第2話 一章 ごっこ遊び その1 小原純奈の日常
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月明かり陰る暗闇の中、わたしは、殺人鬼と出会った。
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国語・六十八点 数学・四十二点 英語・六十五点 物理・四十三点 化学・三十六点 世界史・五十六点 現代社会・五十点。
平均・五十一点。
これが、今の社会におけるわたしの評価だった。
国語と英語はわずかにいい。やったぁ。
そんなことを自分で思って、肩を落とす。
――良いわけがないだろうに。
高校二年の二月。最高学年手前でありながら、この成績はまずい。曲がりなりにも進学校に通い、進学を考えなければならないに時期でありながら、この成績はあんまりだ。
言い訳はしない。わたしは適度にしか勉強していなかったし、適度を超えた息抜きをしてしまった。だからむしろ、妥当な結果と言えるだろう。そんなことくらい分かっているから、説教だけは勘弁してもらいたい。
分かっていることを責められるほど、イラつくことはないのだから。
「この成績は何だ、小原」
何だ、と言われても困る。
唯一の平均点を大きく下回っていた化学を原因に、わたしは呼び出しをくらっていた。仕方ないではないか。計算はそもそも苦手で、その上化学的なことを頭に入れて計算をしなければいけないのだ。解けるわけがない。
「お前なぁ」
黙っているわたしに、教師はイライラした様子で言う。
どうして彼はイライラしているのだろうか? イライラすべきは、むしろわたしの方のはずだ。自分で分かっていることを、他人にとやかく言われるのが、一番面倒だ。それに、教師は何の不利益も被っていないだろう。そりゃあ、答案の採点と言う労力を費やした上でこの成績を見たら、多少思うところもあるかもしれないが、それが彼らの仕事だ。学生であるわたしたちと違って、お給料をもらっているのだから、それくらい我慢して欲しいものだ。
そう思うのに、教師はやはり怒った。
しかも、余計な一言を追加した上で。
「これは、お前のためを思って言っているんだぞ」
何を言っているんだこの人は。
しかし、そうは思っても立場的に弱いのは自分の方なので素直に黙っておく。長いものには巻かれる主義だ。それでもわたしは、彼の言い草にはかなり腹を立てた。
わたしのためを思って言っている、だって?
大きなお世話だ。
よく大人は、こういった言い草をする。お前のために。あなたのために。そう、あたかも自分が味方であるかのような言い方をする。馬鹿じゃないのだろうか。結局は自分のために言っているくせに、その責任を説教相手に転嫁するなんて、無責任にも程がある。
そりゃあ、彼らにとっては、生徒の成績は己の成果になるのだから、必死にもなるかもしれないが、それならそれで割り切ってやってほしい。何故、彼らはわたしたちの人生の責任を持ったような言い草をするのだろうか。どうせ卒業したらそこで終わりのくせに。その後のことなんて、何も考えていない癖に。
好きにさせてほしい。そう思う。
けれど、そう思いながらも、ちゃんと分かっている。
仕方ないんだ。
これが世の中のルールで、従っていないわたしが悪いのだから。
「すみませんでした。次は真面目にやります」
心にもないことを言って、頭を下げる。
そうしてやっと、三十分に渡る説教から解放された。
職員室からの帰り道を、とぼとぼと歩く。自分的にはそれほどダメージは受けていないのだけれど、『怒られる』という結果から、客観的にそう見られてしまうことは仕方がない。自己認識は客観的視点に引きずられると言うのがわたしの持論だ。自分がどう思っていようが、それが確固たる意志に基づく思いで覆さない限り、全ては外的要因からの影響を避けられない。
教室に戻ると、クラスメイトの笠倉小海(かさくら・こうみ)が声をかけてきた。
「コバー。トビのやつ、何だった?」
「説教。化学の点数、悪かったから」
「マジ? 呼び出されるって、何点よ」
「教えるか馬鹿」
投げやりにわたしは言った。
ちなみに、コバと言うのはわたしのあだ名で、『小原純奈(こばる・すみな)』の苗字から、コバ。トビと言うのは、化学教師の鷹木のあだ名だ。
気落ちしたわたしから、まるで面白いものでも見つけたように、笠倉が言葉を重ねる。
「えー。教えてよぉ。呼び出されるなんて、よっぽどじゃん」
「コミだって」
わたしも、彼女と同じようにあだ名で呼ぶ。小海だからコミ。こんな些細なことで、友達付き合いは成り立つし、こんな些細なことで友達付き合いは壊滅するのだから、割に合わない。
わたしは一息ついて、答えが予想される質問をする。
「教えたくないことくらい、あるでしょ」
「ないよ」
平然と返すことのできる笠倉が憎らしい。
実際、彼女はあまり隠し事と言うのをしない。あえて言わないことはあっても、聞かれたら大抵のことは答えるという正直ちゃんだ。わたしからするとあり得ないと思うのだけれど、彼女からするとわたしたちの方があり得ないのだろう。
ちなみに、そんな彼女は成績がいい。今回のテストだって、おそらくわたしの点数よりも全教科三十点くらい高いだろう。そういう地力のある人間は、例え悪い点数を取ったとしても、珍しくやってしまったという程度で済むから、得だと思う。
楽しそうに笑いながら、笠倉はしみじみと言う。
「もう、コバは恥ずかしがり屋だなぁ」
「コミがあけっぴろげすぎるんだって」
乱暴に返しながら、イライラしているのを自覚して、わたしは一息つく。自重しよう。八つ当たりは良くない。自分の精神をコントロールするのは難しい。必ず、何らかの感情は抱いてしまうから。だからわたしは、まずいと思った時には、心を消すようにしている。
無心。
それは、人間であることを止めることでもある。
「そう言えば」
帰宅の準備をしながら、わたしは無理に話題を変える。
「通り魔、五件目だってね」
「うへ、またその話? コバって、そういうの好きだよね」
はっきりと嫌そうな顔をする笠倉だったが、その反応もあらかじめ予測はついていた。
通り魔連続殺人。
この二週間、巷を騒がせている殺人鬼の話だ。
市内ですでに五人目。被害者はそれぞれ刃物で身体の一部を切断されて殺されており、現場には共通のメッセージが、被害者の血で描かれていると言う。
四件目の時点で本格的に連続殺人としての話題が高まり、今や全国が注目している大事件となっている。それもそうだろう。海外でも同一犯による長期的な連続殺人と言うのは珍しいものだが、ここは日本だ。もはや空前絶後と言ってもいい。
「確か被害者って、全員身体のどっかが切断されているんだよね。猟奇的なんて言葉、ニュースで初めて見たよ。すごいよね、なんかマンガみたい」
思い出すように笠倉が言う。なんだ、興味ないふりしながら、結構知っているではないか。
ちなみに、切断された部分は、ただ切断されているだけで、別に持ち帰られたりしているわけではないらしい。その辺りも不思議とされているのだが、何よりも問題となっているのは、もう五件目だというのに、犯人の手掛かりがまったくつかめていないことだ。
こうした事件が身近で起きていると思うと、例え不謹慎と言われようと、やはり興奮してしまう。日常と非日常。誰だって、禁忌を求める気持ちはあるだろう。事件を求める人間の心理と言うのは、自傷へのそれに近いものがあるとわたしは思う。
興奮を抱いているわたしに、笠倉は怪訝な顔で言った。
「何? コバって、もしかして事件を調べてたりするの? 犯人捕まえちゃったりするの? 女子コーセー探偵?」
「そんなつもりはないよ。ただ、面白いじゃん? こういう事件って。珍しいし」
「そりゃあ、しょっちゅうあったら困るよ」
まあ、それもそうだ。
意味合いとしては彼女の言いたいこととは違うだろうが、わたしとしても、あまりこういう事件がしょっちゅうあっても困る。
だって、特別性が薄れる。
特別。
そう、これは、特別な事件なんだ。
だから、わくわくする。
「気を付けなよ、コバ」
そんなわたしに、心配げに笠倉が声をかける。
「あんまり深入りしても、いいことないよ、そういう事件って。その……。不謹慎だよ」
笠原は言葉を選ぶように口ごもった後、結局、そんな当たり障りのない言葉で忠告してきた。
それに対して、わたしはなんでもないように返す。
「大丈夫だって。わたしだって、自分がただの興味本位だって分かっているから」
「興味本位もほどほどにってことだよ。半年くらい前だって、それで深夜徘徊して補導されかけたじゃん。ほら、例の殺し屋」
「ああ、それは」
随分と懐かしい話題を出してくる。
半年前と言えば、殺し屋の話題が流行った頃だ。
『深紅の殺し屋』と呼ばれる、依頼先も依頼方法も分からない、謎に包まれた殺し屋。その怪しい噂話の中で、一つだけ分かっているのが、成功報酬は、自分の命であるということ。
ターゲットを殺す代わりに、依頼人の命も奪う。
人を呪わば穴二つということなのだろうが、半年ほど前にそんな都市伝説じみた噂が流行ったのだ。そういえば、最近はめっきりとその噂も聞かなくなった。結局あれも、ただの都市伝説だったということか。
「大丈夫だって。今回はそういうたぐいの暴走はしないから」
それに、夜遊びなら随分とうまくなった自信があるし。
そう心のなかでうそぶきながら、帰り支度を整えたわたしは、笠倉と共に教室を出る。教室の扉を開けたところだった。
外から入って来た誰かとぶつかった。
「あ、ごめん」
接触自体は軽いもので、お互いに軽く身を引く程度で済んだ。
とっさに謝ったのだが、ぶつかった相手は、黙ったままこちらをまっすぐに見てきた。
まっすぐな、瞳。
驚くほどまっすぐに、彼はわたしを見つめてきた。
それで、相手が誰かわかる。
蒼井茜。
クラスメイトの男子だった。
彼はじっと、眼鏡越しにわたしを観察するように見つめていた。その瞳は、まるで標本でも観察するような、無機質な視線だった。
そのあと、ふぅ、と息を吐いた。
「気をつけて」
乾いた砂のような、さらさらと流れるような声だった。
義務を果たすように放たれたその一言には、まったくと言っていいほど感情がこもっていないと思った。彼は、こういう場面で言うであろう言葉を、ただ義務的に放っただけだ。
それで話は終わりと言わんばかりに、蒼井は一歩横にずれると、さっと教室内に入った。あれほどまっすぐに視線を合わせて来たとは思えないほどに、目線を下にやり、何かから逃げるように、こそこそと移動をする。
「何あれ。感じ悪」
ボソリと、笠倉が呟いた。
それを聞いて、なるほど、と心の中で想う。
先ほどの行動は、彼女にとっては感じが悪いと映るのか。
わたしとしては正反対の印象だった。むしろ、必要以上に感情を排した、適切な対応だったと思うけれど。
彼は、わたしを見ていなかった。
相手が人間だから、人間に対する対応をしただけ、という印象を受けた。そういう在り方は、わたしの好みだ。シンプルで分かりやすく、何よりやりやすい。
ただまあ、こういうことを話したとしても、おそらく笠倉には分かってもらえないだろうから、わたしは黙っておく。
自分の価値観と他者の価値観が重なることは少ない。
それが世の中の真理だ。
「コバ、ちょっと寄りたいお店があるんだけど、帰りいい?」
「また間食? わたし、今あまり手持ちないんだけど」
「大丈夫だよ。見るだけだから。ちょっと見たい服があるの。一緒行こう?」
話しながら、わたしは笠倉と下校する。
自分の価値観からすると、少しだけズレた日常。
けれど、普通の日常。
分かってもらえない価値観を抱えたまま、わたしは分かったつもりになっている価値観に、身を浸す。
それはそれで、心地よい。
2
帰宅すると、挨拶もせずに自室に入った。
家族との直接的な会話をしなくなって、どれほど経っただろうか。一応、事務的な会話はするものの、団欒や雑談といったことは、あまりしなくなった。軽い冷戦状態だ。
直接的な原因というのはない。ただ、積み重ねた結果が、今の状況を産んでいるのだろうと、そう冷静に分析する。
ぽふん、とベッドにダイブ。
少し埃っぽい。明日、学校に行く前に干そうかな。
そんなことを考えながら、以前は母が布団を干してくれていたことを、少しだけ考えた。
のそりとベッドから起き上がり、壁を背にベッドの上に座る。
そこから見える自分の部屋は、およそ女の子らしいものからかけ離れたものだった。
濃い青色のシンプルなカーテンに、グレーの質素なカーペットという、全体的に暗い色合いの部屋。机には教科書が無造作に置かれているだけで、小物はペン立てに乱暴に突っ込まれているだけ。唯一私物らしい私物と言えば、壁際に整列している本棚だが、そこには大きなハードカバーの、ちょっと怪しい本が並んでいる。
一年くらい前までは、まだエンタメ系の小説が並んでいたものだが、それらにぷつんと興味を無くしてからは、状況が一変した。一生懸命に集めてきた集大成の本たちは全部売り払い、その代わりとして、やれ犯罪特集だの、自殺者の心理だの、そうした関係の本が、今ではぎっしりと並んでいる。フィクションでは満足できなくなった人間が、より現実味を帯びた非日常に惹かれていったというわけだ。
そうした本が収められている本棚を見るたびに、言い知れない満足感のようなものと、どことなく客観視する冷めた感情を抱く。
よくもまあ集めたものだ。
一冊の平均値段は二千円。高いものは一万円近い金額になる。
そしてこれは、少なくとも普通は理解してもらえない趣味。
立ち上がって本棚に近づき、適当に一冊を取ってみる。
世界の殺人鬼特集。
猟奇的な殺人などをまとめた一冊。かの有名な女子高生コンクリ事件はもちろんのこと、水曜日の絞殺魔、少年Aの事件など。日本以外でも、海外の事件もまとめられている。ジャック・ザ・リッパーと言った有名どころから始まり、キングズベリー・ランの屠殺者、ゾディアック事件、イル・モストロ。有名どころからマイナーなものまで、多くがまとめられている。
いつ撮ったのか分からないような現場の写真が掲載されている事件もあり、ぱらぱらとめくるだけでも、身体の芯がすっと冷えるような感覚を覚える。皮膚がただれ、肉の繊維が見えた画像。四肢の一部を失い、腐り始めている画像。身体に刃物が突き刺さり、絶叫した顔のまま事切れている画像。
すぅ、と。身体の中心に、水を流されるような感覚。
背筋が冷える感覚にぞくぞくする。
決して嫌な感情じゃない。
むしろそれは、アルコールのように癖になるものだ。
その瞬間だけは、自分が特別になれたかのような錯覚を覚える。
けれどわたしは、それだけの存在だ。
結局わたしは、何かを為すわけでもなく、何かをしでかしたとしても、影響を受けただけの二番煎じ。こうして死体の写真を見て喜ぶような、ただの変態でしかないのだ。
決して異常者じゃない。
それを安心するべきか、あるいは悲しむべきなのか。
ふぅ、と一息ついて、わたしは本を元に戻す。
別にわたしは、アウトロー自慢がしたいわけではない。趣味が分かってもらえなくてさびしい、なんて風に、人と違うアピールをしているつもりでもない。
ただ、わたしは半端なのだ。
その半端なところが、許せないと思う。
わたしは、人間として、半端だ。
だからこそ――本物に、憧れる。
「時間、かな」
時計を確認して、おそらく夕食が用意されている時間だろうと目途をつけて、部屋を出る。
台所を覗くと、母が台所の机に座って、電話をしていた。
「いい加減にしてください。約束と違うじゃないですかッ」
言葉こそ丁寧語だったが、口調が荒い。口論にでもなっているのだろうか。
深くは気にせず、夕食の心配をすることにした。
どうやら夕食は作り終わった後らしく、机の上には母の分であろう料理が置かれていた。
今日が豚汁とサケの塩焼きのようだ。
「こないだは女の人ですよ。あなた以外に、こんなことをする人は考えられない。もうこれ以上、やめてくださいッ」
電話に向かって金切り声を上げる母の前を横切り、わたしは台所に入った。そして、必要なものをかき集め、お盆に載せて居間に移動する。その間、母は一度も目線を合わせようとせず、ずっと電話に向かってしゃべり続けていた。
居間のテーブルに料理を並べると、一人でいただきますをする。
父は帰りが遅い。兄弟はいない。だから、母と共に食べないのであれば、一人で食べるしかない。今日はたまたま電話中だが、いつも母とは一緒には食べない。なので、いつも通りだ。
というわけで、一人の晩餐。
いただきます。
まず始めに、サケの塩焼きに手を出した。
魚を食べる時には、自然と魚の元の姿を想像してしまう。ぴちぴちと跳ねる、うろこだらけの魚の姿。そこから、頭を断たれて、うろこを削がれて、三枚におろされ、切り身になる。その過程を想像して、芯が冷えるあの感覚が来る。悪くない。
そう思いながら、一口食べた。
おいしいです。
こんなことを考えながら食べていることを知れば、母は気を悪くするだろうな、と思う。でも仕方がない。想像するだけなら自由だし、どうしても想像してしまうのだ。他人にこの価値観を分かってもらおうとは思わないけれど、とやかく言われる筋合いはない。わたしはわたしの妄想で、誰にも迷惑はかけていないのだから。
そんなわけで、ごちそうさま。
おいしかったです。
お魚さんのお肉。
生き物の、お肉。
「感謝のない。定型文」
呟いて、鼻で笑った。
感謝なんて、そんなもんだ。
食器を片づけるとそのままお風呂に向かった。熱いシャワーで身体を温め、軽い脱力感とともにお風呂を出る。それから自室に戻った。実質、自室の外にいたのは一時間に満たない。
結局、今日は母と会話を交わさなかったな。
今さらながらそんなことを思いつつ、この冷戦状態に『非日常』を感じて軽く微笑みながら、わたしは就寝した。
反抗期の娘。
その役柄を、わずかなりとも演じていることが、少しだけ心地よかった。
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