第15話 幕間 とある手記
とある手記
このような手記を書くにあたって、初めにこうした話をするのもどうかとは思うが、わたしの価値観についてある程度の共通認識を得てもらいたいと言うこともあるので、とりあえず一つ、こんな話から始めてみよう。
日記調の小説と言うものがある。
わたしは以前からこの演出が疑問に思えて仕方がなかった。それは、そういった演出が苦手と言うわけではない。むしろ、演出としては非常に面白い形だと思う。ただやはり、違和感がぬぐえないと言うだけの話だ。
日記なんて、書くだろうか?
ぶっちゃけてしまえばそんな感じである。日記なんて、書くわけがないだろう。近年の情報化社会はもちろんのこと、かつて手書きが普通であった時代であったとしても、ただの出来事の羅列ならまだしも、ちゃんと読み物としての体を保った日記を書くような奇特な人間がいるとは思えない。いや、そもそも、『自分に向けて』文章を書くという考え方が分からない。
弁解しておくと、この手記に関しては、私は読み手がいることを前提として書いている。しかし、日記と言うのは読み手を前提としていないもののはずだ。
そんなことを思って、『日記』という言葉の意味を調べてみたのだが、必ずしもそういうことではないらしい。要約すると、次のような目的で書かれた文章を、広義に『日記』と解釈するらしい。
日々の出来事、または感想などを、連続的に記録したモノ。
つまりは、後々に見られることを前提とした記録も、広義には日記と解釈されるし、また己のみを読者とした記録であっても、日記と解釈されるのである。
と、ここで話はまた戻ってしまうのだけれど、わたしが問題にするのは後者の方である。自分のみを読者とした記録。そうしたものを、一体どれだけの人が書くものだろうか? いや、そもそも、日々の出来事を記録するという人間が、どれだけいることか。もしかしたら意外と多いのかもしれないけれど、少なくともわたしの周りでそんなまめなことをしている人はいなかったと思う。
それなのに、小説において、日記の演出と言うものが、存外多い。しかも、そうしたもので描かれる日記は、必ずと言っていいほど読者を想定してあるような、整った文章であるのだ。
そんな都合のいい話があるわけないだろう。
作者の力不足――と言ってしまえばそれまでなのだけれど、しかしその力不足が力不足と見られていない、むしろそうした日記調の文章は、読者を想定するのが当たり前、ということが常識となっているところが、どうにも私には合わないのである。
これはわたしの勝手な価値観で。
これはわたしの勝手な思想だけど。
さてさて、話が少し長引いてしまった嫌いはあるけれど、この辺りで話をまとめて本題に移りたいと思う。
これからわたしが書くものは、読者を想定したものである。
だからどちらかと言えば、小説や随筆のようなものと思ってもらえればいい。ところどころにフィクションを織り交ぜ、それでも自分の体験をしっかりと盛り込んだ、一ヶ月の体験談。
なぜこういうものを書こうかと思ったかは、詳しくは後々現実に分かると思うので省略するとして、現段階で一つだけ明らかにしておきたいことがある。
わたしは、この一ヶ月の通り魔連続殺人事件の犯人を知っている。
この手記はその犯人との交流を記したものだ。だからこそ、この手記が誰かに見られていると言うことは、わたしはすでに死んでいるだろう。構わない、とわたしは思う。むしろ、こうしてこの手記が公開されていると言うことは、わたしの悲願は達成したと言うことだろうから。
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