだけの話で、周りは常に、死に満ちている。

 生命に満ちている、と言った方がいいかもしれないが。

 蒼井にとっては、殺しに満ちているようにしか思えなかった。

 彼は、人に比べてそうした要素を強く感じるタチだった。そして、命が散る瞬間を意識するたびに、命の奪い方を覚えていった。

 首を絞める。急所を突く。目をえぐる。刃物で刺す。鈍器で殴る。感電させる。燃やす。水に沈める。突き落とす。監禁する。――軽く自分だけで出来ることを考えても、レパートリーは尽きない。手段を増やせばさらに方法は増える。

 特に、自身ととても似ている、人間と言う生物を。

 ふと気がつけば、すぐ隣に居る人間の首をひねるために手を伸ばす自分がいた。

 その事実に、何も思わない自分が、ことさら異常だと思った。

 彼にとって死とは、現実感の薄い虚構であり、それでいながら、まるで実際に体験したかのようなリアリティを持っていた。だからこそ彼は、それがさも当たり前の事であるかのように思えた。実体験のない追体験。まるで、人を殺したことのある人間の感触を、自然と引き継いでいるようなものだった。

 そんな蒼井を、彼は『殺人鬼』と呼んだ。

「まるで物語の殺人鬼みたいだ。君は」

 三年前。

 そう言ったのは、一人の少年だった。

 蒼井にとって、その少年はとても大人に見えた。たかだか三歳年上の少年だったにもかかわらず、実際、彼は随分と大人びた人間だった。今、年齢こそ追いついたものの、人間としては到底敵わないと思う。

「君は、人が意識する『殺す』という感情を、全て集めてる。命を奪うという行為。その要素を、体現した人間なんだ」

 それを彼は、『偶身』と言った。

 偶身。

 人が生きていく上で意識する、あらゆる事象の一つを擬人化したモノ。

 例えば、『愛』という感情を体現した偶身は、全ての人間から愛され、また全ての人間を愛することだろう。反対に、『悪』という要素を纏った偶身は、全ての人間から悪と認識され、自身も周囲に悪を振りまくことになるだろう。

 偶身として生まれた人間は、その身に帯びた要素に影響され、また人に影響を与える。

 蒼井にとってのそれは、『殺傷』という要素だった。

 彼の要素の恐ろしいところは、それが衝動では無いという点である。衝動ならば耐えることが出来るが、蒼井の抱える要素は、自然と引かれていくものなのだ。

 気が付いたら殺している。

 幼少のころの蒼井は、そんな毎日を送っていた。

 人を殺すには力が足りなかったから、かろうじて行ったことは無かったが、動植物に関しては、数え切れないほど殺してきた。小枝を折ったり花をむしったりは当たり前だ。気がつけば、足元に小動物の死体がある。日常だった。蟻の頭が無数に転がっていたこともある。バッタの脚を並べていたこともある。猫の四肢がばらばらだったこともある。ウサギの耳が削がれていたこともある。手が届く範囲で、殺さなかった生き物はいなかったのではないかと思う。

 『殺さない』を意識しないと、彼は命を奪っていた。

 片時も、『殺さない』ことを意識しないことは無くなった。

 そうしないと、いつか蒼井は人を殺していただろう。

「人を殺したことがない殺人鬼」

 彼は静かに語った。

「そしてこれからも、君は人を殺すことは許されない。なぜなら、君が人を殺した時、それは偶身としての意味を失って、ただの殺人者になってしまうから」

 だから蒼井は、人を殺すことが出来ない。

 人を殺さなければいけないと共に、人を殺してはいけない。

 この、衝動ですらない自身の不確かさと、永遠と付き合っていかなければいかない。

 もし、自身の制御を誤って人を殺してしまったら――彼は、二度と殺人を止めることはないだろう。人を殺すだけの機能と成り果てるだろう。そして、時代の寵児によって、外敵として退治されることになる。

 けれど、きっとそうはならない。

 なぜなら、蒼井は命の重さを知っているから。

 あの日見た、父の充血した目を知っているから。

 本来ならば知ることのない命の重さを知った殺人鬼は、殺意の存在と、消失の悲哀の両方を、抱き続ける。

 だから蒼井は、徹底的に自分から『殺す』手段を奪って行った。

 極力運動をせず、ひたすら身体を衰えさせた。わざと度の強いメガネをかけ、視力を低下させた。誰とも深く接さず、他者に感情を抱かなかった。また、他者に自身の殺意を気付かせなかった。現実との接点を避け、フィクションの中に居所を求めた。

 全ては他者のためではなく、自分のためだ。

 あの日見た涙を二度と見ないために、蒼井は常に闘い続けた。

 そんな蒼井を見て、彼は一言言った。

「君はなんて、生きづらい奴だろう」

 何も知らなければ、楽に生きられたのに。

 命の重さなんて知らなければ――苦しむことなんてなかったのに。


 3


 とある手記。

 そんな題から、小原の私小説は始まっていた。

 蒼井がさらりと読んだ感想としては、脚色されている部分が多少あるものの、基本的には事実と変わらないのだろうと思った。語られていない部分が多すぎるのは、この類の物語としては仕方がないものと諦めよう。

 物語。

 そう。これは小説だった。

 一世一代の大博打。

 自分の命をチップとした、物語。

 その紙の束を高浪に渡すと、彼女はすぐに読んでくると言ってどこかに行ってしまった。

 そして、一週間ほど音沙汰がなかった。

 一週間の間に色々あった。世間はすでに、別のニュースで盛り上がっている。なんでも、大規模な災害が起きたらしい。自分とは関係のない地方の話だったので、あまり気にしていなかったが、どうやら相当大事のようだ。十二人もの人間が死んだ通り魔殺人の話なんて、一万人以上が死んだ災害の前では、まるで過去の話のように風化した。

 こうして、人は事件を忘れていく。

 覚えているのは当事者のみ。例え一時でも主役を張れたとしても、さらに大きな事象の前には、あっさりとフェードアウトするしかないのだ。

 世間がそうして災害に騒いでいる間、蒼井は例のシリーズを読み終えた。小原の言った通り、物語はハッピーエンドだった。多くの謎を残し、多くの出来ごとを処理して、一気に全てをまとめて、そうして、物語は終わった。

 いろいろな解釈はあるだろうが、とりあえず面白かったから蒼井としては満足だった。それ以上の感想をはさむのは、野暮と言うものだろう。

 ただ――一つだけ。

 たったひとつ言えることがあるとすれば、主人公が成長して終わったということだった。

 主人公は成長した。

 変わったのだ。

 変わらないものはない。

 みんな、生きていき、体験を経て、時間を経れば、必ず変わっていくのだ。どんなに現状に不満を持っていようと、自分に対して嫌悪感を持っていようと、途方もない幻想を抱いて居ようと、いずれは、現実を知り、現実に適応し、変わっていく。

 それなのに、小原はもう変わることが出来ない。

 死んでしまったら、何も出来ないと言うのに。



 そして、一週間後。

 三月十八日。

「お、こんなところに居た。ったく、探したんだぞ」

 そんな言葉と共に、体育倉庫へと高浪が入って来た。

 倉庫内のマットに座って本を読んでいた蒼井は、その声に静かに嘆息を漏らす。

「不法侵入だぞ。部外者」

「そんなの今に始まったことじゃないって。それに、学校って制服着てれば意外とばれないもんだよ?」

「そんなことを自慢するな」

 ため息をするのも億劫になって、蒼井は高浪の方を見た。

 高浪はこの学校の制服を着ていた。女子の制服。その上から、くすんだ赤色の外套を羽織っている。年季の入った外套は、ボロボロだった。



 首を絞――。目を潰――。顔面を殴――

 ――殺す手段が思いつかないどころか、全てのパターンで返り討ちに合う。



 高浪きつみは、蒼井茜では殺すことができない。

 一時の安息を覚えながら、蒼井は彼女の姿を直視する。

 以前から思っていたが、卒業した後に制服を着ると言うのはどういう気分なのだろうか。

 そんな疑問を思いながら、蒼井は別の事を聞く。

「随分見なかったが、どこで何してたんだ」

「んー。何してたかって言われると困るんだけど」

 考える仕草をしながら、高浪は続ける。

「とりあえず、事後処理的な感じかな。世間は忘れてるけど、警察は色々忘れてないから。説明しようにも、紫がどこまで知ってるかによるかな」

 話しながら、高浪はそばにあった跳び箱の上に腰かけた。そこは小原がよく利用していた位置だったことをちらりと思い出す。喉元まで声が出かかったが、すでに当人が居ないことを意識して、声を呑みこんだ。

 代わりに、高浪を追及するように言う。

「事件の事なら、あらかた予想はついている。俺自身が知ってることと、小原の手記を読めば、ある程度推測できるからな」

「ふぅん。あの手記からか」

 含みのある様子で、高浪は呟く。

「ヒントは結構あったけど。そこまで言うんだから、その推理でも聞かせてもらおうじゃない」

「なんでそんな面倒なこと」

「いいじゃん別に。小説ならさ、最後に探偵による推理ショーがあるしさ。ああいうのって憧れるよねー」

「探偵役はお前じゃなかったのか」

「だって。あたしがしちゃあ、アンフェアじゃない」

「……分かったよ」

 これ以上問答したところで、何が得られるわけでもない。

 事実確認もしたいところなので、この展開は好都合とも言える。高浪の言葉に乗って、蒼井はあっさりと犯人を言った。

「一連の事件。犯人と呼べる人間は二人いる」

「うんうん」

 期待のこもった高浪の目を感じる。

 極力気にせずに、蒼井は淡々と言葉を続けた。

「まず一人」

 正面から、高浪の顔を見る。

「お前、高浪きつみ」

 にぃ、と。高浪の顔に笑みが浮かぶ。

 続けて、蒼井は元凶の名前を言い放った。


「そしてもう一人が、――小原純奈だ」


 面白くもない、事件の真相だった。


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