第13話 五章 被害者ごっこ その1 悲劇のヒロイン
五章 被害者ごっこ
0
後悔する時に反省はないが、反省する時に後悔はある。
後悔先に立たず。
道を踏み外した者に、救いは無い。
1
たゆたっている。
ゆらゆらと。
ふらふらと。
ぬるま湯につかっているような、心地よさ。ふわふわと宙を舞うような心地よさ。酷く不安定なのに、決して不快ではない。
子供のころ、家族旅行に行った。
あの頃は、まだ両親とも仲が良かった。
母の事も好きで、父の事も好きで。
特に父が大好きで。
海だったか。
湖だったか。
とにかく、水の近くだったと思う。
わたしは浮かんでいた。
ぷかぷかと、浮かんでいた。
思えばそのころから、わたしはふわふわとしていたと思う。
立ち位置も定まらず。
よりどころもなくて。
ただ場あたりに流されて、自分というモノが分からず、かといって誰かに頼ることもできず。
いや、わたしにも居たのだ。
浮かんでいるわたしを、持ち上げる強い力があった。
わたしはその腕にしがみつく。決してたくましいわけじゃないけれど、当時のわたしからすると、とてつもなく大きな腕だった。その年齢の子供にとって親というのはそういう存在だ。自分の全て。世界のすべて。その大きな存在に包まれて、わたしはようやく自分を得られたんだって、そんなことを――
ああ、夢だと思った。
ゆめのそこに、わたしは落ちていく。
落ちる。
落ちる落ちる落ちる。
落ち切って、落ち切って。
堕ち切って、堕ち切って。
そこから、ふわふわと、浮かび上がる。
頼りなく宙をさまよう。
ふわふわ。
ゆらゆら。
ふらふら。
くらくら。
ふるふる。
たゆたゆ。
わたしは。
浮かんで。
揺られて。
自分が分からなくなった。
自分が誰か分からなくなった。
自分が自分だと分からなくなった。
わたしは誰?
わたしは私。
誰かじゃない。
何者かでもない。
わたしはわたし。
わたしはここに。
わたしは居る?
2
「……何これ」
うたた寝していたら夢を見た。
昔の事を夢に見た気がするけれど、ひどく居心地の悪い気分だ。なんだかとっても恥ずかしいものを見た気がする。
わたしは寝ころんでいた布団から起き上がって、軽く伸びをした。確か、学校から帰ってきて、すぐに布団に倒れこんだ。どうやらそのまま寝オチしていたようだ。
時計を見ると、丁度日付が変わったころくらいだった。随分と眠っていたらしい。疲れていたのだろうか? 分からないが、しかしこれだけ眠ってしまったら、もう今日は眠れないかもしれない。
ため息をついて、ぼうっと暗闇を見る。
空腹は……覚えない。
寝起きだからだろうか。あまり食事を取りたいとは思わなかった。しかしその割に、口の辺りが少しさびしいとも思う。何か咥えたいような。
おもむろに、ごそごそとベッドの下を漁るが、しかし目的の物は見つからなかった。
「そっか。切らしているんだった」
未成年者には禁止されているアレだ。
始めはほんの軽い気持ちだったのだけれど、無いとなると無性に吸いたくなってくるのがああいう嗜好品だ。別にしょっちゅう吸っているわけではないのに、今はあの煙の味が欲しくてたまらない。
数分間迷った挙句、外に出ることにした。
フリルのついたキャミの上に、黒いカーディガンを羽織る。ちょっと胸元を強調する服なので、軽くパッドも入れておく。普段はめったに履かないスカートを履き、あとはカールのかかったウィッグをつけて、全体の印象を変える。
普段あまり女の子らしい格好というモノをしないからか、こうして気合を入れると、普段のわたしとは思えないくらいに見違えると言われる。と言っても、ちゃんと年齢確認を徹底しているような店員にはばれるモノだけど、シレっとしていれば、案外たやすく行くものだ。
そんなわけで、わたしは夜の街に出た。
家を出る時、母親と軽く鉢合わせしそうになったが、直接顔を合わせずに済んだ。父親は、もう寝ついてしまっているらしい。さすがに夜間外出をしているところを見られたら注意されるだろうから、気をつけなければ。
もう三月とはいえ、まだ夜は肌寒い。普段は持ち歩かないような可愛らしいポーチを片手で弄びながら、わたしは深夜の散歩を楽しもうとした。
深夜徘徊で怖いのは店の店員よりも、偶然通りかかった見周りの警官だったりする。店員だったら身分証を持っていないで誤魔化せるが、警察はそうはいかない。なので、何気ない風を装いながら、周囲はしっかりと注意する。
身近なコンビニでは当たり前のようにばれるので、駅付近まで行くことにした。
しかし――
「うわ。人多い」
主に、機動隊の方々。
そう言えば、機動隊が導入されていると言う話を聞いていたっけ。でも、本格的に導入されてからこの辺に来ることはなかったので、ここまで大事になっているとは思わなかった。
しかし、機動隊だなんて。本当に、フィクションじみている。事件がそれだけ大事になっていると言うことなんだろうけれど。その様子を見ているとなんだかわくわくしてくるけど、注意を受けて未成年だとばれたらまずい。
仕方ないので、回り道をして、別のコンビニに行くことにする。
駅から二十分ほど歩いて、インターの近くのコンビニにたどり着いた。途中まで人の眼が多かったから、自然と導かれるようにここまで来てしまったけれど、正直これで帰れると思うとホッとする。
早く帰って休みたい。もう四十分は歩いていないか? いつ捕まるかひやひやしながらの散歩なんて、もううんざりだ。
お店に入る。眠たいのか、やる気のなさそうな店員に、銘柄を告げる。あっさり渡してくる店員。職業意識の低い店員で助かった。
これで帰れる。そう思ったとたん、なんとなく一服つきたい気分になった。
ま、ここまで来たんだし、少しぐらい休んでもいいかな、と自分に言い聞かせて、コンビニ横に設置してある灰皿の前で、一服つくことにした。
火を持ってくるのを忘れたことに気づいたので、一度店内に戻ってライターを購入。ついでに、缶コーヒーも買った。煙草を吸う時にブラックコーヒーはあうのだ。
一服。
煙を肺に吸い込むごとに、ふわりと浮かぶような浮遊感に襲われる。ゆらゆらと宙を上る煙が、次第に霧散していく。その様子を眺めていると、まるで自分自身の意識すらも、同じように霧散していくような、そんな錯覚を覚える。
わたしは――
わたしはわたし。
わたしはここに。
くらくらと酔ったような感覚。夜間に外に出て、あまり来ないような遠くにまで来たからだろうか。いつもと違う感覚に、若干の高揚を覚えている。自分を覆っている普段の殻が溶けて、中の本心がむき出しにされていくような、そんな感じ。
わたしは誰で。
わたしは何で。
わたしはどこで。
冷たいコーヒーの苦みが、口の中の残り香を中和してくれて心地いい。次第にわたしは、考えるのをやめていった。ただ感覚だけに身を任せて、水の中にぷかぷかと浮かんでいるような、奇妙な陶酔感に浸っていた。
何もない。
何もない。
何もない。
支えがないのが怖かった。浮遊感は心地よくとも、足場がないのが不安だった。歩いている橋が、今にも崩れ去るのではないかと言う恐怖感。急に足場が無くなって、すとんと、地の底まで落ちていくような、実体のない恐怖を身近に感じていた。
何かが欲しい。
何かになりたい。
何者かになりたい。
だから確固たる何かが欲しかった。それだけは絶対と言う何か。わたしはわたしだという証明。誰かに誇りたいわけじゃない。ただ、自分に誇りたかった。それだけだった。
だから、特別が欲しかった。
だから、特別になりたかった。
だから、わたしは――
「ん。あれ」
ハッと、我に返った。
立ったままぼおっとしていたわたしは、いつの間にか、四人の男女に囲まれていた。
四人。
わたしの前に二人。その後ろに二人。
「え、えと。あの」
前の二人は、派手目な格好をした女だった。その後ろに控えるように男が二人。印象としては、明らかに温厚とは言えない。
右側の、アイシャドウの濃い女が、ひとこと言った。
「久しぶりだね。ミナ」
その言葉で、ようやく相手が誰か分かった。
そうだ。目の前の二人はそこまで仲が良くなかったが、後ろの男二人は、須藤が良くつるんでいた男たちだ。
つまり、彼女たちは須藤の知り合い――
「まさかこんな所で会うなんてね。散々探してたのに」
言葉には刺がある。
雰囲気はどう見ても剣呑だ。
先日の春崎との時のような、再会を喜び合うような雰囲気ではなかった。明らかに軽口で返せる状況でもなく、わたしは曖昧にうなずきながら、様子を見ることしかできない。
思わず、逃げ道を探してしまう。しかし、四人はがっちりとわたしが逃げられないようにしており、いつの間にか、わたしは壁際に追いやられていた。
今にも胸倉を掴まれそうな緊迫した空気だったけれど、とりあえず話をするつもりはあるらしい。アイシャドウの隣、付け爪が派手な女が、確認するように聞く。
「あたしらがあんたを探している理由。分かるよな?」
分からない。
と素直に答えたいところだったけれど、言える雰囲気じゃない。敵意とも悪意ともつかない視線にさらされて、緊張しきったわたしは、かろうじて「いや」と言うのが精いっぱいだった。
その態度が気にくわなかったのか、アイシャドウの女が激昂したように言う。
「須藤の奴の事だよ! あんた、あいつが死ぬ前に会う約束してたんじゃないのか!」
「―――ッ」
息を、飲んでしまった。
動揺は明らかに顔に出たのだろう。四人は、獲物を見つけた肉食獣のように、反応した。
別に冷静だったわけじゃないが、この時の四人の様子を見て、彼らにも余裕があまりないことが見て取れた。
とはいえ、それが何になると言うのだろう。
耳元で、囁かれる。
「なあ、ミナ?」
爬虫類じみた気色悪い動きで、アイシャドウの女がすり寄ってくる。ゾワッと、鳥肌が立つ。やばい。こいつらはやばい。こいつらに関わるのはまずい。
足が、竦んでしまっていた。
髪の毛をギュッとつかまれる。ウィッグと地毛の間。手なれた風に引っ張られて、痛みに顔をしかめた。地味な、痛み。耐えられないほどではないけれど、時間が経つほどに苦痛は大きくなっていく。
「痛い目にあいたくなかったら、ついてきな」
「…………」
拒否権は、どう見てもなかった。
3
高校に入学して少し経った頃に、わたしは須藤と出会った。
須藤は二つ年上の先輩だった。一番初めの出会いは、六月にあった文化祭の実行委員での集まりだった。その時に、まあ彼の調子のいい口上に惑わされて、わたしは、彼が面白い人間であると勘違いしたのだ。
それは勘違いだったけれど。
本当に勘違いだったけれど。
いわゆる高校デビューで不良に憧れるような田舎娘よろしく、わたしは遊んでいる風の彼に惹かれた。実行委員の仕事をしている間に親しくなり、それから何度かプライベートで遊ぶうちに、自然と付き合う流れになった。
彼は受験生だったはずだが、わたしと一緒にいる時間はかなり多かったと思う。そして、本格的に付き合い始めてから、彼の学外での集まりを紹介された。そこで、春崎との出会いもあったりして、まあ色々やんちゃもしたけれど、悪い思い出ばかりとは言えない。大人になって振り返って、『あの時は若かった』なんて言えるような、そんな、若さゆえの過ちの日々だった。
けれど。
今わたしは、その過ちゆえに、危機に立たされていた。
その不良グループとの付き合い時代によくたまり場としていた、小さなバー。プールバーという種類で、ビリヤードをやることが出来るバーだ。店自体は営業を停止しているのだが、グループの一人が所有者と知り合いだとかで、よくたまり場としていた。
余談だけど、ここに通うようになって、わたしはビリヤードを覚えた。何気にうまいと自負している。
本当にどうでもいいことだけど。
そんなビリヤード台の脚の部分に、わたしは後ろ手に縛られて座らされていた。
支えだか何だか知らないけれど、腕の間にはビリヤードで使うキューを挟まれ、それと腕もビニールヒモで縛られている。映画でヒロインが囚われの身になっている時の様子を彷彿させる感じだ。
映画のヒロイン。
だけど、そんなものに酔っていられるほど、事態は思わしくはない。わたしには、助けに来てくれるヒーローもいなければ、シナリオによる身の安全も保障されていないのだから。
「いい格好してんね、ミナちゃん」
揶揄するように付け爪の派手な女が言う。ネイルチップと言った方がいいのかもしれないけれど、もうその爪が凶器にしか見えない。彼女はそんな爪をしていながら、器用に裁ち鋏を持って、わたしの前に立っていた。
「けど、随分無抵抗じゃん。何? あんたもしかして縛られるのが趣味? そう言えば、ここに来るまでも、あまり暴れなかったし、もしかしてドMちゃん?」
んなわけあるか、と言ってやりたいけど、手に持っている鋏が怖いから自重。
そもそも、ここまで来る間も別に無抵抗だったわけじゃないのだが、来る途中のアイシャドウの女が背中をつねってくるのが本気で痛くて、抵抗する気力が削がれていたのだ。
いや、マジで痛いんだって。
「んー。まだ反抗的? ねえ反抗的?」
顔をしかめているのが睨んでいるように見えたのか、女は鋏を開いたり閉じたりしながら、笑っている。
「立場が分かっていないようだったら、分からせろって言われてるしなー。どうしようかなー」
しゃきん、と大きな音を立てて、鋏が閉じられる。
女は詰め寄ってきて、わたしに鋏の刃を向ける。近づいて見て、こいつも化粧が濃いな、とどうでもいいことを考えた。下手な化粧の所為で、肌が荒れている。もったいない。
「しゃきん、と」
自分で擬音を発し、女はわたしの服を裂いた。キャミソールの胸元の部分が切られる。
「きゃははっ。なんだ、パッド付けてんじゃん。盛っちゃって。そう言うこと気にしてないと思ってたけど、可愛らしいところあんじゃん、あんたにも」
「別に、あんただって付けてるでしょ」
むっとして返してしまったが、言った後にしまったと思った。
しかし、相手はそれほど気にしていないのか、げらげらと下品な笑い声をあげて言う。
「緊張感ないねー。もっと怖がってくんないと、面白くないじゃん。ほら。それとも、女のあたしにされても、恥ずかしくない?」
チョキ、チョキ、と。
服が切られていく。
胸元はほとんど露出されていた。一張羅と言ってもいいスカートも、シュレッダーにかけられたようにジャキジャキと切れ目が入れられていた。
冷静に描写なんかしているけれど、はっきり言ってわたしは怖かった。怖い。その刃が、いつ自分の肌を斬りつけるか怖い。肉を貫き骨を断たれる痛みを想像して、幻痛すら覚える。
相手としては、わたしに羞恥心を感じてほしいみたいだけど、わたしにはそんな余裕はまったくなかった。ただ、怖かった。自然と震える身体を隠せなかったし、噛みあわずにガタガタ言う歯は、無理に噛み殺した。
どうしてこんなことになった。
それもこれも、全部須藤の所為だ。
「昨日、あんたの姿を見たって奴がいてねぇ」
ジョキジョキと。
片手間にわたしの服に切れ目を入れながら、女が語る。
「そっかあの辺なのか、って思ってたら、次の日には見つかりやがんの。きゃはは。まったく、須藤を急かしながら探してたあたしらが馬鹿じゃん。大馬鹿じゃん。まったくさぁ」
じゃきん。
下着の縫い目が切られた。
あまりふくよかじゃない、つつましい胸部がさらされるわけだけど、その瞬間にあっても、わたしは自分の肌が傷つけられず、痛みを覚えていないことに安堵していた。
不意に、別の声が入る。
「なあおい。いつまで遊んでんだよ」
これまで黙って端の方に立っていた男が、そんな風に女に茶々を入れた。
「上着も切ってくんねーと、胸が良く見えねーじゃんかよ」
「うるさいね。いいじゃん、どうせあんたら、今は手を出せないんだし、あたしが遊んでもさ」
「けど、ちょっとくらいいい目見てもいいじゃんか」
好き勝手に、やいのやいの言いながら、二人はわたしを弄ぶ。
その最中に、詳しい話を聞くことができた。
詳細をまとめるとこうだ。
三か月前。丁度わたしが須藤との連絡が完全に断った頃に、彼らは別のグループと深く関わるようになり、その時にドラッグを覚えたらしい。ドラッグをやり始めたら、当たり前だけど金がかかる。ドラッグを得るために、いろんな手段で金を集めていたらしいが、その手段の一つが、イカサマ麻雀だった。方法までは聞かなかったが、須藤はその麻雀で荒稼ぎしたらしく、それを怪しまれて本物のヤクザが参入。ことはどんどん大きくなり、最終的に麻雀で勝負をつけることになったのだが、その勝負で須藤は負けてしまったらしい。
実にゼロが七個つくくらいの負けだ。
まあ漫画とかだったらあと一桁か二桁くらい当たり前のように積みそうだけど、学生が百万単位の負債を背負ったら、正攻法じゃ返せない。公権力に泣きつくにしても、自身らも後ろ暗い面を持っているだけに、難しい。
そこで、須藤は一つの提案をした。
それは、わたしを売ることだった。
「須藤の奴言ってたぜ。ミナはヒロイン願望強いから、こういうことに巻き込まれたら、むしろ喜んじゃうって」
傍から観察している男は、面白そうに説明してくれた。
「親とも喧嘩しているし、俺たちのグループでもそうだったけど、人とは一定の距離を取っている。だから、いなくなってもそんなに心配されない。そんな風にも言ってたなぁ」
鋏が顔に近づけられる。
恐怖に思わず目を閉じると、しゃきん、と音がした。
ウィッグの部分が切られた音だった。
「ま、それで納得しちまうのもおかしな話だけどな。けど俺ら、マジでお前に賭けてたんだよ。そうじゃないと、下手したらマジで俺ら殺されそうだったから。なのに須藤の奴、『ミナの連絡先を知ってていいのは俺だけだから』とか言いやがって、隠しやがるし、挙句には、勝手に死んじまうしよぉ」
「ちょっとうるさい。手元狂うじゃん」
長々と語る男に、女が文句を言う。
じゃきん。
パラパラと、作り物の毛がわたしの周囲に散っていく。
「じゃじゃーん。出っ来上がり~。きゃはは。何これ。犯された後みたい」
自分のしたことがよっぽど気にいったのか、女はわたしの姿を見て満面の笑みを浮かべた
「似合ってんよ、ミナ。良かったね、悲劇のヒロインだね。ま、誰も救っちゃくんないけど」
「…………」
刃物の脅威が去って、心の中でそっと胸をなでおろす。
失禁しかけたのはここだけの秘密だ。
「あんたって、最初のころから、そう言うところあったもんね」
唐突に。
女が、イラついたような声で言ってきた。
「いっつも冷めた目をしてるって言うか、自分には関係ないって、一歩離れてるの」
「…………」
「斜に構えてる、って言うんだっけ? よくわかんないけど、そういう余裕ぶった態度、ずっとむかついてたんだよ」
女はイラつきを紛らわすためか、手の鋏を叩きつけるように床に落とす。
「そうかと思えば、急にテンションあげて、誰よりも騒いだりしてさ。演技だと思うのに、演技じゃない。そんなわけの分かんない性格も、須藤くんの言葉でやっと分かった。あんた、ただ役に酔ってただけなんだ」
役に酔う。
役を演じ、それに酔う。
まったく。うまい比喩をしてくれる。
「自分に自信がないから、演技してる。自分が普通だと思うから、特別なふりしてる。あんたはそれだけなんだ」
まあ、その評価自体は、否定できないんだけど。
イラついて言葉を吐いている女を、わたしは冷静に眺めていた。自然と、観察してしまっている。連ねている言葉の真意を。裏側の本音を。
彼女は、口では散々言ってくれているが、本心では、わたしの事を羨ましがっていた。わたしのどこが羨ましいのか分からないが、自身を制御できていることが、羨ましいようだった。
そういう彼女は、自分を抑えきれていない。ギュッと握った両手は、凶器のような付け爪が深く食い込んでいて、血が滲みそうだ。そんなにまで、彼女はイラついているのか、と、場違いなまでに冷静に思う。
まったく。
こんなわたしの、何が羨ましいんだろう。
「あんたなんか、ずっと雰囲気に酔ってりゃいいんだよ」
ずいっと、顔を近づけて女は言う。
「どうせ何にもなりゃしない。あんたの本性は隠せやしない。周りを見下していることも、自分だけは特別だって思っていることも、隠せやしないんだよ! きゃはは、そんなあんたの姿を、あたしらは笑ってるってのにさ!」
「……じゃないの?」
声が小さかったからだろうか。
女は怪訝な顔をする。
ああ、いいなこう言うの。
こういう、自分が優位に立っていると信じている奴が、勝手に追い詰められていくのは、見ていて爽快だ。
そして、それをひとことで突き崩せるのは、もっと爽快だ。
「酔ってんのは、あんたじゃないのって言ったの」
わたしは、普段誰かを見下してなんかない。
むしろ羨んでいる。
普通に普通を受け入れている人たちを、羨んでいる。――だからこそ、わたしのことを勘違いして評価する人だけは、遠慮なく、見下している。
「ヒロイン願望は否定しない。けど、酔ってんのは、あんたの方だよ。酔わないと――自分を、抑えられないから」
カアッ、と。頭に血が上る音が聞こえた気がした。
女の顔が真っ赤になったと思ったら、次の瞬間、わたしの頬に鋭い痛みが走った。平手打ちをされたと気付いたのはすぐ後だったけれど、痛みは、平手のそれではなく、鋭い爪によるものだった。
痛いのは痛かったけど、興が乗って来たわたしは、自然と挑発に及んでいた。
「ほら、図星」
その言葉に、ますます女は激昂する。
踏みつけるように、革靴でわたしの腹を蹴ってくる。胃の中の物を逆流させそうになるほどきつかったけれど、それはただの痛みだ。確かに延々と暴力を振るわれ続ければ、命の危険も見えてくるが、この程度では、まったく危なくない。
命の危険は、ない。
ただ、痛いもんは痛い。平手をされた左頬は、付け爪の所為で切れたのか、血が流れているようだった。ずきずきと生々しい痛みが断続的に響いている。あー。嫌だなこの感じ。ほっといたら化膿しそう。手当したいけど、無理かな。
のんきにそんなことを考えていたけど、女が床に落とした鋏を拾ったところで、一気に認識が変わる。すっと、背筋が冷えた。さっきまで余裕ブッこいていた精神が、急に委縮し始める。刃物は、やばい。それはまずいって。
「やめろ、おいっ」
さすがに見かねたのか、鋏を振り回しそうになった女を男が抑え込む。女は情緒不安定になっているのか、喚き散らしながら男の拘束を解こうともがいていた。
こう言うのもドラッグの弊害なのかなぁと、刃物の脅威が去ったわたしは、またも余裕を取り戻した。
見事な早変わり。
それと共に、くだらないなぁと思う自分がいる。
くだらない。
くだらないな、わたし。
さっき女を観察していて、女がわたしに対して羨望のようなものを抱いていたことは分かったけれど――羨ましいのは、こっちの方だ。わたしからすれば、そんな風に激昂したり我を無くしたり出来る方が、よっぽど羨ましい。わたしなんて――命の危機くらいでしか、自分をコントロールできないことなんて、もう無いのに。
なりふり構わない、必死さと言うのは、すっごい幸せだと思うんだけど、違う?
今のわたしは、服を切り裂かれて、あらぬ姿をしていて、もしかしたらこれから貞操の危機があるかもしれないし、それ以上に命の危険があるかもしれないのに――それでも、具体的な何かが無いと、なんとも思えないっていうのに。
危機感を覚えるふりをして、具体的に想像しないことには、何とも思わないっていうのに。
こんなわたしの、どこが羨ましいっていうんだろう?
「くっだらない」
くだらないなぁ、わたし。
冷めきったわたしを、再び恐怖の感情に落とし込んでくれたのは、それから間もなくのことだった。
まずバーに入って来たのは、アイシャドウの女と、最初にいた二人の男の内の片割れだった。
その後に続くように、ぞろぞろと四、五人。若い男女が、騒ぎながら入ってくる、
「話ついたよ。とりあえず数日様子見るってさ」
アイシャドウの女がそんな風に報告する。
「んで、その間好きにしていいってさ。もちろんあたしらの自己責任らしいけど、ま、殺さなきゃうまくやってくれるんじゃない?」
「ん? じゃあ使っていいってこと?」
付け爪の女を抑え込んでいた男が、興味深そうに聞く。
アイシャドウの女はあっさりと言った。
「ま、そのために他にも連れて来たわけだしね。これだけ騒がしかったら、一人レイプだったとしても、誤魔化せるっしょ」
「おお、わっかってる~。待ってた甲斐あったぜ」
何やら不穏な会話をしているが、まあだいたい何が起きるかは分かった。
うん。ま、汚れ役に落ちていくことになるんだろうけれど。
問題はそこから元の状態に戻れる可能性がゼロってことかな。悲劇のヒロインは大変結構だけど、救われるあてのない悲劇のヒロインは、ただのモブだ。ヒロイン願望は持っていても、わたしはそんなこと、まったく望んじゃいない。
なんて。
冷静に考えて。
反吐が出そうになって、ぐっとこらえた。
「ま、ここいらが年貢の納め時かな」
世の中、思ったよりうまくいかないってことだ。
最近はうまくいっていただけに、こんなオチは正直想像していなかった。まあ、死んだわけじゃないし、どこかで誰かが助けてくれるかもしれないし、それまでは存分に、汚れ役を楽しもうかな。
いやまあ、楽しめないけど。
ただ、夢中にはなれるかな。
役に浸ることは、できるか。
男が二人、わたしに近づいてくる。
後ろ手に結ばれた拘束を解かれ、わたしは床に組み伏せられる。
大した抵抗はしない。どうせなら、もっと怖がらせてほしい。もっと痛めつけてほしい。そうしないと、犯されている実感がわかないではないか。わたしを組み伏せた男に対して、心の中で罵倒する。ぬるいんだよ、短小が。もっと乱暴にして見せろ。
目が気にくわなかったんだろう。顔を殴られた。と言っても、そんなに強くない。軽くはたくくらいだ。何だ? 撫でたのか今のは?まったく、加減が分かってないな。暴行を振るうんなら、もっとだよ。もっと、もっと、もっと、もっと! めちゃくちゃにして見ろよ。わたしを壊してみろよ。そんな覚悟もなく、レイプなんかしてんじゃないよ。殺す覚悟もなく、乱暴なんかするな。
二人掛かりでこの程度か。
そんな風に、もうほとんど諦めかけて、ただ相手の行為が終了するのを待とうと思って身を任せかけた。
その時だった。
「――――ん」
異変。
最初の異変は、焦げ臭さだった。
始めは錯覚かと思って、無視していた。
けれど、室内に軽く煙が立ち込めているのを見て、それを錯覚と思うのは、さすがに難しい。
「火事だっ!」
その声は、どこから響いたのか。
これからさあ行為に入りましょうという空気になっていた室内は、その一言でたちまちパニックに包まれた。
誰もが、出入り口に殺到し始めた。
しかし、裏口は建てつけが悪いのか、少しまごついている。押しても引いても、叩いても蹴っても、なかなか開く気配がない。もしかしたら、外に邪魔になるモノがあるのかもしれない。
ならば表と、誰もが表玄関見た、その時だった。
ゆらり、と。
入口に、一人の人影が立っていた。
ソイツは、存在感がないように、ゆらりと立っている。
まず目に入るのは、赤色だった。くすんだ赤色の、ボロボロの外套を羽織っている。下には濃い紫のトレーナーに、黒いトレーニングパンツ。目深にかぶった帽子の所為で、顔はよく見えない。
それは、幽鬼のように自然とその場にたたずんでいた。
「な、なんだ、ソイツ」
思わずと言った調子で、誰かが、そう呟いた。
まるで、その言葉を待っていたかのようだった。
その赤い人影は、瞬間的に動き出した。
沈み込むように室内に入り込んだソイツは、初速から減速することなく、まず手近な一人を思いっきり突き飛ばした。
突き飛ばされた男が、大きな音を立ててカウンターに突っ込む。
呆気にとられている周囲をしり目に、その人影は、身体をばねのようにひねると、すぐそばに居た女の頭を鷲掴みにして思いっきり床に叩き伏せたのだ。
その動きは人間離れしていて、まるで映画でも見ているようだった。
踊るような優雅さと、一撃で獲物を仕留める野生。そうしたモノを感じさせるような、荒々しくもスタイリッシュな動き。
立て続けに二人を襲った後で、ソイツは迷わずに駆けだした。目標は、どうやらわたしのようだ。ソイツはわたしに近づくと、わたしを拘束していた男に向けてとび蹴りを放った。
「さあ、立って!」
ソイツはわたしの腕を持ち上げると、表玄関の方に引きずった。急な出来事に頭が追いつかないわたしだったが、とりあえずその手に従うことにした。
入り口に目を向けて、見知った顔を見つけて驚く。
――蒼井が、入り口の所に居た。
入口までたどり着くと、蒼井が急かしてくる。
「早くしろ! もう火がかなり回ってる!」
「う、うん」
何が何だか分からないが、追及するのは後だ。今は逃げることを優先しなければ。
死んでしまう。
「さて」
その時、赤い人影が、蒼井に対して言った。
「そんじゃ。ハルちゃんのことは任せたよ、紫。ここから先は、あたしがちゃあんと足止めしてあげるから」
「おい」
蒼井が、赤い人影に向けて言った。
「殺すなよ。きつみ」
その言葉で、ようやくわたしは、赤い人影の正体に思い当った。
「はッ。殺すな、ですって」
彼女は――
高浪きつみは、快活そうに笑い捨てると、バッと、帽子を脱ぎ捨て、外套をはためかせた。
いつの間にか、彼女は手に無骨なナイフを握っていた。
軍用に支給されるような、ファイティングナイフ。それも、鞘に仕舞う両刃のシーサーナイフで、その造形は、肉を切り骨を断つことに特化している。滑り止めのためのグリップには、何やら英字が刻まれており、高浪の手にフィットしていた。
彼女はナイフを水平に向けながら、室内へと戻っていた。
「殺すな、だなんて。誰が、誰に、物を言ってんだかねッ!」
室内は、阿鼻叫喚と言う様相だった。表の入口は、高浪が塞いでいて、裏口は押しても引いても開かない。何とか突き破ろうと扉に体当たりを始めている人間もいた。
そんな地獄に、向かいながら。
「サイコがジャンキーに言うセリフじゃないねぇ。まったく、どの口が言うんだか。お前が言うなってのは、まさしくこういうことじゃない? 紫」
「きつみッ」
鋭い蒼井の声。
それに、高浪は軽く舌打ちをした。
「……ちぇ。分かったよ」
ちらりと、顔を半分だけこちらに向けながら、彼女は言う。
「紫に免じて、三分の一遊ぶくらいで我慢してあげる」
そして、高浪は正面からバーの中に入っていくと、楽しそうに笑いながら宣言した。
「さあ、存分に逃げな獲物共! そこのお人好しに免じて、殺すのだけは勘弁してやるからさ。逃げるも地獄、向うも地獄だったのに、こりゃ随分と好条件じゃないか。だから――死ぬ気で逃げな、有象無象どもッ!」
さあ。
狩りの時間だ。
そこまで聞いたところで、わたしは蒼井に手を引かれて、その場を去った。
高浪の哄笑が耳に響く。
その笑い声は、暫くの間、耳元で鳴り続けていた。
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