第9話 「24歳の旅 1」


1.


 昭和56年。1981年。僕が24才の時です。当時僕は神奈川県大和市の自宅から二子玉川にあるショッピングセンター内のレコード屋に通って販売のアルバイトしていましたが、22歳から1年半勤めた仕事がなんとなくつまらなくなって辞める事にしたのでした。同時に東京で一人暮らしをしたいと思う様になって何社か面接を受けて、ようやく池袋Sデパートの画材売り場で販売の職を見つける事ができました…といってもSデパートの社員ではなく、出入りの業者さんの会社に正社員として採用されたのです。


 まずは一人暮らしのために住むところを確保しなくてはなりません。僕は母親、妹と一緒に、当時、ワンルームマンションの元祖とも言えるMという会社の新宿東口の店舗に行きました。24歳にもなって家族と一緒に住むところを決めに行くなんておかしいですよね。というか当時、なんで母親や妹が一緒についてきたのか今はまったく思い出せないのです。

 それで新宿区の上落合にあったワンルームマンションで一人暮らしをする事になったのです。家賃は6万5千円くらいだったと思います。


 脱線しました。今回はその24歳のときの旅行についてお話しさせていただきたいと思います。知人達の間では金遣いが荒いと言われる僕がレコード屋でアルバイト中はしっかりと貯金していました。といっても最終的には50万円ほどのものでした。レコード屋を辞めて、貯めたお金で一眼レフカメラを買いました。オリンパスのOM1のシルバーボディでした。一緒に35~105ミリのズームレンズも買いました。


 それから残ったお金で旅行をしようと考えたのです。で、どこに行こうか? と考え抜いた挙げ句、自分が生まれ育った東北の街町を旅してみようと考えたのでした。



2.


 僕はとりあえずは青森に向かう事にしました。それからはいきあたりばったりに宿泊しながら秋田や福島を旅しようと考えました。よく覚えていませんが、神奈川から上野に出て、上野駅から青森行きの電車に乗りました。おそらく急行か特急かと思いますが記憶にありません。驚いた事にこの翌年の82年に東北新幹線が開業するのです。


 故郷を巡る旅ならば、本来ならば僕が生まれた福島県のいわき市からスタートしなければならないのですが、常磐線から東北本線だと面倒なので...省略して(笑)何度も書きますが、まずは青森まで直行したのです。


 青森までの電車からの眺め...記憶にありません。記憶に新しい郡山には愛着があったので車窓をじっと見ていたに違いありません。それに続いて福島市も車窓を食い入る様に見ながら消えかかる記憶を辿っていたのでしょうね。福島市の後は母親の故郷である一関だったでしょうね。記憶が残っているときに紙に書いてりゃ良かったなあ。ま、いいや、いきなり青森市に到着です。青森市には小学1年から4年まで住んでいました。


 青森に到着したのは夕方だったと思います。当時の青森駅周辺はかなり変わってはいたものの、それでも北の港町の侘しいと言うか貧しいと言うか、雰囲気は昔のままだったと思います。当日は薄暗くなっていたので、ビジネスホテルに荷物を置くと、買ったばかりのオリンパスOM1とOM102台を首にぶら下げて、まずは駅周辺に記憶の断片を拾いに出かけました。湊町の倉庫街...歩く人が少なく暗く侘しい無機質な風景。僕は思わずそくぞくしながらオリンパスOM1とOM10のシャッターを切りましたね。今でもこの時の写真がいくつか残っていますが、みなばらばらになってしまって...倉庫の写真は、さてどこに行ったのか? 


3.


ここであることに気がつきました。これを書くに当たって昔の写真を引っ張り出してきたのですが、旅行に出かけた季節は冬というか初春だったのでした(笑)。写真を見たら雪が積もってるんですものね。しっかりしない記憶を辿ってみると…レコード屋を辞めたのが2月だったので、旅行は昭和56年の3月のことだったのですね。


 残念ながら青森市街の倉庫や岸壁の写真を見つけることができませんでした。今後は残っている写真を見ながら当時を振り返っていきたいと思います。


 昭和56年の青森市街は、子供のころの僕の記憶と合致するところがあまりありませんでした。なにせ僕が青森市に住んでいたのは小学1年生から4年生までですから6歳から9歳くらい? まででしょう? 昭和56年当時では…何年前のことだ? 僕は算数が苦手なのですよ。僕が24歳だった当時からは15年前のことだったんですね。15年前って、52歳になろうとしている今からだと…43年前! 昭和56年とすれば…28年前!!!かあ…そりゃ大変だ。こりゃだめだ。早く記憶に残っていることだけでも記録しておかなくちゃ。


 青森に着いてまずは夕食を食べに外に出たのでしょうね。今は記憶にありませんが、ひとりで外食するのが苦手な僕は、たぶん、お客の少なくてなるべく人に接することがない…入りやすい食堂で食べたでしょうね。


 僕は根っから人に接するのが苦手なので、宿泊はいつもビジネスホテルなんです。当時の旅行は青森市(ビジネスホテル)、青森県艫作:へなしと読みます(不老不死温泉旅館)、秋田市(ビジネスホテル:ホテルハワイってとこでした)、山形市(ビジネスホテル)と…全部で5泊してるんですね。


 ホテルに帰ってから、当時好きだった…というか振られたばかりの津田沼の理香ちゃんに送ろうと葉書に手書きで青森の地図を書いて、今青森に来ていますとかなんとか書いて出したんでしょうね。恥ずかしいですね。


4.


 翌日は10時にビジネスホテルを出ると、まずは子供のころに住んでいた山田町を目指しました。


 青森市で記憶に残っているのは駅周辺では一万トン岸壁と呼ばれていた青函連絡船の船着き場・・・ここでは友達と釣りに行って、釣れたクサフグに指を噛まれました、そして駅そばのりんご市場、始めてピータンを食べた中華料理屋、それを越えたところにあった神社の前で売っていたブリコ(ハタハタの卵塊?)の玉、妹と一緒に東北本線を走る蒸気機関車の煙をかぶりに行った駅そばの歩道橋、その踏切を越えたところにあった市場、当時住んでいた山田町という町、近くにあった駄菓子屋、しばらく歩くとせんべい工場(妹と一緒にせんべいの壊れたのを買いに行きました。うまかった)があって、その向こうには田んぼの真ん中にあったヘリコプターが着地するヘリポート、しばらく田んぼの中を行くと僕の通った甲田小学校、その側にある少年鑑別所、そこからかなり歩いて自衛隊の演習場でキノコ狩りに出かけました。ここでは縄文土器もたくさん取れましたよ。


 駅側から東北本線の線路に沿って目的地を目指します。しばらく行くと、線路からどんどん離れていきます。僕の記憶は、こちら方向なのです。だいぶ歩くと神社がありました。懐かしいその趣き…久須志神社…この神社の前で売っていた“ブリコ”を妹と食べたんでしたね。記憶では神社から見て左に曲がってしばらく歩きます。しかし…当時とは車の交通量が違います。道路もなんだか広くなった気がします。歩いていくとここらあたりの風景は変わっていなかった記憶があります。さらに左に曲がって、少し先をまた左に曲がります…町名を見ると「北金沢町」とあります。うん? 僕の記憶では北金沢ではなく山田町だったはずです。


 これが不思議なんですよ。当時、旅行から帰って父親(数年前に亡くなりました)に聞くと「山田町なんて住んでいないよ。町名は北金沢町だったよ」なんてしらっとした顔で言ったんですよ。じゃなんで僕は山田町なんてはっきりとした町名を記憶していたのか? 当時の記憶では住んでいた山田町の隣町が千刈:せんがりという町だった…のですが、これは今でもあるんですよ。センガリって変わった町名でしょ? これは存在しているんですよ。山田町ってのは青森市内にはないのですよ。うーん不思議です。


 昔住んでいた家の土地には新しくなった家が建っていました。昔は四方を塀に囲まれた広い土地に建った木造の家だった記憶があります。塀の中には広い空き地があって、土管が2つぐらい置かれていた記憶があります。家の裏には大家だかなんだかの大きな家があって、大きな木がいくつも植えられていたのを覚えています。


 しかし、この変わりようは何でしょう? この時期には写真のようにまだ雪がたくさん残っていて、土管が捨てられていた庭だと記憶していたところには雪が積もっていました…が、建て替えられた家が大きいのかその広かったはずの庭は僕の記憶にあるような広いものではなかったのですね。写真では広いように見えますがもっと広かったんだけどなあ。子供のころだから背も小さいし、みな大きく見えたんでしょうね。


5.


更け行く秋の夜 旅の空の わびしき思いに ひとりなやむ

恋しやふるさと なつかし父母 夢にもたどるは 故郷の家路

更け行く秋の夜 旅の空の わびしき思いに ひとりなやむ


窓うつ嵐に 夢もやぶれ 遥けき彼方にこころ迷う

恋しやふるさと なつかし父母 思いに浮かぶは 杜のこずえ

窓うつ嵐に 夢もやぶれ 遥けき彼方にこころ迷う


 林芙美子は「九州炭鉱放浪記」で上記の「旅愁」の最初の詩を挙げています。林は幼いころに西日本のあちこちを引っ越しており、おまけに実父に裏切られた母親と一緒に貧乏人生のスタートを切っています。


 僕が若いころに住んでいた上落合の隣町に中井という町があって、そこに林芙美子記念館なるものがありました。当時は興味がなく一度も行ったことがなかったのですが、あとから知人に聞いたところ林芙美子が住んでいた家だったとわかりました。彼女の「放浪記」を読むと林は一生を故郷を探す旅をしていたようです。


 放浪記は、冒頭「私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない」という書き出しで始まる。放浪記は三部構成となっており、それぞれがばらばらに書かれていて、さらにそれぞれは単独で刊行されているようです。すべてが林の生まれながらの孤独感を表しているようだ。僕も幸い家は貧乏ではなかったのですが、同じような境遇で育ってきたから林の放浪癖というか移ろいやすい性格というのが理解できます。


 放浪記が当たって印税が入ると彼女の生活は裕福になります。結婚しましたが、夫を捨てて別な男性を追いかけてフランスに渡ったりするんです。文壇からはそういった自由奔放な性格が災いしてか忌み嫌われてしまうのですね。裕福になって、名声を得ても彼女は自分が満足できるところまで到達できないのです。


 また脱線してしまった。僕の24歳の旅でした。


 幻の山田町をうろついてから母親と買い物をした線路脇の市場に向います。それにしても人がいません。平日なのだから仕方がないのです。僕はまだ雪が残った道をすべって転びそうになりながら歩きました。市場に向かう道は記憶にあった通りでした。子供のころのことを思い出してちょっと泣けました。


 途中、T田外科という病院があります。これは昔のまま残っていました。この病院の娘さんと僕は同級生でした。なかなかきれいな子で当時は好きだったかもしれません。

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