第2話


 ○月△日 晴れ

  

 今日は部活の定例ミーティング。受験を控え、三年がそろそろ引退の時期にさしかかっているため、議題は自然と次の部長は誰かという話題になった。

 

 もっとも人事に関しては既に皆の心が固まっている。私が部長で副部長が瑞希、会計は一年生から掛井さんが抜擢された。私は仕事を任せるほうだし、瑞希に至っては部室で美味しいお茶を飲むことしか頭にしかない。働かない部長と副部長に囲まれて、彼女はさぞ苦労することだろう。あの子が困っている姿を見るのはちょっと楽しい。私も楽出来るし。

 

 瑞希は帰り際に「鴇子王朝成立だね」と嬉しそうにしゃべっていた。三年生がいなくなり、部室で好きに活動出来る、その楽しみしか頭にないようだ。次の茶会は紅茶を淹れてみようと進言してきたが、流石に却下した。不覚にも部長としてこれが私の第一の仕事になる。



 上々の気分で家に戻ると、あいつが行方不明になったとの知らせがあった。

 店の人間も手伝って、方々を探し回ったが、本人は公園に居た。のんきに眠りこけていたのを店の見習い職人が見つけたらしい。普段は仲が悪いというのに、報せを受けてすぐに捜索を手配するとは父もなかなか度量が広い。


 と思ったが、実際はおじさまに貸しを作りたかっただけかもしれない。あの二人は本当に仲悪いし。

 深夜をまわっていたとはいえ、おじさまはあいつを伴って挨拶に来た。物陰に隠れてそっと観察していたが、あいつが小さい頃の面影とは少し違っているようにも見えた。

 父は礼を言うおじさまへ鷹揚に応対したが、あいつを見つけた礼として、おじさまが先代から形見分けとしていただいた茶器を次のお茶会用に貸し出すよう、それとなく自分の希望を匂わせていた。

 おそらく父の狙いはそれだろう。何事もただで貸しを作ることがないし、おじさまもなんとも言えない顔をしていた。やはりこの二人は仲が悪いと思う。



 あいつのことを考えながら眠ったせいだろうか、不思議な夢をみた。


 河原で私とあいつが二人で鬼ごっこをしている夢。小さい頃にはそんなこともあっただろう。何しろつき合いは長いのだから、そこそこ楽しい思い出もある。

 だが、じきに日が暮れてあたりは茜色から暗闇へと変わっていく。

 私の傍にはもうあいつしかいない。

 だが、それでも私たちは帰ろうとしなかった。家から来るはずの迎えも来ない。

 じっと河原に立ち尽くしたまま、私たちは川に流れる水を見つめ続けている。

 

 いつまでも、いつまでも……

 

 私は、そんな夢を見た。

 

 

 

 

 ○

 

「ちーす」


 翌日、俺が教室に入った瞬間、クラスメイトの面々はぎょっとした様子で俺の顔を見つめた。

 原因ははっきりしている。昨晩、周囲に迷惑をかけた罰として親父の強烈な拳を右頬で受け止めたため、今日の俺の右頬は派手に膨らんでいる。そのせいである。利き手で殴ったなら普通は左頬が腫れているはずだが、親父はこういう時でも職人だった。

 赤く腫れた右頬は絆創膏を貼った上でも目立つ。クラスメイトの眼にはさぞ痛々しく映ったことだろう。


 己の未熟を体で購うのは男子の本道とはいえ、遠くから腫れ物に触らないような距離感は少し居心地が悪い。原因を知りたいが気軽に尋ねてもいいものか、そう逡巡している男子連中の様子が手に取るようにわかった。女子は鴇子の教育が行き届いているため、もとから俺に話しかけないのでいつもどおりだ。くそ忌々しい。

 

  鴇子のいる席を見ると、彼女は少しこちらを見つめただけでスルーした。そのせいで、周囲の空気が余計固まったように見える。どうせみんな、鴇子と俺の間で何かあったかと邪推しているのだろう。

 そんなことを考えていると、周囲の空気にはばかることなく、とある女子が俺に話しかけてきた。




「おっはよー、ねえねえ聞いてよ、私ね~……ってそれどうしたの!?」


 彼女は後藤瑞希(ごとうみずき)は、鴇子と同じ茶道部の部員である。仇名は“ごっさん”。ややこしい仇名だが、まごうことなき女子である。

 鴇子の影響下にある茶道部女子の間では、俺の評判は甚だ悪い。ごっさんはそんな風評を当てにすることなく屈託なく俺に接してくれる貴重な女子だ。あと胸がでかい。これ重要。


「転んだの?」

「いや、違う。これは名誉の負傷と言うべきかな……」

「じゃあ、喧嘩したの? 河原で殴りあいとか」

「実は昨日、神に会ったんだ。ごっさんは神にあったことがあるか?」

「ネットで見たよ。神展開とか神動画とか」

「そういうジャンルじゃなくて……自分とはまったくレベルが違う存在に会ったんだよ。で、これはその結果」


 自分でも説明になってなかったと思う。

 ごっさんも俺が何を言っているのかわけが解らないだろう。


「なんか誤魔化してない? デタラメ並べて煙にまこうとしてるでしょ?」

「いや、本当だって」

「んー、本当かなー?」

 とごっさんは顔を膨らませた。


 事実ではあるが、親父に殴られたことまで言う必要はないだろう。この歳で父親から折檻されたなど、外聞が悪いし。

「本当のこと言ってくれたら、おっぱい触らせてあげるよ」

「親父に折檻されました! さあ、触らせろ!」


 『おっぱい』それは男を惑わせる魔法の言葉。健康な男子であれば脊髄反射で反応してしまうのもやむを得ないだろう。

 女子数名がこちらを見て、怪訝な顔を浮かべている。またぞろ俺の品位と評判が下がっていくだろうが、今さらそんな些末なことには構っていられない。何しろ『おっぱい』なのだから。嗚呼。


「確かにおっぱい触らせてあげるとは言ったけど、それが今とは言ってないよ」

「……!! はめられた……」


 くそっ! 簡単に術中にはまってしまった俺の単純さが憎い。


「即答だったねー、そんなに私のおっぱい触りたかったの」

「頼むからそれ以上言うな。今自分の馬鹿さ加減を反省しているところだ」

「反省しなくていいよー。そういうところ好きだな私」


 唐突なクラスメイトの意見に、一瞬時が止まる。


「単純って言うかー、簡単って言うかー、ストレートじゃん。そういうの安心するんだよね」

「…………」


 本人は褒めているのだろうけど、馬鹿にされているようにしか聞こえない。


「で、何だよ用件は? さっき何か言おうとしてなかった?」

「あー、そうそう! それなんだけどね。実は私、今度副部長になるの」

「へー、茶道部の?」

「うん、トッキーが部長で掛井さんが会計だよ。誰が呼んだか鉄壁の布陣!」

「鉄壁かなあ……鴇子は担ぎ上げられるタイプだから良いとして、ごっさんが副部長とは意外だ」

「先輩はバランスがとれるからそれでいいんじゃないかって言ってたよ」

「ああ、そういう考え方もあるか……」


 納得した。茶道部の先輩方も見る目がある。


「副部長って一応権力だし、貰えるなら貰っておいたほうがいいじゃん? トッキーを傀儡にして私の王朝を築き上げるんだ。お茶の代わりに紅茶を淹れたり、私の好きなレーズンバターは部費で買い放題、羨ましいでしょー」

「そんなに良いかぁ?」


 ごっさんも欲望に正直なところがあるが、あまり嫌味に聞こえないのが彼女のいいところ。やや子供っぽいけど。いや、子供はおっぱいなんて言わないか。

 ふと鴇子のほうを眺める。彼女はいつもと変わらず周りに女子を囲ませておしゃべりに花を咲かせている。


「なあ最近のあいつ不機嫌じゃない?」


 一見、穏やかにクラスメイトと会話を交わしているように見えるが、鴇子に関してそれは間違いである。

 不機嫌な時はますます外面が良くなるのが鴇子の習性であり、それは長いつき合いの俺や、いつも傍にいるごっさんだからこそ解る。

 周囲の壁を高くして余人の目から自分の姿を隠す。そういうの得意だからなあいつは。


「気になるなら話しかけなよ」

「いや、それはちょっとなあ……」


 仲の良かった麗しき子ども時代は過ぎ去り、相手は花も実もある女子高生、俺もリビドー溢れる男子高校生である。『ちょっとシャーペンの芯貸してくんない?』とスマートに話しかけられるほど、俺は世慣れていない。


「はあ……相変わらずだなあ……」

 鴇子の友人である彼女はおそらく、心の底からのため息を吐き出した。


「そんなことだから童貞こじらせて、女の子におっぱい触らせろーとか平気で言えるようになっちゃうんだよ」

「どどどど童貞ちゃうわ!」

「どもりながら言っても、説得力ないよー」

「舐めるな、キスくらいは経験済みだ!」

「え……?」


 ごっさんは目を丸くしてこちらを見つめたかと思うと、鴇子と俺を交互に見比べた。


「ちょっと待て、なんであっちに目線が行くんだ?」

「だって、え、ちょっと待って……本当に……」

「ええまあ、アレはキスだったと思うけど……」

「本当かな……? 悪いけど君が女の子と一緒にいる姿が想像できないんだよね。ゲームの中でとかじゃないの? 勝手に脳内補完されてないよね」

「そこまで言うか……」


 そこまで疑われると、自分の記憶が怪しくなってくるな。

 まあ、確かにあれは夢の中だったような……

 あまりの女性の触れ合いが少ないので、脳がそのぬくもりを求めて、幻影を見せただけなのかもしれない。

 鴇子は俺のほうを見ずに周囲の女子と楽しそうに会話している。

 こちらの会話が届いているかどうかは解らなかった。



「きっと勘違いだよ。女の子との接触があまりにも少ないから、記憶が脳内補完されたんだね。人間ってすごいなあ」


 随分な言われ方だが、そんな悲しい納得の仕方をされても、反論出来るだけの根拠はなかった。

 あのアルファと名乗った少女。考えてみれば世界で一番偉いとか、鴇子が人類の新種だとか、ありえない内容ばかりだ。あれは夢だと言われたほうが納得出来る。

 で、その鴇子と仲直りをしなければならないと俺は誓ったわけだが……


 正直に言うと、教室で優雅に君臨する鴇子を見ただけで俺は戦意を喪失していた。

 片や学園の女王、片や成績も平凡な目立たぬ一介の学生である。話しかけるだけで気が重い。あれは俺からしたら無理目の女という奴だろう。

 第一、ここしばらくは俺を存在しないかのように振舞う鴇子が、俺との対話を望むだろうか? 俺は数々の敵対勢力を対話のテーブルにつかせたスウェーデンの外交官に尊敬の念を抱いた。


 

「いいかげん仲直りしたら?」

「ごっさんまでそういうこと言うのな……」

「既に誰かさんに言われた? でもそれ正解」


 ぐいとごっさんが身体を前に乗り出す。ゆえにその豊かな胸が眼前に強調される。

 ここらへんの距離感は鴇子と違う意味で遠慮がない。


「俺と鴇子の因縁知ってるだろ? 余計なお世話だよ」

「ダメだよきっとトッキーは話しかけられるの待ってると思うよ? こういう時は男の子が甲斐性見せる時だよ」

「男は女に媚を売らんのだ」

「前時代的ー」


 と呆れるようにごっさんは言った。


「なんと言われてもそういう男は好かん、男の歓心を買うために厚化粧をする女も好かん。だからごっさんはナチュラルメイクのままでいてくれ」

「解るのそういうの?」

「そのリップ新しくしたろ? 似合ってるぞ」

「ん……まあ、そうなんだけどね……結構見てるよねえ……ほんと……」


 何故かごっさんは言葉が小さくなる。先ほどの勢いも鳴りを潜めややうつむき加減だ。

 そうこうしている間に先生がやってきて、この話は有耶無耶に――


 

 ならなかった。


 

 

「転校生を紹介する」

 入ってくるなり先生が言ったその言葉にクラスの連中はざわめいた。それも無理もない。この時期に転校生なぞ珍しい、普通は春の風物詩だ。

「入ってきなさい」


 扉が開いて、一人の少女が入ってくる。

 その姿を見て、俺はあいた口が塞がらなかった。

「北条マキナと言います」

 丁寧にお辞儀する優雅な少女。

 それはもうどこから見てもいいところのお嬢さんで……

 

 いや、違う!

 あいつだ。

 金髪で小柄でちょっと胸が貧しいけど、それを補ってあまりある美貌、まるで人形のような完成度。アルファと名乗る世界で一番偉い少女だ。絶対に間違いない!

 つーかマキナって何だよ。本名アルファじゃなかったのかよ!


「北条さんはお父さんのお仕事の都合で、急遽イギリスから戻られた帰国子女で……」

 担任の先生が何かを説明しているが、今の俺にとってはBGMに過ぎなかった。

 あれは夢ではなかったのか? 俺はちゃんと夢から現実へと帰還しているのか? あの空間でのやりとりはなんだったのか? 世界の最高責任者というあの自称は一体何なのか? 考えれば考えるほど堂々巡りで答えが出ない。

「日本の習慣には不慣れなので色々教えてくださいね」と微笑んだ瞬間、男子たちの歓声が上がった。



 ごくりと俺は息を呑む。

 嘘だろおい……あれって夢じゃなかったのかよ……

 それじゃ、あの時のキスも本当に?

 

「それでは君の席は……」

「はいはいはいはい!」

 その瞬間、ロマンスの神に愛されたい男子どもが、一斉に手を上げた。

 

「先生、俺の隣が空いてます!」「坂下君、君の隣の石和さんは風邪で休んでいるだけです」「石和なんて女子は死にました!」「勝手にクラスメイトを殺さないでください」「俺の隣がいいと思います!」「高野君、隣にいる日永さんを椅子から突き落とさないように」


 テンション高いなーこいつら。

「先生、私は彼の隣を希望します」

 そう言ってアルファ改めマキナと名乗った少女は俺を指差した。

「えっと……彼ですか……? あまりお薦めしませんけど……」

 はいはい、そうでしょうよ。鴇子との因縁のおかげで俺はいたいけな女子を苛めるゲスとして、あんまり良い印象持たれてないからなあ。

 

「大丈夫です。私とは顔見知りですから」


 彼女がそう言った瞬間、嫉妬と怒りの交じった男子の視線が俺に集中するのを感じた。心底うざい。

「今日からクラスメイトということで、よろしくお願いしますね」

 優雅な足取りでぬけぬけと隣の席に座る。ちなみに隣の席に座っていた草間さんはマキナことアルファのカリスマに恐れをなして自ら席を譲った。

「は、はは……」

 どうにもこうにも、俺は乾いた笑いしか出来なかった。

 

 夢じゃなかったんかい!

 

 

 

 

 んで、休み時間中。

「何をしにきたんだ、あんた」

 俺は先生が教室に出て行ったと同時に、押し寄せようとするクラスメイトたちの機先を制し、電光石火の早業で彼女に詰め寄った。

 

「だいたい、アルファって名前はどうしたよ? 帰国子女ってこの前バリバリ日本語喋ってたじゃない」

「身分を隠しているのじゃ、その名を呼ぶでない。今はマキナもしくは北条さんと親しみを込めて呼ぶが良いぞ」

「あんたの席に座っていた草間さんは、落ちた消しゴム拾ってくれる程度の優しい人だったんだぞ。はいチェンジ!」

「こうして世俗にまみれて下々の事情を知るのも、我が務めなのじゃ」

「越後のちりめん問屋かあんた」

「最近の再放送は面白いのう。西村晃の元気な姿がまた泣けるわ」



 世俗にまみれまくっとるなこの権力者は。

 俺とアルファならぬ北条さんがしゃべっている間、クラスメイトたちは遠巻きにして様子を見ている。

 おそらくマキナのカリスマに遠慮して近づくのをためらっているのだろう。

 

「そなた一人では難儀すると思ってサポートしに来てやったのじゃ」

「手助けではなく監視のほうだろ?」

「契約とはいえキスを交わした相手に……」

「わ~~~~~~!!!」

 と俺は急いでマキナの口をふさいだ。





 ○

 

「ねえねえ、何を話しているのかな、あの二人」

 嬉しそうに瑞希が私の席によってきて話しかけてきた。その表情から明らかに楽しんでいる様子が窺える。

「もしかしてさっき言ってたキスしてた人って、あの子とかな」

「さあね」


 瑞希は善き友人ではあるが、おせっかいが過ぎる所がある。こんな時は特に鬱陶しい。


「あ、やっぱりさっきの私たちの会話聞いてたんだ」

「そりゃ聞こえるわよ。あんなに大きな声でしゃべってたんだもの」

「ふ~~ん」


 何よその笑みは。

 勝手にストーリーを構築していく友人に、私はやや辟易した。

 だが、追従する人間だけに囲まれる愚を自分は犯さない。対等の友人が少ない私にとって、こういう人間は貴重なのだ。

 あいつがどこの誰と何をしようとも私には関係ない。もはやあいつと私は家が同業者というだけで、何の関わりもない。

 もちろん、それをわざわざ宣言するほど馬鹿ではなかった。

 その時、あいつが机の上から消しゴムを落していたのが目に入った。

 手が伸びて床に落ちているそれを拾おうとする。その時に指でとんとんと二回叩く。

 それは合図だった。私とあいつしか知らない、子ども時代の秘密の符牒だ。


「ん……どうしたの?」

「ちょっとトイレ」

「そういう時は花摘みって言おうよ」

 

 

 

 

 ○

 

「うわ、あいつマジで出て行きやがった」

 

 指先で二回トントンと叩く――

 

 これは鴇子と俺の間に通じる「外に出よう」という意味の秘密のサインである。子どもの頃、法事など大人の集まりに連れて行かれた時は、これを合図にして二人でよく会場を抜け出して遊んだものだ。

 もっとも、あいつがまだ憶えているのか自信がなかったのだが……

 もしかして、こっちが思っているよりもあいつは俺のことを気にしているのかもしれない。


「さっそく効果あったかの」

 とマキナのどや顔がうっとうしい。

「そなたのことじゃ、決意はしたもののどうやって声をかけるか思い悩み、二の足をふんでおったのだろう」

「うぐ……」


 見てきたように言うなあ。まあ……その通りなんだけども。


「早く行ったほうが良いぞ。何しろ自分の相手が知らぬ間に素性も知らぬ女と親しくなっていたのじゃ。これでは悋気もやまぬというものよ」

「勝手にあいつの男にしないでくれ」

「コイバナではないわ。パートナーという意味じゃ」

「それもあんまり良い響きじゃないよね」

「いいから早く行くが良い。時は止まってくれぬぞ」


 言われなくても行くつもりだ。

 俺が席をはずしたと同時に機会をうかがっていたクラスメイトたちが、アルファの周りに殺到した。皆、アルファに話しかけることに夢中で俺に注意をはらう人間はいない。好機とばかりに俺は、鴇子の後を追った。

 

 さて、この場合、鴇子はどこで俺を待つだろうか……



 

 

 おそらくそれは屋上に違いあるまいと想定し、屋上の扉を開けたところ、予想はものの見事に的中した。

 屋上の手すりに寄り添いながら、艶のある黒髪を風に靡かせ、彼女はそこに立っていた。

 少し見とれそうになっていた自分を叱咤して、俺は二十九週間ぶりに鴇子に話しかける。


「や、やあ……久しぶりっ!!」


 我ながら無様な上、とてつもなく凡庸な挨拶であった。

 さて、対する鴇子の機嫌はどんなものだろうか??



「久しぶりね。元気にしていた?」



 と鴇子は花のような笑顔を浮かべた。

 

 ああ、最高に機嫌悪いわこれ。

 

 不機嫌な時ほど、外見を見繕うのが鴇子という女であるから、これで機嫌がよろしいわけではない。

 これはよほど腰をすえてかからねば――と俺は腹に気合を入れる。


「久しぶりね、あの合図を使うなんて、随分懐かしいじゃない」

「う、うん……そ、そうだね……」


 あ、いかんどもっている。

 平常心、平常心……


「で、何なの? 私に何か用事かしら?」


 こういう時、ストレートに『機嫌が悪いのか?』と尋ねるのはいけない。

 もし、そんなことを訊ねたりしたら……

 

『私の機嫌が悪いってどうして? 私が怒っているように見えるのかしら』

『いや……あ、はいそうですね、すみません』

 

 となるに決まっている。

 高校に入ってからというもの、こいつは極端に俺を避けている。いっそのこと、その原因をここで確かめるのはどうだろうか?

 

『なあ、お前はどうしてそこまで頑なに俺を拒むんだ? 俺、何かしたか?』

『私の給食袋に蛙を詰めたり、上履きの中に唐辛子の粉をまぶしたり、爆竹をなげつけたり……』

『もういいです、ごめんなさい』

 

 うん、この質問もまずいな。心当たりがありすぎる。

 なんと言うことだろう、今鴇子を目の前にして俺が打てる手はそんなに多くない。


 考えてみたら未だ恋も女もしらないこの俺が、女子の心を開かせる軽妙なトークなぞ出来るわけがなかった。この鴇子という特殊で厄介な女を相手に、どうやって向き合えばよいのだろう?

 俺はそのことをまったく考えてなかったことに、今更ながら気がついた。


 

「そうそう、あのマキナとかいう転校生さんって、どういう知り合いなのかしら」

「え~~っと、あれはなその……」


 やべ、考えている間に向こうから様子を探ってきた。


「友人だよ、単なる友人」

「ふうん……」


 その“ふうん”という一言が単なる相槌なのか、それとも何か別に意味が隠されているのか、さっぱりわからない。

 そうして俺が逡巡している間にも会話は進んでいる。


「とっても綺麗な人ね、まるでお人形みたい。私にも紹介してくれないかしら?」


 冷ややかな視線で俺を見ている。ますます鴇子が俺から遠のいたような気がした。


 ああもうごちゃごちゃ考えるのやめだ。どうせ腹の探り合いではこいつには勝てない。

 仲直りするには強行突破しかない!

「と、鴇子……話があるんだ!」

「どうしたの改まって?」

 俺は鴇子へのアピールのため、意を決して彼女の両手を掴み、じっと彼女の目を見据える。

「え……ちょっと……」

 まっすぐに見据える鴇子の瞳が揺れる。俺はその機会を逃さなかった。



「お友達になってください!」

 一瞬の静寂、ややあって鴇子が口を開く。

 

「はい?」

 

 その瞳はかつてないほど冷ややかに、俺を映していた。

「やあねえ、私とあなたは幼稚園の頃からのお友達じゃない」

 その声を聞いて俺は失敗したのだと悟った。

 おかしい、今の何がいけなかったのか。

「それはそうだけど、そういうのじゃなくてだな……その……」

「そういうのじゃなくて、何?」

「あ、いえ、何でもありませんけど……」

 なんだこの迫力は? すごみが一段と増している気がする。

 

 キーンコーンカーンコーン……


「いっけない次は移動教室じゃない。私先に行くわね」

「あ、うん……」

 微笑みを残して鴇子は去っていってしまった。

 

 




「そなた馬鹿じゃの」

「なんでだよ! 初めはお友達から、俺は間違ってないよな!」

「間違っておるわ。最初から最後まで徹頭徹尾間違っておる!」


 今は昼休み。

 学生たちでごった返す学食の一角を陣取って、俺達は反省会を開いていた。


「お友達というのはそれで完結した関係であり、鴇子との関係をそれで留めたいという要求にほかならぬ。そこで質問じゃ、そなたと鴇子は友人になれる関係なのか?」


「む、それ言われると……」

 俺と鴇子の関係は友人の範疇から外れているのは明らかだ。友情、努力、勝利は俺のテーマになりえても、裏切り、卑怯、勝ったと見せかけて油断したところに背面強襲が奴のスタイルだ。水と油は交わることがない。

 

「無理だな」

「そうであろう。友人という言葉で自分たちの関係を閉じ込めたくないのであろう。そんな女心じゃ」

「女心……だと……」


 女心、それは男子にとって永遠の神秘。俺の目の前にフェルマーの最終定理のような、とてつもない難題が出現した気がした。もっともフェルマーの最終定理はアンドリュー・ワイルズによって既に証明済みではあるが。女心は数式を解くようにはいかない。


「そうか……女心……」

「そう女心じゃ」


 と満足そうにきつねうどんを啜るアルファ。


「そうか、あいつも女の子だったのか……」


 俺のその発言に、アルファはあやうくきつねうどんを噴き出しそうになる。

「ちょっと待て、そこから始めるのか?」

「考えてみれば、鴇子にも心があったんだな」

「あるに決まっておるじゃろ」


 アルファは落胆したような調子で俺を眺める。何でいちいち突っかかるかな。


「で、お友達になって仲直りが出来ないとなると……どうすればいいんだ?」

「うむ教えてやろう。その代わりここはそなたのおごりじゃぞ」

「なんでだよ。自分で払えよきつねうどんくらい。世界で一番偉いんだろあんた」

「その世界で一番偉い我から、ただでアドバイスを聞こうというのが図々しい。少しは我に敬意を示すがよい」

「ち、わかったよ……ほら二百八十円」


 ちなみに俺が食べているA定食はメインにコロッケ、スープ・サラダつきで四百五十円。学生に適したリーズナブルな値段設定で助かる。


「んむ、では秘策を授けよう」

「よろしくお願いします」

「正面突破、策はいらぬ。本気で伝えたいならじっと相手の目を見て、抱きしめて好きと言えば専用BGMが流れてハッピーエンドじゃ」

「二百八十円返せ」

「そなた、さっきから態度がぞんざいじゃな……」

「出来るか、そんな恥ずかしいこと! ゲームの攻略聞きたいならネットで検索するわ!」

「ゲームではなくこれは現実じゃ。選択肢が出てくると思うなよ」

「だいたい、あいつは俺が行っても徹底的にスルーするんだよ。正面突破なんて無策に等しいだろ」

「確かに鴇子はそなたをスルーしておる。それは私が見てもわかった。一つ尋ねるがそれは何時からなのじゃ?」

「今年度の学期が始まってからだから……二年で同じクラスになってからだな」

「ならばますます小細工は無用じゃ。やはりそなたの腹が定まらんのが問題じゃのう」


 あまりに自信たっぷりに言うアルファの口調に、俺は疑問を浮かべてしまう。


「本当にそんな簡単なことでいいの……?」


 あまりも簡単に言いすぎだろこの人。素直に言うことを聞いていいのか、だんだん疑わしくなってきた。


「大人のいうことは黙って聞いておけ」

「あんたのどこが大人なんだよ。つーか同い歳じゃないならいくつなんだよ?」

「レディに歳を聞くな。そういうところが子どもじゃな」


 といわれたら、反論はできない。


「そなたは未だに自分を何者かはしらぬ。ゆえに分別がつかない、責任がもてない。それが子どもの特権じゃ。よってそなたに策はいらぬ。まっすぐぶつかれは必ず誠意は天に通じるじゃろう」

「言いたいこといってくれるなあ……」


 そんなこと言われても、あの鴇子相手に無策ではとうてい太刀打ちできないと思う。

 俺はアルファの言うことにいまいち納得できなかった。


 

 

 そして放課後――

 家の手伝いをしなくてはいけない日ではあるが、俺は置いている漫画を取りにクラブに顔を出すことにした。

 向かう先は神聖ローマ帝国研究会、略して神ロ研は、文化系クラブの多くがそうであるように第三校舎の二階の一角に存在する。

 研究会と名のついているワリにその実体は神聖でもなく、ローマでもなく、ましてや研究会ですらない。当のクラブ員たちはたいていゲームに興じるか、益体もないおしゃべりに無為に時を過ごすかのどちらかで、年に一回ありあわせの資料で作った会誌を出すことで、学校に対して活動実体を誤魔化している。

 どこの学校にもニ、三は存在する活動内容超適当のゆるい部活だ。得るものは少ないが、自分にとっては家の手伝いをさぼる格好の口実なので重宝している。

 

「ちーす」

「確保ーー!」

 扉を開けた瞬間、たむろしている先輩と後輩たちからいきなり拘束された。


「ちょっ! なんだよこれ」

「先輩、すんませんマジすんません!」「あ、思ったより胸板ありますね」「やめろ、何処触ってんだよ! ズボンに手をかけるな」


 尊厳を守るために果敢に抵抗していたが、むなしく俺は縄にかけられ先日と同じように床に転がされた。最近妙に拘束され続けているが、こんなことには心底慣れたくない。

 部室に入るなり部員を使って拘束、こんな無慈悲な所行を平気で行なえる人は一人しかいない。


「先輩、これどういうことっすか? どうして俺縛られてるんですか?」

「先輩じゃねえだろ、ここに居るときは会長と呼べ」


 不機嫌な顔をして俺を見下ろす後藤先輩は、リーゼントと、前空きの学ランというバリバリの不良スタイルで、文化系の空気には馴染みそうもないドスの効いた声で答える。

 彼は一年上の三年生で現在の部長。そしてこの部屋のボスである。

 後藤先輩が椅子に座ってこちらを睨み、床には地べたに寝かされ俺が横たわるこの構図は、最近どこかで見た光景と酷似していた。

 他の連中は申し訳なさそうな顔を並べて俺のほうを見ようともしないが、本当に申し訳ないと思うなら解放するのが本当の優しさではなかろうか。この世に愛はない。


「会長、事情を説明してください」

「ああん、説明しろだと? 縊るぞコラ、上から目線で調子のってんじゃねえ!」

「や、上から目線はそっちでしょ。俺今から家の手伝いしないといけないんですけど」

 なんで不機嫌なんだこの人、他のクラブみたいにとっと引退してくれよマジで。


「てめえ……あの北条とか言う転校生とどういう関係なんだ」

「どうって……」

 まさか、キスした相手とは言えないよな。

「いいかてめえよく聞け、俺はなぁ……」


 先輩は椅子から立ち上がって、ポケットに手を突っ込みながら俺に背を見せてから窓の外を眺める。そして窓から洩れる光を背負いながら、俺がいる後方を振り返った。


「金髪が大好物なんだ!」

「知らんがな」


 格好つけて言うことなのかよ、それ。


「ああ!? なんつったてめえ! 俺の初めての純情なんだぞ! 初めて家にお持ち帰りして監禁して嘗め回したいと思った運命の女なんだぞコラ!」

「後藤先輩は愛情と性欲をはき違えています!」

「ふざけんな、テメエみたいに端から彼女の居る奴に、俺らの気持ちはわからねえだろうよ! 俺らは余裕がねぇんだ!」


 後にいる後輩たちがひと括りにしないでくれと目線で語っていた。

 つーか鴇子は俺の彼女じゃない。


「見た目は悪い、軽快なトークもできねえ、出会いもねえ、つーか端から寄ってこねえ! だったら監禁するしかねーべ!」

「普通に告白してください! ていうか髪切れ!」

「バッカおめー、リーゼントは男のロマンだべ!」


 後藤先輩はかつて猛威を振るった校内暴力時代を彷彿とさせる古式ゆかしき不良である。気合の入りまくったリーゼントにナイフのように鋭い目つき、このオールドファッションに女子が寄りつくはずがない。

 何ゆえこの時代錯誤な先輩が、曲がりなりにもこの学術的な部活に属しているのか……かつてその理由を尋ねたことがあるが『そりゃオメー、ローマつったらロマンだべ、夜露死苦』と凡人には理解不能の返答が返ってきた。どうやら後藤先輩にとって「ロマン」とは重要なテーマらしい。


「と言う訳で紹介しろや」

「この場合、紹介した俺は監禁幇助になるんじゃないかなあ……」


 どうやってこの場を切り抜けるか、必死で考えていると、そこに救いの女神が現れた。


「そこまでよお兄ちゃん!」

「み、瑞希! お前どうしてここに!」

「先生に頼まれて探しに来たの! 今日補習あるって言ってたでしょ!」

 そう、後藤瑞希ことごっさんは後藤先輩の妹であり、先輩が唯一頭が上がらない相手である。


「で、でもよ今日はちょっと用事が」

「用事ってこれ? 後輩をぐるぐる巻きにして地面に転がすことが補習より重要なの? このままじゃ留年しちゃうじゃない!」


 説明するまでもないことだが、後藤先輩は成績が悪い。そして一年下のごっさんは、兄が留年して同学年になることを防ごうと必死である。


「で、でもよ男のロマンが……」

「ロマンで単位は取れません! きりきり歩く!」


「解った、解ったから蹴るなよ瑞希!」


 ごっさんは兄である後藤先輩に蹴りを放ち、ものの見事に廊下に放り出す。強い、そしてゆるぎない。

 殺人機械の異名を持つ後藤先輩は、その名前に恥じぬ数々の逸話に彩られたリビング・オブ・レジェンドである。七曲峠八人殺し事件、明神公園乱闘事件、血染めの天井事件などなど数々のバイオレンスなエピソードにことかかぬ猛者だが、唯一自分の肉親である妹には頭があがらなかった。

 校内で畏れられている後藤先輩相手に、恐れることなく立ち向かう。彼女のあだ名が“ごっさん”なのはその勇姿に尊敬の念を抱いているのが一つ。

 もう一つは女の子として親しげに話しかけると、妹に過保護な後藤先輩の拳が飛んでくるからに他ならない。


「大丈夫君? 怪我とかない?」


 とごっさんは俺の縄を外してくれた。

 俺はようやく自由になったありがたみを噛み締める。


「まったく酷いよねー、こんなにぐるぐる巻きにして何が楽しんだろ」

「すまんごっさん、助かった」

「あはは、良いって良いって。身内の恥はほっとけないもの」


 天使のような笑みで、俺に笑いかけるごっさん。アレとこれが血の繋がった兄妹だとはとても信じられない。


「毎回毎回、よくつき合えるよねアレと」


 兄をアレ呼ばわりか……先輩もちょっと可哀相……いや自業自得かも。


「昔は格好よかったんだよ。男らしくて逞しくて頼りがいがあって……はあ、アレがどうしてヤンキーロード一直線になるのか」

「あの人のやることは、天災の一種だから。コレくらい覚悟してないと」

「慰めになってないよ、そう言うの許してると調子に乗るんだから」

「確かにヤンキーの典型だけど、面倒見は良いぞ」


 ああ見えても人望はあるんだよなあの人。時たま暴走することはあるけど、校外で揉め事が起きたときなどいの一番に現場にかけつけ鉄拳という名の仲裁を入れる。

 じゃなきゃ後輩たちをああも見事に統率して、俺を襲わせることなど出来やしない。


「そうかな……そこら辺の男同士の友情ってちょっとわかんないけど」


 ちょうどいい所にごっさんがきてくれた、ここは一つ女心とやらを尋ねてみるか。


「ごっさん一つ聞きたいことがある」

「私そろそろ茶道部に行かないといけないんだけど」

「重要なことなんだ。あ、お前らちょっと席を外してくれ」


「先輩、度胸あるっすね」「性交をお祈りしてるっす。ちなみに誤字じゃないっす」「焦っちゃダメですよ。まずは天井の染みを数えるんです」

 と後輩たちは意味不明な言葉を残して去っていった。あいつら、何か勘違いしていやしないか?


「えっと……その……」


 心なしかごっさんも何か挙動不審に見える。


「いいよ、バッチコイ」


 とごっさんは自分を鼓舞するように自分に向き直った。


「女の子と仲良くなる方法教えて欲しい」

「…………それだけ?」

「それだけって何だよ、俺にとっては緊急の問題なの」

「はあ……ま、いいけど……」


 何か相手の期待を大きく外したみたいだが、何が原因なのかさっぱりわからなかった。


「仲良くなる方法ね……で、相手はどっち?」

 急に不満そうな目つきでこちらを睨んでくる。兄である後藤先輩を彷彿とさせるその目つき。ちょっと怖い。


「どうして二者択一問題なんだ?」

「そっか、それを聞いてちょっと安心した」

 今日は感情の起伏が激しいな。これって俺のせいのなのだろうか、さっぱりわからない。


「要するに、トッキーと仲良くなりたいわけだね、君は?」

「平たく言うと、まあそういうことだな」

 あまり同意はしたくないが。


「そっか……やっとその気になったんだね。うんうん」

 ごっさんは満足げに頷いた。


「何か勘違いしてないか? 俺はあいつと仲直りしたいだけだ」

「それは小さな一歩かもしれないけど、大いなる一歩だよ。ガガーリンみたいに」

「それガガーリンじゃなくて、アームストロングな」

「そんなの些細な違いだって。大丈夫、歴史は変えられる」

「何言ってんだお前」

 言ってることがメチャクチャだ。どうやら、かなりテンションが上がってきているらしい。


「それではとっておきの秘策を授けましょう」

「おう頼む」

 アルファと同じ言い方をしたのがちょっと嫌な予感がするが、まさかな……


「押し倒しちゃえ♪」

「出来るかそんなこと!」

 ああ、嫌な予感というのはどうしてこうも当たるんだ。まったく参考にならん!


「だいたいそれ犯罪だろ」

「そうかなあ、トッキーが相手なら、案外すんなりいくと思うけど」

 なるか、絶対に警察に突き出される。いや、あいつの場合は私刑だな。自分の全能力と立場を使って俺に容赦ない報復を始めるはずだ。


「告白を飛び越えてまぐわえとか、やっぱ後藤先輩の妹だけあるよな」

「それ、言わないで欲しいんだけど……」

「だったらもう少しましな代案だしてくれよ。段階を踏んだまっとうな奴を」

「それじゃあデートだね」

「デートって言われても、いきなりハードル高くないか? まずは交換日記とか」

「それ段階踏みすぎ。一昔まえの恋する乙女みたいなこと言ってたら、足踏みし過ぎて床板踏み抜くよ。交換日記してくださいって喜ぶ女がいると思ってる? 普通にメールでいいじゃん」

「確かに面倒くさそうだな」

「でしょ? だからデート、はい決まり! 一緒にどっか行って、ご飯も誘う。んで君がお金をだす」

「俺が?」


「相手はトッキーなんだよ、あの子が金を出すと思う?」


 言われて見るとその通りだ……

 あいつが金を払うところが想像できない。男を踏み台にしてその上を悠々と歩く。それが喜連戸鴇子という女だ。


「くそ……モンパンの新作は諦めるか……」

「ゲームより女の子を優先しなよ。そのままだと、君もトッキーも寂しい大人になっちゃうぞ」

「しかし、デートか……」


 考えてみれば当たり前の結論だが、そもそも鴇子を交際対象と見ていなかったため、その当たり前に到達することが出来なかった。やはり第三者に意見を聞くのは大事だな。


「う~~む……しかし、どうやって誘うかなあ……」

「なんでも良いんだよ。女の子は誘われたら嬉しいもんだし」

「なんか易々と相手の軍門に下るみたいで、格好悪いな」

「なんでよ!」

「出来れば相手に頭を下げることなく、仲良くなる方法を聞きたいんだけど」

「はあ……本当に面倒くさいね、まだ抵抗あるんだ」

「そうなんだよなあ、向こうが頭を下げてくれたら簡単なんだけど」

「私は君のことを言ってるんだよ」


 ごっさんは厳しい口調で俺を批判する。やはり女子の味方は女子ということか。


「もういい、私が決めてあげる。君は映画に誘いなさい、OK?」

「いきなりだな」

「だって、そうでもしないと進展しないんだもん! いい? 今は千載一遇のチャンスなんだよ? 多分だけどトッキーは今焦っている」

「なんであいつが焦るんだ?」

「君の傍に正体不明の転校生が現れたからに決まってるでしょ! しかもめちゃ可愛い女の子なんだよ、なにトーカイしてんのさ!」

「わかったからちょっと落ち着いてくれ」


 意味不明のテンションで俺はごっさんにわめきたてられる。女の子のこういう理屈の通じないところはちょっと苦手だ。


「明日はトッキーを呼び出して、僕と一緒に映画に行ってくださいって言うの! コレ絶対!」

「それで必ず誘えるのか?」

「トッキーなら必ず行くよ。間違いない」

「命かけるか?」

「お兄ちゃんの命かけます」

 あっさり兄の命を俎上に乗せるとは、流石に修羅の妹だな。


「わかった、そこまで言うならやってみるか」

「そんなわけで明日は頑張ることいいね? 約束だよ」

「わかったやってみる」

「よし」


 ごっさんは満足げに笑った。


「ところで何で映画なんだ?」

「デート初心者には一番無難でしょ。その後に食事に行くとしても、共通の話題が出来るから盛り上がりやすいじゃない」


 なるほど……一応は考えてくれているんだな。

「それじゃ、私部活行くから。何かあったらすぐに連絡してね」

「おつかれさんした!」


 ごっさんが部室を去って、俺一人になってしまった。

「デートかあ……」

 あれを誘うって難しいよなあ……

  



 

  学校から一駅離れた、ややさびれつつある商店街の一角に我が家である和菓子司『上善堂』が立っていた。

 母と父とで切り盛りしている町の和菓子屋。父が知り合いの和菓子職人から引退の際に居抜きで買い取った。一階は店舗兼調理場、二階が居住スペースになっている、

 頑な父は最近ようやくネットでの販売に乗り出したが、HPの作りからして時代に取り残された感が漂っていた。

 だがこの店の古めかしい雰囲気が嫌いではない。


 古臭いと一言で切り捨てるには簡単だが、家のあちこちには職人たちが丁寧に使いきった清廉な渋みが漂っている。

 頑固な職人から醸成される心地よい緊張感。丁寧に生地をこね、餡を裏漉ししたじょうよ饅頭。清潔に保たれた店内には、木目調の調度品が品の良さを演出する。

 決して派手ではない。目新しさもない。

 だが、作業場に立つたびに父と母は間違っていないのだと、俺は密かに頑なに自分たちのスタイルを維持するこの家を自慢に思っていた。

  

 裏の勝手口から作業場に入ると、不機嫌な顔で菓子を睨んでいる親父と遭遇する。

「ふ~~む……」

 と矯めつ眇めつ、こし餡を練りきりで包んだはさみ菊を見つめている。その真剣な様子から、恐らく菓子の出来上がりに納得がいかないのだろう。


「親父、ただいま」

「おう、すぐに入れ」

「うい」

「返事は“はい”だ」

「はいはい」

「返事は一回にしろ」


 いきなり手厳しい。これ以上親父の神経を逆撫ですると拳骨が飛んでくるので俺は大人しく自分の部屋に帰る。



 

 俺は部屋に荷物を置き、手馴れた調子で作業着に着替え、作業場のある一階へと降りる。

 こうしていつもの準備をしているとアルファの出会いから始まった、ジェットコースターのような非日常から、ようやく日常へと帰ってきたように思えた。

 作業場の暖簾をくぐって、親父の下へと駆けつけると、親父は湯気の立つ小豆を漉している最中だった。湯気のたつ小豆に平気で手をつっこめるのは、手の皮が厚くなっているせいで、自分にはまだできない。


「あれ? さっきのはさみ菊は?」

「失敗した、あとで食っていいぞ」


 小さい頃からの習慣だが、親父の失敗作は俺のおやつになる。おかげでそれなりに舌が肥えた。


「失敗って……良く出来てたと思うけど」

「形はな。今度は材料から見直してやってみるつもりだ」


 和菓子というのは長年の研鑽の歴史があり、既に完成されたジャンルである――とは、門前の小僧がお経を読む程度に齧った俺の意見だが、異論を持つ人間は少ないだろう。

 うちの親父はその異論をもつ少ない人間の一人だ。幾多の先人たちが積み重ねてきた歴史を背負ってそれをおざなりにせず、頑固に守りながらも新しい一石を投じようとする。その熱意には頭は下がるが、その分商売には注意を払わないため、つき合わされる家族はたまったものではない。

 俺はまた親父の病気が始まったかとため息をついて、作業場の空気を湿らせた。


「それじゃ、俺は店の方でてるから」

「おう」

 既に集中域に達している親父は生返事だった。


 

「おかえりなさい」

 暖簾をくぐって店の方に出ると、母は箱に出来上がった菓子を詰めながら店番をしているところだった。


「ただいま、親父何やってるのあれ?」

「お得意さまから、お茶会の席にって頼まれたんだけど、いまいち気に入らないらしいわ。今日はお昼からずっとあれよ」

「マジで? 何やってんだ親父は」

「ほっときなさい、和菓子はお父さんの一生の道楽なのよ」


 そう言う母の諦め方にも年季が入っている。独立した当初から傘張り浪人の妻を覚悟した母は、父を信じきって好きに仕事をやらせることを生きがいにしていた。

 よって母は父を止めようとしないし、もとより息子の俺が何を言っても聞き入れる人間ではない。頑固を押し通し一家を成すまでになったとあれば、周囲に許される空気を作る。事実、そんな父でなければ当世名人との評判は生まれなかっただろう。

 出来れば俺も父のように自侭を押し通し、周囲が許す空気を作るまでの人間になってみたい。鴇子なぞ生まれながらの女王様である。

 そんなことを母に言ってみると、母は笑って答えた。


「あんたも似てるわよ、お父さんのそう言うところ」

「俺が?」

「ええ、やはり息子ね。お母さんできれば女の子がもう一人欲しかったの。鴇子ちゃんがお嫁に来てくれれば万事解決するんだけど」

「無茶言うな。あの家が大事な跡継ぎ娘を手放すわけないだろ?」

「そうねえ、暖簾分けって言っても、先代の縁で終わっちゃったものねえ。本当に残念だわ、あなたたちお似合いだったのに」

「ない。そんな未来は絶対にありえないな。四十超えてる大人が夢見がちなこと言うなよ」


 確かに俺と鴇子の相性は良い。だがそれは喧嘩相手という意味でだ。

 もし鴇子を結婚相手に選んでみたとすれば、ウェディングドレスを着る前に三行半を叩きつけてくるだろう。


「夢を見るのは子どもだけの特権じゃないわよ。この歳になってこそ親は子どもの将来に夢をみるものなのよ」

「そうして、朗月庵とも仲直りできればってか? 自分たちが出来なかったことを、子どもにかぶせてんじゃないよ」

「それのどこが悪いのよ。親は子どもが壁を乗り越えて欲しいっていつも期待しているものなの。そうやって子どもを崖に突き落とすのも親の仕事なんだから」


 平然と言うなあ……この人。さすがはあの父と結婚しただけのことはある。


「それに、あんたも本当は鴇子ちゃんと仲直りしたいんでしょ?」

「……んなわけないだろ」

「そうかしら? あなたたちとっても仲良しだったじゃない。女の勘だけど鴇子ちゃんだって、あなたのこと満更じゃないと思ってるんじゃないの」


 ニヤニヤとして母は解っているんだぞ、というその余裕が小憎らしい。

 会話はお客がやってきたため中断したが、母の発言は節穴にもほどがあると思った。




   

 忙しい時間が過ぎて、それなりに暇になってきた。

 時間は既に夕暮れ時、もうこんな時間に買いに来る客もいないだろう。


「疲れたー」

「だらしないわね。お客さんがいないからってだれないの。まだ営業時間内よ」


 母はレジの金を数えながらこちらを眺める。

「こんな薄給で働かされてもなー。少しは時給あげてくれよマジで」

「じゃボーナスをあげよう、ほら」


 母はそう言って封筒をそっと俺のほうに差し出した。

「何これ映画のチケット」

「新聞屋さんに貰ったのよ」

「子ども映画祭りって描いてあるぞこれ」

「あんた子どもでしょ」


 高校生を捕まえて子どもと言う……母親というのはどうしてこうも子どもの成長を直視しない生き物なのか。

 映画のチケットにはカンパンマンのイラスト、同時上映は女の子向けのファンシー映画、対象年齢はおそらく小学校の低学年までだ。

 こんなものに友人を誘ったら、笑われるに決まっている……

「ん……」

 ふと俺の脳裏に閃きが走った。

 映画のチケット……これは使えるかもしれない。



 

 その時だった、あいつがやって来たのは。


「ごめんください」

 聞き覚えのある声に振り向くとそこには……


「と、鴇子!!」


 俺の天敵がそこに立っていた。奴の姿を認めたと同時に俺は瞬時に身構える。


「お前、何しにきやがった!」

「何って……おつかいかな?」


 くっ……敵地に踏み込んできたわりには余裕じゃねえか! いいだろう! その顔、すぐに恐怖で引きつらせてやるっ!

「あんた、お客さん相手に何してんの!」

 と、飛び掛ろうとした瞬間、母の手刀が俺の脳天にヒットする。父と結婚しただけあって、なかなかに気が強い。つーかかなり痛い。

「ごめんねー鴇子ちゃん。この子妙に意識しちゃってるみたいで、クラスでも変なことしてない?」

 意識なんてしてるか、敵意を持ってるだけだ。

「いえ、そんなことありませんよ学校でもいつもお世話になってます」

 世話なんてしてねえし、されてもない。というか普段から目線も合わせないのに、息を吸うように嘘をつきやがるなこいつは。


「母さん、どうしてあいつがここに来てるの?」

「澄子さんから、今度のお茶会に使う器が足りないから貸して欲しいって連絡があったのよ」


 澄子さんというのは鴇子の母親だ。鴇子の母親だけあって和服の似合う美人だが、イタズラがばれて怒られるときはかなり怖かった。


「オヤジが良く貸し出しに応じたな」

 確かにウチには暖簾分けされた時に、先代から贈られた茶器がいくつかある。

 だが、普段から仲の悪い親父が了承するとは意外だった。


「この前、あんたを探すのに朗月庵の人たちにお世話になったでしょ、そのお礼よ」

 あれは俺のせいというより、アルファのせいでもあるのだが……つまり天災である。空から降ってきた隕石に当たったからといって、誰がその人の不注意を責められよう。

「ちょっと待っててね、すぐ持ってくるから。この子が」

「俺が?」

「いいから行ってきなさい」


 とその時暖簾をくぐって親父が現れた。

「おお、良く来た良く来た」

「おじさまご無沙汰しております」

 と丁寧に外見を取り繕う鴇子。

「うちの息子と仲良くしてもらってるそうだな、今後もよろしく頼む」

 流石に親父の前では、仲良くしてないなんていい出せない。こういう場面で取り繕うのは得意だよな、こいつ。


「何を睨んでるんだおまえ、まさか苛めてないだろうな」

「本当にこの子は、昔は何かにつけて鴇子ちゃんにつっかかってるんだから」

 父と母から集中砲火をうける謂れはないと思う。つか親父のせいで、俺と鴇子の関係はこんがらがっているんだが。


「この子が変なことしたらすぐに言って頂戴ね、まさかこの歳で下品な悪戯なんてしないでしょうけど」

「大丈夫ですよ。昔はともかく今は大切な思い出です」

 そう言いながら俺に投げかける視線は、余裕の嘲りを含んでいた。

 この場には俺の味方はいない。早々に帰ってもらったほうが良いと判断した俺は、言いつけどおりに茶器を取りに行くことにした。





「…………」

「………………」


 俺と鴇子はお互いに言葉もないまま、夕暮れの道を黙々と並んで歩く。鴇子が押して歩いている自転車がカラカラを空しい音を立てているのみ。

 俺は妙な気まずさに捕らえられたまま、胸ポケットにしまった映画のチケットを渡せずにいた。

 昼間に変に壁を作られたこともあるし、鴇子をデートに誘うとなると緊張する。そもそも女子に警戒を抱かれることなく会話出来るスキルがあれば、俺と鴇子はもう少しまともな関係になっていたはずなのだ。ああ。

 

 彼女の横顔を見つめていると、ゆらゆらと揺れる長い髪が夕陽にきらめいていた。

 自転車を押しながら歩く姿は凛々しく、美しく、際立っている。

 幼い頃のあどけない様子はあまり残っていない、思春期を迎えた女子の顔だ。

 正直に言うと俺はこういう鴇子の顔は良く知らない。

 良く知らないがゆえに……彼女はどこか近づきがたいのだ。


「ねえ」

「な、なんだ?」

「さっきからこっちを眺めているけど、どうかしたの?」


 不審に思った彼女が遂に俺に話しかけてきた。

 いつまでもこうしているわけにはいかん。俺は意を決して、鴇子と対決することにした。


「鴇子、これをちょっと見て欲しいのだが」

 俺は胸のポケットから先ほど母から貰った映画のチケットをちらつかせた。

「それは……!!」


 思ったとおり、反応した。

 そう、鴇子はこう見えて大の可愛いもの好きである。親や友人に隠れてファンシーグッズやぬいぐるみ収集をしているのは子どもの頃から知っていた。

 しかも、鴇子の母はしつけに厳しくそういうジャンルにあまり理解がない。小遣いの使い道を親に報告しないといけない鴇子にとっては、この手のジャンルには飢えているはずである。三つ子の魂百までならば、鴇子は必ずこのチケットにくらいついてくる。俺はそう期待した。


「カンパンマンと同時上映は現在、巷で女の子に大人気のピンキーノイズ、これを見に行きたくないか?」

「あんた……どういうつもりなのよ?」

「ほう、ようやく素に戻ったな」


 数ヶ月ぶりに鴇子の素顔を見られたような気がする。何しろ、子供の頃は俺に敬語を使って喋ることなんて、まったくなかったからなあ。


「な、なんのことかしら……」

「いいから素で話せよ。仮面つけるな気持ち悪い」

 俺がそう言うと、鴇子は普段の学校ではありえないほどの不機嫌な顔を俺に向けていた。

「で、あんた何をたくらんでるの?」


 鋭い視線と厳しい口調。完全に俺の知っている鴇子に戻った気がした。警戒されたままだが、こっちの鴇子のほうが俺はより身近に感じられる。

「お前の素直な声をきかせてくれ。欲しいか欲しくないかどっちだ?」

「そんなこと聞いてどうするつもり?」

「いいから言えって。別に誰かに言いふらしたりしねえから」

「…………」


 不審な顔を浮かべたまま、鴇子は何も言わない。俺に対してかなり不信感を募らせているみたいだが、こうなるととるべき手は一つしかない。

「そうか、いらないか……じゃ、捨てるしかないかな?」

 と俺はチケットを掴んだ手をヒラヒラさせる。

「ちょっ!?」

「鴇子が行きたくないならしょうがないかなー、こんな機会、二度とあるとは思えないけど」

「ぐ……」


 みるみる鴇子が苦悶の表情を浮かべていく。鴇子に対して確実にこちらが優位という状況はなかなかありえないので、かなり楽しい。


「いいから言えって、本当は欲しいんだろ?」

 鴇子は出てくる言葉を慎重に飲み込みつつ、小さく蚊のなくような声で呟いた。


「ほ、欲しい……わ……」


「……!!」

 やば、ちょっと興奮してしまった。

「ならば取引だ鴇子」

「取引って……何をするつもりなの……」

 鴇子の目の色が警戒色を帯びる。別にオウムみたいに赤色に変わるわけでもないけど、そういうのは見ていてすぐに分かった。

「今週の土曜、空いてる?」

「はあ?」 







 ○

 

 おそらく、晴天の霹靂というのはこういう状況を言うのだろう。雲ひとつない澄んだ青空に、突然雷鳴が轟く。今の私の心象風景はまさしくそれだ。

「一緒に映画を観に行かないかと、誘ってるんだよ」

 自分の要望を押しつけるように一歩近づく。

「ちょ、ちょっと待って」


 幼なじみが一緒に映画に行かないかと誘っている。ああ、しかもそれは私がずっと見たかった、ファンシー映画『ピンキーノイズ』の劇場版。しつけの厳しい母からは絶対認められない使い道である上に、お小遣いの使い道を管理されている私にとって、喉から手が出るほど欲しいチケットだ。

 だが、ちょっと待って欲しい。

 今まで無視しあっていたこいつが、どうして急に映画に誘ってくるのか?

 遂に私の魅力に我慢できなくなったか……という考えもあるが、私は自分の美貌を過信したりしない。

 となれば、先ほどこちらをじろじろ見ていたのは見とれていたのではなく、この話を切り出すためにタイミングを計るために観察していたと考えるべきだろう。


「それは、要するにデートということかしら」

「そう思ってくれても構わない」


 といわれた瞬間、身体の一番奥が引っかかれた気がした。

 デート……あまり縁のない言葉、私とこいつにとっては特にそうだ。

 というか、いつもより強気じゃない。ひょっとして、何かを企んでいるのかしら?

 そうだ……でなければこいつが私をデートに誘ってくるわけがない。おそらく映画にかこつけて、私の弱みを握ろうとしているのだろう。そんな誘いに乗るわけには……


「どうだ? これが欲しくないか」

「くっ……」


 だが、欲しい!!

 心の底からあのチケットが欲しかった。常日頃から可愛いもの好きだが、そんなファンシーな趣味を持つことが周囲からは許されない私だ。罠と分かっていてもこの誘惑から逃れるのは難しい。

 それに、これを断るとこいつが次にどういう行動に移るか、分かったものではない。

 ならば……相手を飲み込むか? 今はあいつが主導権を握りつつある。ならば一旦はあいつのペースに乗って巻き返すしかない。


「いいわつき合ってあげる」

「そうか」


 私がそう言うと、ほっとした顔を見せた。私はやはり何か企みが進んでいるのだと確信する。何を企んでいるかは知らないが、そんな陳腐な罠を畏れる私ではない。

「見送りはここまででいいわ。それじゃ、今週の土曜の九時半に駅前で」


 イライラした気分で私は自転車に跨る。こいつの前から早く去ってしまいたかった。


「あ、ちょっと待ってくれ」

「何?」

「二人きりの時はあの敬語はやめてくれよ。身体が痒くなってくるからよ」

「うっさい童貞」

「どっ……! 女の子がそういうこと言っちゃいけません!」

「それは女の子が言っちゃいけない言葉じゃなくて、あんたみたいな処女に過剰なイメージ持ってる童貞が聞きたくない言葉ってだけなのよ」

「ぐ……」


 私の鮮やかな返しにあいつの声が詰まるのを見て、完全に勝利を確信した。


「そういうキモイ言葉、誰彼なしに言うんじゃないわよ」

「キモイとか言うなー! これはけじめだけじめ!」


 背後に悲痛な叫び声を聞きながら、私は自転車に乗って颯爽と夜の町を駆けて行く。

 最後にささやかな仕返しが出来たので、少しは溜飲が下がる。

 





 ○

 

 翌日の昼休み。

 いつもであればみんなでお昼を食べに行くところであるのだが、今日は連中と別れて瑞希の前の席に座る。


「どしたのトッキー、何か怒ってる」

「解っているなら、私が大人しくしている間に自白して欲しいわね」

「なに言っているのか解らないんだけど?」


 瑞希は首をかしげている。ぱっと見たところどうやら心あたりがないみたいだけど、信じていいのかどうかは少し悩んだ。


「昨日、あいつからデートに誘われたの」

「へえ……そ、そうなんだ、やったじゃんトッキー!」

「本当に知らないの?」


 私は瑞希の心の内を読み解くように、瞳をじっと見つめた。


「し、知らないよ本当に」

 しっかり目が泳いでいた。どうやら彼女は何かをしたらしい。

「ふむ……」


 瑞希があいつを仲立ちしたのなら、裏を心配しないでいいだろう。

 どうせ、勝手な義務感を発揮して、私とあいつを結びつけようと考えたに過ぎないから。それは私にとってお節介だが脅威ではない。

 問題なのはあの転校生があいつと結託している場合だ。目的が読めない上に、向こうの正体が不明のため、どのように動くべきか判断がつかなかった。


「で、何処に行くの? 新しく出来たモール? それとももっと落ち着ける場所だったら、美術館とかもいいよね?」

「残念ながら子ども映画祭りよ」


 私はあいつから貰った映画のチケットを、瑞希の目の前でひらひらと振って見せた。


「愛を語らうにはぴったりの状況だね、さっそくおめかししないと」

「ファンシーアニメでどうやって愛を語るのよ?」

「映画なら暗闇で二人っきりになれるじゃない!」


 ダメだ……、この友人は私があいつと映画に行くという事実だけで、頭が沸騰してしまったらしい。


「で、何着てくつもり? あの緑色のサマードレスとかどうかな? この前買った新しいミュールとすっごく似合うと思うな」

 私の醸し出す不機嫌オーラを無視するかのように、瑞希はデートの服装を喋りだす。どうやらこちらの意図を考慮するつもりは、まったくないらしい。

「だからそういうのじゃないんだって、あいつが相手ならジャージで十分じゃない」

「絶対ダメだよ! 私の服貸したげてもいいから、おめかししないとダメ!」

「サイズが合うわけないでしょ」


 と私は瑞希の胸を見て答える。このおっぱいめ!

 瑞希はしつこく私におしゃれを勧めてくるけど、こういう時はこの子はちょっとうっとうしい。

 もっとも、私に面と意見してくる人間はそれなりに貴重なんだけど……


「んしょっと」


 ドスンと重い音と一緒に机の上に、雑誌の山が積み重なった。

「瑞希、何よコレは」

「参考資料に決まってるでしょ」

 出てきたのはファッション雑誌の山、山、山。『夏の安かわレディースファッション特集』『この夏のトレンドはコレ!』『一味ちがうコーディネイトであの子と差をつけよう』等々、紙面には読者の気を惹こうと様々なコピーが踊っている。


「……コレを読めってこと?」

「デートに誘われたら、精一杯のおしゃれをするのは女の子の義務にして権利なの。女子よ常に可愛くあれ」

 瑞希は私の目の前に雑誌を掲げ、威風堂々と宣言した。ご高説はもっともだけど、あいつが相手ではいまいちそんな気分にはならない。

「だからジャージでいいじゃない」

「そんな敗北主義は先生許しません! せっかく誘ってくれた男の子に失礼だよ! ほら、ショートパンツとシャツでカジュアル風に仕上げてみたりとかどうよ? 普段と雰囲気違うけど、トッキーならこういう服も似合うと思うけどな♪」


 瑞希はしつこく薦めてくるがまったく気乗りしなかった。

 何しろ、これはデートではなく取引なのだから。私はあいつにこれ以上弱みを握られないよう慎重に動かなければならない。そういうわけで瑞希とは別の意味で服装は厳選する必要があるだろう。

 そんなことを考えているうちに一つの雑誌が目に止まる。

「ん? これは……?」

「あ、それ? ハロウィンの仮装でそれっぽいの捜してるの。決して普段から着ているわけじゃないからね」

「へえ……これ、使えるわね」

 と私はにんまりと微笑んだ。


「瑞希、これ貸してくれない?」

「ちょっとトッキー本気で言ってる?」

「さっき私に協力するって言ってたじゃない」

「そりゃま言ったし、確かに可愛いけど、本当にこれで行くの……?」

「もちろん、これならあいつの度肝を抜くことが出来るでしょ」

「えっと、デートなんだよね……なんか目的が違ってるような気がするんだけど……」

 





 ○

 

「と言うわけでデートすることになったぞ」

 お昼休み、俺は昨日と同じようにしてアルファと食堂で対面している。


「うむデートか」と満足げに微笑み、アルファはまたもやきつねうどんを啜っていた。

「まずは祝着じゃの。これで仲が進展する第一歩じゃ。遺漏はならぬぞ」

 そして相変わらずの上から目線。

 人類の最高責任者という肩書きが本当であれば、一介の学生である俺とアルファでは当たり前の関係ではあるが。

「喜ぶのはまだ早いな。俺は一応あいつの幼なじみだ。あいつが俺にとってデートに相応しい装いでやってくるわけがない。きっと嫌がらせにジャージで現れるぞ」

「嫌がらせじゃと? そなたどういう誘い方をしたのじゃ」

「取引で」


 俺は鴇子とのやりとりをかいつまんで説明した。

「最悪じゃ! まっすぐ申し込めと言ったであろう! よりによって女子を誘うのに脅迫まがいの脅し文句とは何を考えておる」

「殺し文句を使えと言ったのはお前のほうだろうが」

「殺すの意味が違うわバカモノ」


 アルファは心の底からため息ついて、俺に向き直る。


「やれやれ、最初からこんなザマでは先が思いやられるのう」

「良いだろ別に、デートには誘えたんだし」

「よくないわ! その分ではちゃんとリード出来るかどうか心配じゃの。だいたいプランは出来ているのか? 映画はよろしいがその後どこに誘うつもりじゃ」

「ラーメン屋じゃダメかな?」

「ダメに決まっておる! 飲み会の後ではないのじゃぞ、せめてもう少し会話が弾む場所を選べ!!」

「まあその理屈は解らないでもない……だがな?」

「何じゃ? 疑問があるなら言ってみるがよい」

「あいつを喜ばせることを考えるのは、心と身体が拒否しているんだよ」

「ガキめ。子どもの理屈を堂々と述べるでない」


 一言でバッサリだなこいつ。だんだんつき合うのが疲れてきた。


「そなた本当にやる気があるのか? このまま鴇子を放置すれば現世人類は滅びの道を辿ることになるのじゃぞ」

「それなんだけどさ、本当に信じていいわけその話? 俺にとっては鴇子と仲直りするって、ごく個人的な都合で動いているに過ぎないんだけど」


 目の前にいるアルファが特別な存在であることはわかったが、鴇子に関しては話が大きすぎてイマイチ信じることが出来ない。


「ゆえに我はそなたをサポートするためにここに存在している。映画のチケットは役にたったじゃろ?」

「あれお前の差し金だったの?」

「ふふ……鴇子を誘うにはぴったりの条件であろう? 我の情報収集能力を見くびるではないわ」


 鴇子が隠している秘密まで、こうも簡単に暴いているとは。どうやって知りえたのかは知らないが、恐ろしいまでの情報網だ。


「仕方がない、デートの前に特別レッスンじゃ。今日の放課後は空いておるな?」

「え~~っと……今日はちょっとその家の手伝いが……」

「嘘をつけ、そなたの家の手伝いは月水金の三日のみのはずであろう」

「ホント、どうやって調べるのかなそういうの!」

「諦めるが良い。いざとなればそなたと鴇子を無人島に置き去りしても良いのじゃぞ」

「…………はあ」


 どうにもこうにも逃げられそうにない。

 俺はそっと天を仰いだ。

 

 

 

 

 そして放課後、アルファに連れられてきた先は、学校近くの国道沿いにあるファミリーレストラン『あんたれす』だった。一階は駐車場になっていて、階段を上がって扉をくぐると、何故かうちの同学年の連中が大勢たむろしているのが見えた。彼らは俺とアルファの姿を認めると、警戒の眼差しを向けている。

「なあ、これから何かあるのか? なんでみんなこんなに集まってるんだよ」

「そなた猪狩という学生を知っているか?」


 知ってるも何も、猪狩は俺にとっては裏切り者だ。かつては俺とは同じような幼なじみを持つ苦労を分かち合い、崇高なる友情を交わした友だった。しかし、奴は世俗の俗情に流されて幼なじみと交際を始めたらしい。

 俺にとってはかなり羨ましい……いや、同じ天を戴くことが出来ぬ背教の徒である。


「ああ、猪狩ね。良く知ってるけど、そいつがどうかしたのか?」

「本日はここでその猪狩君による恋愛話を聞く……という趣向らしい」

「帰る」


 俺は後を振り返って出て行こうとしたが、すばやくアルファに首根っこを捕まれた。

「そうはいかんぞ。そなたとその猪狩とやらは同じ立場であろう。であるならば、きっと参考になる話が聞けるはずじゃ」

「冗談じゃない! あいつの話なんて聞いてられるか!」


 俺と同じく異性の幼なじみを持ち、苦労をわかりあったはずの猪狩はもはや裏切り者である。そんな男の話なぞ興味もない。だが、この言葉がいけなかった。

「それはこっちの台詞だ!」「だいたい、なんでお前が女連れで来てるんだよ! 見せびらかしてんのか!」「帰れ帰れ! 女持ちに俺達の気持ちなんぞわかるはずもねえ!」

 ファミレスにたむろしていた学生連中が一斉に俺を非難し始めた。


「これはひょっとして……俺とアルファの関係が誤解されているのか」

「うむ、どうやらそのようじゃの」


 平気な様子で頷いているが、俺にとっては大問題である。


「おいおい、何を悠長に構えてるんだよ。こんなことが鴇子に知られたら」

「ほう? 女房に浮気がばれるのが怖いか」

「なわけねーだろ!」

「だったら堂々としておれば良かろう。何をそううろたえる必要があるのじゃ?」

「う……」

 そう言われると返す言葉もないのだが……どうも女性との関係を誤解されているというのはあまり気持ちの良いものではない。


「静かにしろ、縊るぞお前ら」


 地の底から響いてくるような声に、男子たちは一瞬で押し黙った。こんな真似を出来る人間を俺は一人しか知らない。

「てめえ、どういうことだコラ」

 後藤先輩、やはりあなたか!

 後藤先輩は一番奥の席に陣取り、まるで不良のボスのように周りを威圧していた。そして、間の悪いことに一目で機嫌が悪いことが解る。

「誰じゃ?」

「うちのクラブの先輩。めっちゃ怖い上にややこしい人」

「ふむ……」


 俺とアルファがヒソヒソ話をしていると、後藤先輩はかなり不機嫌そうにつっこんできた。

「俺の目の前で女子とヒソヒソ話か……くくっ、見せつけてくれるじゃねえか」

 ぎらつく目を容赦なく俺に向けて笑う。その様子は凶暴な肉食獣を連想させた。


「やばい、相当不機嫌だわあの人」

「人は他人の会話が聞こえないとストレスを受けるらしい。恐らくはそのせいかもな」

 あなたに惚れているんですとは言えないなあ。気になる女の子が俺と一緒に入ってきたんだから、疑うのも当然か。

「まあ、ここは私に任せておけ。そなたに人たらしの極意を見せてやろうぞ」

「あ、おい……」

 止める間もなく、アルファはつかつかと後藤先輩のほうに歩いて行った。

 大丈夫かなあ……あの状態の先輩は交渉が通じる相手ではないんだけど。

 

 

「掃き溜めに鶴って奴か……あんた可愛いけどここじゃ場違いだぜ」

「北条マキナと申します」

 アルファは後藤先輩の強烈な眼差しを優雅に受け止めて会釈する。まずは様子見の軽いジャブと言ったところか。


「帰りなお嬢ちゃん。ここは男の社交場だ。あんたみたいなきれいどころが来ていい場所じゃねえ」

 対して、なぜか惚れた少女を相手に気合バリバリで睨んでいる先輩。そういう態度が女子に怖がられる原因になってるのに気づいてないのか?


「お騒がせしてごめんなさい。でも私も後学のためにどうしてもお話を伺いたくて」

 相手をみて対応を変えるあたり鴇子に似ている。女の子は誰でも役者だ。だが、いくら先輩が単純でもそんな猫撫で声が通じるわけが……


「ぐっ……可愛いじゃねえか」


 効いてる効いてる。思いっきり効果ありじゃないか。女の子相手だとほんとチョロいなこの人。

「お願いです。私たちもここで猪狩君のお話を聞かせてください」

「そ、そんな上目遣いで頼まれても……ぐうぅ!!」

 先輩は己を戒めるように、テーブルに置いてあった、名物のスコルピオンカレーに手を伸ばし一気に口に運ぶ。どうやら辛さで自分を取り戻そうとしているらしい。

「はあ……はあ……ダメだな。今日のところは帰りな」

 先輩の口は往年のコメディアングループのリーダーのように腫れあがっているが、まったく笑える雰囲気ではない。惚れた相手にここまでポリシーを貫くとは、ある意味天晴れである。


「なかなか頑固じゃのう」

「無駄だと思うよ。この人融通利かない上に、男の一文字背負って生きてるんだよね」

「じゃが気に入ったわ、根性があるではないか」

 アルファは何か思いついたようにほくそ笑んだ。あ、また嫌な予感。


「ところで後藤先輩、何をお召し上がりになっているのでしょうか?」

「コレか? コレはここの名物レッドスコルピオンカレーだ」

 それはこの店の名物、レッドカレーを限界ぎりぎりにまで辛さを引き上げた極悪メニューである。完食したものには五千円分のお食事券がプレゼントされるが、過酷な辛さに反して得るものが少ないため挑戦者は少ない。

「よくそんなもの食えますね……」

 先輩のカレー皿は米粒一つ見えないほど、綺麗に平らげていた。

「そりゃおめー、カレーつったらロマンだべ。要するに今日は男のロマンを拝聴する会だからよ。女に用事はねえってことよ」

 こういうこと堂々と言うから、女子に嫌われると思うんだけど………

「そうですか、どうしてもご了承いただけませんか」

「ああ、決まりだからな」


 後藤先輩が口にする決まりというのはあくまでも、後藤先輩のコモンセンスで決定される。決して一般常識に照らし合わせて適当という意味ではない。

「とある国では、同じ食卓で同じモノを食べることで友誼を交わす習慣があります」

「あんた何が言いたい?」

 後藤先輩の目が輝いた。なんとなくアルファが何を言おうとしているのかがわかる。


「ギャルソン、私に彼と同じモノを」

 指をパチンと鳴らして、彼女は後藤先輩と同じ極悪レッドカレーを注文する。

「マジかよ女の子が注文していいものじゃねえぞ!」「つか大丈夫なのか」「おい誰か止めろよ」「店長レッドスコルピオン追加入りました!」「うろたえるな! 奇跡はそう簡単に起こらないから奇跡って言うんだよ!」

 アルファの発言に、周囲がどよめいていく。

「わたしがそのカレーを完食すれば、文句はありませんわね?」

「あんた……そりゃあ……」

 後藤先輩はどこか満足そうに微笑みながら、彼方を見つめながら……


「ロマンじゃねえか」


 と呟いた。

 



 

 そして二十分後。

「ご馳走様でした」

 俺の目の前には見事完食したカレー皿が置かれている。不可能と思えた少女の挑戦、そしてまさかの完食である。周りの人間は目の前の事実が信じられないのか、あんぐりと口を開けたまま、けろりとした表情のアルファを見つめている。

「これで認めていただけますか?」

「ふ……」


 と後藤先輩はカレーを完食してもなお平然としているアルファを見て軽く笑った。

「あんたいい目してるぜ。ぎらついてやがる」

 後藤先輩はそう言って頷きながら、元居た席へと戻っていく。後藤先輩が何も言わなかったために、周囲の雰囲気も自然と俺達を認める形となる。

「ほ……」

 どうにか無事に収まったか。

「そんなにぎらついておるかのう?」

「まあ、あの人の表現は独特だから……」


 こうなれば周りの男連中も、誰も文句を言うことはなかった。

 




 そうして、猪狩が現れるまでみんなで完食記念の写真を撮ったりして時間を過ごした。後藤先輩はアルファと並んでいるためかなり嬉しそうだ。後でこっそり俺のほうへやってきて「おめーこれマジだべ、つーか俺マジだからよーそこんところ夜露死苦」と俺に牽制をかけてきたりかなりうざかったが、そんなことをしている間に猪狩がやってきた。

 

 猪狩は俺を見た瞬間、

「一番居て欲しい人が居るね」と呟いたので早々席を立ちたくなったが、立ち上がった瞬間、アルファに肘で小突かれ元の席へと帰還させられる。

 見た目の印象はこざっぱりしているスポーツ少年、サッカー部所属でそれなりに目立つ位置にいるため、女子の声援にはことかかない。

 俺とは同じ立場にいたはずの人間が、今や人も羨む彼女持ちである。これは間違いではないかとこの世の最高責任者に物申したい。

「何じゃ?」

 いや、そう言えばこの世の最高責任者はここに居たんだっけ。


「で、猪狩よどうすれば女が出来るんだよ」「やはりサッカーなのか?」「練習いいのかよお前」

 猪狩が席に座った瞬間、みんな口々に疑問を口にする。


「静まれ童貞ども!」


 と後藤先輩の容赦のない一言が、精神的にみんなを黙らせた。

「後藤先輩、あなたも来ていたんですか」

 普段は余裕のある猪狩も、後藤先輩を前にしてやや緊張しているみたいだ。


「おうよ、オリャこの話を聞くためにわざわざ補習バックレてんだよ。ノイズはいらねえ、そろそろ始めようや」

 先輩は補習に行くべきですと誰もが言いたかったが、当然面と向かっていえる人間はいなかった。

 こうして微妙な空気の中、猪狩の経験談がスタートしたのである。

 


 

「そもそも僕と彼女は家が隣同士で兄妹のようにして育ったため、どうしても女性とは見れなかったんだ。だが、ある日気づいてしまったんだよね……彼女の魅力に。今日はその話をしよう」


 と猪狩は静かに語り始めた。

「それはある日借りてたDVDを返そうと彼女の部屋を訪れた時から始まった。僕の部屋と彼女の部屋は窓を挟んで行き来出来るほど近い。そのため、ついいつものように窓を開いてしまったんだけど、彼女は折り悪く着替え中だったんだよ」


 その瞬間、何人かの人間が身を乗り出した。


「要するに、僕は彼女の裸を見てしまった。感想? いやまずいと思った瞬間、彼女にぶん殴られたから、その時の記憶はほとんど残ってない」

 と言った瞬間、乗り出した全員がため息をついた。


「だが僕はその時に気づいてしまった。彼女は幼なじみなどというあやふやな存在ではなく、一人の女性であることに。それからだ……僕がおかしくなってしまったのは。寝ても覚めても思い浮かぶのは彼女のことばかり、僕はその時から恋に目覚めたんだ」

「いや、おまえ今でもかなりおかしいぞ」「おかしいつーか笑えるな」「猪狩ってマゾなのか」


 口々に感想を唱える皆を制するかのように、先輩がドンとテーブルを叩いた。

「猪狩、続けろ」と促し、猪狩は言葉を続ける。


「僕は悩んだ。この気持ちをどう伝えればいいのか。何しろ積み上げてきた年月はでかい。今まで幼なじみだった関係がいきなり恋人になるのはどうすればいいのか? 正直に言うと僕は自分の気持ちに戸惑っていた、きっと彼女も困惑するに違いない。だが、このまま穏当な関係を維持するうちに彼女は他の男と恋におちて、僕ではない誰かと結婚する。そんな未来は耐え難かった。だから僕は意を決して自分の気持ちを伝えることにしたんだ」


 アルファが「ここらへん良く聞いておけよ」とそっと耳打ちしてくる。


「本気というのは誠意を見せるという意味だ。惚れた相手には誠実に尽くす。これに限ると僕は判断した。だから僕はアルバイトした。そして金をためて指輪を買い彼女を、高台の公園に呼び出しプロポーズしたんだ」

「おまえ飛躍しすぎじゃない?」とギャラリーの誰かが突っ込んだ。およそこの場にいる全員の心の内を代弁していると言えよう。


「だが、彼女はうんと言ってくれなかったんだ」

「そりゃそうだろ」と俺が突っ込む。今度はほぼ全員が頷いた。いきなり幼なじみから結婚である。ただでさえ高いハードルを自ら上げてどうするつもりなのか。


「残念ながら彼女の心に僕の誠意は通じなかった、いや、そうじゃない僕は誠実さが足りなかったのだと気づいた。だから僕は愛の証明のため、高台から飛び降りたんだ」

「マジで飛躍すんなよ!」「足大丈夫なのかよ、お前サッカー部だよな?」


 あまりの内容に聴衆の面々が猪狩に突っ込み返す。

「その時は、樹木がクッションになって、幸運にも打撲で済んだ。サッカー部の練習はしばらく休んだけど」

 そう言えば、猪狩がしばらく足に包帯巻いていた時期があったことを俺は思い出した。てっきり事故かと思ってたのに……


「以降、僕の愛の証明に心を打たれた彼女は僕とつき合うようになった……というわけだ。おしまい」


 以上が猪狩の恋愛経験談である。期待して聞いていた聴衆は一様に渋い顔を浮かべていた。


「それってさ、面倒くさくなっただけじゃないの?」「同情が入ったと見える」「半ば脅しだよなあ……」という呟きがいたるところから聞こえてくる。その意見には俺も全面的に同意したい。


「黙れ! 縊るぞテメエら!」

 その微妙な空気を切り裂くようにして、後藤先輩が立ち上がった。

「俺ぁ感動した。惚れた女のためにマジで飛び降りる、それはロマンじゃねえか!」

 またロマンが出た。後藤先輩の頭の中では地球はロマンで回っている。その独特の論理について行ける者は皆無に等しい。

「わかんねえかこの童貞ども! こいつはやり遂げたんだよ! 地球上の全員が否定しても俺だけは認める、猪狩よ、おめぇ……おめえマジ男だべ!」

「先輩……ありがとうございます……」


 力強く握手を交わす二人。

 状況だけ見れば熱い男の友情と見えないこともないけど、周りの空気は白けきっていた。

 そして、その空気を払拭するように第三の人物がそこに現れたのである。


「お兄ちゃん! ようやく見つけた!」

「み、瑞希……! まずい、ここは任せた」

「あ、ちょっと! 逃げるな!」

 ごっさんはすばやく靴を脱いで先輩のほうへと投げた。

「ぐへっ!」

 投げた靴が窓から逃げようとした先輩の頭部にヒット。見事なコントロールと言えよう。


「もうっ! どうして補習サボるのよ! 卒業できなくなってもいいの!」

「違う瑞希、これは男のロマンなんだ! オメーも妹なら解るだろ!」

「全然わかんないよ!」

 そうだろうなあ。

 ロマンで行動する兄と現実的な妹。ごっさんの苦労が忍ばれる。


「まあまあ落ち着けごっさん、みんな見てるぞ」

「へ……?」

 ごっさんはようやく俺の姿を認めて一時的に先輩を殴る手が止まった。

「あれ? これって何の集まりなの?」

 ごっさんはようやく俺達が集まっていることに気づいたようだ。

「猪狩の経験談を聞いて、どうやったら女の子とお近づきになれるか参考にしようという集まりらしい」

「ええ、とっても参考になりましたね」と微笑んでいる紅一点のアルファ。

 なるかあんなもの。

「そうなんだ、今回は珍しくやる気なんだね。北条さんの影響なのかな」

 なぜかごっさんはアルファにつっかかる。


「ご心配なく私は助言をしているだけに過ぎないので」

「ふうん……」

 なにやら不満そうなんだけど……

「とか言ってる間に、お兄ちゃんは逃げないの!」

「ぐはっ!」


 逃げようとした後藤先輩をごっさんは、容赦なく首根っこを掴んでいる。肉親だけあってそこらへんは容赦がない。

「ほら、きりきり歩きませい!」

「ぐぅぅ!! 瑞希もうちょっと優しく……」

「優しくしてるとお兄ちゃん逃げるじゃない!」

 引きずられていく後藤先輩、その背中には哀愁が漂っていた。

 

 


 

「ダメだ特殊すぎて全然参考にならん」

 アルファと一緒にファミレスを出た瞬間、俺はそうこぼした。

「そうか? 要点は押さえておるぞ」

「え、どこが?」

 先ほどの猪狩の論理に、普遍性は見当たらなかったと思うが……

「要するにじゃ、女子のハートをつかむためには、割りの合わぬパフォーマンスが必要……ということじゃな」

「ふむ……」


 それは確かに一理あるかもしれない……

 だが、と俺は思う。その理屈で言えば、猪狩でさえ彼女を手に入れるには、高台から飛び降りるしかなかったわけである。

 鴇子は猪狩の彼女と比べても遥かに無理目の女だ。少なくとも性格はともかく容姿は優れている。となれば……俺は鴇子と結ばれるためにはどれほどのモノを失うのか。


「ま、命は大事にな」

「おいフォローはないのか」


 まあ、俺は別に鴇子と結婚したいわけでも恋人になりたいわけでもないのだ。そこまでの苦労はいらないだろう。

 

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