第4話


 土曜日のデートから二日後の平日。すなわち、○ャンプの発売以外は何の楽しみもない休み明けの学校は、なんとなくだらけた空気が支配している。

 そんなよどんだ空気をかき分け教室までたどり着くと、既にアルファが席についていた。

「デートはどうじゃった?」

「いきなりだなおい」


 口を開くのも億劫な俺は、早々にため息を吐き出した。

「そう邪険にするでない。そなたと鴇子の間に何があったのかだいたい想像ついておる」

 ご機嫌な様子で笑顔を浮かべるアルファの顔をまっすぐ見ることができない。

 考えてみればここまでの展開はすべてアルファに乗せられた結果だ。思い通りに人を差配するその手腕は見事としか言い様がないが、こうまで思い通りだと少々しゃくな気もする。


「なあアルファ。お前って綺麗だよな」

「なんじゃいきなり、誉めても何も出ないぞ」

「鴇子を口説く練習」

「たわけ、女性にそのような言葉を迂闊に口走るでない」


 少し恥じて照れ照れの顔を見たかったのだが、こいつ少しも動揺しないな。

 動揺した格好を笑ってやろうと思ったのだが、完全にあてが外れた。どうやらよほどの面の皮の厚さがなければ最高責任者とやらの職務は果たせないらしい。


  

 唐突に話は変わるが、後藤先輩が生きながらにして数々の伝説を残しているのは先述のとおりである。その有無を言わさぬ腕力と侠気は、チャンピオンあたりの不良漫画にしか存在しない哲学かと思われた。

 だが、それは確かに俺の目の前に存在する。

 古式ゆかしい不良として、その圧倒的な存在感は、他の追随を許さないし、そもそも後追いしようとする生徒すら皆無である。断っておくが、必ずしも後藤先輩は人気がないわけではない。確かに苦手な先輩ではあるが、俺にとっても嫌いな先輩ではないのだ。むしろ、どのような人生経験を経て成立しているのかわからない大時代的な不良スタイルを貫くロマン溢れるその姿勢を、密かに敬愛している生徒もいるくらいだ。

 だからといって、好んで近づいていくのもためらわれる。俺が後藤先輩に抱く距離感は、日本人が神のたたりを畏れて、敬して遠ざけるというニュアンスが最も近いのではないだろうか。つまり、対岸の火事を眺めている分は面白いが、後藤先輩の場合は八尋の大河を超えて、飛び火する圧倒的なポテンシャルを秘めているので、五体満足に後藤先輩とつき合うにはこの距離感が難しい。

 そんなリビング・オブ・レジェンドな先輩にいきなり前髪を掴まれたのは、俺がアルファと楽しく会話している最中の出来事だった。

 

 

「よう」

 それはさわやかな朝に相応しくない、あまりにドスのきいた挨拶だった。この人は相変わらず空気を読まない。

「おはようございます先輩。今日のジャンプ読みますか? 後藤先輩の好きなハンタはちゃんと載ってますよ、激熱っすよ?」

 いきなり現れた目が血走っている先輩を出来るだけ刺激しないように、俺は人間の尊厳を守れる程度の挨拶を交わした。はっきり言いって超怖い。あまりの怖さゆえジャンプに伏字をつけるのを忘れるほどである。あと前髪と一緒に面の皮をひっぱられて、俺はかなり不細工な顔になっていたと思う。


「おう、てめえちゃんと朝飯食ってきたか?」

「…………! マジっすか?」

「突撃隣の朝ごはん、しちゃうぞコラ! テメぇナメてんのか!」


 ここにまた伝説を記そう。

 【突撃となりの朝ごはん】コーナーは後藤先輩の自慢の腕力によって、その対象の吐しゃ物を検分しようという、殺人パンチの異名である。

 当然のことながら、時間帯次第で検分する対象は昼ごはんになったり夕ご飯になったりする。が、この場合、俺にとっては名前の由来など、どうでもよかった。

 一秒でも早く、この場から逃げたい! 一ミリでも遠くへ!


「こう見えても後輩思いだからよー、てめえの健康心配してやってんだべ、そこんとこヨロシク」

「いいえ、全然よろしくないです!!」

「んだと、コラァ!!」


 ぐいとシャツの襟をつかんで、顔をぐいっと近づけると、後藤先輩の血に飢えた目が爛々と輝いていた。つーか近い、その特徴的なリーゼントのさきっぽが突き刺さるくらい近い。この距離感は危険だと、頭の警告灯が先ほどから盛んにレッドアラートを鳴り響かせていた。


「な、なんでですか? なんで俺が?」

「なんでじゃねえだろ、おめえ、土曜日何してたか言ってみろ!!」

「土曜日って……」

 土曜日と言えば、そう昨日鴇子と一緒に……


「あ、まさか」

「そのまさかだコラ! てめえ、土曜に見知らぬ秋葉系女とデートしてたらしいじゃねぇか!!」

「誰から聞いたんですか!」

「掛井がめっちゃ喋ってんぞ! 既に嫁さんいるくせにロマン溢れることしてくれてんなあ、テメエはよぉ!!」

「違います誤解です先輩!」

 掛井の奴……どうして女の子ってそういうこと喋っちゃうのかな! きちんと口止めしていなかった自分の迂闊さが悔やまれる!

「じゃあデートしてねえのか」

「いや……それは……」


 してないわけではないが、どう説明すればいいのか……まさかあれの正体は鴇子ですと言っても、普段の鴇子の様子からして、先輩を納得させる自信がまったくなかった。

「決まり、俺は今からお前を殴る」

「なんでっすか」

「俺が殴るんじゃねえ、俺のロマンがそうさせんだよ!」

 常人の俺にとっては、先輩のロマンには相変わらず理解が追いつかない。要するに、鴇子がいるのに他の女とデートしているが羨ましいってことだろうけど、そもそも俺と鴇子はつき合ってないのだが、今の後藤先輩にそのことを納得させるにはかなり難しそうに思われた。



「まあまあ、そんなに激昂しては皆の注目を浴びますわよ」

 そのすごみが発揮される前に、アルファが助け舟を出してきた。

「ち、あんたか」

 惚れた相手を平気で睨みつけるこの人はすごいと思う。

「それに暴力はいけません。みなさん注目してますよ? 話し合いは紳士的に」

 アルファの指摘通り、クラスメイトの全員は何ごとかとこちらを見つめている。

「ち……」


 忌々しく呟きながら、後藤先輩はその凶悪な手を俺から離した。

 というか、ごっさん以外に後藤先輩を止められる人間って初めて見たわ。

「お前、眼の力使っただろ?」

 後藤先輩は断じて人目を気にして行動する人種ではない。でなければあの大時代なリーゼントを毎日セットして登校するなど、常人の神経ではできないだろう。ゆえに、当然の帰結として不可解な後藤先輩の行動はアルファのせいだと断定出来る。

「助けてやったのじゃから、礼の一つでも言ったらどうじゃ」

「それもこれも、もとはアルファのせいなんだけどな」

「男が細かいことを気にするな」

 とアルファはぷいとむこうを向く。

 こいつの行動も慈悲からではなく、後藤先輩の類稀なる暴力によって俺という手駒が再起不能になることを恐れたに過ぎないであろう。

 ま、それはともかく。


「暴力ね、確かに暴力はいけねえよな。オリャこう見えても紳士だからよー」

 らしくない台詞をはいている後藤先輩。その言葉をよく噛み締めて、普段の自分の行動を振り返って頂ければと思うのだが、そんな奇跡はどんなに願っても叶いっこないだろう。

「だがよ、けじめはつけねきゃなんねーよな」

「けじめって何がです?」

「誰が本命なのかここで言え」

 その言葉に俺はさっと血の気が引いた。


「鴇子かあの秋葉系かそこにいる、それともそこにいる金髪ロリか」

「金髪ロリじゃなくて北条マキナですわ」

 ととっさにアルファが訂正する。

「な、なんでそんなこと!」

「だから、けじめつってんだろ! そんだけ女に囲まれててよ、どこにおまえが行きたいのか男ならはっきりしろや! 一人の女を思う、それが男のロマンだろうがああ!」


 ほとんど言いがかりに近いとういか、もはや脅迫の勢いだった。

 だが、クラスの女子を眺めていると、珍しく後藤先輩に同調しているみたいで、頷いている奴らが何人かいた。

「なに、あいつ二股かけてるの?」「サイテーね」「確かに誠意がない男はダメね」

 普段の噂が先行し、悪いイメージが定着しているため。当然のように女子が非難の目を向ける。女子の連中は、俺が問題を起こしていると判断しているみたいだ。


「誰なんだ言ってみろ!!」


 再び襟をつかまえたまま、俺をガクガクとゆすった。ちらりと横をみるとアルファはニヤニヤと笑っていた。どうやら今度は助けるつもりなどなく、高みの見物としゃれこむらしい。

「言えねえってことはまさか、お前うちの妹を……」

「いえ、それは絶対にないです」

「じゃあ、誰なんだよ! 言ってみろおおおおっ!!」

「くっ……」


 ここで何かと適当に答えて終わりにするのは簡単だが、この手の問題で自分の心を偽りたくない。つまらない男の娘のプライドかもしれないが……

 誰とつき合いたいのか、それが自分の心に嘘でなければどうだろう?

 この三人とあえて選ぶとすれば……

「鴇子……」

「ああ?」


「鴇子が本命です!」


 その時、鴇子が教室の扉を開けて入ってきた。


 

「…………」

 彼女はこちらをしばし眺めている。周囲の人間も俺と鴇子の間の微妙な緊張を察知したのか俺達の挙動に注目していた。

 だが、彼女はそんな周囲の視線など気にする風もなく、


「おはよう」


 と優雅に微笑みを返し、自分の席へと座っていった。

 そう、何事もなく並べて世はこともなしと言う風に。だが、俺にとっては衝撃的な事件だった。鴇子が学校で笑顔を浮かべ挨拶するなど、過去の記憶を振り返っても一度もない事件だったのだから。


「あ、あの……」

 いかに呆けていたとはいえ、もう少し気のきいた言葉が言えないのかと自分でも思ったが、鴇子はそんな俺を笑うこともなく。

「なあに?」

 と優しく尋ねてくる。

 いつもの上から目線はどうした? 無視することもなく、軽蔑することもなく、何故俺に微笑みかける? 今まで無視をするかそれでもなくても俺と対峙する時は、何がしかの感情を秘めていたのに今はまったくそれを感じられない。俺と鴇子の関係はそんなものではないはずなのに!


「い、いや、なんでもない」

「そう、そろそろ授業だから、早く席についたほうがいいわよ」

 それは、確かに魅力的な笑顔だった。

 だが、それは鴇子ではない。鴇子の素顔ではない。

 

「お兄ちゃん、何してるのよ!」

「げ、瑞希!!」

 そして遅れてやってきたごっさんが後藤先輩に押さえられる。

「私の靴隠したのお兄ちゃんでしょ、今日下駄はいてきたんだよ」

「なるほど、妹に邪魔されないよう、工作していたのじゃな」

 とアルファが納得した様子でつぶやいていた。道理で都合良くごっさんの登校が遅いと思っていた。だが、そんなこと、今はどうでもいい。

 俺は思い出していた。先日のデートで鴇子が浮かべていたあの顔、あの笑顔。あれは今まで鴇子が俺に見せることのなかった顔は、鴇子が自分を偽るため、周囲の人間に向ける顔であったのだ。

 

「でもよう下駄もけっこう、似合ってるじゃねえの?」

「某じゃりん子か私は!」

 ごっさんが振り上げた下駄が後藤先輩の頭にヒットし、カランと床に転がる。その音は芝居の幕間の闇に響く一丁の拍子木のように心に染み渡った。

 

 

 

 

『北京で蝶が羽ばたくと、ブラジルでは嵐が起こる』

 バタフライ効果で有名な例え話であるが、そもそも地球の大気循環システムでは赤道付近にはジェット気流が吹き上げ、それが両極、つまり北極と南極にむかって大きな循環の渦をなしている。北京の蝶がブラジルの天候に影響を与えるなど通常は成り立ち得ない話だと思っていた。だが今の俺の考え方はちょっと違う。蝶のはばたきであれ、人間の吐息であれ、初期条件のわずかな違いが長期的にみると大きな差へと発展するという考え方は、今の俺にとって非常に納得出来る話だ。


 そう俺と鴇子のように。


 俺達の関係はどうだったのだろう? 俺達は今のような互いに反発しあう人間関係に落ち着いたのは、そして鴇子が人類の新種としてアルファに認定されるまでに異能を兼ね備えたのは、一体どの時点からこの歪みが始まったのだろうか?

 どこかで蝶がはばたいた程度の、ほんのちょっとのボタンの掛け違いはどこから始まったのだろうか? 『朗月庵』の中庭の築山で菓子を分け合った時か? それとも、軽いイタズラで鴇子の髪の毛を引っ張って泣かせてしまった時か? それとも俺達が商売敵の家に生れ落ちた時か? はたまた、両親が因縁を作ってうちの親父が『朗月庵』を出て行ったときか? その想像は果てしなく広がり、俺はその原因を特定することができない。

 いや正直に言おう、俺と鴇子がどこで何を間違ったのかそれは解っていた。解っているのだが……それを明言する勇気は俺にはない。

 

 

 

 漉し器の上に茹で上がった小豆を置いて、水をあてながら慎重にヘラで漉していく。

 一粒一粒、丁寧に丁寧に。

 俺は学校から帰るとすぐに作業場に移り、そうしてもくもくと作業を続けている。いつもは事細かく注意をしてくる父が、一瞥しただけで何も言わなかった。そのほうが俺も気兼ねなく作業に集中出来るのでありがたい。

 ただひたすら、自分を没頭させていく作業が気持ちよかった。 

 そうしてしばらく作業を続けていると、

「出来た」

 と親父が新作の菓子を渡してきた。


 目の前にあるのは以前、親父が出来上がりが納得できないと唸っていた「はさみ菊」である。

 一見したところ何か改良されているようには見えないのだが、ひょいとつまんで口に入れると上品な甘さが口に広がった。

 美味い。

 くどすぎず、甘すぎず、それでいて口に優しい味。お茶がすすむことは受けあいだ。

「美味いだろう?」

 菓子を口に入れた納得した俺の表情を見て、親父はようやく笑顔をこぼした。

「なるほど、材料から変えてみたとは言ってたけど……でも、これ……」


 あんまり変わってない?

 これでも幼い頃から菓子を食べ続けたのだ。だが使っている砂糖も寒梅粉も以前のものとそんなに変わらない。

「金をかけるなら馬鹿でも出来る。腕でカバーするのが職人だ」

 と親父は諭すように言った。

 おそらく手間をかけたのだ。丁寧に作り直した。ただそれだけの違いがどんな魔法をかけたのか、以前とはまったく違う質感を菓子に与えていた。なるほど、親父が名人と言われるのも納得される。

「親父はどうして菓子を作ってるの?」

「決まっている。菓子が好きだからだ」

 単純明快だが、非常に納得出来る理由だった。

「お前はどうしたいんだ?」

「え?」


 唐突に親父から切り出された一言が、俺の心に響く。

『お前はどうしたいのか?』

 古今東西を問わず、思春期の若者が抱える永遠のテーマである。夢はあるか? 就きたい職はあるのか? 例え将来への展望があったにしても、可能性という曖昧な言葉に全存在をかけて突っ走れるほど俺は覚悟の出来た人間でもなかった。

 ああ、余はいかにして生きるべきか?

「じっくり考えろ。おまえはまだまだこれからだ」

 そう言って親父は、菓子を持って出て行ってしまった。後には俺一人が残される。

 

 

 親父の質問に答えることも出来ず俺は呆然と立ち尽くしていた。

 その理由は『俺はどうしたいのか?』という質問が、『俺は鴇子とどうしたいのか』に変換されて心に響いていたからだ。俺は鴇子とどうなりたいのか、将来どうしたいのか?

 今日の鴇子の笑顔が脳裏に浮かんで消えた。というのは俺の喪失感を表した詩的な表現ではなく、不意に母から声をかけられたせいであることをここに明記しておく。

「ちょ、ちょっとあんた」

 珍しく母が慌てた様子で、猫を抱えながら作業場に駆け込んできた。

 

「何? ってか圭一郎こっちに入れちゃだめだろ」

 圭一郎とは母が最近餌付けして、家に居つくようになった猫である。俺の指摘にはたと気がついた母は慌てて、抱えていた圭一郎を廊下のすみへと追いやった。

 そもそも飲食店に動物はご法度なのだが、母に負担をかけていることを自覚している父は渋々ながら黙認している。加えて、猫好きに対して理屈は通じない。

「あんたにお客さんよ」

「客?」

 一体誰かと思っていると、見覚えのある金髪の少女が暖簾をくぐって現れた。

 

 

 客はアルファだった。

 しきりにお茶菓子を勧めながら、俺との関係を伺おうとする母を根気よく階下に追い返し、今は二階にある俺の部屋。ぶすっとしながら俺はアルファを眺めていた。

「圭一郎というのじゃな、この猫は」

「ああ、名前は母の好きな映画俳優からとったらしい」

 なぜか圭一郎はアルファを気に入ったようで、膝の上で丸くなりアルファの撫でるがままに任されている。

「ふむふむ、我のひざが気に入ったようじゃな、うりうり」

 圭一郎は『にゃあ』と気の抜けた声をあげて、空気を和ませた。


「いつまで猫とじゃれあってるんだよ。話があるんじゃないのか?」

「鴇子とのことじゃ」

 だと思ったよ。

「上手くいっているようじゃな」

「どこが?」

「いや、上首尾じゃの。この上なく」

 アルファは相変わらずの余裕たっぷりの笑顔でそう呟く。

「お前、俺を苦しめて楽しんでいるだけなんじゃないのか?」

「いつの世でも、他人の惚れた腫れたを楽しむのは女子の特権じゃ。我もこう見えても女の子じゃからの」


 ああ、そうだろうよ。他人がすったもんだしているのは楽しいものだ。だけどそれが当事者であれば、話はまったく変わってくる。

「腫れてはいるけど、惚れてない」

「嘘をつけ」

 アルファが猫を撫でる動作をやめて、半身ほど前に顔を突き出してくる。

「汝はすでに言葉にだした。本当は自覚しているのであろう?」

「…………」

 透き通った目を俺にむけ、いつものように心に突き刺さる一言を俺に投げた。

「人は言葉に引きずられる生き物じゃ。汝はそれを口にだしてしまった」

 相変わらずの上から目線、相変わらずの余裕で、


「本当は気づいているのであろう? 自分の本心にの」

 彼女は残酷な言葉をつむぎだした。

「ほんのわずかなボタンの掛け違いによって、人は人を殺したり、恋に落ちたり、喧嘩をしたり、自慢の金髪を売り払ったり、父から受け継いだ大事な懐中時計を質に入れたりする。最後のは『聖者の贈り物』の引用じゃが、あの物語は一見おろかしい行為が二人にとっては最上の行為であったと結んでいる」

 アルファはそこで言葉をきって俺に向き直った。

「だとすれば汝と鴇子はどうであろう? 互いに憎みあい反発しあうこの関係は他人からみれば不毛な行為じゃが、汝らにとってはこの上なく最適な関係であったかもしれぬの」

「最適って喧嘩しあう関係が? それは違う。俺はそれが嫌だったから、仲直りしようとしたんだ」

「うむ。それは人としては当然の行動じゃな。誰でも争うのは疲れる」

 そう俺は疲れていた。鴇子との関係に。

「だから改善しようとしてたんじゃないか? お前だってそのことには賛成だから、あれこれアドバイスしてきたんだろう?」


 

 そう、こんなことを考えているのも、俺は少し後悔をしていた。お互いに喧嘩相手でいることが、暗黙の了解であった感は否めない。それこそ俺が鴇子が関係を維持していた条件である。そして鴇子もそれを望んでいた。だからその立場を勝手に放棄した俺を鴇子は怒り、無視し始めた。他のクラスメイト同様に、俺に挨拶を交わし笑顔を浮かべる。誰にも優しい笑顔を浮かべる。それは誰にも優しくないという意味と同義である。

 無視、無関心では何のドラマも関係性も見出せない。要するに俺は鴇子の興味の対象から外れたのだ。それは俺と鴇子の関係性が絶たれたことを意味する。

「じゃが、今の状態が不満か? 鴇子の興味が外れたことがそんなに惜しいのか? 単なる喧嘩友達のままで汝はそれで満足だったのか?」


「それは……」


 俺は言い返せなかった。

「であろう? ゆえにここから始まるのじゃ。汝と鴇子の関係を再構築するにはそれしか方法があるまい」

 要するに……こいつは俺と鴇子がこうなることを見越していたということか……

「ちっ……何から何まで掌の上で嫌になってくる……」

 となると、当然あのことも……俺と鴇子がすれ違っていった原因も当然知っているだろうな、こいつは。

「そう嘆くでない。破壊の後に創造ありじゃ」

「簡単に言うなよ……これ以上は絶対に無理だって」

「そうか?」

「そうなんだよ。絶対無理だ」

 だって……だって鴇子は……


「あいつには許婚がいるんだよ」

 

 

 

 

 一言で言えば疲れている。

 鴇子が俺の扱いを変えて、父には将来の問いを投げかけられ、アルファに俺の本心を指摘されて……

 いろいろあった一日だったな。非常に濃厚であったが、結局は自分のどうしようもない現状を確認しただけという、実りの少ない一日だった。


「許婚か……」

 言葉に出した瞬間、現実が重くのしかかる。まさしくアルファの言うとおり、人間は言葉に引きずられる生き物だ。

 だからこそ、俺と鴇子はその存在を忘れたかのように振舞っていた。


 鴇子の許婚は菓子メーカーの御曹司だ。商売の拡大を狙っている親父さんとしては、この縁を最大限に活用したいはず。よって、鴇子の婚約が解消されることはないし、鴇子はそもそも、その手の決定には嫌とは言わない。親の意向に唯々諾々と従う大人しい性格ではないが、あいつはそれ以上に周囲の期待に背くことを病的に恐れる。鴇子が婚約を拒否することなんて絶対にない、要するに、どう考えても絶望的なこの状況を覆すことは俺にはできない。


「………………」


 そう絶望的だ。俺はとっくに絶望していたのだろう。

 何もできない、何もなせない。鴇子がこの婚約をどう思っているのか俺は聞いたことがない。そもそも、簡単に自分の心を吐露する奴ではないが、俺にとっては重大事であることはここでいい加減認めようと思う。

 そう、俺は嫌だ。鴇子が見ず知らずの男と結婚するのが、身の毛もよだつほど嫌だ。

 だから俺と鴇子は子供じみた関係を続けていた。それしか俺と鴇子が二人の関係に埋没する手段はなかった。誰から言い出したわけではなく、自然とお互いにいがみ合い、反目しあうこの関係こそ、現状を覆せない俺達の最適解だったのだろう。だが、遊びはいつか終わる。

 家に帰って現実と向き合う日が必ず来る。そして、その日は決して遠くない。


「くっ……」

 涙がこぼれそうになる。

 どうして俺は何も出来ない子どもなのか? お伽話のように格好良く姫様をさらってハッピーエンドを迎えることはできないのか? 俺が好んで読むアニメやゲームでは、主人公とヒロインが抜き差しならぬ現実に差し迫った場合、主人公は一念発起して超人的な力を発揮するか、あるいは周囲の大人を凌駕せしめ、結婚式のヴァージンロードから花嫁を奪取してめでたしめでたしの幕となる。

 だが、これは現実だ。ご都合主義のハッピーエンドが大衆に受けるのは、動かしがたい現実を一時でも忘れることは出来るからに違いない。でも、忘却の彼方に追いやることは出来ても、現実という厄介なトゲはいつかは顔をだし、現実を忘れた愚か者を一刺ししようと待ち構えている。完全に消し去ることは出来ないのであれば、物語の力はほんとうにはかなく、ただひたすら空しい。それを認めるのが、俺はひたすら怖かった。


 確かにガキだな……俺は……


 鴇子と一緒にありもしない空想に遊んだ。本当のことを言うと、あいつは今でも憎い奴だけど、俺はそれと同時に愛おしくも思っている。

 愛の対義語は無関心であるから、この感情は相反せず同時に存在する。混乱せずにすんでいるが、かといってもてあましていないわけでもない。


 俺は鴇子のことが好きなのだろう。


 だから俺は遊び続けた。鴇子と一緒に子どものように遊び続けた。

 それが鴇子に出来る唯一の抵抗であることは知っていたから俺は教師に嫌われても、父から拳骨を貰っても、お小遣いをへらされてもクラスメイトの女子から嫌われ、教室の隅へと追いやられて、灰色の青春を送ったとしても……

 俺は鴇子とくだらない争いを続けていたんだ。

 




 

 そしてまた俺はこの場所に立っていた。

 初めてアルファと出会った時と同じく、あの暗闇に浮かんだ謁見の間。


 中央に鎮座まします玉座の前方に広がる小さな広間にぽつぽつと角燈が灯り、かろうじて闇の侵食を防いでいる。俺は視線を広間の周囲に広がる闇へと向けたが、相変わらずその闇の広がりはどこまで続いているのか、見当をつけることさえ難しかった。まさしく墨をひたしたように、果てしなく広がる冥色の闇。


「あまり見ないほうがいいわ」

 振り返ると、いつの間にかアルファが玉座に座っていた。

「知ってる? ロシアの炭鉱夫の間では、闇の中には自分と同じ顔をした悪魔が潜んで、しばしば人を惑わすと伝えられているの」

 と彼女は言葉を切って微笑んだ。

「つまり、闇は人を写す鏡と言うわけね。これはそういう寓話よ」

「なんだって俺をここに呼び込んだんだ」

「違うわ私は呼んでない。ここに踏み込んだのはあなたの意志」

「なに……?」


 その時、俺は気づいた。

 いつものアルファと様子が違う……いや……


「おまえ……アルファじゃないのか?」

 姿かたちや着ている服の趣味はそっくりだが、まず口調が違う。そしてなにより、目の光が違う。

 だがその身にまとう空気は、明らかに人とは異質な雰囲気をかもし出していた。アルファの時は瞳を覗いただけで気圧されるような、威力を感じたが、こいつの澄んだ瞳は果てしなく広がり、まるで捉えどころがない。

「クスクス……ご明察ね」

 そう言って、彼女は無邪気に笑った。まるで子どものように。

「私はオメガ。アルファではなくオメガ。アルファと同じく人類に責任を持つ者よ」

「オメガ……?」


 俺は過去にかろうじて覚えている聖書の有名な一節を思い出した。

「私はアルファでありオメガである……か」

「あら、よく知ってるわね。そう私たちは二人にして一つ。完全にして唯一の存在。でも今はちょっと特殊な技能を持ってるだけの、人と同じく限りある命よ」

 嬉しそうに微笑む。アルファが毅然とした大人なら、オメガはまるでイタズラ好きの子どものような印象を受けた。

「で、そのオメガに尋ねたいんだが……」

「いいわよ。なんでも聞いて。ここに来た人間にはそうするだけの権利があるわ」


 権利ね……なにやら思わせぶりなことを言い出すが、今はそれどころではなかった。

「ここはどこだ? 俺はどうしてここに来たんだ?」

「ここは私のプライベートスペースよ」

「アルファのじゃないのか?」

「正確に言うとアルファと私のよ。そしてもう一つの質問の答えは、あなたが自分の足でここまで歩いてきたのよ」

「歩いてきた?」

 あまりに意外な答えに俺は愕然とした。

「もちろん、ものの例えよ。実際に歩いてきたわけじゃないわ。でも、あなたはここに足を伸ばすことが出来る特別な存在になりつつあるの。ほんとにステキねあなたたちって」

 今、彼女は俺にとっては聞き過ごすことの出来ないことを言ったような気がするのだが……どうしてか頭が追いつかない。

「というわけで今のままでは時間を浪費するだけでしょうから、道に迷った子羊なあなたに、私から説明してあげる。ここは人とそれ以外を分かつ場所よ」


 人とそれ以外を分かつ、その表現は俺にとって見過ごすことができない。


「例の新種とかそういうことか?」

「そうよ、良く解ってるじゃない。もっとも今までアルファがあれこれ言ってたから、余程のお馬鹿さんでもない限り気づいちゃうわよね」

 俺が首を傾げていると、オメガは一方的に言葉を続ける。

「あなたは新種になりつつあるのよ」

 新種……それはすなわち鴇子と同じ存在。人とは違う何か別のモノ。


「あなたは強く願った、だからそれが私に届いた。届いた願いはかなえてあげなきゃダメじゃない? この世の最高責任者としては」

 そういうオメガと名乗る少女の言葉に、俺はなんとなく嫌な感触を受けた。

「俺の願いは……」

「誰かさんと結ばれたいという願いよ。だから私が願いをかなえてあげる」

 そういって、オメガは俺の頭をつかみ、まっすぐに俺の瞳を見据えた。


「おい……」

 この間合い……覚えがある……これは、ひょっとして!


「動かないで」


 そしてまた俺は急に唇をふさがれたのであった。

 


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