第6話 二章 語り部ごっこ その2 オンリーワンの無情
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思った以上だった。
蒼井茜という人物は、わたしが想像した以上に、面白い存在だったと、今なら胸を張って言うことが出来る。
自己評価と他者評価の違い、と蒼井は言ったが、確かにその通りなのだろう。わたしが見た蒼井茜という人物と、蒼井茜本人の本質には、やはりズレがあった。始めにわたしが期待していた彼のキャラクターは、小説や漫画などで語られる異常者のようなものだったのだが、現実の彼には、そこまでの強烈な個性は無かった。
代わりに、堅実なまでの自我があった。
当たり前だろう。高校生ともなれば、アイデンティティは確立され、それぞれが自身の価値観というものを意識し終わった頃のはずだ。だからこそ、テンプレ通りに測れるような個性があるわけがない。彼の語る価値観は、元はどこからか持ってきた借り物の思想かもしれないが、それを真顔で語る彼は、間違いなく蒼井茜という個人だった。
殺人鬼というキャラクターではなく、蒼井茜という異常者。
ここで異常者などという分かりやすいワードを気軽に使ってしまったら、そんなことを一々強調するなと怒られてしまうかもしれないが、そこに関しては看過してもらうしかない。わたしが彼から感じている強烈な違和感を分かってもらうのに、これ以上の言葉をわたしは知らないからだ。
社会に溶け込み、適応しているからこその違和感。
殺人と窃盗について、彼は同一であると語った。それは、言われてみれば確かにその通り、どちらも同じ犯罪である。いけないことはいけないことだ。――しかし、逆に考えてみると、彼の言っていることは、窃盗を行うも殺人を行うも、同じであると言っているようなものだ。
極論、彼は消しゴムを盗むのと、人を刺すのは同じと考えているようなものだ。
いや、さすがにそれは言いすぎかもしれないけれど。
蒼井は、犯罪という視点で見たらどちらも同じであると言ったが、それは要するに、犯罪の被害を二の次として、倫理的価値観から見て、その二つをひとまとめにしてしまっているのである。つまり彼は、内容を見ていない。
理論としては正論かもしれないが、場合によってはとんでもない間違いであるとも思う。
とまあ、わたしがあれこれ考えたところで、彼の真意が分かるわけでもない。わたしは、人を観察するのは得意だが、人の思考を読むことが出来るわけじゃないのだから。
ただ、外見的な彼の様子を見ていて分かるのは、彼は、何かを特別視することがない、と言うだけの事だった。
はっきり言って、彼は他人をどうとも思っていないのだろう。
わたしが言えた義理ではないかもしれないが、それは、日常生活を送る上で大丈夫なのかと、心配になってくる。
しかしそんなことはもちろん杞憂であって、翌日、蒼井は当たり前のように学校に来て、いつものように教室で本を読んでいた。
昨日、あの後も取りとめもなく話をして、その中にはかなりきわどい話もあったのだが、それでも彼は、当たり前のような顔をして学校に来るのだ。
とはいえ、考えてみればこれまでの生活でも、彼は普通に社会に適合していたのだから、わたしの心配が無意味なものであることは明白である。昨日の会話にしても、殺人現場で鉢合わせした後に学校に来ることから比べると、そう不思議なことではないだろう。
まったくもって、わたしが言えた義理ではないけれど。
わたしもわたしで、昨日の事なんて無かったかのように、いつも通りの学校生活を送った。
もう少しで三学期も終わりとなると言うこともあって、教室内はどこか浮き足立っている雰囲気に包まれていた。こうした空気は、落ちつかないけれど嫌いじゃない。なんだか、自分がなんでもできるような、楽しい気分になれる。
昼食時。
笠倉と立川、そしてその他数人の女子と共に食事をとりながら、取り留めもない雑談に花を咲かせる。
女子が恋愛の話ばかりをしていると思われると癪だが、集まるメンバーによってはあながち間違いでないところが始末に負えない。わたし自身は、それほど異性への感情は薄いと言うか、須藤との付き合いの経験で食傷気味なところがあるため、語れることは少ないのだが、進んでいる子は進んでいる。
のろけ話は軽い前菜。陰口は甘美なデザート。
生々しい体験や同調は乾杯のワインで、主食となるのは、嘘か真か分からぬ噂話だ。
妊娠。結婚。堕胎。出産。
そこそこの進学校であるわたしたちの周りにも、そうした噂はついて回る。女子にとっての恋愛は、夢物語と現実が完全に二分している。自身が語る経験は乙女が語るような夢物語の恋愛であるが、噂話として上るのは生々しい現実だ。それは、自分たちがそうした現実と隣り合わせでいると言う、確かな実感の元に成り立っている。
だからこそ、盛り上がる。
半端なリアリティがあるからこそ、それは麻薬のように癖になる。
「覚えてる? 一年の二学期に辞めた春崎」
「あー。確か東高に行ったんだっけ」
「それがね、そこもやめて結婚するらしいよ。それも、二十くらい上の人」
「うわ、おっさんじゃん」
「なんか売りでできちゃったんだって。責任とってもらうってことじゃない?」
「うわー、悲惨ー。同情するわ、ホント」
好き勝手に、彼女たちはその話題を消化する。
あたかも食事を消化するように、話題を消化する。
菓子パンをかじりながら、相槌とも言えないようなうなずきを見せつつ、わたしはぼうっとそんな会話を聞いていた。
そういえば。
件の春崎さんを最近見たなぁ、などと思いながら。
その話題はそれだけで、すぐに別の話に移った。悲惨だの同情だの言いながら、みんな心から同情しているわけもなく、ただ優越感入りの憐みを込めた『話題』として、処理された。
そんな彼女たちを横目で見ながら、わたしは皮肉気に思う。
彼女たちは知らないのだろう。
その春崎さんが、笑顔で、そのおっさんと、街中を幸せそうに歩いていたことを。
作り物ではない、本物の笑顔を。
他人の幸せなんて、知ったことじゃないとは思うけれど、あの笑顔には、わたしでさえ、思わず嫉妬してしまったくらいだ。
噂話は生々しい現実で、自身の恋愛はお花畑の夢物語。
どちらも真実で、どちらも虚構。
どっちが幸せなのか、なんて語るのもおこがましいけれど、一つだけ言えることがある。
どちらか片方に傾倒できなければ、間違いなく不幸であるということだ。
わたしは――春崎を笑うこともできなければ、彼女の幸福を真面目に羨むこともできない。
あんな風に割り切れたらいいのに、とため息をつきながら、次々と移り変わっていく友達の話に耳を傾ける。
物事を斜に構えて見ているつもりはない。
けれど、やっぱりどこか、悟った風に冷めた目で見ている自分がいるのだった。
面白くない。
息をつく。
面白く、ない。
だからわたしは、面白さを求めて、その日の放課後も体育倉庫に向かった。
別に、今日は蒼井に声をかけてはいない。何かあると、わたしはよくこの場所に来るだけの話だった。今日に限っては、少しでも、昨日の余韻を感じることができればいいなと、そんな淡い思いがあった。
蒼井茜という存在に触れた、高揚や興奮。
俗に染まりきらないと言うのは、アウトローと言えば聞こえがいいが、単に中途半端なだけである。
そんな中途半端なわたしは、だからこそ、突き抜けた何かに憧れるのだ。
自然と、昨日の蒼井との会話を思い出した。
「ナンバーワンよりオンリーワン、って言葉が昔流行ったけどさ」
どういう話の流れだっただろうか。
昨日、蒼井に対して、わたしはこんな風に語った。
「大抵の人間は、オンリーワンになんかなれないよね。誰かの影響をまったく受けない人間なんていないんだし。そんな、影響を受けまくったつぎはぎだらけの個性で、オンリーワンを語るなんて、可笑しいと思わない?」
何気ない風を装って言った言葉だったけれど、それは切な本心だった。わたしは彼女たちとは違う、とクラスメイトたちを見ながら思ったとしても、わたし個人が大きな特異性を持っているわけではない。人と違うアピールをして、必死に格好つけているだけ。
それに、蒼井はこう答えた。
「自分でそれを決めようとするから、滑稽なんだ。ナンバーワンもオンリーワンも、言葉を変えただけで一番になることに変わりはない。どちらにしても、他者が評価してはじめて、定まるものだろう」
「オンリーワンは違うんじゃないの? 一人ひとり違うんだって、そう言う意味じゃん」
「その『違い』を自分で定めたところで、他人から一緒だと見られたら、意味はないだろう。知らないアイドルグループの顔が、全部同じに見えるのと一緒だ。個性を認めるには、深く追求をして差別化しないといけない。そうして初めて、オンリーワンは認められる」
「その考えだと、興味を持って接さない限り、物事は全て同一のもの、って言っているのと変わらないんじゃない?」
「そう言っているつもりだ。そもそも、これだけ雑多に物事があふれている中で、たった一つなんてものが、そうそうあるわけがない」
言われてみればその通り。
というか、言われるまでもないことを、改めて言葉にされた気がした。
けれど、それを真顔で言えると言うのは、やはりどこか大切な機能が狂っているようにも思う。蒼井にとって、特別なものはないのだろうか。
「わたしは、特別になりたい」
気がつけば、わたしはそんな風に、願望を吐露していた。
それをバッサリと切る、蒼井の言葉。
「なら、誰かに認められる自分になるんだな」
その言葉は一見厳しいけれど、その実、何の気持ちの入っていない、ただ事実を語っただけというものだった。
そういう言葉だからこそ、わたしは、蒼井をすごいと思う。
平然とそれを語れる蒼井が、うらやましいと思う。
少なくとも私は、蒼井の事を、オンリーワンだと認めていた。彼の代わりなんて他にいない。強烈な個性。それは、後々構成された自我よりも、もっと根底にある要素が為すもののように思った。
そんな風に回想をしながら、わたしは跳び箱に背をあずけて、深く座り込む。
風が流れている。
建物のひさしに隠れるように作られているだけあって、この体育倉庫は窓や扉が塞がれていない。ほとんど骨組みに壁を作っただけのようなもので、はっきり言ってしまうと、密閉されていない。
ふと、気が抜けた。
意識よりも先に、指先がポケットへと動いていた。
ポケットに忍ばせていたライターを取り出し、続けて、財布の中に一本だけ隠し持っていた煙草を取り出す。
喫煙に手を出したのは一年のころだ。
あまりよろしくない人間関係の所為でもあったけれど、単純に面白そうだから、という理由の方が強かった。中毒になるほどは吸っていない。と、思う。一週間に一本くらいだろうか。定期的に吸っている時点で中毒だと言われたらそれまでだが、一応、自重はしているのだ。
ただ、こうしてふと気を抜いた瞬間に、無性に吸いたくなる。
しばらく使っていなかったからか、ライターのオイルが気化して残り少なくなっていた。何度か挑戦して、やっとのことで火をつけると、すぅ、と息を吸い込む。
肺に煙が流れると共に、ふわぁ、と意識が浮き上がるような気分に見舞われる。
その後に来るのが、頭の奥がピリピリと痺れるような感覚。全力疾走した後の酸欠になった時のような、不思議な心地よさ。
タール量一ミリだからそれほど強いものではないのだが、そんなにしょっちゅう吸っているわけではないので、これでも十分に効く。頭がくらくらする感覚は、癖になる。
癖になるのは一口目だけだ。二口目からは、それほどではなくなる。あまり長いこと煙をくゆらせていると危険なので、わたしは早々に火を消した。
しかし、一瞬遅かったようだ。
「……何してんだ、お前」
声にハッとなる。
慌てて正面を見ると、入り口のところに蒼井が立っていた。
え、なんで?
呆けたようにわたしは蒼井の姿を見る。
ど、どうして彼がここにいるんだろう。別に呼び出したわけでもないのに。
「え、と」
彼の様子を盗み見る。無表情、というよりは、少しだけ冷めた目をしているように思う。
そんな彼は、冷淡な口調で一言。
「タバコか」
「う」
やっぱり見られていた。
蒼井が周りに言いふらすようなタイプだとは思えなかったが、しかし事がことである。校内で喫煙していたなんて、普通なら停学ものだ。言いふらすとは思えなくとも、黙っているとも確信できなかったため、どう言い訳するかを、焦った頭で必死に考える。
そんなテンパったわたしを見ながら、蒼井は呆れたようなため息をひとつついた。
「タバコを吸って許されるのは、フィクションだけだ」
「……は?」
思いがけない言葉に、頭が真っ白になる。
蒼井は自然な様子で体育倉庫の中に入ってきて、手ごろなマットの上に座り込んだ。手には、ここで読むつもりなのか、新書サイズの本を一冊持っている。我が物顔である。随分とリラックスした様子で、彼は言葉を続けた。
「創作上のギミックとしては格好いいが、現実で見ると、喫煙というのは醜悪でしかない」
「え、っと」
「喫煙者はすべからく死滅すべきだ」
「そ、そこまで言いますか」
思わず敬語だった。
いや、仕方ないじゃん。だって、結構焦っているんだよ。
気を抜いていたとはいえ、不用心この上なかったと真剣に思った。相手が蒼井だったから良かったものの、もしこれが教師の誰かに見つかりでもしたら、どうしたつもりだったのだろうか。あんまり成績のよろしくないわたしは、それこそ停学だけで罰が済まない可能性もある。
…………。
高校生活残り一年にして、退学?
「あのー」
と、そこでちょっとだけ不安になったわたしは、最大限に気を使って蒼井に呼びかける。
手元の本に目を落とし始めていた彼は、目線だけを上げて、無言のままこちらを見る。
「つかぬことをお聞きしますが、えっと、黙っててくれますよね?」
敬語。
下手に出て助かるのなら、幾らでも下手に出る。
しかし、そんなわたしの心配も杞憂だったようで、蒼井はそっけなく言った。
「興味ない」
「さ、さいですか」
助かった。
妙なところで小心者なわたしである。
蒼井はというと、ほっと胸を撫で下ろしているわたしなんて眼中にないように、さっそく手元の本に目を落として、こちらに見向きもしなくなった。
「……まさか、本を読みに来たの?」
「ああ。悪いか」
あっさりと言ってくれやがる。
しみじみとした様子で、蒼井は続ける。
「いい場所を教えてもらったからな。放課後の教室は、少しだけ煩わしい。その点、ここなら雑音だけで済む」
「雑音って、わたし?」
「……そこまで自分を卑下するなよ」
ひたすら自虐的になっているわたしの言葉に、蒼井が呆れたように言った。
まあ、彼の言うところの雑音というのは、すぐそばの体育館内から聞こえてくる部活生たちの活気のことだろう。確かに、教室の騒がしさとは違って、こちらは本当の意味での『雑音』でしかないから、集中の阻害になることはない。
わたしは跳び箱の上に座ったまま、マットに座り込んでいる蒼井の姿を見る。すぐそばに人がいると言うのに、随分と集中して本を読んでいるようである。
なんだか存在そのものを無視された気がして癪だったので、思わず憎まれ口を叩いてしまう。
「本を読むなら、家に帰って読めばいいじゃん」
「家の方が集中できない。家庭の事情だ」
「ふぅん。複雑なんだね」
「複雑じゃない。普通だよ」
なんだか、その言葉は平淡ではなく、少し優しげに感じた。
「複雑じゃない家庭なんて、ないのと一緒だ」
そう言って、蒼井はまた本に集中を始める。
そろそろ邪魔をするのも悪い気がしてきて、わたしは彼の姿を観察するにとどめた。
なんとなく、去りにくかったのだ。
だから、その情景はおそらく、傍から見たら随分おかしな図に見えただろうな、と思う。
方や熱心に本に目を落として、方やその姿を眺め続けている。恋人同士なら、同じ時間を共有していると言うことでロマンチックとでも言えるかもしれないけれど、わたしと蒼井はそんなに親しい仲じゃない。昨日はついうっかり深いところまで話をしてしまったけれど、所詮は一日程度の付き合いである。
けれど、この時間は飽きないものだった。
わたしが普段求めている面白さや奇抜さからかけ離れた、静かで面白みのないもののはずなのに――わたしはいつまででも、彼の姿を眺めていられると思った。こんな気持ちになったのは、これまで手当たり次第に築いてきた人間関係の中では、珍しいものだ。
異性としての魅力があるかと問われれば、無いと答える。
それは、容姿とか性格とか、そういう些細な問題ではなかった。ただ、蒼井のことを恋愛の対象としてとらえていないだけの話だ。友達や知り合いというのとも、少し違う。わたしにとって、彼は遠い存在だった。
だからだろう。こんなにも、彼と居ると落ちつく。
まるで一人でいるような気分になれて、落ちつく。
ぼぉっと眺めながら、彼の手元の本の表紙に目を向ける。なんとなくカバーの様子が気になっていたのだが、タイトルを見ると、以前自分も読んだことがある本だった。人気ミステリのシリーズ物の二作目で、中でも人気のキャラクターが登場する巻だ。
蒼井はその本を、傍からは楽しんでいるのか分からない無表情で読み進めていた。
やがて、五時半を過ぎると、辺りが暗くなってきて、本を読むのは難しくなった。まるで時間が経つのを待っていたように蒼井はパタンと本を閉じると、マットから立ち上がった。
「そのシリーズ、好きなの?」
タイミングを見計らって、わたしはそう問いかけた。
「ああ」
普段に比べると、少しだけ抑揚のこもった返答が返って来た。
「適当に手に取った作家だったんだが、思いのほか、面白かった。今、珍しく最初から集めているところだ」
「わたしも、その人の本、全部読んでるよ」
かつてはわたしも、活字中毒者として乱読に時間を費やした身である。知っている作家であるのなら、語らない道理はないと思った。
「蒼井は、そのシリーズは読んでる途中?」
「ああ。だから、ネタばれはできればよしてほしい」
「大丈夫だって。さすがにその辺りのマナーはわきまえているつもりだから」
「そうか。よかった」
「犯人はメイドのゲートベルだよ」
「…………」
ものすごい形相でにらまれた。
「あ、いや。嘘だからね?」
その表情があまりに本気だったため、思わず言い訳を始めてしまう。
「は、犯人はヤスとか、そういうネタだからね? ってか、メイドさんとか出てこないでしょその話。それに、ゲートベルとか明らかな外人出て来ないじゃん」
しどろもどろ。
だってめっちゃ怖いんだもん。
いや、本当に嘘だからね?
「……ふ」
蒼井は、わたしのそんな姿を見て、急に頬を緩めた。
「ふふ。分かってる」
それは、冗談だと分かっていた、という意味だろうか。
普段があまり表情を表に出さないからか、彼の頬笑みは新鮮で、場違いにも「お、いい笑顔」なんて考えてしまうくらいだった。
まあ、さっきの怒りの表情が強烈だったから、そのギャップもあるのだろうけれど。
「それはあれだろ。別シリーズの」
「な、なんだ。ちゃんと読んでるんじゃん。話通じないのかと思ってビビっちゃったよ」
「その作品から読み始めたからな。とはいえ、まだシリーズも二つ目だ。他の作品のネタばれするんじゃないぞ」
真面目くさって忠告してくる蒼井が何だか可笑しくて、わたしは笑いながらうなずいた。
初めて。
そう、初めて、彼の人間臭いところを見た気がした。
その後は、なんとなしに小説の話をしながら一緒に下校する運びとなった。どうやら蒼井は電車通学らしく、駅付近までは帰り道が一緒だったのだ。
変に意識する、と言ったことはまったくなく、なんというか、わたしは水を得た魚のように蒼井としゃべり続けていた。思えば、この時ほど、余計なことを考えずに、純粋に目の前の事を楽しめていたことは、ここ数年無かった気がする。
あまり読書をしなくなって一年以上になるけれど、それでも、会話のネタは尽きなかった。本好きの性と言うべきか、蒼井にしても、普段のつまらなそうな様子からは想像できないほどに、受け答えをしっかりと返してきた。
後になって、冷静に考えてみると。
わたしにとっての幸せというのは、こんなところにあったのかもしれない。
もっとも――もう引くに引けないようなところに立っているわたしには、意味のない、幻想のようなものだけれど。
「それじゃあ。またね」
「ああ。また明日」
ひとしきり語り、名残惜しむ気持ちはあったものの、さよならはあっさりと告げられた。
ただのクラスメイトとの、下心のない不思議な時間は、そうしてあっさりと過ぎていく。
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