第8話 「池袋百貨店奇談 後藤さん 1」

24歳から25歳の約2年間、僕は池袋西武デパートの画材売り場で働いていた。西武デパートの社員ではなく、大阪に本社を置く画材商社の社員として採用され、デパートに出向していたのだった。


そこで僕は3歳ほど年上の後藤という名の男と知り合った。彼は僕同様に出向社員だったが、頼りない僕と違って会社や売り場の期待は大きいようだった。いつも馬鹿な冗談を言って笑ってばかりいたが、俳優の田村亮似で背も高く、それ故に売り場の女性たちに人気があった。それに自称画家というだけあって画材の知識は深く、人懐こい性格でお客にも人気があった。特にデパートの売り場主任(女性で気の強い50代オバさん)に好かれていたのが印象的だった。


僕は彼の調子の良さが嫌いだったが、同じ会社からの出向社員だったから好き嫌い抜きに互いに親しくならざるを得なかった。年下の僕の方は社会人として新米であり、何かと彼には劣っていたので、どちらかといえば僕は子分のような感じだった。仕事の帰りにはよく2人でデパート裏の牛丼屋で食事して帰ることが多かった。


ところがある日、突然、後藤が売り場に来なくなった。それが2日連続に及んだので、売り場主任が僕を手招いて裏の階段口に連れ出した。ここではメーカーに発注した商品の搬入が行われる。もちろんお客も上り下りに使用できる。「あんたの会社の社員なんだから、あんたがすぐに後藤を連れてきなさいよ」と言った。


「ええ、やだなぁ」この頃の僕は社会人になりたてで、目上の人間への言葉遣いを知らなかったので、よくこの売り場主任に怒鳴られた。


「やだなぁって、あんた、何言ってんのよ、バカ」

「ええ、だってぇ」

「バカ、だってぇじゃないでしょ、グダグダ言ってないで、今すぐ様子を見に行ってきなさいよ」

「はいはい、わかりました」

「はいはいって、お前、上司への言葉遣いがなってないぞ、バカ」主任はたまに僕のたちのことをお前と呼ぶ。

(へん、あんたは俺の直接の上司じゃねぇじゃんかよ)と心の中で舌を出しながら謝ろうとしたら、口から出た言葉が変になってしまった。

「申し訳ございまする」

「あ、お前、バカにしてんだろ、早く行って来い。戻ってきたらお前の性根を叩き直してやるからね」ドンと僕の尻を蹴飛ばした。

(おっかねぇ、だから売り場のみんなに嫌われるんだよ。あ、忘れてた…)

「あ、後藤さんの住所を知らないんですが…」

「お前んとこの社員だろ、会社に聞いてみなさいよ。じゃあたし、スケンヤに行ってくるから、あとは頼むはね」スケンヤとはデパート隠語で便所のことだ。

売り場用のエプロンを外しながら売り場の仲間に訳を話してデパートを出た。デパートの前の公衆電話で会社に電話をした。会社は同じ池袋の六又交差点近くにあった。電話に出た女性事務員に後藤の状況を話してから彼の住所を聞いた。


「あ、後藤さんなら調布ですね。では住所を言いますね、調布市…」住所をメモすると電話を切って駅に向かった。


売り場主任に追い立てられるように売り場を出てきたような感じだが、実際のところ窓がないから年中何月だか天気もわからないような売り場で接客しているよりは気が楽だった。平日の東京は人ごみにまみれることがなくて爽快だ。この頃は東京から半分くらいの人が新宿で京王線に乗って柴崎駅で降りた。駅前は人通りが少ない。


駅前の通りを新宿に戻るように歩いて行く。しばらく行くと畑地が広がって挙げ句の果てに田舎の香水の匂いが充満し始めた。畑地のあちこちには小さな森がいくつも点在している。


「ええと、確かここら辺りだと思うけど…」メモした住所を見ながら辺りをキョロキョロと見渡すとベージュ色というか、垢抜けない煤けた肌色のアパートが見えた。珍しい一階建ての幻のような建物だった。


「このアパートだ、後藤さんの部屋はどこだ、後藤、後藤…」と一部屋ずつ表札を見ていく。

「おお、あった、こ野部屋だ…」表札には紙が貼られ、平仮名で達筆風に「ごとう」と書かれていた。

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