三
結論から言えば、カサマシただ一人が最後までショーを観ていた事となる。正確には補助や警備に就いていた人間が含まれるが、観客として観ていた者は一人きりであった。早々に吐き戻し、吐瀉物の受け皿となったスーツの裾を掴んで泣きながら出て行った醍醐はもちろん、恐らく何度もこのショーを観ているであろう老夫婦も、はしかのような猟奇に取り憑かれ、しかし涼やかなふうを装って眺めていた悪趣味な少年も、トルソーが力尽き絶命する頃には席を立っていた。
「観客がいなければ、残飯の処理を他に任せられるのですが」
と悪態を吐きながらも老人は一頭丸ごと、全て平らげた。たといトルソーであっても脳と内臓は食べないよう条例が敷かれていた筈だが、骨と髪を除いた全てを胃の中に納めたのち、遠目に見てもわかるほどに膨れた腹を撫で、ごちそうさま、と言ってのけたのだ。その残された骨でさえ、何本かは丁寧に割り、髄をこそいで舐めていた。
「さて、げぷ、このショーは、最後まで観ていただいた方にだけ、うぷ……私をこのまま一晩、買い上げる権利が与えられます。普段よりも割高な上に……吐くかもしれません。よく噛まないで食べたもので、元の形が分かるものを、ゲーと出してしまうかもしれません。まあ大抵は吐くのが、んっ、本番のようなものですが」
「ああ、いくらだ」
カサマシが舞台へ駆け寄り尋ねると、老人の顔はいよいよ青褪めたが、もはやその様子に構うことは出来なかった。随分と凄いものを観てしまった、と後悔さえしていた。それでいて、まだ、足りていないのだ。この老人の口の中を覗き込んで、腹を撫でたいと思って止まずにいる。老人はたっぷりとカサマシの顔を睨み付けてから、諦めたかのように目を伏せ口を開いた。
「……二十万。明日の朝まで、腹の中身ごと好きにして構いませんよ」
額に流れる滝のような汗と、血腥く浅い呼吸が芬芬と匂い、より一層おかしな色気を感じさせた。
舞台の裏から通された通路の、最奥に部屋はあった。値段の割に室内は随分と質素なもので、一組の布団に二つの枕。奥には浴室があるが二人は入れそうにない。ちょっとした水槽のような湯船と便座が並んでいるだけである。
「おべべを脱いでくださいな。汚したら大変だもの。きっと値が張りますでしょう?」
「なに、汚れても構わねえよ」
「ごめんなさいねえ。汚い格好で表に出られたら、座敷屋の評判に関わるので、ほら」
赤いドレスを着た老人はジュートのかごを突き出しせっつく様に押し付けるので、カサマシは渋々ドテラを脱いだが、どうも一人で脱ぐのには抵抗があった。
「客に脱げというなら、あんたも脱がないと公平じゃないだろう」
「ええ、でも、これは私の我儘ですので聞き流してくださって構わないのだけど、三流作家風情に肌を見せるつもりはないのです」
その言葉にカサマシはかっと血が昇ったが、三流の事実には違いないし、何より今ここで手を上げでもすれば、この老人は上司と繋がりがあるのだと聞いている。三流でさえ居られなくなるやもしれん、と己を鎮めた。勝ち誇った様な顔が癪に障るが、致し方ない。下着を残して全て脱ぐと、老人が手に持つかごへ出来るだけ強く叩き付けた。
「これでいいのか。言っておくが、あんただっておれに粗相をすりゃあ、そう、おれぁそれなりに気に入られてるんだ。タダじゃあ済まないぜ」
「まさかまさか、ふふ、確かにシモは緩いけれど。ただの我儘を間に受けないで下さいな。立場だけは貴方が偉いのだから、脱がせたいなら脱がせてどうぞ」
口先ではそう言いながらも、到底どうぞというふうには聞こえなかった。老人はかごを隅に置き、布団の横に品良く座ると、しゃんと背筋を伸ばしこちらを向いてにたりと笑む。
「それで、どうするの。取材となれば、聞きたいことだってあるのでしょう。それともとりあえず吐いてみせましょうか」
老人は事も無げにそう言うと、人差し指と中指を口の端に引っ掛け、いーと広げた。そうして見える口の中の肉色が更に艶かしく、先程のショーの続きを見せられている気分であった。カサマシはごくりと生唾を飲み、しかしがっつくのはまだ少し勇気が要ったので、老人に並ぶようにして布団の上へどっかと腰を降ろした。
「まあ、待て、何もあんたを苦しめようとはしてねえよう。楽にしてくれ。あんたは随分と俺を嫌うようだが、まだ何もしちゃいねえだろう」
「何もしていなくとも、貴方は作家で、私を貶めるつもりでいるのだから、嫌うのは当たり前でしょう」
「そんな、おれは今それどころじゃあないんだ。兄さん、これが惚れるというヤツか。もしかしたら違うかもしれないが、そういうことだ」
「兄さんだなんて気色の悪い」
老人は口をへの字に曲げ、わざとらしく仰け反った。その仕草が酷く寂しく思ったカサマシは思わず老人の腕を掴むと、ぐっと布団へと引き倒した。
「あっ」
両手を着き、その衝撃に老人は小さく呻き少し身を震わすが吐くのはどうにか耐えたようで、ん、はあと大きく溜息をつくとこちらを屹と睨み付けた。灰青の瞳はじわりと潤み、カサマシの脳にはその一連の所作さえも、どうしようもなく淫靡に映って、先程産まれたばかりの感情を少しばかり後押しした。
「わ、悪い」
「……いいええ、構いませんよ。吐かなくて残念だったかしら」
「そうつらく当たらないでくれよ……すまなかった、ごめんよ。兄さん、あんた、色っぽいなぁ」
カサマシが老人の耳元に手を伸ばすと、大きく抵抗もする事なく、老人は覚悟を決めたように目を瞑った。
「人の金で、いい気なものだね」
それでも尚も悪態を吐く口に触れる。随分と赤いので化粧をしているとばかり思っていたが、自前のようだった。この口で人を食べたのだ。特別大きい訳でもなく、強いていえば、少し犬歯が鋭いように見えたが定かではない。そう見えるだけなのかもしれない。カサマシが見惚れていると、指先をちろりと赤い舌が舐めた。
「そんな所に指を置いたら、間違って食べてしまうよ」
薄く開いた目が、先程の刺し抉るような視線とはまた別の、とろりとした熱量を持ってカサマシを映していた。
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