太郎とジュリエット
@nisidahajime
第1話
世界で一番偉い人というのをご存知であろうか?
そのやんごとなきお方は代々不可思議の能力とカリスマを受け継ぎ人類を裏で支配している。数世代にわたって磨き上げられた権能は他の追随を許さず、指先一つで世界を動かす。二度にわたる世界大戦の折にも各国の首脳を人形のように動かし、何かと血に彩られた近代史を、冷戦という膠着状態まで持っていったのは、かのお人の力によるところが大きいそうな。
「それが我だ。どうだすごかろう」
と世界で一番偉いと自称する少女が言った。
少女を中心として謁見の間は茫洋たる闇に覆われ、ランタンの光がかろうじて闇の侵食を防いでいた。
んな、馬鹿な。民主主義が徹底したこの世において、そんな絶対君主が存在する余地がどこにあるというのか――
と言い返したかったが、残念ながら俺は一言も発言することは出来なかった。
何しろ、今の俺は手足を縛られて、黒く磨き上げられた冷たい床の上に放置されている状態にある。対して世界で一番偉い少女、彼女は壇上に据えられた豪華な椅子の上から芋虫となった俺を見下ろしていた。
ゴシックなドレスに身を包んだ彼女は、金髪碧眼のお人形のようだ。陶器のような肌に可憐な唇、そして流れるような長い髪の毛。ここ個人的にポイント高い。
雑誌の表紙を飾ってもおかしくないような可愛らしさであるが、その眼差しは見つめられた者を威圧するような迫力があった。
「そ、そうなんだ……」
その峻烈なまなざしに耐えながら、俺は喉の奥から蚊のなくような声でかろうじて返答する。
「ほう……」と世界で一番偉い彼女は感心したような笑みを浮かべながら、手元に置かれてある地球儀を軽く撫でた。
「我のまなざしを受けて声をあげるとは、胆力はまずまずじゃの」
と少女は満足そうに笑った。
さすがこの世の最高権力者、笑い方も上から目線だ。
というか、ここは一体何処なのか……縛られている体を無理に捻って頭をめぐらすと、自分の背後にも同じように闇が広がっている。
この闇はどこかに繋がっているのか、それともただ無限の闇が広がっているだけなのだろうか? 無理矢理ここに連れ去られた俺の運命のように、その行き先は果てが知れなかった。
「そう構えるな、ここは私のプライベートスペースじゃ。ここなら外からの雑音に悩まされることなく話をすることが出来るのでな」
「で、その最高権力者が、一介の学生である俺に一体何の用事が……?」
何しろ、学校の下校中に唐突に連れ去られ、何処とも知れない場所に拘束されているわけだから、俺はお白州につれてこられた罪人のように神妙にしているほか無い。
そして、先ほどの意味不明の説明である。逆らってはいけない相手だと判断してとにかく下手に出ることにした。
「最高権力者ではない、我は人類の最高責任者じゃ」
少女は、やや誇らしげに答えた。
「我は人類に関係するあらゆる運命に責任を持っている。責任をもつということは、全ての結果を背負う覚悟を持つことじゃ。ゆえに我は尊ばれ、唯一無二の聖上として多くの者に傅かれている。そなたを無理矢理さらってきたのは悪かったが、氏素性の分からぬ輩と二人っきりで対面するとなれば、側近どもからも反対があっての。煩雑ではあるが、我を慕う忠義の者たちからの言上であれば無下にも出来ぬ。ゆえにやむをえず縛らせてもらったというわけじゃ、理解したか?」
「…………」
一応は筋道がたった説明だが、あまりの突飛な内容のため脳が理解を拒否していた。この沈黙はそのためである。
「そう睨むな。私と対面したということは、これでそなたもお目見えじゃぞ、少しは社会に対して箔がつく。役得じゃな」
「はあ……なんか、昔の旗本みたいですね……」
未だ社会と没交渉である学生の身で箔をつけてどうなろうと言うのか……と思ったが、そういうことは言わないようにしよう。
「少し話をするだけじゃ。五体満足で帰してやるから安心するがよいぞ」
初めてここに連れて来られた時は肝を冷やしたが、どうやらとって喰われる心配はなさそうだ。
「分かりました。お話承ります」
とにもかくにも、主導権は相手が握っている。騒いだところで、事態が好転するでもなし、ここは相手に従っておくことにした。
もっともそうする以外には、俺にはなにもできなかったけど。
「人類の危機である」
いきなり話が大きくなり、俺はあっけに取られた。
「その危機を説明するためには、そもそも人とは何か――その定義をはっきりさせねばなるまい。人と猿を分かつものとは何か?」
「えっと……言葉を喋ること?」
「DNAじゃ」
ずいぶんと味気ない答えだ。もうちょっと哲学的な問答を予想してたのに。
「人という種は、猿を起源とし、科学を進歩させ文明を築き上げた。しかし、現代に至って文明の発展はない。政治も経済も文芸もただ拡大再生産を繰り返すのみ。ハムスターの回し車のように、一歩も進まず、進展もなく、その労力はただ無意味な生産と消費を積み重ねるに止まっている」
世界一偉い少女は背中に八尋の闇を背負いながら、唐突な文明停滞論を展開した。背後の闇と相まってなかなかの説得力を演出している。
「もはや人の可能性は尽きた。その常識は空気として巷間に広がり、人々は希望を見出せずにいる。今や人類は停滞しているのだ。そのうち新しい人類が生まれて、人類の覇権は次代の人間にとって代わられるだろう。ネアンデルタール人がクロマニヨン人に駆逐されたように。人類の責任者である我がもっとも危惧すべき問題はそれじゃ」
と言って、少女は言葉を切って遠くを眺めた。
「んで……その話と俺に何の関係が?」
「そして現代、遂に新しい人類が生まれた。その人の名を喜連戸鴇子という」
「あー……」
その名が出てようやく話がつかめてきた。
喜連戸鴇子(きれどときこ)――因縁深きその名前。
俺の幼なじみ……いや、はっきり言ってしまえば天敵である。
「喜連戸鴇子、彼女は人類の新種である。このまま彼女の跳梁を放置すれば人類は恐るべき勢いでその覇権を脅かされ、ついに地球上から駆逐されるであろう」
「たかが女一人におおげさな」
「女一人と侮るなかれ」
そう叫んで少女は手元の地球儀をからりと回し始めた。
「堅牢な城も蟻の一匹で崩壊することもある。すでに新種の萌芽は現れているのだ。跳ねっ返りの革命勢力が体制側に押さえつけられるのは世の習いなれど、硬直化した体制が新勢力にとって代わられるのもまた世の趨勢。今は微力でも時を得れば大波のごとく襲い掛かり、旧人類を打倒せしめるであろう」
ぴたっと回り続ける地球儀をとめて、少女は俺に向き直った。
「新種が突然変異として、淘汰されるか、それとも種を残し大地を我が色に染めるかはこれからにかかっている。断じて遺漏はならぬ。新しいワインを新しい皮袋に入れてはならぬのじゃ」
世界で一番偉い少女の説明を聞きながら、俺の脳裏には鴇子の整いすぎた顔が浮かんですぐに消えた。
俺とて彼女が只者ではないことくらいはわかっている。だが、それはあくまで学生レベルの話であって、人類を駆逐するほどの傑物とはとても思えない。
「そこで話はそなたに戻る。話というのはそなたに鴇子を制して欲しいのじゃ」
「俺に?」
じろりと睨むその笑顔にとてつもなく禍々しくものを感じ、俺はとっさに身構えようとしたが、体が縛られていたので何も出来なかった。
「いかにも、一言でいえば鴇子とつがいになって欲しい」
「はあ??」
予感的中、嫌な予感というのはどうしてこう当たるのか。
「そなたの血の濃さをもってその新種の血統を圧倒し、一代の突然変異として終わらせる。かつて不妊性の新種と交配させることによって、沖縄はウミリバエを駆逐した歴史があるが、それを踏襲しようというわけじゃ。人類の可能性を残すにはその方法しかあるまい」
「ちょっ! ちょっと待ってくれ!」
いきなりの話の展開に頭がついていかなかった。
番うって要するに、結婚して夫婦になれということだよな。
「なんじゃ? 鴇子が相手では不服なのか?」
「大いに不服だ! いくら金を積まれたってごめんだね」
「では五本でどうじゃ」
この世の最高責任者という貴顕のわりには、意外と俗な言い回しをしっているなと思いつつ、俺は首をかしげた。
「五万円?」
「五〇〇億じゃ」
「おっ……!!」
あまりの金額を聞いて、俺はとっさにパワーストーンの広告に出てくるような札束風呂を思い出した。『惨めな人生を送っていた僕がこの石で人生が一変しました。宝くじもあたり合コンでも女の子にモテモテ、おかげでウハウハ(死語)の毎日です』というアレだ。もっと俺の場合は順序が逆だが。
「断る!」
ぐらつきかけた精神の天秤をとっさに均衡へと持っていく。
鴇子と結ばれる――すなわち彼女を受け入れることに他ならない。
そんな未来は絶対にありえない。断じてありえないのだ!
「ふむ……」
少女はしばし考え込んだが、やがてこちらに向き直り顔を至近距離にまで近づける。
普段こんな距離にまで女子が近づいたことのない人生を送っているため、少し照れくさく思った瞬間、その瞳が強烈な瞬きを放った。
「至上にして唯一、聖上なる人類の長たる我が命をもって、汝に命ずる」
「……!!」
彼女から発する言葉の絶対的な重みを感じて、俺は震えた。
「汝、喜連戸鴇子と番いめおとの契りを交わすべし、これは天命である! 我、特に諭す!」
「んっ!!」
肝が震えた。
心に響く強烈な言霊、それは俺の最も深い部分を直撃し、そうすることが絶対の真理であるかのように俺に語りかける。
「承知せよ! そなたが我が命にあらがうすべは無い!」
「ぐぐっ……」
凄まじい眼力だった。睨み続ける瞳を逸らすことさえ出来ない。
心の奥を鷲づかみにされたかのような、圧倒的な力が俺を捻じ伏せようとする。
だが、俺は懸命にその流れに逆らった。
「やだ……絶対に、嫌だね……」
「くっ……」
何度も何度も心の中で、嫌だと念じる。
必死に抗命するが、俺の精神は荒ぶる川に浮かぶ木の葉のように翻弄されていく。
くそ……このままでは……もう……
もう限界だ。俺の運命はここで決するのか。
この歳にして結婚とか、学生の身でそんな重苦しい人生は嫌だ、しかも相手が鴇子だなんて、絶対に小遣いくれないぞあいつ……
「はあ……はあ……」
と色々思っている間に、眼力は緩んでいた。
「はあ……なんという奴じゃ……」
それと同時に、俺は捉えられていた力から開放され、まるで憑き物が落ちたかのように体が軽くなる。
「我の眼力に耐えるとは……そなた、よほどの頑固者じゃのう、いや違う……我の眼力では制しえぬ何かが託されていると見るべきか……」
少女の眼の力もどうやら相当消耗するらしく、かなり疲れている様子だ。何やらワケの解らぬことをブツブツと呟いている。
それにしても恐ろしい……危うく自分の意思をねじ伏せられるところだった。これがカリスマの力というものか。世界で一番偉いというその権能も、まんざら嘘でもないかもしれない。
「金も脅しもダメか、ならばそなたは何も望む?」
「何も望まないよ。世界で一番偉いか知らないが、俺と彼女の因縁に誰も関わって欲しくは無い、頼むから放っといてくれ!」
これは偽ることなき本心だった。
『そこにある花を摘んでもらえるかしら?』
一人の少女がそう言った。
頑是ない子供だったころのお話。
俺と彼女がまだいがみ合う前の頃。
いつもの中庭で遊んでいた俺に、鴇子はそう問いかけた。
ここは喜連戸家の庭先。山の裾野に広がる庭の一角には桔梗が咲いていた。自分を主張することなく控えめに咲く薄い紫の星型の花弁。
一輪のまま、ひっそりと野に咲き。存在を主張しない控えめな花の態度が孤独を感じさせる。そんな花を俺は手折ることができなかった。
このまま無造作に子供の慰みにするには、罰があたりそうな予感がする。それは神社の狛犬や、路傍にある苔むしたお地蔵様に抱く畏れにも似ている。
時に自然の造形物は、神さびた印象を人に与える。自然にあるものは、あるがままでないといけないのではないか? 幼いながらに、俺はそう思った。
だが、彼女はそうは思わなかった。彼女は首を少しかしげて、
『えい』
と可愛い声と一緒に桔梗を手折る。
それはもう無造作に、無遠慮に、無定見的に。自侭に振舞う彼女を止められる人間は誰もいない。彼女は桔梗を髪にさして、くるりと振り返る。彼女の着ている水色の小袖が舞うように揺れた。
『似合うでしょ?』
不思議なことに彼女の髪に花をさした途端、桔梗の薄い紫が鮮やかな色彩を帯びた。
その現象をどういえばいいのだろう。
自然と振舞う彼女に、ただ圧倒されて、俺は黙って彼女の顔を見つめたまま、何も言えずにいた。
『どうしたの?』
彼女は不思議そうに俺に尋ねてくる。
その声には、罪悪感などこれっぽっちもなかった。
思えば、それは鴇子が俺に反感をもったきっかっけなのかもしれない。
花を摘み、自分を飾りたてる。そんな行為をいとも容易く行なう彼女に、俺は同意するのを避けたかった。彼女は美しい花を、自分のために消費した。
女王のように、何の躊躇もなく、罪を顧みることもなく、おそらく今も感じてないだろうし、将来永劫、路傍の草花を思い出すことのない人生を生きるのだろう。
その少女の名前は喜連戸鴇子という。
喜連戸鴇子、二月二十一日生まれ、うお座のAB型。茶道部所属、成績は非常に良好。
ふった男は星の数ほど、ふざけたことにふった女も二、三人くらいはいるらしいと風の噂で聞いた。
才色兼備を絵に描いたような少女……いや、あまり認めたくないが確かに美少女である。だが、どんなに顔かたちが整っていようとも、性格に難があっては真の乙女とは言えない。
学園での彼女の評判はすこぶる良く、男女年齢の別を問わず絶大なる人気を博している。常に他人から自分がどう見られているかを把握し、生来の卓越した洞察力をもって、先回りして相手の望むものを与える。休んでいる人間のためにノートをとってあげたり、具合の悪い生徒に保健室まで付き添ったり、学校の行事にも率先して参加する。教師の手伝いは自ら進んで名乗りでて、重そうな資料をもって教師と一緒に連れ立って歩く姿を、何度か見かけたこともあった。
だが、そんな世上の評判は全て鴇子の本質を隠す仮面にすぎない。篤志に見えて酷薄、温厚に見えて陰湿。人は皆、彼女の性格を褒めるが、俺はこの十年以上のつき合いで、鴇子の慈悲に触れたことは一度たりともなかった。それどころか、鴇子はその類まれなる洞察力をひたすら俺を苛め抜くことにのみ使用していた。
そんな関係が幼い頃から続いてみれば、その関係も推して知るべしだ。
鴇子の家は代々続いた老舗の「和菓子司 朗月庵」の一人娘である。俺の父親はかつて鴇子の親父の兄弟子であり共に和菓子の腕を磨いた関係だ。数十年ほど前、「朗月庵」の先代が病に倒れた折、跡目相続の問題が立ち上がった。
通常なら先代の息子が跡を継ぐべきところだが、地道な和菓子作りに背を向け銀行員になってしまったため、弟子の中から跡を継ぐべき人間を選ばなければならない。
多数の弟子から候補に挙がったのは、腕はいまひとつだが才気煥発な鴇子の父親と、頑固で融通がきかないが腕は確かな俺の親父。
和菓子の腕を考えれば、当然俺の親父に軍配が上がると周囲は考えた。だが、熟考した先代は和菓子一筋の親父よりも、商才のある鴇子の父親のほうを選んだのである。
これからの時代を生き抜くためには、頑固一徹の和菓子職人よりも、才覚高い人間が必要だと考えたのだろう。
先代は人を見る眼はあったようで、手軽に買える和風スイーツにパッケージングしてからというもの「朗月庵」のブランドはさらに飛躍し、日本各地のデパートにも出品する盛況ぶりだ。反対に独り立ちした親父の店は手作りの少数生産を続け、通好みの評価を得るに至っている。
そんなわけで、俺の親父と鴇子の父親は水と油、仲良く腕を磨いた美しき修行時代は今や昔の物語。
先代の法事や修行仲間の祝いの席などで、顔をあわす機会があれば、互いに金の亡者、旧態依然と反目しあう仲であるため、周囲も気を使って席を離しているほどだった。
以上で俺と鴇子の複雑な立場はご理解いただけたと思う。
商売敵の和菓子屋に生まれた幼なじみ。
これがシェイクスピアならロミオとジュリエットの悲劇が幕をあけるところだが、運命の女神が文学的な修辞技巧をこらす前から、俺の鴇子の因縁を綾なす糸はゴルディオスの結び目の如く絡みに絡まり、もはや一刀両断するより他に方法はない。
親の因果が子に報いというわけではないが、俺と鴇子もその因縁をきっちり引き継いでしまっているのが今の現況だ。あまり健全な関係とは思えないが、ここに至っては時を戻すことも出来なかった。
とにかく、父親譲りの計算高さと、母親譲りの美貌を兼ね備えた彼女は学校では無敵だった。教師もクラスメイトも鴇子の善性を露ほども疑わない。鴇子の発言は常に真であり、異を唱える俺は教室の片隅へと追いやられた。
小学校時代は教師にあらぬ嫌疑をかけられ、中学校では女子からも評判が悪く、おかげで高校でも乾いた青春を送っている。女にやられっぱなしでは男が立たぬと、上履きにマヨネーズを詰めたり、教室の机の中に毛虫をぎっしり詰め込んだり、時には自転車のサドルに瞬間接着剤を塗りたくった。
断じて言うがこれはいじめではない。男子の面目を施すためのやむにやまれぬ義挙である。男が行動するときはつねに正々堂々と行動しなければならない。己の半生を和菓子に捧げた、職人気質の父親から、俺はそう教えられた。父の教えに間違いはあるまい。男子天道にそむくなかれ。お天道様が常に見ているのであれば、俺の正義はいつか証明される。ゆえに、正々堂々と名乗り出ることで忠実に教えを守った。
が、結果はならず者の烙印を押され、周囲の信用をなくし続けている。特に女子に対しての評判は、年を重ねるごとに暴落の一途を辿っていた。
やり返し、やり返され、正義である俺の側が一方的にダメージと憎しみを蓄積していく。歴史が教えるとおりその哀しきブルースは加速してゆくのみであったかに見えた。
「ここ半年ほど、そなたと鴇子は言葉も交わしておらんそうじゃの」
「それはまあ……」
正確に言えば七ヶ月と一週間である。
しかもその七ヶ月前の会話というのは、日直であった鴇子が先生からの言伝を伝えただけなので、これは会話というよりただの連絡だ。
鴇子とは幼稚園からのつき合いだが、これほど長期間会話を交わさなかった時期は無い。小学六年の頃に鴇子が一週間ほど家族旅行に出かけたことがあったが、今はその二十九倍である。
同じ学園で同じクラスなのだから、旅行と違い、距離の問題は無いに等しい。
なのに俺も鴇子も互いの距離を測るのみで近づこうともしない。その理由は容易に推察することができた。
要するにうんざりしてきているのだ、俺も鴇子も。高校生にもなってどうして子どもじみた応酬を続けなければならないのか。かといって、鴇子に親しげに近づきこれまでの因縁を水に流して仲良くやろうと手打ちにするほど、俺は人間ができていない。
俺と鴇子は水と油どころか、信管とダイナマイトである。対立と言う意味では相性が良すぎた。接触すればまた何らかの火花が散ることは自明の理だ。
であるから、互いを傷つける不毛に気づいた俺達が出来ることは無視するしか方法は無い。しかし、完全に無視出来るほどお互いが積み重ねた時間は短くない。かみ合わない凹凸を心に模(かたど)ったまま、その隙間を埋めるでもなく、俺達は今を生きている。
「それは停滞である」
と少女は俺に宣言した。
先ほどから床に転がされたままなので、自然と上から宣言するような形になるのは如何ともしがたいが、その言葉は妙に俺の心に響いた。
「過去に囚われ何も成さぬでは健全な関係とはいえまい。そなたたちは関係を閉ざしてしまった。じゃがそこに鴇子が旧種と新種をわかつ本質が最大限に働いた理由がある。子どもの頃を思い出してみよ、公園で我を忘れて鬼ごっこやかくれんぼに夢中になって遊んだ経験は誰しも覚えがあろう」
「えっと…………それ、一体何の話?」
唐突に話題が変わり俺はあっけにとられた。
「むろん鴇子の話じゃ、茶々を入れるでない」
ごほんと咳払いして彼女は語り続けた。
「それはこのまま時が永遠に続けばと思った幸福な記憶じゃ。だが、夕暮れは必ずやってくる。家に帰らねばならぬ時間は必ず訪れる。そなたと鴇子は親の迎えを無視してずっと遊びを続けている子どもじゃ」
「子供……ね」
確かにそうかもしれないが、あまり嬉しい例えでもなかった。
「ゆえに、そなたは鴇子との関係を楽しんでいたのであろう?」
「な……! そんなわけないだろ!」
「正直に認めるが良い。子どもが夢中になるのは遊びと決まっておる。余人を挟むことなくお互いを傷つけあう、常識や世間体から開放され、感情にまかせて自由を謳歌する。それは遊びに他あるまい。楽しくなければそんな関係は続かぬものじゃ」
少女の無遠慮な一言。それは俺の心の一番奥にある塊を掴まれたような気がした。
「そ、そんなことは決して……」
声が震える。
心臓の鼓動が速まり、高らかに宣言した少女の姿をまっすぐに捉えることが出来ない。
子どもであることは認めよう。その関係にうんざりしていることも。
だが、今の俺達の関係は……
「理解したか? そなたと鴇子は日が沈んでも家に帰らず、暗闇に囚われ遊びも出来ず、河原に立ち尽くす子どもじゃ。そうして等しく夜を分け合ったまま、そなた達は停滞を続けている」
反論できなかった。
俺と鴇子、確かに俺達は二人で始めた遊びを終わらすことが出来ずにいる。
「そうして闇はそなた達を侵食し、いつしか鴇子を人ならざる者へと導いた。そなたも我の目に耐えられることから、その片鱗が見受けられる。もはや新種が現れるのは時間の問題なのじゃ」
俺は河原の暗闇に立つ鴇子の姿を幻視した。そこにはかつての可愛い笑顔はない。
茫洋とした瞳で流れる水を見つめ続ける、それはいつしか虚無を映し、人ならざるモノへと変わっていく。
「果たしてこのままで良いのか? そなたにも責任の一端があるのじゃ」
「良くないな……それは……」
「であろう?」
ゆえに自称、人類の責任者たる少女は、鴇子と俺の関係を変わらせようとしている。
俺と鴇子を子どもから大人へと。幼なじみから恋人へと。
「確かに今のままでは不健全ではある。それは納得した」
「うむうむ、己の置かれた状況を理解したようじゃな」
と少女は満足そうに頷いた。
「では、鴇子とそなたが契りを交わすこと。この旨承知したな?」
「それは絶対に断る!」
「……そなた、頑固じゃの」
「俺と鴇子の二人で始めた遊びなら、終わらせるのも俺達の責任だ。どんなに複雑でも因縁の始末をつけるのは俺達だけの仕事だ。今更誰かに邪魔されたくない!」
もはや意地となって俺は叫んだ。
そう、これは意地である。
俺達は余人を挟むことなく今の関係を積み重ねた。ならばその間に醸成された怒りも憎しみも全て俺達のものだ。他人の嘴を容れる隙間などなく、そのつもりもない。もし第三者の手を借りたとしたら、鴇子はその終わり方がどんなに都合の良いものでも断じて納得しないだろう。それは俺も同じことだった。
「だから俺の方法で、俺のやり方で鴇子とは仲直りしてみせます。それで文句ないでしょう!」
俺はこれ以上ない力を込めて、世界で一番偉いと自称する少女を睨んだ。
「なるほどのう……そういうことか……」
少女は面白そうにこちらを眺めている。
「やはりそなたをここに連れてきて正解じゃな。実際に対面しなければ解らぬこともあるしの」
「俺に鴇子を任せてくれるのを、承知してくれますか?」
「よかろう。人類の運命はそなた次第というわけじゃ。それもまた人の選択じゃ」
どうやら納得してくれたみたいだ。
「しかし、解らないな」
「何がじゃ?」
「あなたが本当に世界で一番偉いと言うのなら、相手はたかが小娘一人、いくらでも処理しようがあるでしょ?」
実際、俺はこうして拘束されて自由を奪われているのだし。その気になれば拉致監禁するくらいは簡単に思える。
「それなのに俺をけしかけるとは、方法が雑すぎないかと思って」
「その通りじゃが、人類の脅威とはいえで母なる自然の胎動によって生まれた存在、私も自然の摂理の一部であるがゆえに、その分を侵すことはできん。そしてそなたも自然の一部であるというわけじゃ。新種が生きるも死ぬも、自然摂理に任せれば良いということじゃ」
「すみません。さっきからさっぱりなんですけど……って言うか、あなたは神様みたいなものだと思ってましたけど違うんですか?」
「あくまで人の延長上じゃ。我の名はアルファという」
ずいぶんと簡素な名前だ。っていうかそれ名前というより型番みたいだな。
「神とはアルファでありオメガである。つまり、いずれは滅するこの身ではとてもたどり着けぬ境地じゃな」
「はあ……」
なにやら意味不明の禅問答を聞かされた心地だった。
「ともあれ、ご苦労であった」
「ということは……これで話は終わり?」
「うむ終わりじゃ」
あっけなく、終了を告げられる。
ここに拉致されてからもはや命もこれまでと覚悟していたが、どうやら五体無事で帰れそうだ。
ほっと一息つくのもつかの間、彼女は顔を近づけていた。
「な、何!?」
「そなたには何かと不都合をかけたの。これで許されよ」
その瞬間唇が近づいたかと思うと、
「んんんっ!」
急に口をふさがれた。
なんだ……これは……
急に天地が逆さまになったかのような感覚。
柔らかな感触が、甘い痺れを脳に伝える。
これは……キスというものか!
「んは……」
少女の口からもれるなまめかしい吐息に、一瞬心を奪われる。
「ふふ……目つきがいやらしいぞ、我に惚れたか?」
「なっ! 一体何をぉ!!」
「唾をつけたのじゃ、文字通りな」
そう言って微笑む彼女は先ほどの妖艶さなどどこへやら朗らかな笑顔。
まさしく女の子は魔女である!
「ではさらばじゃ、次に会う時まで、体を愛うがよいぞ。どうせ大変な目にあうのじゃからの」
「ちょ、ちょっとまって、それってどういう……!」
と言葉を最後までつむぐこともなく、俺の意識は急速に薄れていった。
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