第3話
明日はいよいよあいつとの初デートだ。思春期の女子にありがちがのトキメキとか胸の高鳴りや愛だの恋だのと言った青春ドラマとはかけ離れたテーマで私たちはデートに赴く。それは取引である。
私は自分の身を守るために取引に応じた。自分の趣味をばらされる恐れがあるとはいえ、あいつがこのような強硬手段に出てくるとは意外ではあった。こうとなればもっと早くに手段を講じておくべきだったかもしれない。
それとこの期に及んで、あいつが何を考えているのかわからないのが不気味ではある。あいつの後に女の影を感じるのは、女子特有の勘というものだろうか? 直感を信じるべきならば、瑞希以外の女子があいつの周囲をうろついているのがわかる。そして私の直感は外れたことがない。
あいつとのデート……それを考えると少し気が重い。
そもそも私たちの因縁は何処から始まったのだろう? 幼い頃に出席した先代の法事の席、あるいは幼稚園の遠足に行った動物園だろうか? 今となっては思い出せないほどの昔である。
だが忘れようとしても忘れられない事件が、一つあった。
私の記憶の澱、脳裏にへばりつく私の決定的な汚点。
あれは確か、先代であったおじい様の三回忌の法要の席だった。和菓子職人として名をはせていた祖父は、多くの弟子を育て、おかげでうちの法事は同門の弟子たちの交流会のようになっている。
日ごろ犬猿の仲とはいえ、父も暖簾分けして独立した先代の兄弟子を招待せぬでは世間が通らない。
そんなわけで、自然と法事の席は微妙な緊張感が場を支配していた。私といえば、お仕着せの服をきせられ、何も解らない子どものようにじっとしていた。
大人の儀式など子どもにとってつまらない。愛想笑いに疲れた私は、あいつに合図を送るとそっと部屋を抜け出し庭の築山に隠れて、調理場から頂戴したお菓子をこっそりつまんでいた。
喜連戸家が誇るこの日本庭園は今も健在である祖母の趣味である。綺麗に剪定された木々が雅趣を整え、落ち着いた雰囲気を絶やさない。
春にはツツジ、秋には菖蒲と季節ごとに色を変える庭園は私のお気に入りの場所だった。祖母はよく野点を開き、客にお茶とお菓子を振舞っていた。考えてみればそれは家の菓子をアピールするパフォーマンスであったかもしれない。
そうして隠れているとしばらくして、菓子の甘い匂いにつられてあいつが現れた。
あの時の私たちは仲良く菓子を分け合って食べていた。同じモノと食べるものが兄弟と言うのであれば、あの時の私たちは、まさしく兄と妹のようだった。
先生への愚痴、共通の遊び、秘密の共有。話す話題にはことかかない。私たちが築山の下に隠していたビー玉は、きっと宝物だったのだろう。そんな穏やかな思い出もあったのだと今更ながら気づかされる。
調理場のほうから、父の怒鳴り声が聞こえてきたのはその時である。
「ばか者! 『朗月庵』の宴席に菓子がないでは終わらんぞ!」
あとで解ったことだが、職人気質の先代の弟子の間では、名人であった祖父の後釜に座った父の力量を怪しむ向きも多かったらしい。
その風当たりをやわらげるために、菓子を食べさせることで、当代『朗月庵』の力量を納得させる……おそらく、父にはそんな思惑もあったのだろう。
で、あればこの時の父の狼狽はかなりのものだっただろう。
「でしたら、今から作り直せば……」
「今ここに集まっているは、先代のお弟子ご一統様。半端なごまかしがきく相手ではない!」
木々の隙間から激昂する父と、狼狽する職人の姿を見て、私はさっと血の気が引いてしまった。
この菓子だ。
どうしよう、もう二人でずいぶんと食べてしまった。
今更名乗り出たところで収まるものでもなし、幼い自分でも菓子がないと、父がとても困ることは解ってしまい私は途方にくれてしまった。
そのときである。「大丈夫」と一言いって彼が私の手をつかんだのは。
「僕がやったことにすればいいよ」
と屈託なく笑って、あっけに取られる私をよそにかれはつかつかと父の前に進んでいった。
数回の問答があり、彼は奥の座敷に座らされた。
息子の不始末を聞いて、おじ様が肩を怒らせながらやってきたのはそれから数分後のことである。
おじ様は神妙に座っている息子を、じろりと一瞥した。
「当代のお菓子を食べたというのは本当か?」
「うん、美味しかったよ」
おじさまの拳が飛んだと気づいたの、数瞬あとだった。それはまさしく有無を言わせぬ勢いで、その場にいる全員があっけにとられて、止める間もなかった。
「兄さん、やりすぎです! なにも子どもにそのような……」
「子どもだからこそ、ことの善悪は叩き込まねばならん!」
あまりの激しさに流石の父も二の句が告げなかった。
「息子の不始末。幾重にもお詫びする。その代わりというわけではないが、お許しいただけるなら厨房を貸してもらいたい」
「厨房……? 兄さん一体何を……」
「代わりの菓子を拵えたい。先代の名に恥じぬ菓子をきっと約束する」
そうして拵えられた菓子はとても美味しくて、和菓子に食べ飽きた私もとろける思いがした。
お客様の評判も上々、父も無事面目を施した。だが、他人の手を借りたということで、この一件は父の心にしこりを残しているように思える。
大人の世界はこれで貸し借りなしと言うわけにはいかない。小さい頃には、これで仲直りすればいいのにと思ったが、それなりに成長した今では父やおじ様の気持ちが理解出来る。
喧嘩しても次の日に謝って仲直りなんて出来るのは素直な子ども同士だからこそ出来る技だ。大人が同じテーブルに座るには、当事者同士が話し合いして解決というわけにはいかない。歳を取るごとに関係は複雑になり、自分以外の場所までその影響が波及する。
人は社会性を持つ動物であり、私たちは社会の関係性の中で生きている。様々なしがらみの中で生きている大人たちが、今までのわだかまりを全てなしにして当事者同士で話し合あって解決するわけにはいかない。
特に父にとっては師匠筋のやり方に反対して独立した兄弟子なのだ。父の胸中は知らないが、立場的にも周囲に兄弟子のやり方を認めるわけにはいかないのだろう。上に立つと言うのはそういうことなのだから。
そしてそれは今の私たちにも当てはまる。
両親は私を愛していた。そして私は愛されるために努力した。
何事も卒なくこなし、習い事は完璧に覚える。めんどくさい雑用は言われる前に手伝う。
出来て当然、ただし自分の力をひけらかさない。子どもの分を超えないように可愛らしく笑うこと。大人のプライドを刺激しない程度に控えめに自分の優秀さを主張し、謙虚な態度で賞賛を受ける。その努力は実っている。
大人に対して気を使っている生き方。羨望されるという優越感。
人の優位に立つには相手が何をして欲しいのかを理解し、そこをちょっと先回りすればいい。自分で言うのもなんだが、私は聡い子供だった。
ゆえに私は賞賛されて当然、私は誉められて当然。だがあいつは違った。
あの時、父の前に出て行ったあいつは私の理解を超えていた。損得の勘定をなしに行動することの意義は、私には未だに見出せない。
私が怒られて当然なのに、あいつは父の怒りをそらしてくれた。もしかすると、父は兄弟子の息子に対して遠慮したのかもしれない。だがその時の父が満足そうな顔をしていたのは忘れられない。
私はあんなに努力をしていたのに、あいつはなんの計算もなく許され、認められたのだ。平凡でありながらその存在が、私と並び立つことを許されていたのだ。
その時私は気づいた。自分の中にあるどす黒い感情に気づいた。それはおそらく憎しみというものであろう。
私が彼と遊ばなくなったのはそれからである。中庭の築山の下から隠されたビー玉を取り出して部屋の机に隠した私はあいつと決別した。
それからである。あいつと私が途切れることのない争いを始めたのは。
○
そんなこんなで土曜日。
俺はアルファの助言に従い、こざっぱりした衣装で鴇子の来るのを待っていた。滅多につけない、整髪料で身だしなみにもそれなりに気を使っているが、いつもより少々頭が重たく感じる。
現在九時ジャスト約束の九時半まであと三十分ある。もし遅刻でもしたら、鴇子はこれ幸いと嫌味を言い続けることであろう。あいつはそういう女だ。
ネチネチと小言を言われながらのデートなぞ楽しくもなんともないし、休日の過ごし方としてはあまりにも不毛である。格好がつくようにと急いだが流石に早く着きすぎた。もちろん鴇子の姿は影も形もない。
駅前の広場にはこれから山登りに行くのか、登山の格好をした年配の客や、ジャージ姿の学生の集団、家族連れなどが駅に向かって歩いていく。
初夏の陽射しが徐々に鋭さを増して、朝の冷たい空気をかきまぜていく。天気は快晴、空は青く澄みわたり、草の匂いのする風がこれから夏の到来を少しだけ匂わせていた。外にでかけるにはもってこいの季節と言えよう。
が、そんなお天気だと言うのに俺の心は沈みきっていた。
デート前の緊張感に気を落ち着けるようにして、俺はペットボトルのお茶をがぶ飲みする。
「ふう……」
気が重い。
それはこれから慣れぬデートを行なうプレッシャーだけではない。
俺はゴトーならぬ鴇子を待ちながら、俺は先日アルファの残した助言を思い出していた。
「鴇子の能力とはセコンドサイト、妖精眼と称された魔眼の力じゃ。その力が旧人類にはもてなかった新種の最大の特徴である」
ファミレスでの帰り道、アルファは唐突に鴇子の話を切り出してきた。
「魔眼とか、どこのラノベだよ」
いきなりの胡散臭い話に俺は思わず突っ込んでいた。
この子はひょっとして世界で一番偉い女の子でも何でもなく、単なる重症の中二病患者なのかもしれない。いや、いきなりこんな話をすればそう考えるのが普通だ。と言うかだんだんそう思えてきてしまう。
「この痴れ者が!」
「あいたっ!」
アルファの右手が俺のおでこにヒットする。
「我に胡散臭い目を向けるでない、それと、女子の話を頭から否定するでない。教室でそんなことをしてみろ、ますますモテなくなるぞ」
「ご忠告ありがたいけどね、俺に話しかける女子なんてほぼ皆無なんだよ」
俺に話しかけてくるのは、神ロ研をメインとした少数の男子とあとはごっさんのみ。もっともごっさんは女子の中では特別枠なのだが。
「ならば我で慣れておくがよいぞ。女子との会話をする秘訣はひたすら肯定して下手に出ることじゃ」
「畏まりましたマドモワゼル、よろしければ話の続きをどうぞ」
七重の膝を八重に折り、俺は恭しく話の続きを促した。
「うむ、それでは話の続きじゃ。そもそも我がそなたと初めて会った時、我の眼を見てそなたはどうなった?」
「あ……」
俺はアルファの眼に睨まれて、身体が萎縮してしまった過去を思い出す。
「それは対象の根源までもを透徹する能力じゃ。知るは支配に通じる。その眼にかかれば相手の動きを予想するも、操ることも容易いこと。本領を発揮すれば対象者に気づかれることなく、精神の根源を捉えることも可能じゃろう」
あの時は己の一番重要な部分を掴まれたかのような圧迫感に苛まれて、身体がまったくと言っていいほど動かなかった。
「それを鴇子が使ってるというのか?」
「少し違うな、我と同じように使えつつあると言ったほうがよい」
「魔眼か……」
しかし、たいした力だと思うが、人類の新種という割りには地味な力だと思ってしまう。
手を触れずに物を動かしたり、一瞬で遠距離を移動したりもうちょっとど派手な力を想像していたのだが……
「そなたが何を考えているかは大体想像がつくぞ。新種と大げさに騒ぎ立てたわりには、地味な力じゃと拍子抜けしておるのであろう」
「それが解ってて、どうしてそこまで鴇子にこだわる? すごい力だとは思うが、それで人類の未来が決定するとは思えないのだけど」
まあ、鴇子がその力を利用して独裁者としてこの世に君臨するのであれば話は別だけど。あいつの性格から言ってそれはない。
「勘違いしてはならぬ。魔眼とは理解の及ばぬ人間が既存の理屈を当てはめた説明に過ぎぬ。この力の本質は単に眼力が通じるという話ではない」
とそこまで言って彼女は俺に向き直った。
「我々の精神は無意識という深い海溝に混沌という根源をもつ、一概に人の根源をとらえるという行為はその対象となる混沌に降り立つことじゃ。無意識という深い海溝に降り立ってもなお自我を維持しようするそれは聖人の悟りに他ならない。その時の鴇子がどういう存在になるかそなたは想像がつくか?」
「いや……すまんまったく思いつかない」
「そうであろう。闇を覗く時、闇もまたこちらを覗いている。混沌を見通す眼をもった存在になった鴇子には、そなたたちとまったく違った視界が広がっているはずじゃ」
「ゆえに多くの人間の心という深淵を覗いてきた鴇子は人間を超えた何かであることは間違いないのではないということか」
「その通り、それが新種である鴇子の本質じゃ」
アルファの話を聞きながら俺は鴇子の横顔を思い出した。彼女が何か遠くを見つめているようで、何を見つめていたのか想像がつかなかった。
鴇子は確かに俺が知っている鴇子とは違う人間になりつつあるのかもしれない。
「なるほど、いろいろと理解した。だが、俺はお前にいいたいことがある」
俺は冷ややかな目でアルファを見つめる。
「何じゃ?」
「そんな物騒な力を俺に使ったのかよ!」
「まあ……そのほうが手っ取り早いと思ったのでのう……」
「くっ……! こ、こいつは……」
「あ、安心せい。もはやそなたを操るつもりはないのじゃ。実際そなたには我の眼は通じなかったし……」
「出来たらやってたんかい!」
こいつは俺をも操るつもりだったのか? だとすれば、やはりつき合い方は考えなければならない。
「しかし、鴇子とのデートの時は用心しないとな……気を抜くといつ心を抜かれて操られるかわからん」
現にアルファの眼には危うく操られそうになっていたのだ。もし鴇子が俺をその眼を使って俺を操ろうとしたら……
「今までの意趣返しに裸で商店街を駆け抜けさせたり、全校生徒の前で自作のポエムを朗読し始めたりしたら……」
「ま、それは大丈夫じゃろ」
「なんでだよ」
「同じ力じゃと言ったろう? 我の眼に対抗できたのじゃから、鴇子の眼にも耐性があるはずじゃ」
「あ……」
確かに何度も鴇子には見つめられたが、俺は特に彼女に心酔することもなく生活をしている。
「だけど、それなんでだ? アルファの時はあんなに激しかったのに」
「そなたと鴇子は同じ精神を分け合う存在じゃからじゃ。共に人の及ばぬ岸辺に立ち、同じく川の流れを見つめ続け、遂には等しく夜を分かちあうようになった。それは社会との関係性を喪失していく作業にほかならぬ。言い換えればそなたが鴇子を作ったとも言えるのじゃ」
「お、俺が……?」
その言葉に俺は少し怖気が走った。
俺と鴇子の積み重ねてきた年月がそんな不可思議な作用を働かせるとはとても思えない。
もし俺が鴇子と同じ岸辺に立つのであれば、俺は何か超常の力を手に入れただろうか?
「……」
いやそんなことはない。
俺は普通の学生だ。実家が和菓子屋をやっていることを除けば何処にでも居る普通の男子高校生。みんなと同じように米を食べ、赤信号でも立ち止まる平均的な日本人だ。
「ゆえにそなたは鴇子に耐性があり、その本質を維持しているのじゃ。我が鴇子の伴侶にそなたを選んだのは単に幼なじみであったからでも、酔狂でもないぞ。フランケンシュタインの製造者には相応の責任をとっても貰わねばのう」
「だから俺に夫婦になれとか言い出したのかよ」
「うむ、結局のところそれが鴇子を俗世に結びつけるには一番簡単な方法じゃからのう」
満足げに頷くアルファ。
そこのところだけ聞けば、アルファは俺と鴇子をくっつけようとしているおせっかいな世話焼き少女に過ぎないのだが……
「以上の結論をもって、そなたは鴇子の心を聖から俗への質的変換を計らねばならぬ。女性のふとももを覗いて堕落した久米仙人の逸話にあるとおり、やはり色事というのは心の天秤を傾けるには最たる重しであるからの」
「要するに忠実なる学究の徒であったファウストを堕落の極みへと誘うメフィストへレス、それが俺の役目なのか……」
「なるほど、それは言いえて妙じゃな」
アルファは嬉しそうに笑った。
「自分で言っておきながらなんだけど、それは絶対に不可能な気がするな……」
そもそも俺は鴇子とそこまで関係を密にすることを望んでいない。
「そうかのう。ファウスト博士はメフィストへレスの誘惑を望んでおったはずじゃ」
メフィストに誘われ広い世界を望んだファウストは、その見聞を得るのと引き換えに賭けをした。もし、ファウストが自分をその瞬間に生きることを望み『時よとまれ、おまえは美しい』と口にすれば、ファウストの魂はメフィストのものとなってしまう。
広い世界を探求し、常に自然と対峙し続け理性の力でこの世の謎を解きほぐすため永遠の遍歴に出たファウストであったが、遂に最後にはその言葉を口にしてしまう。超常者として普遍の理から外れ、世界を俯瞰していたはずのファウストは、最後の最後で自分が世界の一部となることを望んだのだ。
果たして、俺が鴇子にそう思わせることが出来るだろうか?
「ま、とりあえずは次のデートじゃな」
「そうだな。その力とやらには一応気をつけておこう」
「そなたの耐性と我の眼を跳ね返した胆力があれば大丈夫じゃろう……たぶん」
俺の目をそらしながらアルファが答えた。
「たぶんって何だよ! そこはっきり言えないとこなのかよおい!」
「よほどのこともでなければそなたは操れんじゃろう。もし、そなたが心を奪われて腑抜けになって戻ってきたのであれば……」
「おう」
俺は釈迦の垂らした蜘蛛の糸にすがる罪人になった気分で、身を乗り出す。
「我が引導を渡してやるので安心するがよいぞ」
そう言ってアルファはこれ以上ない笑みを浮かべた。
全然安心できないんだけど……
以上、回想終了。
俺の意識は現実へと帰還を果たし、駅前の広場で鴇子を待ち続ける。
その不可思議な眼力を聞いてからというもの若干……いや、かなり後悔しているのだが、今さらデートを前にして逃げ出すこともできない。俺が鴇子を新種へと進化させる原因を作ったと聞かされたらなおさらだ。
ひょっとしたら、俺に責任を負わせることで鴇子に対する行動を縛ろうとしているのか……だとすれば、アルファは眼の力を使わずとも俺を操っていることになる。
結局、危ない目にあっているのは俺自身じゃないか。あいつも安全な場所から好き勝手言ってくれる。
ふと時計を見ると現在九時二十分、鴇子はまだやってこない。
駅前の広場にはベンチに座る老人夫婦と、これから何処かでイベントがあるのか、バス亭で時間をチェックしているゴスロリ姿の女性が見える。
「はあ……」
俺は本当に出来るのだろうか? このザマで鴇子と仲直りなんて……いや、話を聞いた後では、このデートを無事に終わらせること自体難しいように思えてくる。
アルファは余程のことがなければと言っていたが、その余程を行なうのがあの鴇子という女である。鴇子が普通の凡庸な乙女であれば、俺はこんなに苦労しないで済んだのだ。
「大丈夫かなあ……あの傲岸不遜で、慎み深いのは表面だけの常に自分中心の天動説女と仲良くデートなんて……」
「天動説女って何よ?」
意外な方向からかけられた声に反応し、俺は俯いていた顔を上げる。
「え……?」
しかし、そこには先ほどバス停で時間を見ていたゴスロリの女の子が居るのみ。
レースのついたゴシックドレス、髪を両側に結わえたツーサイドアップ。前髪を垂らして目元が隠れているため、その全貌は見えないが、整った顎のラインはかなりの容姿を持つ女性かと期待させた。
そう、あの鴇子のように……
「お、お前……ひょっとして……」
「ふふ、大成功♪」
そう言って女の子は髪留めを取り出し、髪を横にかき分けた。
「と、鴇子!」
垂らした髪の奥から見慣れた顔が現れる。それは紛れもなく我が幼なじみ鴇子である。
「誰かに見られないように用心してたんだけど……ふふ、思ったより効果あるみたいねコレ」
「くっ……まさか、ゴシックドレスで来るとは……」
晴れ着と言えば和服で統一していたため、俺の記憶にも鴇子のドレス姿はお目にかかったことがなかった。
「憶えておきなさい。パターン化された人間の脳は、認識を阻害するのよ」
そう言って鴇子は笑った。
「く……!」
なんだよこれ、この格好は似合い過ぎだろ!
いつもはストレートに伸ばしているはずの髪を左右に垂らし、髪がさらりと揺れるたびに俺の繊細な心を揺らす。
黒を基調としたレースのついたロングドレスは、もうこれ以上ないくらいに、鴇子の落ち着いた雰囲気に似合っていた。
恐れていた余程のことは起こったのである。正直、平常心を維持することさえ難しい。
「もしかして……誰かに見られても誤魔化せるよう、変装してきたのかお前」
俺は気持ちを整えて、ようやくそれだけの言葉を吐き出した。
「その通り、私がこんな格好をするなんて誰も思わないでしょ?」
確かに普段の鴇子は、着物を着て和室でお茶を飲んでいるイメージだからな……
「設定もあるんだって、え~~っと……私は天壌無窮なる戯曲に歌われし十二の魔を率いる貴族。地獄界の第八圏、第五の嚢にて亡者を罰せしはこの我、災いの尾ことマラコーダであるぞ!」
鴇子は左手を腰に右手でピースサインを作って目の前に持っていき指の間から瞳を覗かせる。どうやらキメポーズらしい。
「なにそれ……?」
「そんなアニメがあるんだって。私は良く知らないけど」
どんなアニメかは知らないが、どえらいものを作ってくれたものだ。おかげでこっちは、今にも死にそうなほど胸が高鳴っている。これがネットでいうブヒるという奴か。
「お前……実は結構楽しんでないか?」
「まあね普段と違う自分を実感するって感覚、なかなか楽しいものよ」
そう言う鴇子は勝ち誇った笑みで、こんな痛い女と一緒に歩ける? と問いかけてきている。確かにデートの相手がこれでは、俺の良識が疑われる。そうして俺と一緒にいる状態に負荷をかけようとしているのだろう……
が、しかし、鴇子の場合は普通に似合っているのだ、似合いすぎているのだ。おかげで街ゆく男たちから嫉妬の交じった視線を感じる。鴇子はそれが解っていない。
「我を召還せしはそなたであろう? さあ望みを言うがいい。汝の魂を秤にかけて、我は諸々の咎を感得せん」
「ぐっ……」
その瞬間ぐらりと視界が揺れる。
きた……!
アルファの時と同じく、自分の重要な部分を掴まれたかのような感触。
普段ならともかく、俺の心は限界を突破しようとしている。
もはや俺にあがなえる術はない……
●
「なんじゃ、なかなかめかしこんでおるではないか」
そんな二人の姿をアルファが物陰から隠れて観察していた。
デートは待ち合わせからの出会いの印象が、ことを大きく左右する。その点で言えば、鴇子の気合の入った衣装は基準点を大きく上回っていると言えよう。
「うっわあ……まったくトッキーたら、どういうつもりなんだろ」
そして瑞希もまた、そんな二人の姿を物陰から隠れて観察していた。
デートの成否は出会いの印象が、ことを大きく左右する。瑞希の観点から言えば、今の鴇子の格好は大きく基準から外れていた。
「どこぞの同人イベントじゃないんだから、あんな格好で街を歩くなんて……」
「そうですか? かなりおめかししていると思いますけど」
「え……?」
瑞希が横を見ると、噂の転校生マキナがそこに居た。
しかも彼女が着ているのは、鴇子と劣らぬフリフリのゴスロリドレスである。いや、濃さという観点から見れば、金髪で西洋人のマキナのほうがはるかに似合っている。
「えっと、北条……さん……?」
「マキナで結構ですわよ。瑞希さん」
「それ、普段着なの?」
「おかしいかしら、私の田舎ではいつもこんな感じですよ?」
どこの外国の田舎かは知らないが、日本の地方都市には場違いな格好である。しかし、上品に微笑んだ彼女からは余裕が感じられた。
(そのドレスがフォーマルだなんて、どんな暮らししているんだろ)と瑞希は思った。
「もしかして……あなたもトッキー達のデートの観察にきたの?」
「他人の色恋沙汰に顔を突っ込むのは、洋の東西を問わぬ乙女のたしなみですから」
「だよねー、こんな面白いイベントそうは見えないし」
瞳に同じ光を宿した二人は、密かに同意の笑みを交わした。
乙女の友情がここに結ばれたのである。
「でもさでもさ、トッキーのあの格好、初デートには不向きじゃないかな?」
「ご不満ですか? 鴇子さんには、似合ってるみたいですけど」
「あんな変な気合の入り方されたら、男の子のほうが引いちゃうって」
瑞希は必死で否定する。どうやら、彼女のファッションセンスは独特の感覚があるとアルファは判断した。
「普通にサマードレスとかワンピースでいいと思うんだよね。見た目は髪の毛ながくて清楚系なんだし。いくら他人に見られたくないからって、ゴスロリはないと思うな」
やや憤慨しながら瑞希が言う。
その様子からデートで奇矯な行動を取る友人の未来を心底案じているのが解り、アルファはほほえましく思う。
「確かに少々、周りの風景には一致してないと思いますけど……」
「でしょ? そういうものなのよ、ここはフェスでも、即売会の会場でもないんだから。あれは相手にプレッシャー与えちゃうもん」
「なるほど……」
確かにそうかもしれないと、アルファが頷く。
となればこのデートは荒れるかもしれない。
早々と立ち込めてきた暗雲に、彼女たちは祈るような気持ちでデートを見守った。
●
「ふふ……♪」
声を掛けた瞬間の彼の驚いた顔を思いだすたびに思わず笑みがこぼれてしまう。
思惑は大成功。
これで誰かに見られても見破られる心配はないし、あいつの企みにのせられる前に主導権を奪えるはずだ。
不本意な取引に応じた形になったが、私だってこの映画は見たい。少し恥ずかしいけど、好きな映画のためなら手段は選んでいられない。何しろステキなファンシーキャラたちがスクリーンで私を待っているのだから。
思わずステップを踏んでしまうくらいに私は浮かれていた。
「いい? これから観に行く映画はピンキーノイズと言って魔法の国からやってきた可愛いキャラと、女の子たちの心の交流を描いたとても心温まる素晴らしい作品なの。本来は子供向けだけど登場する女の子が可愛いから、大きなお友達にもファンが多いわ。あなたの役目はそれ目当てのオタク、私はしょうがなくつき合わされる痛い系のカップルということで……」
「…………」
「ん?」
ふと気づくとあいつは、心ここにあらずという感じで私を見つめている。
「ねえ、私の話聞いてる?」
「ああ……聞いてる」
どうしたことだろう? さっきから妙に反応が鈍い。
本来であれば、カップルとか言った拍子に向こうから突っ込んでくるはずなのに。
「どうかしたの? まさかチケットを忘れたとか言わないわよね?」
「大丈夫だ、ここに持ってる」
あいつは今までにないはっきりしたまなざしで私を見つめてきたので、私としたことが、やや意表をつかれてしまう。
「そ、そう……それならいいけど……」
奴の言動はストレートで迷いがなかった。もしや何か私の想定している以上の邪悪な罠を張り巡らせているのでは……
「ん~~……」
と思って彼をじっと見つめるが何も見えない。いつもの自分なら、なんとなく考えていることが察せられるのだが……
「まあいいわ。そろそろ行きましょう。早めに行って良い席を取らないと」
映画館に向かって歩き出そうとした瞬間、横から伸びてきたあいつの手で歩みを止められた。
「何よ?」
「…………」
やはり様子がおかしいわね? ひょっとしてこの衣装はやりすぎたかしら?
と考えていると、あいつはとんでもないことを言い出した。
「鴇子、やはり結婚してくれ」
「はあ??」
その瞬間、私の時は止まる。
「いきなり何を言ってるのよ! っていうか『やはり』って何?」
「そこはどうでもいいんだ!!」
「……っ!?」
「人が決意した時、事を起こすのはその時がベストなタイミングなんだよ! そうは思わないか鴇子?」
「そ、それは……そうかもしれないけど……」
何? ホントどういうつもりなのよこいつ!
「いや、そうだな、いきなりはまずいか……すまない忘れてくれ」
あいつが珍しく殊勝に頭を下げる。
信じられない……
無駄に高いプライドだけが取りえのこいつが、私に謝ってくるなんて……
「今はとにかく映画だな。だが、お前と映画に見にいけるだけで、俺は幸せすぎて死にそうだ。もしかして死ぬかもしれない。だから、俺がもし無事で生きて帰ってきたら、その時は結婚してくれ」
「え……あ、うん……」
あっけに取られる私。
今日のこいつはいつもと一味違う。まさかこちらの意表をついてくるなんて……
「……!」
そうか、そういうことね。
そうやって馬鹿っプルのフリをして、私を恥ずかしさで耐えられなくしてやろうと、そういうわけね。上等じゃない!
「さあ行くぞ、俺達の運命の場所へと!」
あいつは私の手を取った。しかも恥ずかしい台詞つきで、かなり痛い。
だけど、その勝負のったわ! どちらが先に音を上げるか、勝負といきましょう!
「そうね、行きましょう。私たちの運命の待つ場所へ」
私は負けじと先ほどのポーズを決めた。
●
「男の子ってちょろいねー、完全にトッキーの術中に嵌ってますねえ」
「あの馬鹿モノ……我があれほど、注意したというのに……」
「あれ? 今なんか口調が……」
「いいえ、なんでもありませんわ」
誤魔化そうと丁寧口調に戻したがもう遅かった。瑞希はアルファに向かって疑惑のまなざしを向ける。
「怪しいなあ……なんか怪しい……」
瑞希は不審な目をアルファに投げかける。
「トッキーも気になるけどさ……マッキーと彼の関係も気になるんだよね私」
「単なるお友達ですわよ」
「彼のお友達になれる時点でもう普通じゃないんだよ。そこ自覚しよう」
ひどい言われようではあるが、確かにその通りだとアルファは思った。焦って彼と接触をもったのが、まずかったかもしれない。
「さっき注意したって言ってたよね? マッキーひょっとして後で糸引いてない?」
「……さあ、何のことかしら?」
核心に近いことを言われて、一瞬言葉が詰まる。
「ぬぬぬぬ、やっぱり! その反応は当たりだね! 何かしたんだね!」
「あ、ほらほら、二人が映画館に入っていきますよ。急いで追いかけないと」
「あ、ちょっと待ってよマッキー! チケット購入しないと!」
●
映画の終了のブザーと共に私たちは街へと出てくると、ほんの二時間ぶりの太陽の光が眩しく感じた。
映画館の中では、あいつはまったく口を利かなかった。
てっきり、君のほうが可愛いよとか、そっと手を握ってきたりとかそういう不埒な行為に及ぶかと思って覚悟していたのだがちょっと肩透かしだ。
こいつのことだから、女の子とのデートの仕方なんてわからないんだろう。であるならば……次の行動は決まった。
「映画、面白かったわね」
普段では絶対に出さない甘えた声で、私はこいつに擦り寄っていく。
ふふ……童貞のこいつには、この手のスキンシップには慣れてないはず。さあ、うろたえて無様な姿を晒すがいいわ!
「そうか?」
「面白かったじゃない! 自分から誘ってきたくせに寝てたの? ピンキーと早苗ちゃんの麗しい友情を観てなかったの? 一体あなたは何しに来たのよ!!」
「お、落ち着け鴇子、みんな見てるぞ」
「あ……」
ふと気がつくと、周囲の目は私たちに注がれている。タダでさえ目立つ服装をしているのに、これは失態だった。
「ご、ごめん……」
好きな作品をスルーされて、思わず素の自分が出てしまう。しまったと思ったときにはもう遅い。こいつは恐らく勝利の笑みを……
「すまん、ずっとお前の横顔を見つめていたからな。何しろ隣にお前が居るんだから、俺にとっては映画どころじゃなかったんだよ」
いなかった。
「二時間ずっと?」
「ああ、二時間ずっとだ」
ふーん……な、なかなか上手く返して来るじゃない。
「お前が笑い、喜び、泣いている表情があまりに美しくて、俺は時間がたつのも忘れ、お前の横顔に見入っていたんだ」
「な……」
不覚にも私はその言葉に反応できなかった。
「なんなのよそれ、ジョーク?」
「嘘ではない本当だ!」
急にずずっと近づき私の眼前へと顔を寄せて。私は圧迫される形になる。
「ちょ、ちょっと……」
そのまっすぐな視線で私を捉え、瞳の中には私が正面に映っているのがわかった。
幼なじみである私の経験からすると、確かに嘘は言っていない。小さい頃からのつき合いだから相手が嘘を言っているかどうかは、簡単に読み取れる。
だが、こいつが本気で私にアプローチを仕掛けてくることなんてありえるわけがない。
結論、つまりこれはブラフね。甘言を弄して私を落とし、その後に本気になった私を手ひどくフッてその醜態を笑おうとしているのだ。うん、間違いない。これ絶対!
「しかし二時間では短すぎたな。次は一緒にイントレランスを観に行こう。最初の編集バージョンで」
「八時間も視姦されてたまるか!」
「え?」
「あ、ごめん、なんでもないのよ、(てへり)」
と私は可愛くポーズをとる。
くっ……屈辱!!
気を取り直してデートを再会する。
「不思議だな、鴇子と歩いているだけで、いつもの街の風景がどうしてこうも美しく見えるのだろう」
「はは…………」
あいつは相変わらず私の隣でロミオを演じている。ジュリエットは断じて私ではない。ゆえにそもそもこいつが私のロミオであるはずがなかった。
それにしてもあの鬱陶しい演劇調の喋り方だけでも、なんとかならないものかしら?
そもそもこの程度で女が喜ぶと思って居るの? そうだとしたら随分と馬鹿にされたものだわ。
私は『ずっと見つめていたい』とか言われたぐらいで、簡単に靡くような女じゃない。
だが、それでもあいつに主導権をとられているのは事実だ。
「くっ……」
ああ、よりにもよって、私の得意分野でこいつに一本取られるなんて……あまりの悔しさに拳をぎゅっと固めてしまう。
腹の探りあいなら、いつも私がいつも勝っていたのに……見下していた相手に先んじられるとは……なんて屈辱なのかしら!
「おい、どうした鴇子?」
「はっ……」
気がつくと、私は壁に向かって拳を打ちつけていた。
「こ、これは、その……ワンインチパンチの練習よ! 懐にもぐりこんで、こうっ!」
「なんでそんな練習を?」
「そっち目指してるから!」
目指してないわよ! 勢いで何を口走ってるの私は! 明日に向かって打つつもりなんてまったくない!
「へえ……そうなんだ……」
あんたも遠い目をして頷くな! 鵜呑みにするな!
「てっきり、『朗月庵』を継ぐのかと思ったけど、意外だな。だけど鴇子が目指すなら応援するよ、頑張ってバイクじゃないほうのチャンピオンロードを目指してくれ」
「う、うん、ありがと……」
ああ、ほんの一瞬で女ボクサー志望にされてしまった。人の過ちって元に戻せないのかしら。ああ、ほんの数分でいい。おぞましい過去を洗い流してしまいたい。
今日の私は調子を狂わされっぱなしだ。敵の企みが分かった以上、醜態を晒すことはできない。
こいつのペースにのせられないよう、気を引き締めないと。
「そうだ、これやってみないか」
へ……?
あいつが急に立ち止まったのはゲームセンターだった。その入口にはプリクラの筐体がでんと置かれている。
「それって、もしかしてプリクラ?」
「変なこと言うな鴇子は、洗濯機に見えるか?」
今の私にとっては洗濯機のほうが数倍マシだろう。
などと言ってる場合じゃない! どうしよう?
誘いに乗れば、確実に物証を残すことになるわ……それだけは何としても避けないと。
「だ、ダメよプリクラなんて!」
「なんで?」
「お婆ちゃんの遺言で、写真は魂を吸い取る道具だから気をつけろって」
「鴇子のお婆ちゃんってまだ生きてるだろ?」
「母方じゃなくて父方のほう!」
「おじさんのほうってタキさんか? 小さい頃よく遊んでくれたよなあ……ってタキさんって亡くなったのか? 何時だよ!」
しまった……そう言えば幼稚園の頃は夏には毎年、こいつの家族と一緒にお婆様のお家へ遊びに出かけたわね。昔から家族ぐるみのつき合いをしてたのをすっかり忘れてたわ。
「ああ、母さん? さっき鴇子からタキさんが亡くなったって聞いたんだけど……うん、そうそうおじさんのお母さんのほうの、夏休みによく遊びにいったろ?」
私は瞬時にあいつの手から携帯を奪う。
「今のは嘘です! もうすっごい元気ですから」
と言った瞬間電源を切った。
「お、おい、いきなりどうしたんだよ」
「大丈夫、とにかくお婆様は元気だから安心して」
「お、おう……」
ふう……あやうく狼少女にされるところだった。これもトラップなら侮れないわねこいつ……
「それじゃ、入るか」
「え、あちょっと……」
私が止める間もなく、プリクラの筐体の中へと引き込まれる。
「フレームどうする? 鴇子の好きなの選んでいいよ」
「な、なんでもいいわよ。早くして」
狭いなあここ……こうまでこいつと密着していると落ち着かない。
それに完全に相手の間合いだ。これではどのような行動をとろうが逃げられない。
こうなったら、写る瞬間に髪の毛を垂らして顔を隠すしか方法がない。うん、そうしよう。最悪顔がばれなければいいんだから。
「それじゃ、撮るぞ。ほらこっち来て」
今だ!
タイミングを見計らって、私は髪止めをすばやく引き抜いた。髪の毛がはらりと落ちて私の視界をさえぎる。
成功だ。悔しがるこいつの顔が目に浮かび私は勝利を確信した。
「鴇子」
その時のこいつの動きはあまりにも自然であったため、私は反応することが出来なかった。
いや……と言うより悪意や敵意といったものには私は敏感だが、そういう感じではなかった……と思う。
「せっかくの綺麗な顔なんだしさ、ちゃんと顔を見せたほうが良いって」
「……!!」
気がつくと、あいつの手が私の髪をかきわけていた。
掌ごしにあいつの体温が伝わる。それは他人では決して近づけるのを許さない距離。ましてや女の命である顔を触れさせるなんて言語道断。
だけど、どうしてだろう……相手はあいつなのに、ひどく落ち着いている自分がいた。
パシャッ!
「……っ」
光が瞬いてプリクラが撮られる。
その瞬間私は我に返って自分がどこに居るのかを思い出す。
そうだ、プリクラは……!
「すまん。俺の手が邪魔してるなこれ」
出来上がったプリクラは、あいつの手に阻まれて丁度私の顔が写ってない状態で仕上がっていた。
「しょうがない。もう一度取り直すか?」
「いい」
私はキャンセルボタンを押そうとするあいつの手を遮る
「いいのかコレで? 顔見えないけど?」
「うん、これでいいから……」
自分が何をしているのか、私は理解していなかった。
本来なら証拠をのこすべきではないのに、だけど、どうしてもあの瞬間だけは、消していけない気がする。
「頂戴」
「え、うん」
差し出した掌に半分に切り取ったプリクラがのせられる。
私はそれをポケットにしまい込んで、これ以上考えないことにした。
非常に疲れるプリクラも終了し、そろそろお昼の時間。
「ところで、そろそろ腹が減らないか?」
とあいつは呟いてきた。
きたっ……!!
私はこの瞬間を待っていた。
映画の後はおそらく食事。となれば、どこかのお店に連れて行かれることぐらいは当然予想がついている。これは勝負なのだ。勝負とはルールを把握し、そのルールを決定する人間が勝利の美酒を味わう。
例えば連れて行かれた店に、人を配置して私たちの姿をカメラに捉えたり、最悪のパターンはいくらでも想像出来る。相手の示す順路に素直に従うほど私は甘くはない。迷路に入れば壁を壊すのが私という女だ。
「そう言うと思って、お弁当を用意してきたわよ」
少し重量のある流水紋の風呂敷包みを取り出した。ゴシックのコンセプトにはジャンル違いではあるが、他に適当な包みがなかったので致し方ない。
「お弁当……だと……」
驚愕しているあいつの顔。ここでようやく一歩リードかとほくそ笑む。
「お前それ、どっから出したんだ?」
「……女の子には秘密が一杯なのよ。頼むからそこ突っ込まないで」
「いや……なんて素晴らしい!」
あれ?
「お前もそれほどまでに、このデートに力を入れてくれてたのか!」
「ちょ、ちょっと待ってよ! これってマジでデートなの?」
「そう言ったろ? だいたい男と女が二人で出かけるんだから、デートに決まってるだろ!」
「え、えーっと……確かにそうなんだけど……」
面と向かって言われると少し恥ずかしい。男女交際は苦手だ、私も修行が足りない。
「まさかお前がそこまでしてくれるとは……」
こっちはこっちで本気で驚いているように見える。本気なのか、それとも私を偽ることが出来るほど、どこかで修練を積んできたのか……
「さあ、近くの公園に行こう、今日は晴れているからきっと気持ちいいぞ」
「え、ええ……」
●
「単純だねえ男の子は」
と隣の瑞希が言った。
アルファと瑞希の二人は電柱の影に隠れながら、対象にばれることなくピーピングを実行している。
「でも手作りお弁当ならポイント高いですよ」
「にしてもさあ、マッキーって何者? 私、映画館を顔パスで入れるなんて思ってもみなかったよ」
「あの映画館を運営しているグループの出身母体は私の家と関係があるのです。あらかじめ、手を回しておきました」
「さらって言ったけどさあ……まさかそれって、今回の尾行のためパパにお願いしたの?」
「謀は密を持って良しとするのが、私のポリシーですから」
「そんなお金持ちが彼とお友達……なんかますます謎だなあ、君達って」
●
大曲垣海浜公園はその名の通り海に面した公園である。
江戸時代は北前船の寄港地として栄えたこの街の歴史を表すかのように、公園の中には再現された千石船が置かれている。
公園の中は休日を楽しむ家族連れや、トランペットの練習をしている学生などでにぎわっていた。
適当に歩いて空いているベンチに落ち着いた私は、早速お昼の弁当を開いた。
「さ、召し上がれ」
「おおっ!」
あいつから狙った通りの歓声があがる。風呂敷から出てきたのは、母のコレクションから拝借してきた黒塗り南天蒔絵の三段重である。
一の段には、鶏肉の旨煮、海老の黄身焼き、鴨の燻製、焼きかまぼこなど肉を中心に配置し、二の段には煮物と酢の物、メカジキの照り焼きと卵焼きと豆金時、三の段は黒胡麻の俵おにぎりと、香の物。
朝から早起きして母から習った全てをぶつけた和風のお重弁当。少々作りすぎた感もあるが、相手の度肝を抜くに相応しい豪華な陣容と言えるだろう。蒲鉾や燻製は出来合いのものだが、他はすべて私の手作り。これで満足せぬ男などいないはずもない。
「美味い! 美味いぞこれ!」
と言いながら鶏肉の旨煮をおいしそうにほおばる。
自分が作った料理を喜んで食べてくれるのは、相手が誰であっても気分がいい。
「卵焼きは甘くしといたわよ。あなたそっちのほうが好きでしょ?」
「お前、俺の好みを憶えておいてくれたのか」
「だって昔遠足に行ったときは、お弁当の玉子がしょっぱかったって交換してあげたじゃない」
あれはまだ小学校の時分だったと思う。あの頃はまだあどけない私たちだった。
「鴇子が俺のために……」
ふと見ると、あいつの箸の動きが止まっていた。
「どうかしたの? 味付け少し濃かったかしら?」
そろそろ蒸し暑い時期にさしかかるため、普段よりも味を濃くしていたのだが、合わなかっただろうか?
「違う、昔を思い出していたんだ」
「昔……?」
「よく遊んだよな……」
「う、うん……」
昔と言われて、私は走馬燈のように過去の情景が頭をめぐる。
一緒に歩いた春の桜並木、一緒に遊んだ私の家の庭、一緒に泳ぎに行った海水浴場。
今ではありえないと思えても、それは確かに私たちの過去であったのだ。
「何時以来だろうな、俺達が一緒に飯をくわなくなったのって」
小学校の中ごろから、私とこいつはもう仲たがいをしていてたから……
「たぶん、短く見積もっても六年……じゃないかしら?」
自分で言っておきながら、あまりの時間の長さに私は驚いた。六年と言えば小学一年生だった子どもが中学に入ってもおかしくない。沖縄の古酒なら二本分、パルミジャーノチーズだって余裕に作れる年月だ。
一言でいえるには色々ありすぎた時間、その間に私たちは高校生になった。
「そうだね……久しぶりかも……」
それを考えると、私たちはちょっと遠い場所に来てしまっている。もはや私たちは小さい頃の仲良し幼なじみではない。
「すまん変なこと言ったな。大事に食べるからな、この弁当」
「うん……」
こいつがしんみりしているのも解る気がした。
遠いのだ、六年というこの年月が。
何しろ、今まで生まれてきた時間のおよそ三分の一を占めるのだから。その間に私たちはいがみ合い、感情をぶつけ合った。一体どれだけの労力を浪費し、どれだけのモノを失ってきたのだろう。
もし……もし私たちがいがみ合うことなく、良好な関係を続けることが出来たのであれば、今頃どうなっていただろうか?
どんな交友関係を築き上げ、何を心に秘めて生きているだろうか?
そしてこいつとは、どんな間柄になっていたのだろう?
私は夢想する。その穏やかに流れていく時間を。
だが現実の私たちは、そうはならなかった。
あの頃の、家の庭で遊んだ私たちと今の私たちが同じ存在であるはずなのに、いまいち実感がもてないのだ。だから彼は六年と積み重ねたあの頃の違いに――その六年の年月に思いを馳せたのだ。
ゆえに彼は夢想する。ゆるやかに過ぎていく平和な時の流れを。ありえなかったもう一つの未来を。
それはきっと、今この時、木漏れ日のもれるベンチで一緒にランチを分け合うような……
「鴇子、お茶」
「え……?」
彼の声が私を現実へと帰還させた。
「お茶なくなったから買ってくるよ。お前何がいい?」
そして目の前には現実の彼。
「紅茶の無糖で」
想像と現実のギャップに呆然とした私は、反応するのに時間がかかった。
「和菓子屋の娘が舶来嗜好かよ、そこは緑茶だろ?」
「だって、この服に似合わないでしょ」
「それは言えてるかもな」
納得したのか彼は去っていった。
お弁当は順調に減っている。どうやらもくろみは大成功である。
あいつも喜んでいるし、頑張って作った甲斐があったというもの……
「って違うでしょ!」
大きな声で私は青空に突っ込む。驚いた鳩が白い雲に向かって飛んでいった。
一体何をしているの私は? あいつのためにお弁当を作って、一緒に食べて……そりゃデートだからそういうこともあるだろうけど……でもこれは普通のデートとは違う。
私とあいつの関係はもっと殺伐とした……そう例えるならカジノで腹を探り合うディーラーとギャンブラーのように渇いた関係のはずであった。お互いに興味があるのは、手にするチップのみ。駆け引きを駆使し、時にはイカサマも使い相手の手からチップを掴み取る。ただそれだけが私たちの関係であったはず。
それなのに……今の私は敗北を感じざるをえない。山積みになっていた私のチップは何処に消えたのだろう?
ついさっきまで、ディーラーの私が完全な罠を張って、未熟な客に火遊びの怖さを教えていたはずである。私が勝ち、あいつが負け。そのたびに仮面の下で優越の笑みを楽しんでいたのが私のはずなのに……
「それなのに、どうして私は、私は……!!」
あいつとランチを楽しむことを……ちょっといいな♪ なんて思ってしまったのか! ああ! 気の迷いにも程があるわ!
「はあ……はあ……落ち着くのよ鴇子、こうなったらお弁当に入れるかどうか悩んだあげく、結局使わなかった睡眠薬を今ここで……」
「それは犯罪だよトッキー」
聞き覚えのある声に思わず振り向く。
「み、瑞希! あなたどうしてここに!」
「私も居ますよ。ごきげんよう喜連戸さん」
そこには私の良く知るクラスメイトと、良く知らないことになっているはずの転校生がいた。
「そう……ひょっとして、つけて来るかと思ってたけど貴方たちだったのね」
おそらくこいつ。
このマキナとかいう少女……この少女こそが、今回の黒幕だ。
でなければ、今日のあいつの行動は説明がつかない。
「で、今日のこのデートはあなたが後で糸を引いていたというわけ?」
「人聞きが悪いですね。少し彼のお手伝いをしただけですよ」
私は常人なら卒倒するほどの敵意を向けて睨んだ。しかし、彼の女は何処吹く風で平然と受け流す。
それだけで相手が尋常の人間ではないことがわかる。
「え、え? 何……なんで対決ムードなの?」
「いい加減体裁を整えるのはやめたら? 私は仮面を被っている人間は信用しないことにしてるの。あなた北条マキナと言ったわよね」
「はい、そうですけど何がご不審でも?」
「あなた……本当はアルファという名前じゃないの?」
「ほう……」
仮面が取れてアルファが、笑みを浮かべる。
「我の真名を知るとは、やはりそなた会っているクチか」
間違いない、こいつはアレだ。私の想像通りの存在だ。
だが、私の知っているアレとはちょっと違っているみたいだけど。
「え……っと、アルファって何?」
「ハンドルネームみたいなものじゃ、気にするでない。それにしても……」
彼女は私を見て楽しそうに笑う。どういう意図を持って、再び私の前に現れたのか……その真意がつかみかねた。
私はぐっと構える。
「なかなかの眼力じゃ。やはり新種は違うのう」
「新種って? 何? 私置いてけぼりにしてない? なんでいきなり口調変わってるのよマッキー! ひょっとしてそっちが素なの?」
「こちらの話じゃ」
「瑞希、私はこの女と話があるの、ちょっと黙ってて!」
「むぅ……」
瑞希はいじけながら、地面に木の枝で落書きし始めた。
「いいんだいいんだ私なんて……ここで一人でお絵かきしてるもん」
相変わらず緩い子だわ……
まあいい、今の問題はこの正体不明の女だ。
「あなたね、あいつをけしかけたのは?」
「いかにもその通り。デートをするようにけしかけたのは、この我じゃ」
私の問いに悠然と答えるアルファ。
「あ、やっぱそうだったんだ……」
後で瑞希が驚きの声を上げた。瑞希でさえ予想がついた問題だ。私が察知してないわけがない。
「何が目的なのかしら? こんな稚拙な罠に私がひっかかると思ったの?」
「目的も何も、デートすること自体が目的といえばいいかのう。言わば恋のキューピットじゃな」
可愛らしくウィンクするアルファ。可憐ではあるが、そんな容姿に騙される私ではない。
「私がそんな戯言を信じると思ってるの?」
「人の善意を信じられぬとは、不幸じゃのう」
「あなたが人間だなんて保障はどこにあるの? 人の形をした何かでしょ? そんな相手の言うことなんて信用できないの」
「言うのぉ……心理戦はそなたの得意分野であろう? その卓越した洞察力をもって、何を考えているのか推理してみてはどうじゃ?」
「そうだよ、トッキー頭いいなら解るでしょ。もっとも考える以前の問題だと思うけどな」
なぜかアンコールワットを地面に描いていた瑞希が答える。っていうか絵上手いわねこの子。
「今日の彼は裏表なしの直球勝負だよ、むしろ考えすぎるから、わかんなくなってるんじゃないかな」
「む……」
そういわれてみると、今日のあいつからはいつもの嘘をつく雰囲気が感じられないのよね。
罠をかけようとするそぶりもないし、騙し討ちしようとする下品な品性も感じられない。
二人の尾行を感じられたわけだから、私の直感が狂っているというわけではないと思う。
すると考えられる可能性は……
「あ……」
あった……
すべてに整合性を持つただ一つの解釈が。
「やっと気づいたのトッキー」
「うむ、やっと気づいたようじゃの」
二人が得意になって笑みを浮かべている。
「要するに、あいつわたしに気があるってことなのね」
「うむ」
「ん、まあ……そうなんだけどさ……」
二人とも先ほどのニヤニヤはどこへやら、戸惑った顔を浮かべている。
「そっか……あいつがその気になるなんてね……」
「どうしたのよトッキー? なんか醒めてない」
「別に」
醒めているのではない。正しくは失望した。そう、わたしはあいつに失望している。
私とあいつの関係って、恋愛になるような積み重ね方はしていないはずだ。それなのに、何をどう考えてあいつは私とつき合いたいとか思っているのだろうか。今まで私たちが多大な労力と時間をかけていがみ合っていたのは、そりゃ確かに傍目からみると健全な関係とはいえないだろうけど、それはそれで嘘偽りない関係であったと思う。
例え、憎しみでつながっていたとしても、それは私にとっては真実の絆だった。それをあいつは断ち切ろうとしているのだ。目の前の悪友と、正体不明の少女のおせっかいにのせられて、長年のつき合いのある私との関係に外からの干渉を受け入れている。
それは手ひどい裏切りであり、私にとっては唯一の敵だったあいつが、私に好意をむけている有象無象の一人になるということを意味するのに……あいつは気づいてないのか?
いいのね? 私にそういう風に扱われても、あなたはそれでも構わないと言えるのかしら?
「ねえ、マッキー、さっきから様子がおかしくない?」
「スイッチが入ったようじゃの」
「スイッチって?」
しかし、気になることが一つある。
このアルファと名乗った少女……
「なんじゃ?」
「あなた、あいつが私に好意をもっていると知ったら、私がどう判断するのか、解っていって伝えてきたわね」
「さての、どう判断するかはそなたの自由じゃ」
可愛らしいけど小憎らしいまでの笑み。私の反応を予想している笑みだと判断したと同時に、心のクリップボードに要注意の札をつけた。
「とりあえず邪魔な我らは去るとするか」
「えーいいの、あれほっといて。なんか微妙な雰囲気だけど?」
一人事情を察知していない瑞希はおろおろしている。
「あとは当事者同士の問題じゃ。我々の出る幕ではない」
「そりゃそうだけど……」
「それよりも、我はさきほどみかけた猫カフェの看板が気になるところじゃ。瑞希よ供をいたせ」
「御意、案内つかまつりまする」
ノリノリの口調で瑞希が答える。けっこうこの二人馬が合うのかもしれない。
「それじゃ、あと頑張ってねトッキー。応援してるぞ」
気を利かせたのかさっさと連れて行ってしまった。
さて……どうしてやろうかしら。
○
「う~~ん……」
俺はさっぱりしない顔つきで海浜公園を歩いていた。
どうも先ほどから記憶があやふやだ。
鴇子と一緒に映画館に行って、弁当を食べていたことはおぼろげながらに覚えているのだが、どういう経緯で俺はこの公園にやってきたのか。
何を喋って何を思ったのか、記憶はあるのだがリアリティーが抜け落ちている。まるで夢でも見ていたような感覚。己の存在が不確かでいまいち落ち着かない。
あと、頭が妙にズキズキしているのはどうしてなのか、これも謎だ……
「……ま、いいか」
とにもかくにも、この手に持っているお茶のペットボトルは鴇子が俺に命じて買いに行かせたものに違いない。
となれば機嫌が悪くなる前に、早くもどらないとな……
俺は鴇子が居るベンチに向かって歩き出した。
「おまたせ」
俺は一人でベンチに座っていた鴇子に、何事もなかったようにペットボトルを渡した。
「ありがと」
と、鴇子が笑顔でペットボトルを受け取ったあたりで違和感に気づいた。
どうしてかわからないが、返事がありきたりというか、声に実感がともなってない。
怪訝そうに鴇子の顔を眺めるが……
「なあに? 私の顔に何かついている?」
「いやなんでもない」
と、穏やかではあるが、鴇子の心は分厚い壁に阻まれているような印象を受ける。
こういう時の鴇子の顔をかつてどこかで見たような気がするのだが、いまひとつ思い出せない。
はて……どこで、いや、どういう状況で俺は鴇子のこの顔を見たのだったか。
「あ、あの!?」
「は?」
唐突に割り込んできた声に俺と鴇子は同時に振り返る。そこには女の子が深々と頭を下げていた。
「先ほどは、すみませんでした!」
「あれ……? 掛井じゃないか?」
そう、彼女の名前は掛井香澄(かけいかすみ)、鴇子と同じく茶道部に所属する一年したの後輩。鴇子の周りにいる女子の中でも、俺と会話が出来る貴重な存在である。というか、何で俺に頭下げているの、この子?
「この不始末は幾重にもお詫びを、とりあえず、これ受け取ってください!」
そう言って、白い布を差し出している。その間も掛井は申し訳なさそうな顔をして頭を下げたままだ。
「え、なにこれ?」
「私のパンツです」
「いらねえっ! なんつーもん出すんだ」
「わかりました上も脱げばいいんですね!」
「脱ぐな、そんな重いもの俺は受け取れん!」
俺は勢いよく脱ごうとしている掛井の腕を止める。
「あ……」
タイミングの悪いことに、急いで手を伸ばした俺は掛井にのしかかるような体勢になってしまった。
「先輩……やさしくしてくださいね……」
つーかその顔マジやめろ。いきなり雰囲気出そうとするな。
「で、何でいきなり謝ってるんだお前」
「え~~と実はですね。さきほど弟たちとキャッチボールしてたんですよ。そしたら、すっぽぬけたボールが運悪く、先輩の頭にぶつかっちゃって。私は逃げる弟を捕まえようとしていたら、先輩はどこかに消えちゃうし……それで急いで謝らないといけないなーって思って……」
なるほど、さきほどの頭の痛みはそのせいか。謎が一つとけた。
「先輩すみませんでした! 怒ってますやっぱ怒ってますよね」
「いいよ別に、やったのお前の弟だろ。休みなのに弟の世話なんて大変だな」
「いえいえ、当然ですよ投げたの私ですし」
「弟じゃないのかよ!」
「だって、一人で謝りにいくの怖いじゃないですか。やっぱ先輩怒ってます? 怒ってますか、レイプしますか?」
「しねえよ!」
公の場所で何を口走っているんだこいつは。
「で、何をしているのかしらあなた達」
やばい、鴇子がかなり不機嫌になってる。こんな機嫌の悪い鴇子をみたのは、あいつの自転車にアロンアルファを塗りたくって以来だ。それもそのはず、デートの途中に相手の男が、他の女の子と抱き合ってたら怒るよな。
「わ、悪い……デートの途中なのに」
「え、先輩デートだったんですか?」
あ……まずい……と思った瞬間、鴇子もようやく知り合いに自分の顔を見られているのがまずいと気づいたのか、掛井さんから顔を背ける。
「うわ、すっごい美人さんじゃないですか! やりますね先輩」
「そ、そうかな……」
どうやらあまりに普段のイメージとはかけ離れているため鴇子だとは気づいていないらしい。それ君のとこの部長さんですよ。
「初めまして。私は掛井香澄っていいます。澄んだ香りと書いて香澄なんですよ。お前の目は曇ってるとか、よく言われますけどー」
なんと的確な自己紹介だ。自分の所属する部活の先輩と気づかず、堂々と挨拶している。
「そ、そう……よろしく」
「彼女さんのお名前は何とおっしゃるんですか?」
さて、この状況にどう答える鴇子?
「私の名前はマラコーダ。地獄の亡者を罰する十二の魔を率いる魔界貴族よ」
「悪魔さんなんですか。先輩、交友関係広いですね」
「いや、信じるなよ」
バカにしているわけではないのは、好奇心に爛々と光る目の光でわかった。そもそも、掛井はとぼけて相手をバカにするほど陰湿なことが出来るタイプでもない。
その証拠に、彼女は興味ぶかげに鴇子の周りをぐるぐると回って眺めている。
「でも、羽ははえてないんですね。悪魔さんなのに」
「羽は第二形態なの。現世では力を浪費するからしまっているのよ」
「今は第一形態なんですね、納得です」
地獄の魔界貴族というバカな設定にも、掛井はあっさりと相手の言い分を信じ込んでしまった。この子の行く末が心配だ。
しかし、変な流れになってきたな。まさか、こんなところで知り合いに遭遇するとは思わなかったし。ああ、どうしようこの空気。
「ん、あれ?」
と掛井さんが驚いたような声をあげる。
「どうした掛井?」
「この悪魔さんどこかでお見かけしたような……」
まずい、さすがに気がついたか。と思ったその瞬間……
「くっ……」
と言いながら、苦しそうな様子で鴇子は片目を押さえる。
「まずい、北北西から天使の波動が近づいてくるわ」
いきなりのあまりの発言に、俺と掛井はあっけにとられてしまう。
「悪魔はこの世を漆黒の闇に染めるために、天使はこの世を浄化するため、私たちは永遠の時を戦い続けているの。その戦いに終止符を打つため、私は戦場に赴かなくては」
「天使さんって本当にいるんですか? 私も見てみたいです」
「いけないわ、ここにいたら貴方も戦いに巻き込んでしまう。さようなら、そして、また会いましょう名もなき人間よ。次に会う時はその純粋なる魂を私の色に染めてあげる」
そう言って、鴇子はあっという間に走り去ってしまった。去り際の鴇子の表情が苦悶に満ちていたのは俺と鴇子だけの秘密だ。
「さようなら戦い頑張ってくださいねー」
そんな鴇子の苦しみを知らず、と掛井のほうは暢気に手を振っていた。これは無垢なる魂が俗なる常識に勝ち得た数少ない記録であると、俺はここに記憶しておこうと思う。
「あ、先輩! でも悪魔さんが勝ったら、この世は漆黒の闇に包まれてしまうんですよね。せっかくお友達になれたのに、応援できないってつらいです」
「掛井、そこのソフトクリーム奢ってやる」
「え、マジですか? やったー!!」
曇りのない笑顔で喜ぶ掛井の笑顔を眺めながら、俺はずっとそのままでいてくれと思うのだった。
それにしても、鴇子の奴、あとでフォローしないとな。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます