5th stage 魔王とスターバックス
それからしばらく。脱走したバイオ猛牛を捕まえたり、ブルガコフ兄弟社と小競り合いをしたりと、平和な日常が続いた。
「光流、買い物に行かないか?」
そんなある日。ミストがエコバッグを二つとって言った。
「買い物? いいよ」
「どうして光流なんです? まだこの時代に慣れてないのに」
シャインが横から割り込む。
「いや、せっかくだから街を案内しがてら、買い物に行くのもいいんじゃないかなって」
「あら、あらあら? 堂々とデートに誘うんですか?」
「バカ、そんなんじゃねえよ」
シャインの冷やかし文句に、ミストは冷静に答える。
「おまえらも来るか? 買うものがあればだけど」
「わたしは今日は家にいますよ。アマゾンの品が届く予定でしてね」
「……最初から断るなら茶化すんじゃねえよ。薫流は? どうだ」
「わたくしも、今日は新作ゲームをやりこむ予定ですの」
「ちぇ。結局気を使える女はあたし一人じゃねえか」
ミストは軽く悪態をついた。
「そんなところもかわいいよ」
そこに光流がすかさず言う。
「なんでおまえ、そういうことさらっと言うんだろうな」
「嫌だった?」
「いや、嫌じゃないからびっくりしてるんだ。おまえのそういうところ、嫌いじゃない」
「よかった。じゃあデートに出発しよう!」
「だからデートじゃねえって言ってるだろ」
パイク・プレイス・マーケット。
そう書かれた巨大な看板が光流を招いていた。
「すごい、この時代でも市場は相変わらず市場なんだね」
「数十年前まではここはもっと活気のあるマーケットだったらしいんだがな」
車を下りながらミストが言う。マーケットの正面に停められたのは幸いだった。
マーケットに一歩足を踏み入れる。活気あふれる声が聞こえてきた。
「今日の魚はキングサーモン! さあ、欲しい奴はいないか!」
クラッシュドアイスに漬けられた魚の山の奥で、店員が口上を述べている。その間も休むことなく手を動かし、魚をさばき続けている。
「はいこっちのお客さんトラウトお買い上げ!」
「あいよっ、それ!」
手前の店員に向かって、口上を述べていた店員が魚を放り投げた。放物線を描いたそれを、見事に手前の店員がキャッチする。拍手と歓声が沸き起こった。
「魚かあ。魚も生命力はあるよなあ」
魔力補充には適してるのではないかと、光流は思った。
「ああ、やめとけ。あれもソイ・フードだ」
「えっ」
「そこの窓から海が見えるだろう? きっとおまえの頃は真っ青な海だったかもしれんが、今はこの通り海洋汚染が進んで、天然の魚介類を食うのは自殺行為だ」
窓から見える海は、確かに若干赤みを帯びた黒色をしていた。光流の時代でも黒いとは言われていたが、かなり異なる。
「そんなあ……」
「ここは、新鮮な魚介類を売っていた昔のマーケットをそのまま再現してるんだ。まあ、ショーみたいなもんだな。だから食べない部分まで作ったソイ・フィッシュや、プラスティックの殻に包まれたソイ・クラブやソイ・ロブスターがそこら中にある」
確かに、魚の隣に書かれた品書きには、どれを見てもソイの文字が刻まれている。
「なんでわざわざそんなことを?」
「観光さ。金持ちが旅行するときに、見せるものが欲しいってわけだ。映画の舞台にもよく使われてるから、見に来る奴は多い。あたしの好きな映画にも、ここが舞台のやつがあるんだ」
「こちらさん、本物のキングサーモンお買い上げ!」
ミストの言葉を遮って一際大きな声を店員があげ、『本物の』という言葉に大きな歓声があがる。みればそこには、裕福そうな子連れ夫婦がいて、歓声を浴びて手を振っていた。
「あれが本物の魚だ。汚染物質を取り除いた人工の海で育てられている。一匹二四〇ドルか……。まあ安いほうだが、おまえが毎日食べるには分不相応な品物だな」
「まだこの時代の金銭感覚がわかってないけど、アンシン・タワーで食べた食事が五ドルくらいだから……。うわあ……」
「ま、ソイ・フィッシュはいくつか買って行くか。奥の店の方には飾りのない、身だけのソイ・フィッシュがある。食うならあの方がいい」
ミストに連れ立って、光流は混雑する市場の奥に入っていった。ひととひとの間をすり抜けるのが手一杯だ。品物を選ぶのはミストに任せ、光流は荷物持ちに専念した。
「野菜も買わないとな。薫流がうるさいから」
魚市場のすぐとなりに、ファーマーズ・マーケットと呼ばれている野菜売り場がある。色とりどりの青果が並び、花屋なんかもある。
「さすがに植物は変わらないだろう?」
「工場で育てられて、遺伝子を組み換えて、農薬とかばらまいてる以外はな」
ミストがなんてことないように言い返してきたので、光流は軽くめまいを覚えた。
考えてみれば、大豆が肉の代用である以上、その生産性も増しているはずなのだ。
「ああ、それから……卵とミルクな。チーム用と別に、あたし用としてあたしの取り分から金を出して本物を買う。少し高いがおまえも買っておけ。魔力の足しになる」
「ああ、うん。……ミルク、嫌いなんだけどな」
「好き嫌いを言うな。……と言っても、シャインはニンニクがダメだし、薫流はベジタリアンだし……それに比べりゃかわいいもんか」
「女の子なら誰でも食べるんだけど」
「食ってから言え、見栄っ張り」
「失礼な! ひとを童貞みたいに!」
「少なくとも二五〇年も女日照りなら、童貞みたいなもんだろ」
「……ぐう」
ぐうの音はようやく出たヒカルは、ミストに促されるまま、地養卵と本物のミルクを購入する。一〇〇年間以上変わらない生産方法で作られた本物だ。
「買い忘れはないな……。よし、あとはひとつ、コーヒーを奢ってやる」
ミストはその足で道を隔てたところにあるコーヒースタンドに入っていった。スターバックスという名のその店は、今では世界中に広まっているチェーン店であるが、ここはその第一号店である。
「グランデミストエクストラショットワンエクストラホット」
行列の先頭に立った時、ミストが突然呪文を唱えたので光流は臨戦態勢をとった。
「ん、どうした? おまえは何を飲むんだ?」
「何って……いまの、注文?」
「ああ、そうだ。シアトルの人間は誰でもスターバックス用の呪文を持ってるからな。……わからないならあたしのおすすめでいいか? ミルクは苦手なんだよな?」
「うん」
「グランデのアメリカーノ、ホットで」
今度の呪文は光流にも理解できた。メニューに書かれているものをその通り読んだだけだ。
「それからもう一つ。ベンティカフェフラペチーノエクストラショットツーヘーゼル」
次の呪文が出てきた時、光流は軽いめまいを覚えた。
やがて、紙カップに三つのコーヒーが出来上がる。一つはミストのミルク入りコーヒー、もう一つは光流のブラックコーヒー、最後にクラッシュドアイスのコーヒーだ。
「あれ? 一つ多くない?」
「こいつは手土産だ。行くぞ」
言ってミストは車に乗った。パイク・プレイス・マーケットを離れ、古いビルの三階へ。
そこには室内なのにサングラスをかけた、無愛想なドワーフの店主がいた。
「待ってたぞ」
店主が言った。
「なんで来ると思ったんだ?」
ミストはクラッシュドアイスのコーヒーを店主に渡しながら言った。
「港の事件、おまえらの仕業だろう。・五〇〇S&Wの音がここまで聞こえたからな」
「えっ」
スイープを行った港からここまでは、かなりの距離がある。銃声が聞こえたとして、その弾丸まで特定できるようなものだろうか。
「冗談言え。おおかた、スパイ型ドローンでも散歩させてたんだろ」
「ふん……。で、弾丸だな。・五〇〇S&Wなら用意しておいた」
「サンクス」
看板こそ出していないが、店の壁には銃が山のように飾られている。分厚い鉄のケースの中には弾丸がいくつも入っていて、銃本体よりこちらのほうがガードがかたい。
「それから……こいつはおまえにやろうと思ってな、サービスだ」
店主がむき出しの弾丸を一つ、ミストに差し出す。それは光流にはただの・五〇〇S&Wに見えた。
「なんだこりゃ」
「アーマー・ピアシング弾だ」
「はあ? こんなもの・五〇〇S&W互換で作ってどうしようってんだ」
アーマー・ピアシング弾とは、弾芯に超合金を用いた弾丸だ。貫通力に特化し、障害物や防弾繊維もやすやす貫く。
だが、元がただでさえ威力のある弾丸だ。貫通できないものはめったにないし、対物射撃であればミストは同じ場所に精密に弾丸を叩き込める。それでも無理なときは、ショットガンのスラッグ弾を使ったほうがいい。
使う機会はまずないだろう。
「なに、ヒマを持て余して作っただけだ。オマケしてやるから、使ったら感想を聞かせてくれ」
「使ったら、な。いつになるかわらないけどさ」
「用がすんだらとっとと帰れ。俺は忙しい」
「へいへい。ありがとうございましたの一言もなしかよ」
光流はそんなやりとりを、黙って見ているしか出来なかった。
「さて……次はビデオを買いに行くか」
「ビデオ?」
「映画……あ、おまえ、映画も知らないよな? ……まあいいや。あたしの趣味のモンを買いに行くんだ」
「趣味のものかあ。ミストの趣味、気になるな」
「趣味に関して語らせると長いぞ。まあ、それより実物を見てもらうほうがいいだろう」
ミストに連れて行かれた場所には、『本屋』と書かれた看板がぶら下がっていた。
「映画って、読書のこと?」
「いや、違うんだ。……それに、本もおまえが知ってるものと変わってるぞ」
言ってミストは本屋に入っていく。光流もあとを追って、唖然とした。
本なんか一冊もない。店いっぱいにデスクトップ型コンピュータが並んでいて、そこに様々な男女が立っていて、空中で本をめくるような動作をしていたり、じっと虚空を見ていたりしている。
「本はもう、紙じゃないんだ。セルコンを使ってARで読む時代なんだ」
「へえ……なんか、味気ないね」
「そう言うな。もの好き以外はARで充分だ」
そう言われた光流の目の端に、変わったものが入ってきた。
「ミスト、あっちには紙の本があるみたいだけど?」
「ああ、あれか」
ミストは言われて、少ししていたずらっぽく笑った。
「見てくるか?」
「ただいまー」
「おかえりなさい。あら、なんだか嬉しそうですのね」
紅茶の香りを楽しんでいた薫流が言った。確かに光流はなんだか嬉しそうだ。
「わかる? いいもの買っちゃってさ」
「あなたが嬉しそうだと嫌な予感しかしませんけど」
みればミストも妙にニヤついている。
「ミストはなんか知ってるっすか?」
フォード・スパイダースリーをいじっていたシャインも、それには気づいたようだ。
「まあな。らしいっちゃらしいんだが、自分の金なんだから好きなように使えばいいさ」
「いやあ、二五〇年前は考えられなかったけど、今はこんないいものがあるんだねえ」
封筒に包まれたそれを、光流はぽんと机の上に置いた。
何の気なしに、薫流がそれを開いて中身を取り出す。
「いっ……!?」
薫流は耳まで真っ赤になって、中身を机にたたきつけた。
「破廉恥ですわ! なんですのこれは!」
「破廉恥な本」
光流が買ってきたいいものとは、それはポルノ雑誌だった。違法に流通しているそれはデータではなく紙媒体であり、法の網にかかりづらい。
「見ればわかりますわ!」
「あ、見たの? えっち」
「あなたが見せたんですわ!」
「ほほう。買っちゃったんですか。よりによって随分ドギツイのっすね」
シャインがそれを拾い、ペラペラとめくりながら言う。
「くくくっ……買っちゃったんだよ、こいつ。バカだから」
ミストはついに笑いが堪えられなくなったのか。声をあげて笑いはじめる。
「バカとはなんだ。スケベと言ってくれ」
「スケベな上にバカなんだよ。シャイン、教えてやってくれ」
ミストはそう言うと、冷蔵庫に買い物をしまい始めた。
「わたしは光流の教育係ではないんですが。そうですね、光流。これいくらで買いました?」
「五〇〇ドル」
光流は胸を張って言った。
「ほー……アンシンで貰った取り分、半分くらい使っちゃいましたねえ」
「うん、まあでも、いいものは高くてあたりまえだよ」
「ちなみに、そのさらに半分くらいの金額で、生身の女と一晩ベッドをともにできるご時世っす」
「えっ……」
光流の動きが止まった。
「不潔ですわ」
「持ってるだけで捕まるポルノより安全で安いかもしれませんよ」
「ええー……」
「さらに追い打ちをかけると、アンシンで貰った仕事は、年に一回あるかないかの規模でして、わたしらの平均月収に匹敵します。つまり、光流は月収の半分くらい使って、逮捕されるリスクを負っちゃったわけっすねえ。もっと安くていいものもあるのに」
「お金の使い方を間違ってますわね」
「だろ? バカだろ? こんなもん買っちゃって。マニアしか買わねえよ、こんなの」
口々に言われて、さすがに光流もへこんでか肩をふるわせている。
「高い勉強代だったすね。まあ、生身の女を買うのに倫理的に抵抗があるんならこういうもんでもいいんじゃないっすか? 一晩で終わりじゃありませんから」
しかし、光流は急に目を輝かせて言った。
「いいこと考えた!」
「却下ですわ!」
薫流が両手で自分を抱くように身を守る。
「まだなにも言ってないのに」
「どうせ五〇〇ドル払うから、わたくしと一晩寝かせろとか言うおつもりなんでしょう? 変態! 不潔! 破廉恥! 童貞二五〇年! ポンコツ魔王!」
考えうる限りの罵声を、薫流は浴びせる。だが光流はめげない。
「ひどいなあ、そんなこと考えてないよ」
「じゃあ、なにを考えたというのです?」
「きみらでポルノを作って売れば大儲けじゃないかって考えただけだよ」
「殺しますわよ!」
「ああ、言葉のあやとかいう……」
「本気で殺しますわ!」
「額を地面に擦り付ける勢いで謝るので許してください」
薫流の手の中のティーカップが粉々に砕けたのを見て、光流は頭を下げた。
「ああ、もう。お気に入りのティーカップが台無しですわ」
あっという間にひれ伏した光流をみて、バカバカしくなったのか、薫流は改めて座り直す。そしてカップだったものを片付けながら、思い出したように言った。
「そういえば、シャインもいいものを買ったのですわよね」
「そうそう、そうでした。アマゾン限定でしたが、探してみるもんですねえ」
ミストが買い物をしまっている冷蔵庫に、シャインが駆け寄った。
「なんかうまいものでも買ったのか?」
「うまいかどうかはさておき、光流とミストにとっていいものっす」
シャインは冷凍庫の奥から、ラップで包まれ凍った生肉のようなものを取り出した。
「なんだ、ソイ・ミートの塊か?」
「いえ、肉っす。ちゃんと本物の肉ですよ。生命エネルギーに満ちていることは実証済み。そういう魔術師のための本物のお肉でございますとも」
「ほう、なんの肉だ?」
「ええ、肉です」
「……な、ん、の。肉だ?」
「生き物の肉です」
「あたしは食わんぞ」
ミストは冷蔵庫に買い物をしまう作業に戻った。
「ええっ、なんでですか? 魔力が補給出来るんですよ?」
「魔力ってものは限度があるんだ。わたしなら毎日の牛乳と卵で限度まで補給できる。だから、そういうのは底抜け魔力の持ち主に食わしてやれ」
「えっ、僕?」
水を向けられた光流が間抜けな声をだす。
「そうですわ。もともとあなたが戦力的に不足なので手に入れたものですもの」
「でも、それ、なんの肉なの?」
「肉ですわ」
「いや、そうじゃなくて、なんの肉なの?」
「生き物の肉ですわよ」
「……このやり取り、どこかで見たことがあるんだけど」
「三〇秒くらいまえのわたしらっすね」
そこでシャインは冷凍庫に肉を戻すと、改めてセルコンでデータを光流に送る。
「冗談はさておきますと、こいつはバイオウェアを作るときの副産物っす」
「副産物……え、人の肉とかってこと?」
「いえいえ、そうではなくてですね。例えば強化筋肉をつくるさい、培養槽で作る方法の他に、牛の体内に埋め込んで成長させて、あとで取り出すって方法があるんです。そうするとその牛はもう食べても美味しくないわけなんですね。栄養もスカスカですし」
シャインが光流に送ったデータには、それについて詳細に書かれていた。
生産者:不明。
産地:不明。
品名:非食用牛肉。
入数:五キログラム。
値段:一〇〇ドル。
「なんだ。一応牛といえば牛なのか」
「ああ、そういうことか。このあいだとっ捕まえたあの牛みたいなやつか」
ミストが思い出したように言った。
「それなら食ったことがある。正直、味がない。ソイ・ミートのほうがまだましだ」
「なんか、そう言われちゃうと……食べづらいよなあ」
「せっかく買ったんですから試してみてくださいよ。光流の実力だって見てみたいですし」
それからしばらくして、夜。都心から一時間くらい車を飛ばしたところにある国立保養地の森へ、一同はやってきていた。
当然、光流の夕食には例の肉を食べさせられている。
ゴムをかじるようなその味は、香辛料でごまかせばなんとか食べられるものだったが、すすんで食べたいとは思わないものだった。
「魔力はどうだ?」
「うーん、一パーセントくらいは回復してるかな」
「単純に考えると、あたしの一〇〇倍以上は魔力許容量があるということか」
「腐っても魔王だしね」
「腐っていらっしゃいますけどね」
そうこうしている間に、シャインが適当な的を見繕う。
国立保養地と言っても、風光明媚だったのはもう何十年も昔の話。いまではかっこうの不法投棄場所として知られている。
シャインが選んだのはその中の一つ。自動車のスクラップまるごと一台だった。
「ここなら周りに迷惑はかかりませんので、思い切ってやっちゃってください」
「やるって言ってもなあ、破壊活動とか苦手なんだけど」
「スイーパーとしておまえになにができるか、それを見せてくれればいいんだ」
「そう? じゃあ、魔王バーミリオンスパロウの名において命ず。爆ぜろ」
直後に大爆発が起きた。
ぼとりと、あっさりした音を立てて、破裂したタイヤが転がってくる。
「これが全力の一パーセント」
「……マジ、ですの?」
「うん。あとできるのは、これかな。魔王バーミリオンスパロウの名において命ず。騙せ」
瞬間、光流の姿が消える。
「消えた?」
「嘘……わたくしに読めない気配があるなんて」
「セルコンのワイヤレスリンクも途絶えてるっすねえ。はて?」
「ひやああっ!」
ややあって、悲鳴を上げたのは薫流だった。
「うん、やっぱりこのキモノってやつは固いんだね。おっぱいの感触が全然しないや」
声はどこからともなく聞こえる。けれど、姿が見えない。
「こ、こ、こ……」
「え、ちょっと待って。殺すのは勘弁して!」
慌てた素振りで、光流が姿を表わす。同時にワイヤレスリンクも回復する。
「この、わたくしが…… 後ろをとられたなんて……」
しかし薫流は、胸を触られたことよりも、プライドを傷つけられたほうがショックだったのか、うなだれて言った。
「そ、そうそう。魔力次第で薫流にも勝てるぞ、ってことを言いたかったってだけで」
「……不覚ですわ。次は、ありませんわよ」
薫流は涙目で、それを言うのが精一杯だった。
「わかってる、多分いまの魔力じゃ、次はできないと思う」
「なにをやったっすか?」
「別に、ちょっと世界を騙してみただけだよ」
「世界を騙す?」
「皆が認識するから、僕はここにいる。けれどもきみたちの誰もが、僕がここに存在しないと思えば、僕はここに存在しないのと同じってわけ」
「ほほー……。なんだかよくわからないけど、すごいっすね」
「セルコンも騙せたなら、多分映像装置も騙せるんじゃないかな」
「あっさり言ってるけど、それってすごいことっすよ。機械に魔法を適用させるなんて」
「まだ他にもできることはあるよ。魔力消費量は多いんだけど」
言って、光流が手をかざす。爆破した車に向けて。
「魔王バーミリオンスパロウの名において命ず。思い出せ」
するとどうだろう。まるでビデオの逆再生を見るかのように、バラバラになった車が元の形を取り戻していった。
だが、それも途中までだった。
「ううん、この魔力じゃこれが限界か」
「どうなってるんですの……?」
「車に元の形を思い出させただけ。まあ、それでも戻せる時間に限界はあるんだけどね」
「なんすか、これ……。まるで本当に魔法を見てるみたいっす……」
「だから、これが本当の魔法。二五〇年前はこれくらい使えるひとはごろごろしてたんだけどね。今じゃもう珍しいのかな」
「これで一パーセントか……。つくづく自信無くしちまうなあ、あたしゃ」
ミストは心底からぼやいた。
「でも、勇者はこれを上回ってたってことっすよね」
「勇者?」
光流がきょとんとする。
「勇者っすよ。魔王を封印した……名前は伝わってないけど」
「勇者、勇者……ねえ。ううーん……その、なんていうか。たぶんあの子たち?」
「なんか言いづらそうっすね」
「うん、昔のことは忘れたから」
光流は黙って目を逸らした。
「まあ、言いたくないことなら詮索はしないっすけど」
「なんにせよ、これで少しは僕が役に立つってわかってくれたかな?」
光流は胸を張った。
「いや、ちょっとおおまかに試算してみたんだが」
しかしそれにミストが異議を唱える。各自のARに計算結果を表示。
「爆薬はめったに使わないが、この規模だと三ドルくらいか。ステルスコートは手が届かないが、シャインの電磁迷彩と薫流の気配隠しをあわせればスニーキングに必要なことは足りる。それに対してあの肉の値段が一食分で五ドルから一〇ドル」
「ふむ、そうっすね。トントンってところっすか?」
「実際のところ、費用対効果で考えると、いいとは言えない選択だな」
「なるほど、確かにそれは言えてますね。あの規模の爆破なんて必要ありませんし」
「結局役立たずにはかわりませんのね」
シャインもそれに同調する。薫流もいわんや。
「気配を消されてシャワーや着替えを覗かれたりするリスクを考えると、あたしは光流に魔力を回復させる必要はないと思うな」
「なるほど、ごもっともです」
「ちょ、ちょっと待って! いざって時の高火力は必要じゃない? それに、そう。ものをもとに戻す魔法は便利だよ! 怪我だって治せるし」
光流は慌てて言った。
「確かに、便利かもしれませんわね」
「だろ? だろ?」
「おあいにくさま。わたくしたちには必要ありませんの」
薫流がツンとすまして言った。
「えっ……」
「わたくしを構成するバイオウェアは、少しの傷なら勝手に塞いでしまいます」
「あたしも、自分の傷なら魔力の活性化でなんとでもなる」
「そもそもわたしは、ドローン任せで現場に出ませんし」
「その上、わたくしたちはチームを組んで一年、大した怪我はありませんのよ」
「撃たれる前に撃つしな」
「でも、これからもそうとは限らないじゃない? ほら、僕の高い魔力があればさらに困難なスイープも達成できるよ」
光流は食い下がった。
「残念っすけど、そんな困難なスイープは滅多にあることじゃないですから」
「困難イコール高収入というわけでもございませんし」
「……うう……っ」
光流はうなった。
「どうしてもと言うなら、あの肉は定期的に購入してやってもいい。だがチーム共有購入ではなく、おまえの財布から出してもらおうか」
「そっすね。ミストのミルクと卵も個別ですから、それが平等なんじゃないっすか?」
「残念でしたのね。あんな汚らわしい本を買わなければ、余裕がおありでしたのに」
「ああ、そうだ。そのポルノは没収した方がいいだろうな」
ミストが処刑宣言にも似たようなことを言った。
「えっ……なんで?」
「男にポルノをもたせると生命エネルギーを無駄遣いする。ティッシュに魔力を吸わせるような無駄使いは許さん」
「ひどい、鬼! 悪魔! 魔王! 思春期の少年の母親!」
「魔王はおまえだ」
「うまいことを言うなあ」
「言わせたのもおまえだ」
「いえね、ミストさま。おねがいしますよ。いいじゃないでげすかポルノくらい」
光流は手を揉みながら言った。
「気持ち悪い声をだすな。……わかった。それじゃあ民主主義の原則に従おうか」
「民主主義?」
「おまえが封印されてからできた概念かもしれんな。まあ、つまり多数決だ」
「多数決、ってことは……」
「ポルノを取り上げるべきだと思ったら手を挙げろ」
ミストと薫流の手が上がった。シャインの手は上がらない。
「シャイン、味方してくれるんだね」
「じゃあ、ポルノを容認するべきだと思ったら手を挙げろ」
「はーい! はい、はい! ……あれ?」
しかし手をあげたのは光流一人だった。やはりシャインの手は上がらない。
「没収二、容認一、棄権一だな。よって没収に決定する」
「なんでだよ、シャインが手を挙げてくれれば引き分けだったのに」
「いや、まあこれ。男性の欲求ってのにも理解あるつもりなんですけどね。わたしは。でもほら、魔力のことはわたし全然わかりませんから。棄権させて頂きました」
「それなら薫流は? 薫流だって魔力には関係ないじゃないか」
「破廉恥ですもの」
「あ、やっぱそれだよねー……」
「ということでポルノは没収する。まあ、おまえが少しでも役に立つとわかれば返してやるから安心しろ」
「まだほとんど読んでないのに……」
光流はがっくりと、頭を落とした。
地面につかんばかりに頭を下げる光流に、バラニナはいつもの調子で言った。
「ああ、そんなに頭を下げなくていいですよ。今度のスイープは大変ですからね。謝礼は、はずまなければなりませんから」
「それで、ミスター・中宮。どんなことをすればいいのでしょうか」
シャインが聞いた。
ここはアンシン・タワー五六階、バラニナ中宮の私室。前にここに来たのは一週間くらい前だろうか。
「ああ、失礼しました。わたくしときたら、てっきりすでに書類をお送りしたつもりでしたよ。何をやるのかもわからないまま謝礼だけを提示されたら不安になりますよねえ」
バラニナはARでセルコンを操作し、情報をメンバーに共有する。
光流にしてみれば、当面の魔力は充分あるのだ。複雑なスイープであれば、自分の腕のふるいようもある。当然、そうなればミストも光流を認めざるを得ないし、ポルノが返ってくる日も近づくだろう。
「簡単なお使いです。譲渡契約の済んでいるものを受け取ってきていただければいいだけなんですよ」
「その割には依頼料が多すぎますが」
「ええ、ですのでね。ブルガコフ兄弟社はご存知ですよね」
一同の間に緊張が走った。
「というのもですね、ブルガコフ兄弟社が倒産したさい、所有物品物件の大半をアンシン・コーポレイトが買い取る、という契約を結んだのですが、その中の一つがですね、倒産後一年を過ぎてもまだアンシンに来ていないんですよ。他のものは、大きいものはアンシン・タワーから、小さいものでは自転車一台まで、買い取れるものはほとんど移動しているのですが、最後の一つをね、ブルガコフさんの役員さんがどうしても受け渡さないのです。それをですね、ちょっとお伺いして、受け取ってきてくださればいいんです」
バラニナは一気に言った。
「つまり、ブルガコフ兄弟社からその物品を盗み出せということですか?」
「いや、盗み出せと言うのは言葉が。いや、でもしかし、それが一番効率的な言葉かもしれませんね。しかし、実際のところすでに書類上ではアンシン所有物品ですので、盗みだすという言葉には当てはまらないのではないかなと思いまして」
そうは言っているが、スイーパーに支払う額が額だ。バラニナもこれが非合法な行動だということは、はっきり承知している。
「ですのでね、手段は問いません。お話し合いで受け取ってくるもよし、こっそり拝借してくるもよし。とにかくわたくしとしては、それが手に入ればなんでもいいのですよ」
「それで、その物品というのは?」
「コンピュータを一台」
バラニナは一転して、静かに言った。
「コンピュータを?」
シャインも聞き返す。
おかしな話である。
コンピュータ本体など、いくらでも代わりがきく。
コンピュータで大切なのは、中身のデータだ。それが欲しければクラッキングすればいい。
データそのものを盗み出すのは、コンピュータを物理的に盗み出すより簡単だし、元データに影響がないため、上手くやれば盗んだことに気づかれない。
にもかかわらず、コンピュータそのものを持って来いというのは、どういうことだろう。
「いえですね、これが非常に問題でして……。そのコンピュータというのが、実は世界に一つしかない部品を使っているのですよ。非常に貴重な部品でして、今のところアンシンでも同じ物を再現できていないのです。お恥ずかしい話ですが」
なるほど、それなら合点がいく。コンピュータだと考えず、世界に一つしかない部品を盗み出すと考えればよいのだ。
「スピリチュアルコンピュータヒカル二〇二五。それがそのコンピュータの名前です」
「ヒカル、ですって?」
その名を聞いて、薫流が目を見開いた。
「そうなのです、ミス・氏原。といってもミスター・氏原とは関連性はないでしょう。日本語で『光』を意味する言葉ですから」
「本当に、無関係なのかしら」
「さあ、どうなんですか? ミスター・氏原」
バラニナが光流に言って、薫流はしくじったと思った。行方不明の兄だが、現状、光流がその氏原光流ということになっているのである。
「さあ? 知りません」
光流は光流でそれが精一杯。バラニナは光流が光流ではないことを知っているのだ。
もしかして、バラニナは光流とヒカル二〇二五とやらが本当は関係あると知っていていて、とぼけているのかもしれない。
なんだかややこしいことになってきたぞ。光流は思った。
やれやれ、こういう腹の読み合いは得意ではないんだよ。
二五〇年前の独立戦争で死んだ参謀が生きていればよかったのにとつくづく思う。
光流の、魔王バーミリオンスパロウとしての記憶は、少しずつ戻ってきているようだった。と言っても、まだ夢のなかで過去を振り返るくらいではあったが。
「さて、そのヒカル二〇二五ですが、以前はアンシン・タワー……ブルガコフ・バーシニャに保管されておりました。ですが買収時のどさくさで、持ちだされてしまったようなのですよねえ」
「それで、いまどこにあるか見当はついているんですか?」
「国外に持ちだされたとあれば、税関で止められたでしょう。ですから、おそらくまだ国内にあると思います。ブルガコフ兄弟社も力を失っておりますからね。ワシントン支社の中であれば、ヒカル二〇二五を作動できるでしょう」
「つまり、ブルガコフ兄弟社ワシントン支社が最も可能性が高いと?」
「その裏付けをとるのが、ハッカーであるミス・ストーンの仕事ではありませんか?」
「うっ……ええ、まあ……その通りです」
「それから、ヒカル二〇二五のスペックも、一部ですがお伝えしておきましょう」
各自のARに新しい情報が転送されてくる。
今時珍しく、ワイヤレスネットワークにつながらない、スタンドアロンのコンピュータだ。使用するためには、セルコン同士を有線でつなげるしか方法がない。
特筆すべきは、開発者の名前。先日のスイープでヘッドハンティングした、伊藤藤通の名前が一覧の中にあった。
「これって、このあいだのひと?」
光流がなにも考えてないかのように言う。
「ええ、ええ。そうです。本来であればミスター伊藤の到着より先に、譲渡が終わるはずだったのですけれども。エンジニアがいなければコンピュータもただの箱ですからねえ。もっとも、スイープを行う上ではあまり関係ありませんので、考えなくて結構ですよ」
バラニナの言ったことに嘘はなさそうだ。スイーパーにとっては関係のない話だろう。
「ええと、お伝えできる情報は以上ですね。質問はございますか? お茶のおかわり、いかがですか?」
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