二
「良い作家を付けましょうね。カサマシという男を知ってるかしら……ああ、知らないに決まってるわ、ごめんなさい。貴方は文字も読めないのに」
「ええ、ご存知の通り、白痴なもので。ヒト肉を食べると脳が海綿になるそうですよ」
そう言いながら蕨が人差し指をこめかみの辺りでくるくると回すと、客は苦笑いをしながら机に置かれた指輪を薬指に嵌めた。肉にぎちりと食い込んだ金の指輪と、泥の色をした爪をなぞる。随分汚い色で塗ったものだ。蕨は心の中で呟いた。
「それで、とっておきのトルソーを用意したいのだけれど、私はそんなもの食べないから、ひとつも良い店を知らないの。頼まれてくれるかしら」
「ええ、構いませんよ」
「任せるわね。それに服も。ドレスがいいわ」
「はい」
「お代はいつもの通りに……それじゃあ、長居したわね」
客の背を見送った蕨は、凝り固まった笑顔を擦り落とすように口元を拭った。随分と急な話だこと。大きく溜め息を吐くと、汚れたシーツを乱暴に剥がし丸め、脱ぎ散らかした着物と一緒くたに
(さて、どうしたものか)
トルソーのアテは幾らでもあるが、己の背格好に合うドレスは見当がつかないでいた。新しく仕立てるにも時間が足りない。いっそのこと馬鹿には見えない服を着てとぼんやり考えているうちに三本目の煙草に差し掛かり、ふと思い立って手を止めた。
(あすこなら、何か置いてないかしら)
なれけばそれでもいいが。そう思いながら、蕨は買い出しに向かうべく身支度を始めた。
「お、久しぶりィ。探し物?」
「ええ、こんばんは。衣装を探しているのだけど。貸し衣裳でなくて、買い取りの」
トルソーの買い付けを済ませた蕨はその足で、座敷屋の手前、道を挟んだ反対側にある〈
「質も種類も値段も問わないから、明後日までに私のドレスが欲しいの。丈が多く必要なのだけど、何とかならない?」
「はいよ、お易い御用。大きい小さいにはツテがあるんだ。明日の夜にでも取りにおいで」
「頼りにしてるよ。
「この商売長いからなァ。他にご注文は?あんたの事だから、また派手にやるんだろ。あっちも濃いィの用意しようか」
もう一つ、この竜涎堂の評判には訳がある。とんとん、と傍にあるガラスケースを指先で叩き、ニクズクはにやりと笑った。
「頭オカシくなっちゃうヤツ、とか」
紳士を野獣に、淑女を娼婦にするという媚薬。それがこの店の看板商品であった。以前に客に盛られた事のある蕨は、その凶悪さを痛いほど理解している。それは身を裂くような苦痛をさえ、脳が爆ぜる快感に換えるのだった。
「今回は混ぜもののない上等な肉だから、また今度お願いするよ」
ニクズクは、そ、と特に興味もなさげに短く返した。
当日、粗末な舞台の上袖に控えた蕨は、すぐ隣で椅子に括り付けられ、尚も己の置かれた状況を理解していないトルソーがぼそぼそ歌うのを聴いていた。色白の、小さいながらもぷりぷりと柔らかい肉を蓄えた、可愛らしいトルソーだった。きっと良い味がするだろう。
「おかわいそうに」
誰ともなしに呟くと同時に、がたん、と音が鳴り会場の明かりが消えた。己の姿を見ることさえかなわない暗闇が数秒あったのち、目の眩むような光に焼かれ、ざんざんと溢れ出すような拍手の音。ああまた始まる。蕨は逃げ出したい感情とは裏腹に、腹の底がふつふつと温まる感覚がした。
「やあやあ、お寒い中、ようこそお越し下さいました。こんばんは。やあやあ」
ごつごつと踵を踏み鳴らしながら舞台の中央へ向かう蕨の足元には、まるで生き物のように明かりが纏わり、這い回った。吊り下げられた照明の一つ一つが手の届くほどに近く、明かりの点いてない今でさえも余熱で炙られるようで、顔から汗がどっと噴き出した。酷く消耗するが、しかしそのお陰で、ショーが始まってしまえば、明暗の差で客席はほとんど見えなくなるのだった。
口上を並べながらぐるりと見回すと、後ろの端に辛子色のドテラを羽織った男が座っていた。あれだ。随分と間抜けな顔をしている。どれ、くだらない記事に色を添えてやろうと挑発すると、男はへの字の口をさらに大きく曲げ胸を張った。
「きっと楽しみにしていらしたのでしょうけれど、貴方のお隣の、それは、恋人かしら。ふふ、吐く前に帰って、ベッドでねんねさせてやっては如何でしょう」
遂に辛抱堪らなくなったのか、がたがたと椅子を鳴らして立ち上がった男は、しかし、隣に座る顔色の悪い連れ合いに宥められ、渋々といった様子で座り直した。こんなものか、あまり一人を構い過ぎても他の観客に悪いだろう。蕨はくるりと背を向け床に置いた鞄を蹴飛ばした。中身が喧しい音を立てて飛び出し、舞台のあちこちへ散らばる。それを合図に、がらがらとトルソーが運び入れられるのであった。
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