第5話 二章 語り部ごっこ その1 蒼井茜の殺人鬼論


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 鬼ごっこする者、この指とまれ


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 蒼井茜。

 同い年の男子。二年生から同じクラスのクラスメイト。けれど、これまで直接的な接点はほとんどなかったと言っていい。活発な男子なら嫌でも接点が出来るけれど、彼のように大人しく、物静かな男子とは、話すことも少ない。

 わたしが知る彼の姿は、いつも自分の席で本を読んでいるところだった。

 わたしも、昔は活字中毒者としてむさぼるように本を読んでいた時期があるから、自然と彼のことは気になっていた。彼が読んでいる本は、ぱっと見ただけだと、ジャンルに関係はないらしい。小説が多いかと思えば、この間は科学雑誌を読んでいたし、ファンタジーやSF、時代物と、一昔前のわたしのように、手当たり次第に読んでいる節がある。

 しかし、その程度の興味では話しかけるということもなく、結局この一年間、挨拶や事務連絡くらいでしか言葉を交わしたことはなかった。

 そんな彼と衝撃的な出会いを果たして、夜を二回過ごした。

 月曜日。

 学校に行くと、彼の姿があった。

 自分の席に座って、文庫を読んでいる彼の姿をみつけた。

「…………」

 予想通りと言えば予想通り。

 予想外と言えば、予想外だ。

 あんなことがあった後に登校してくるなんて、どれほど太い精神をしているのだろうか。

 まあ、その点に関しては、わたしも他人の事を言えた義理はないだろうけれど。

「おっす、おはよー。コバ」

 笠倉が声をかけてきた。

「どうかしたの、コバ? 昨日メールしたのに」

「ホント? ごめん、充電し忘れてたかも」

 他の子は学校に持ってきているけれど、わたしは携帯を持ってくることは少ない。というか、ちょっとした事情もあって、あまり携帯自体を触らないので、そのまま放置していて忘れてしまっていたのだろう。

 それに、昨日はそれどころじゃなかった。丸一日、根を詰めて、今後のことを考えていた。

 未来は希望に包まれていると、今言われたなら、わたしは素直にそれを信じると思う。

 それくらいに、今のわたしは舞い上がっている。

「ねえ。また変なこと考えているんじゃないでしょうね」

 笠倉が怪訝そうに話しかけてきた。

「あんた、なんか興奮しているみたい」

「そう? まあ、いいことはあったかな」

「……通り魔六件目のこと?」

 お、話が早い。とわたしは気分が良くなる。

「なんだ。コミも知ってるんだ」

「そ、そりゃあ知ってるよ。だって、随分話題になってるもん」

 わずかに動揺する仕草を見せながら、笠倉は言った。

 通り魔連続殺人事件、六件目。

 発見は今日、二月二十六日。

 被害者は市内大学一回生、男性、十九歳。場所は、駅北西側の廃ビル内。死因は頭部打撲による脳障害。また、死後刃物による死体損壊が行われており、耳が削ぎ落されていた。

 これまでと同様、死体の一部の切除と、共通のメッセージが残されていることから、一連の事件と同一犯として調べられている。

「六人目ってなると、さすがに大騒ぎだよね。なんか、学校の方も放課後は強制下校だってさ。部活とかも早めに終わらせられるらしいよ」

「そりゃそうだ。集団下校なんて歳じゃないけど、物騒なんてレベルの問題じゃないしね」

 笠倉の言葉に受け答えしながら、わたしはほっと息をつく。

 どうやら、その六件目の被害者が須藤であることは、まだ知られていないようだ。

 須藤はこの学校のOBなので、彼の名前を知っている人間は、この学校に少なくない。それに、仲のいい笠倉や立川なんかは、須藤とわたしの関係は少なからず知っているため、もし名前が判明していた場合は、淡白な反応を取るのはまずいと思ったのだ。

 事件を楽しんでいるのは、それがあくまで対岸の火事だから、と思われないといけない。もし、被害者が須藤だと分かっていて楽しんでいるのを知られたら、さすがに問題があるだろう。

 もちろん、すぐに被害者が須藤だということは分かることだろうけれど、その時にショックを受けた演技でもすればいい。

 ただ、今の興奮を引きずった状態では、その演技も難しそうだった。

 笠倉がぼやくように言う。

「うちもさ、父親がうるさいんだよ。今まで門限なんて一度も言ったことなかったくせに、六時までには帰ってこい! だってさ。六時って、小学生じゃないんだから」

「まあまあ。それだけ心配ってことじゃない? いいじゃん、わたしの方なんて、まったく何も言ってこないよ」

 母とは冷戦中だから当たり前だし、父とは不干渉なのでこれまた当たり前だ。それに、仮に何か言われたとしても、鬱陶しいだけだけれど。

「しっかし、ここまで続くとさ、いろいろ問題だよね」

「問題、って言うと?」

 問題ならたくさんあるとは思ったが、笠倉が言わんとしていることが分からなかった。

 笠倉はどう言っていいのかと逡巡した後、こう言った。

「こんなに殺されてるとさ。模倣犯とかも出てきそうじゃない? 例の殺し屋さんの奴とかも、まぎれてたりして」

「ああ、あの都市伝説の」

 例の殺し屋の話だ。

 そういえば、こないだも笠倉に言われて思い出したんだっけ。最近は聞かないと言うのに、随分と気にするんだな、と思った。

「よく覚えてたね、そんな話」

「うん。だって、なんか怖かったし」

 そんな風に、曖昧に言葉を濁す笠倉だった。

 そう言えば――その噂が流行っていた時、笠倉だけは、その話題を避けるようなことをしていた気がする。

 殺し屋。

 そして、殺人鬼。

 どちらも食指をそそる要素ではあるけれど――しかし、今の優先度でいえば、具体的な相手が分かっている方が、高かった。

「ねえ、コバさぁ」

 笠倉が、続けて何かを言おうとした。

 と、そこで、予鈴が鳴った。

 笠倉はまだ何か言いたそうにしていたが、大した用ではなかったのか、すぐに口を閉じる。お互いに会話を切りあげて、各々の席に戻った。

 通り魔殺人の話は、話題としては盛り上がるものの、予鈴とともに終了するような、ちっぽけなものだった。

 身近な凶悪事件に対する一般市民の反応なんて、こんなものだろう。殺人鬼がこの街にいると言われても、自分が殺されることなんて、誰も想像しやしない。殺し屋の話にしても同じだ。

 誰もが、自分は第三者だと思っている。

 それが正常だし、それが当たり前。

 わたしも、それが常識であることくらい、ちゃんと分かっている。

 けれど――

 その半面、みんなと違うことを考える自分がいたりする。

 そっと、わたしは蒼井茜の席を盗み見た。

 あの殺人現場での出会いから、平然と学校に登校している彼。彼の異常性を考えると、そうした行動もおかしくはないのだろう。

 わたしの観察眼がはっきりと告げている。

 彼は、殺すだろう。

 殺す理由も必要とせずに、あっさりと、命を獲る。

 だからこそ、この教室内で殺されない人間なんて、居ないのだ。誰もが、第三者でなんていられない。いつ被害者になってもおかしくない。そんな、凶悪なまでの異常性。

 彼のような存在を、今まで完全に見過ごしていたことに、わたしは驚きが隠せなかった。一昨日の出会いから、彼を注視するようになったのだが、その恐ろしさに身体が震えそうになる。わたしは、こんな恐ろしい化物と、一緒の教室でのうのうと勉学に励んでいたというのか。

 むくむくと、興味がわきあがってくるのが分かる。

 彼の事を知りたいと、わたしは思った。

 これまでまったく意識もしていなかったクラスメイト。それなのに、今わたしの心をつかんで離さないのは、彼という存在だ。彼と話がしたい。そう切に思った。

 思ったなら、行動する。

 一日の授業を、わたしはそわそわしながら、耐えるように過ごした。浮き足立っているのを我慢して、ひたすら放課後を待った。

 そして、待ちに待った放課後が来た。

「コバっちー。今日どうするー?」

 能天気そうな声で立川が近づいてくる。

「コミちゃんは生徒会あるってさ。先に帰っててって」

 笠倉は生徒会役員だった。

 対照的に立川やわたしは普通に帰宅部なので、こういうときはさっさと帰る。

 しかし、今日は彼女と帰るわけにはいかない。

「ねえねえ、どこか寄って帰ろ?」

「ごめんっ、アヤ。わたし、今日用事あるんだ」

 両手を合わせて、大袈裟なまでに謝って見せる。

 口から出まかせが、流れるように出てきた。

「英語の補習プリントがあって、取りに行かなきゃいけないの。ほら、わたし学期末の点数が悪かったから。だから、ごめんっ。先に帰ってて」

「ちょっとくらいだったら待つけど、時間かかる?」

「分からないけど、だっておばちゃんだし」

 英語担当で、学年主任の教師である幸田は、定年間際のおばちゃん先生で、すこしヒステリックなところがあったりする。

「明日にでも埋め合わせするから。ねっ」

「う~。わかったよぉ。あーあ。一人ぼっちか」

 分かりやすくうなだれて、立川は帰りの準備をし始めた。わたしは自分の机で課題でもやる振りをしながら、彼女が帰るまで待つ。

 教室から、ちらほらと人が消えていく。

 彼には、あらかじめメモ紙で、放課後残っているようにという伝言を残しておいた。先に帰ってしまうかもしれないという心配はあったが、予想に反して、彼は残っていてくれた。

 自席に座って黙々と手元の本のページをめくっている蒼井の背中を見ながら、わたしは人が減るのを待った。

 ある程度教室の中の人口密度が薄くなったところで、わたしは彼の席に近づく。

「ねえ、蒼井くん」

 呼びかけにこたえるように、ゆっくりと、わたしの方を振り返ってくる蒼井。

 生気の薄い、深く沈みこむような瞳が、眼鏡越しにわたしの姿を映した。

 極力それを無視して、わたしは余裕を持った態度で言った。

「話があるんだけど」


 2


 うちの学校の体育館は校舎の裏手にあり、二階建てというちょっとした大きさの建物である。

 コートは一階と二階にそれぞれ二面ずつ。二階のコートには、上から見下ろせる観覧席が設けてあり、またそこから屋外に出ると、ちょっとしたテラスのようなものが設けられている。

 そのテラスの下は、古い用具室となっているのだが、あまり使用頻度が高くないため、人が来ることは少ない。鍵もかかっておらず、不用心極まりない場所だ。

 つまり、密会には適している、ということだ。

 この場所を見つけてからは、夏なんかはしょっちゅう涼みに来ていた。なにせ、風通しがよく、気持ちよいのだ。冬になるとさすがに少々肌寒いものの、寒風の勢いが弱まるため、他よりは過ごしやすい場所である。

 部活動で体育館が使われているようで、活気がこちらにまで聞えていた。ボールを床にバウンドさせる音や、生徒たちの喧騒が絶えず響いてくる。

 それらを聞きながら、わたしは跳び箱の一つに腰掛けて、蒼井に促した。

「どっかに座れば? 大丈夫、この用具室、使われるのは体育祭の時くらいだから」

「こんなところがあったんだな」

 緊張感のない、低く平淡な声色。彼の態度の変わらなさには、安心に似た何かを覚える。

 ふぅ、と。わたしは悟られないように息を吐いた。

 緊張しているのを自覚していた。何にしても、ここでの彼との会話が、今後の展開を握るカギになるのは確実だ。だからこそ、下手を打たないように気をつけなければならない。

 どう切り出そうか、とタイミングを見計らっていたところ、意外なことに蒼井の方から話を振って来た。

「どういうつもりなんだ」

「え?」

 質問の意図が分からず、間抜けに声を漏らす。そもそも、彼の方から話しかけてくるとは思ってもいなかった。

 呆然としているわたしに、被せるように蒼井が言葉をかける。

「お前は、どういうつもりなんだと聞いている」

「どう言うつもりって、質問の意図が分からないよ」

 思いの外、意志の強そうな言葉に、内心たじたじになる。普段の物静かな印象からすると、今のように言葉をはっきり言ってくるのは予想外だった。失礼な話だが、もっとおどおどした様子を想像していた。

 相手にペースを取られたままではまずい。何せ、相手が相手だ。下手を打てば死んでも文句は言えない状況だろう。気合を入れなおすことにする。

「わたしはただ、あんたと話がしたかっただけ。それ以外に、何か理由がいる?」

「話?」

 怪訝そうに、蒼井が雰囲気をゆがめる。

 無表情のまま、感じる印象だけをゆがめる。

「俺には、話すことなんてない」

「わたしにはあるよ。あんたと、話すこと」

 言いながら、一昨日の情景を思い出す。

 わたしが目撃した、リアルな殺人現場。

 血の匂い。脂の臭い。死の香り。命の抜けた死体の印象。

 それらを思い出しながら、次の言葉を言った。

「例えば――人殺しの、気持ちとか」

 蒼井の反応を見る。

 彼は、相変わらず表情を変えずに正面に立っていた。わたしは跳び箱に座っていて、蒼井はただ突っ立っている。傍から見ると余裕があるのはわたしの方だと思う。それなのに、実際わたしが感じていたのは、追い詰められているような心境だった。

 彼の変わらない態度に、どんどん退路を封じられていくような気がする。

 そうした不安を振り払い、ありったけの勇気を奮わせながら、目の前の蒼井と対峙する。

「人を殺すって、どういう気持ちなんだろうね?」

「……そんなの、俺に分かるわけがないだろう」

 白々しくも、彼はそんなことを言った。

 その態度があまりにも白々しかったので、わたしは思わず笑ってしまった。

「あはは、面白いことを言うね、蒼井は」

「別に、面白いことを言ったつもりはない」

 あくまで自然に、蒼井はそう切り捨てた。

 その様子は、まるで本当に裏などないかのようだった。あれだけの異常性を隠し持っていながら、ぬけぬけとよく言えたものである。それとも、彼は自分がまともだとでも思っているのだろうか。

 そんな彼は、話題をそらすつもりなのか、間をおかずに言葉を続けた。

「それより」

「うん?」

「呼び捨てにするんだな。名前」

 一瞬、何のことか分からなかった。

 その時のわたしは、相当間抜けな面をしていたのだろう。蒼井は呆れたようにため息をついて、淡々と述べた。

「いつもは男子に対して、お前は『くん』づけで名前を呼んでいた。でも、今は俺を呼び捨てにした。そっちが本性か?」

「細かいこと気にするんだね、蒼井って」

 正直、驚かなかったと言えば嘘になる。

 ちょっと気を抜いて素を出してしまったわたしも不用心だが、その一度の呼び方の違いを目ざとく追及してくるところに、彼の性根が見えた気がした。

 隠しても仕方がないことなので、開き直ってわたしは言う。

「今さら猫かぶっても仕方ないでしょ? 殺人現場に居合わせた仲なんだから。殺人鬼相手に、気を使っても仕方ないんじゃない?」

「殺人鬼、ね」

 まるで事実を確認するかのように、蒼井は言葉を反芻する。

 そして、しみじみとした様子で、呟いた。

「四人は、多いよな」

「六人だよ、蒼井」

 どうしてそんな数字を間違えるのか。よくは分からなかったが、とりあえず訂正しておくことにする。

「日本で六人は、異常な数字だよね。よくここまで捕まっていないもんだと思うよ」

「ああ。そうだな。六人を平然と殺すなんて、どうかしている」

 ぬけぬけと、彼はうなずいた。

 一体彼の面の皮はどれだけの厚さがあると言うのだろうか。千枚通しでも貫けないかもしれない。もし世の中が世紀末だったら、百単位で人を殺戮していてもおかしくないような男が、よくも言いのけたものである。

 そんな、彼の分厚い面の皮がゆがみ、ほとんど初めてじゃないかって位に表情を見せたのは、次の瞬間だった。

「けれど、まだまだ増えるんだろう」

 薄く、皮肉気に。

 確かに、彼は笑った。

 わたしに向けてくるのは、まるで試すような、挑戦的な瞳。

 無気力そうな、どろっとしていた泥のような瞳は、その瞬間だけ、まるで強い光に照らされたように、爛と輝いていたように思う。

 それは、どういう意味だろうか。

 息をのみながら、わたしは答える。

「それは、犯人次第なんじゃない? あれで終われば六件で終了。まだ続くなら、次は七人目」

「七人目……」

 ぼそり、と呟く。

 彼は何やら思案するようなしぐさをした。

 何を考えているのかは分からないが、彼が考えているしぐさを見ていると、なんとなく落ちつかない気分になった。外見からにじみ出る特徴と、内心の思考の動きが直結しない時は、不安になる。何を考えているか分からない相手ほど、恐怖となることはないだろう。

 動きは、すぐに起きた。

 そのまま、蒼井は独白するように言った。

「無差別に、人を殺す殺人鬼」

 確認するように呟いた後、心底からの疑問とでも言うように、彼は続ける。

「その理由は、一体何だろうな」

「何って……」

 言葉に窮しながらも、わたしはかろうじて言葉を返す。

「それをあんたが聞く?」

「聞いちゃ悪いか」

 暗い瞳を見通すようにしながら、彼はこちらを見る。

 わたしはその視線に、彼の深奥を見た気がした。

 この人は、わたしを見ていない。

 蒼井の目は、視線こそわたしに向けられているが、彼の意志とでもいうものが、わたしに向けられていなかった。例えるなら、わたしの姿を視認する前に、何か別のものに阻まれている。そんな感じだった。

 得体の知れないものを目の前にしたような、奇妙な感覚。

 この世に、完全に理解が及ぶものが存在するとは思えないが、理解できないと思ってしまうものは、確かに存在する。

 沈黙は不意に降りてきた。

 静かに、時間だけが過ぎていく。

 その沈黙を前に、わたしは困ってしまった。

 ついさっきまでは、彼を前にすれば、口にすることは腐るほどあると思っていた。それなのに、いざとなると、話題がまったく頭に浮かんでこない。

 居心地が悪いのは、嫌だ。

「ねえ。蒼井」

 沈黙に耐えきれず、思わずと言った調子でわたしは口を開いた。

 聞いておきたいこと、その一。

「どうして、人を殺してはいけないんだと思う?」

「当たり障りのない質問だな。小学生か」

 うるさい、と思いつつ、わたしは続ける。

「悪いことだから、なんて回答はやめてよね。答えが知りたいんじゃない。あんたが、どう思うかを知りたいだけなんだから」

「そんなの、悪いからに決まってるだろ」

 わたしの忠告にも関わらず、蒼井はあっさりとそう答えた。

「ちょっと」

 あまりにも彼があっさりと言ってのけたものだから、わたしは一瞬言い淀んでしまう。

 喉で詰まってしまった言葉を一度呑みこみ、軽い苛立ちと共に彼にぶつけた。

「ふざけないでって、言ったじゃない」

「ふざけてなんかない。俺から言わせれば、お前の方がよっぽどふざけている」

 吐き捨てるように、彼は言った。

 平淡だった口調が、心なしか抑揚づいていたように思う。

 不意に、彼は突っ立った状態から、初めて動きを見せた。彼は迷いない様子で壁際まで移動すると、悠然と壁に背をあずけた。

 そして、こちらの方を見ようともせずに、蒼井は宙へと視線をさまよわせる。

 まるで宙空と会話するように、続きを話した。

「その手の質問は、ただの悪ふざけでしかない。『殺人』という強い印象を抱くテーマを持ってくることで、物事の価値観を曖昧にしているだけだ」

「それ、どういう意味?」

 断定口調の彼のセリフにイラついたのか、はたまた自分の思い通りの言葉を引き出せなくてイラついたのかは分からなかったけれど、わたしはどことなく強い口調で聞いていた。

 しかし、そんなわたしの苛立ちを気にも留めずに、蒼井は相変わらずマイペースに宙を見つめている。

 次に口が開かれるまでは数秒。

 後になって気付いたが、その時間は、どうやって説明しようか悩んでいたらしい。

 頭の悪い子供に言い聞かせるように、順序を考えて、蒼井は語る。

「じゃあお前は、どうして他人の物を盗んだらいけないと思う?」

 彼から質問されるのは、ほとんど不意打ちだった。

 元はわたしの方が質問していたのだから、逆に聞かれるのは予想していなかった。この辺りの詰めの甘さのお陰で、会話の主導権はすでに奪われているのだが、そのことに気づくほど、わたしは議論に慣れてはいない。

「え、っと」

 動揺してしまい、言い淀む。視線をおろおろと漂わせ、彼の言葉を咀嚼する。

 ようやく口から出て来たのは、本当に当たり障りのない、小学生の答えのようなものだった。

「それは、物を盗られると、持ち主が困るから」

「それと殺人の、何が違う?」

 その言葉には、わたしのような曖昧な答えではなく、確固たる意志が宿っていた。空間の一点を見つめていた蒼井の視線は、ぶれることなく集中されている。

「な、何が違うって、全然違うと思うけど」

「それは、片方を特別視しているからそう思うだけだ。どちらも同じ犯罪だという視点で見れば、おのずと分かる」

 蒼井が饒舌になっているのに気付いたのは、この時だった。表情は変わっていないし、雰囲気だって、つまらなそうな様子を隠そうともしていないけれど、それでも彼は、自身の価値観を語る上で、必要以上に言葉を使っていた。

「人を殺すのも、人の物を盗むのも、同じことだと気づいていないやつは多い。どちらも同じ犯罪だ。悪いと言うのが当たり前だ。高校生にもなれば、言葉上では同じであるということくらい分かっているだろうが、印象として、それを同一の質問であると認識できる人間は、思ったより少ない」

「で、でも。そりゃあそうだよ」

 思わず、わたしは口をはさんでいた。

 それは何らかの使命感や、譲れない価値観に突き動かされた言動というわけではなく、ただ話に置いていかれそうになるのを食い止めるための、悪あがきだった。

「だって、人殺しはいけないことじゃない」

「窃盗もいけないことだぞ」

 中身のないわたしの言葉は、中身の詰まった彼の言葉に叩き落とされた。

「罪の重さが違うからと言って、罪を犯していいという言い訳にはならない」

「それくらい、分かっているよ」

「本当か?」

 そこで、ようやく彼は、わたしを見た。

 暗い暗い瞳が、まるで呑みこむように、わたしを見た。

「じゃあ」

 蒼井茜は、平淡な口調のまま、なんでもないことのように言う。

「殺人と窃盗。どちらかと犯せと言われたら、お前はどちらを犯す?」

「な、何、その質問」

 わけが分からなかった。

 けれど、わたしは瞬間的に、片方を選んでしまった。

 背筋を流れる冷たい汗を感じながら、選んでしまった。

「多くの人間は、窃盗を選ぶ」

 わたしの答えを聞かずに、淡々と、蒼井は言葉を紡ぐ。

「だって、それが身近だからだ。命を奪うと言う、ファンタジーの世界じゃなくて、人の物を盗ると言う、リアルな問題を意識する。刑罰上の問題もあるだろうが、それ以上に、人は自分の想像の範囲内でしか、物事を判断しようとしない。――どちらも、倫理に反していると言うことを、大して意識せずにな」

「あんたは――」

 思わず、わたしは聞き返していた。

「あんたは、殺人と窃盗、どっちを選ぶの」

「どっちも選ばない」

 これまたあっさりと、彼は答えた。

 その答えはないだろう、という回答を、彼は顔色一つ変えずに言い放ったのだ。

 そして、その後で付け加えるように言う。

「あるいは、必ずどちらかを犯さなければならないのなら、どっちもやる。そうじゃないと、不公平だろう?」

「……あんた、狂ってんじゃない?」

「そういうお前は、いつまで狂っていないふりをしているんだ」

 つき放つような彼の言葉に、わたしは虚を突かれた。

 狂っていない、ふり?

 背筋に、すっと水が流れ落ちる感触。

 ぞくりと、彼の言葉に興奮する自分がいた。

「俺の言うことが、極論であることくらいは分かっている」

 そんなわたしに構わず、蒼井は言葉を続ける。

 相変わらず抑揚のない声ではあるが、最初に比べると随分と饒舌になったものだな、と思う。それは、会話の主導権が彼に握られていることにもつながるのだが、今のわたしにとっては構わないことだった。

「実際、現実にやれと言われても、俺には無理だ。これでも今まで十七年間、拙いなりに正直に生きて来たんだ。いきなり罪を犯せと言われて、理性的に起こせる自信はない」

「殺人鬼が、ぬけぬけとずいぶんなことを言うね」

 負け惜しみのようなわたしの言葉を、彼は律義に拾った。

「殺人鬼、か……」

 また、事実を省みるように呟いた後、数瞬だけ、考えるように黙り込む。

 そして、不思議なことに、彼は少しだけ頬を緩めた。

「初対面でそんな風に呼ばれたのは、二回目だ」

「何、言ってんの?」

「別に。こっちの話だ」

 頬笑みはわずかな間だった。また無表情に戻った彼は、まるでその形で頬の筋肉が固定されているかのように、つまらなそうな顔をわたしに見せた。

「なあ、小原」

 不意に。

 おそらく初めてだろう。彼が、わたしを名前で呼んだ。

「殺人鬼って、何だと思う?」

「はぁ?」

 いきなり、何を言いだすのだろう。

 それは雑談という風だった。先ほど、わたしがなんとなしにしてしまった質問と、同じようなノリの質問。

 他人の事を言えた義理ではないが、その話題の選択はどうなのだろうか、と思った。

「そりゃあ、無差別に人を殺しまくる人間の事じゃない?」

「無難な回答だな」

「うるさいなぁ」

 別に奇をてらったような答えを聞いて、喜ぶような性格をしているわけじゃあるまいし。

 軽く不機嫌さんになりながら、わたしはつっけんどんな調子で逆に聞き返した。

「じゃあ、蒼井は殺人鬼って、何だと思うの?」

「俺は、キャラクターだと思っている」

「はぁ?」

 今度は、呆れの混じった「はぁ?」だった。

 本当にいきなり、何を言い出すのだろうかこの異常者は。

 そんなわたしの疑問を解消するためなのか、蒼井はマイペースに自分の考えを述べ始める。

「人を殺すのが殺人鬼、それは確かだ。だけれど、殺すだけじゃ、それはやっぱり、殺人者でしかない。殺すのが人間である以上、そいつは殺人鬼ではなく、殺人者であるはずなんだ」

「……あのさ、ちょっと、わけがわからないんだけど」

「分からないか? 殺人鬼ってのは、脚色された存在だってことだ」

 お前なら分かるだろうと、言外に告げながら、彼は続ける。

「殺人鬼は、言うならば人外だ。鬼ってのは、そういう意味のはず。人の噂から、メディアから、印象から、どんどん元の人間性を脚色され、人間でなくなったもの。殺人者本人じゃなくて、他者から『人を殺す鬼』として認識された者が、殺人鬼に成る」

「…………」

 だからこそ、キャラクター。

 本人ではなく、空想上の存在としての、鬼。

 蒼井の言葉に、なるほど、と思ってしまった自分がいた。

 ぞわり、と全身の産毛が総毛立つ。

 やばい、と思った。

 わたしは今、興奮している。

 始めは何を言っているんだろうと馬鹿にしていたけれど、彼の言葉を聞いているうちに、彼に魅了されている自分がいた。

 自分でもどうかしていると思う。

 けれどそれ以上に、そんな思考を真顔で行える蒼井茜という存在に、わたしはハマり始めていた。外的印象から得た憧憬ではなく、彼の芯にある価値観に触れて、ようやくわたしは、彼個人に興味を持ち始めたのだ。

 そんなわたしに構うことなく、蒼井はやはり、淡々と事実を述べるように続きを語る。

「そう言う意味で、今この街で起きている通り魔殺人は、殺人鬼として成功していると思う」

「……けれど、だからと言って、本人が殺人鬼であるかは、わからない。そういう意味?」

「ああ、そうだ」

 わたしの言葉に、彼はうなずく。

「他者評価と自己評価が違うのは当たり前だ。周囲がいかに自分を称えようと、自分が『何かが違う』と思ってしまうのは、当然と言える。成りたい自分に成る、と言うのは簡単だが、成りたい自分に成った、と言い切るには、妥協が必要だからな」

「じゃあ――」

 わたしは問う。

 本物の殺人鬼に対して問う。

 わたしの焦燥を、解決する手段を、問う。

「何者かになりたいと願う気持ちを叶えるには、どうすればいいと思う?」

「妥協なしに、か?」

 わたしはうなずく。

 蒼井は目を伏せて、やがて、ひとことこう言った。

「自己評価を、他者評価に変えるしかないんじゃないか」

「それは……」

 つまり。

 自分でなくなる、ということではないだろうか。

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