第5話 コミックゼスト!

 次回のゼストは八月の二十二日。

 申込用紙の処理、ジャンルの振り分け、会場の机椅子の本数確認、カタログ編集など、様々な前準備の都合で、参加の申込〆切は通常なら七月中旬。

 現在はすでに六月の末なので、〆切まではちょっと時間がない。

 まずは七月末までの〆切延期、参加費値下げなどの対応を行い、出来るだけ参加しやすいように状況を整える。

 スタッフはそれぞれの人脈をフルに活用して参加を呼びかけ、県内外からの参加を募る。

 SNSでの呼びかけや、ホームページの告知など、やれる所はとりあえず手を付けた。

 やれるだけの事をやってみて、七月に入り、どれほどの効果があったのかと思えば、申込数は前回の六百を大きく下回る状態だった。

「やっぱり難しいねー」

「まあ、急には来ないとは思うんだけど……」

 七月三日。事務局では僕以外にはいつもの三人とベンツ先生に高田姉妹までもがテーブルを囲んで軽い会議を行っていた。内容は現状の確認とこれからの方針の決定。

「高田姉妹のところはどう?」

 便宜上、三条さんが司会役を勤めて進行していく。

「そうですわね……、正直なところ、あまり芳しくない反応ですわ……」

 申し訳なさそうに目を伏せる。

 そのまま妹へ視線を映すと、妹も同様の態度で、返答も同じようなものだった。

「うーん、ベンツ先生は?」

「はっきりしない返答が大半でしてねえ……。遠方の人は、そりゃあ遠征費に見合う売上がないとちょっと難しいってのもわかるんで、あまり強くは言えなくて……」

 ベンツ先生に言われて断れる人がいるものなんだろうかと思ったが、知り合いなら普通に接する事も出来るだろう。かく言う自分も、もはや慣れたもんで普通に会話出来るようになっている。

 ちなみにベンツ先生、やはり同人作家で、かつては男性向け創作ではかなり有名な人だったんだそうで、一時期はプロとしても活動していた事があるという。

 そういうレベルの人ですら難しいというのは余程の事なのだろう。

「ネットの方の反応も、芳しくないのよね……」

 いっちゃんなどの掲示板では、突然の〆切延長や参加費変更についてもネガティブな反応が目立つ。そろそろ終わるんじゃないか、というような意見と、それに対して賛同するような意見も多い。

 例の三文エロ小説は相変わらず精力的に書き込まれ続け、色んな意味で平常運転である。ざっくり読んでみると、三条さんが大きな失敗をしてしまってゼストを追い出され、失意の中でよくわからない集団に捕まってあれやこれや、といったような話だった。掲示板の話の流れから思い付いたのかもしれないが、妙にタイムリーで腹が立つ。

「最近は特に風当たりが強いというか、かなり攻撃的になっているように思います」

「ちょうどオリジン終わった辺りからね……」

「知ってるのかしら、わたくし達と彼らの話を……?」

 カップと皿を持ったまま、不安そうな目で高田姉がつぶやく。

「あいつ本人が言いふらす可能性も、なくはないんだよなあ」

「それならもっと露骨に条件について話が出て来てもおかしくないと思う。なんだか、その辺が気味悪い」

 本当にゼストが潰れて欲しい人達ばかりだとしたら、そして本当にあの時の会話が拡散されていたとしたら、今以上に大騒ぎになっているかもしれない。タイミングが合致しているだけに、今の中途半端さは三条さんがいう通り、ちょっと気持ち悪い。

「魚住さ……、魚住がそういう書き込みする指示出してるんじゃないの」

 何となく思い付きで言ってみた。どちらかというと、願望に近い。知っている人が犯人だという事にした方が、とりあえず気が楽になるし、目標が明示される事で、得体の知れない恐怖からは逃れられる。確たる証拠もない状態で言っているので、彼からしてみたら言いがかりにも程があるけど。

 しかし、そんな思い付きでしかない意見だったのだが、思ったより感触が良かった。

「あいつなら、直接手を下さないような、そういうやり方が似合うね」

「あのくだらない官能小説、もしかしたら彼の作かもしれませんわよ? 彼の性格なら、あれくらいの妄想していそうですわ」

 部屋中で笑いがおこる。

 さっきまで暗い雰囲気が支配していただけに、ちょっとでも笑いが起こると安心する。僕たちが終了ムードを漂わせてしまってはいけない。打開策を練ろうと集まったのだから、少しでも明るい雰囲気を保っていきたい。

「他人を悪く言ったり、それで笑ったりするのは、ダークサイドに墜ちてしまう事だから、この辺にしておきましょ」

「そうですわね。わたくし達までもが暗黒面に捕われてしまってはいけませんね」

 品格の高い人達だな。こんなのある事ない事言って騒いで遊べばいいんじゃないの。どうせ誰も聞いていないんだし、気分は晴れるし、悪い事じゃないじゃないか。

 というようなことを言ったら「それじゃあネットの書き込みしてる人達と何も変わらなくなっちゃうでしょ」と言われてはっとした。そういうものかもしれない。

「でも……もし、魚住の奴が指示を出していたりとかが本当だったら、その証拠が出せればちょっとは事態が動くような気はするよね」

「もし彼がやったと仮定しても、それは難しいよね、里奈ちゃん」

 スーパーハカーであるところの川口さんでも、こればかりは答えが出せないのか、ずっと黙ったまま俯いている。よく見たらちょっと口が動いていたけど三条さんすら聞き取れないレベルなので誰もわからなかった。

 結局この日は特にこれといった進展もなく、そのまま解散。

 それからもサークル数を増やすべく、電話やメールを送ったり、参加者の増える企画を考える会議を開いたりをしたものの、行動の量の割には申込数はそれほど増えることはなく、時間だけが過ぎていく。しだいにスタッフにも焦りが見え始めるが、目立った動きがないどころか、申込数は減少し続けた。

 七月も一週間が過ぎ、とうとう申し込みが一通も届かない日が出始めた。告知はもちろんやっているが、もうネットで拡散するのにも限界はある。今まで拡散に協力的だった人たちも、次第に飽きてきたのか、あまり協力してもらえなくなってきている。

 それでも毎日少しずつ呼びかけは続けた。電話やメールも少しでも関わりのある所、過去に一度でも参加してくれた所に連絡をつけた。リアクションは弱く、結果につながる事もほとんどなかった。


 とうとう、〆切まではあと六日となった。

 サークル参加申込数は四百。前回よりもさらに少ない。

 あと六百サークルが必要となるが、一日百サークルペースで申込がなければ間に合わない。

 最近、学校帰りにも事務局へ立ち寄る事が多く、毎日のようにいるのだが、行くたびに三条さんと僕が喧嘩をしている。

 今日も金曜日という事で事務局に立ち寄って様子を見つつ、編集の出来る部分の手伝いをしたり、企画案を話したりしに来たのだが、やっぱり喧嘩を始めてしまった。

「だからそんなのじゃ一回限りでどうしようもないって言ってるじゃない!」

「それでも来ないよりマシだろ!」

「これも! 今からじゃ準備の時間取れないから! ちょっと考えればわかるでしょ!」

「わかんないからとりあえず出してるってのは前にも言っただろ!」

 僕の出すアイデアに対してとにかく三条さんがダメ出しをしていく。それだけなら仕方がないと言えるんだが、いちいちトゲがある言い方というか、攻撃的な言い方をしてくる。他人に攻撃的な事を言う人間じゃないのはわかっているので、それだけ彼女も余裕がないのだろう。

 理屈ではそんな風にわかっていても、こちらとしてもわからないなりに一生懸命知恵を絞っているつもりなので、そんな言われ方をしたらカチンとくる。彼女と喧嘩なんかしたくもないが、売り言葉に買い言葉で口喧嘩が始まってしまう。

 川口さんはおろおろしてフォローをしてくれているものの、僕には聞こえないし三条さんも聞く耳を持たないので、結局おろおろしてるだけで終わってしまう。

 黒埼さんはずっと黙って聞いているが、終わりそうになった辺りでお茶を淹れてくる。大体、それで落ち着いたら送ってもらって帰宅するという流れだ。

 とにかく時間もないし、申込も増えないし、ネットの評判も変わらない。

 ネットについてはあまり見ない方がいいと言われているのに、一度見てしまうと気になって見続けてしまう。悪い事ばかり書かれているので精神衛生上良くない、というのもわかっているけど、つい見てしまって更に気分を害して空気を悪くしてしまう。色んな意味で悪いスパイラルが進行している気がする。

 今日も喧嘩が落ち着いて、というよりはお互いに言う事がなくなって沈黙し、黒埼さんがコーヒーを持って来た所で事務局の電話が鳴り響いた。

「はい、コミックゼスト事務局です。はい、……ええ。そうです。あともう少しです」

 今、三条さんが僕以外の人間に露骨に嫌な態度を示す人間は世界に一人しかいない。

「ええ、ですからまだ〆切まで数日ありますから……」

 おおかた、もう〆切間近で達成してないなら無理だから諦めろとかそんな内容なんだろう。見る見るうちに不機嫌そうな顔になっていく。

「ご心配ありがとうございます。ご期待に添えるよう努力致しますので、もうしばらくお待ち下さい! では失礼致します……」

 最終的には物凄い笑顔で電話を丁寧にお切りになられた。

 多分落ち着こうとして深呼吸しておられるのだと思うのだが、口から怪光線吐きそうな勢いで目が据わってる。

 怖い。

 こんなに怒ってるの初めて見た。

 今まで僕と喧嘩していた時なんて怒りというには程遠いレベルだった事がよくわかった。

 無言のままパソコンの画面を見つめているが、見ているのがよりによっていっちゃんのログだ。燃え盛っている自分に自ら油を注ぎに行こうとするのやめて欲しい。

 今この空間は物音一つ立てたら殺されるくらいの緊迫した空気が支配している。コーヒーを飲む喉の音も大きく響くんじゃないかとすら思えるほどの沈黙が続き、三条さんのマウスクリックの音だけが響き渡る。

 周辺を見渡すと、黒埼さんは案外普通にコーヒーを飲みながら機を待っている風で大分落ち着いているが、川口さんは物音を立てないように一生懸命帰り支度をしていた。ずるいぞ。

 地獄のような沈黙の時間がしばらく続き、どれくらいの時間が経ったのか麻痺しかけた時に、突然電話が鳴り響いた。

「はい、ゼスト事務局です。あ、はい。……涼ちん! あ、うん大丈夫! 元気!」

 沈黙を破った電話は、そのまま三条さんの怒りの空気も引き裂いた。ハイテンションな女子トーンで電話の涼ちんという人と楽しげに会話を繰り広げた。

 なんだか聞いたことのあるような名前だが……。

「え? ああ、それは……そうなんだけど、いや、その、ね……。うん、ごめんね。甘えちゃいけないかなって……」

 おい、また空気が不穏な方向に向かってるぞ。何話してるんだ涼ちん。

「うん、うん、ごめん。お願いします。ありがとう……ありがとう……」

 もはやどんな内容なのかさっぱりわからないが、とにかく涼ちんに感謝の言葉が繰り返される。表情は最初に比べれば随分優しい、いつもの笑顔に戻っているようだ。

「じゃあまた!」

 最終的には全力で明るいテンションで電話が切れた。

 よかった……。涼ちん、ありがとう。

「涼ちんからだった」

「うん、それは聞いていればわかった」

「めっちゃ怒られた……」

「ええええー?」

「ああ、涼ちんって前に言ってた新越出身の声優さんね。入広瀬涼ちゃん」

 思い出した。ベルトさんが持って来たDVDのナレーションの人だ。

「入広瀬さんが、どうかなさったんですか?」

「うん……どうして何も言ってくれないのって……」

 涼ちんこと入広瀬さんが電話して来たのは、人づてにゼストが相当やばいらしいという話を聞いたからだそうだ。慌てて電話して説明を聞いてみれば、よくもまあここまでこじれたなという程の絶望的な状況だ。そりゃあ驚くだろう。

 元々何かあれば何でも協力したいと申し出てくれていたのに、本当に絶望的な状況になってみれば誰も教えてくれないのでは腹も立つかもしれない。そこにどんな事情があったとしても。

 で、結局入広瀬さんが自身のラジオやSNSでの告知をここから全力で行っていくと宣言されたそうな。

「入広瀬さんがそんな事を……」

「嬉しいですね、ちょっと強力すぎる気もしますけど」

「涼ちんにまでそこまでされるなら、もうこっちもなりふり構ってられないね……」

「じゃあ、あれもやっちゃうか」

「土下座作戦!」

 声を合わせて言った作戦名が残念すぎる。

 これこそ最後の最後、どうしても万策尽きた時に、やるかどうか改めて考えようと言っていた作戦。

 ゼストが終わってしまう事、その条件などを全て晒して参加を募る作戦だ。今更やった所でどれほどの効果があるかはわからないが、多少でも話題性が上がればそれで良し。これも反感を買いやすい諸刃の剣として封印していたけど、もうそんな事を考えられる状況ですらない。

 公式サイトのトップの文章を差し替える準備だけは出来ていた。あとは川口さんが実際にデータを差し替えれば今すぐにでも実行可能だ。

「全部やっちゃえやっちゃえ!」

「おう、やけっぱちですな!」

「やれることやっとかないと後悔しそうだしね!」

「……!」

「あ、うん、とりあえずアップロードの準備してね!」

「おう、ガンガン行こうぜ!」

 なんだかよくわからないテンションで公式サイトのトップが変更されようとしている。更新は直ちにSNSで告知されるので、それなりに拡散はされるはずだ。

 反応がどうなるかはわからないが、入広瀬さんのラジオが直近だと今日の深夜二時に生放送で行われるそうなので、相乗効果は見込めるかもしれない。これで少しでも興味を持ってくれるなら、恥を晒した甲斐があるというものだが……。

「……もう、いいかな」

「え、ちょっと?」

 いきなり三条さんが落ち着いた表情でとんでもない事を言い出した。

「いや、なんかね、ゼストって、こんなに皆に愛されてるんだなって、急に思っちゃって。涼ちんや、スタッフの皆もそうだし。もちろん、鳥屋野くんの事もね」

「え、僕? いや、その……」

 急に名前を言われてドキッとしてしまった。僕自身は何も力になれていなくて歯がゆい思いしかしてないんだけどな……。

「オリジンの時、かっこよかったよ」

 いやっ急にそんな事言われましてもッ! 気の利いた返事が出来る訳もなく、口をパクパクさせる事しかできせんんよそんなもん! 不意を突かれ過ぎて泣きそうになったしね! 内緒だけど!

「……やれるだけのことはやったよね。これだけやって、それで駄目なら、父さんも、きっと許してくれるんじゃないかな」

 諦めたのとはちょっと違う感情のようで。強いて言うなら、一番近いのは悟りだろうか。

 僕には、親から引き継いだ数十年の歴史あるイベントを、どんな風に思い、考えながら運営してきたのかはわからない。

 ただ、彼女が遊び半分だとか、なんとなくだとか、そういった、中途半端な気持ちでやっていた訳が無い事だけはわかる。短い間だったけど、その本気の具合と、周囲のスタッフの熱意は、十分伝わってきた。

 それを失うかもしれないという局面に、これだけ落ち着いた表情が出来るものだろうか。

 今までどれほど壮絶な葛藤が彼女の中で渦巻いていただろうか。

 あれほど足掻いていた彼女が、決して諦めることのなかった彼女が、この境地に至るまで、どれほどの心の痛みを経験してきたのだろうか。

 僕には想像もつかない。

 僕にはその痛みを共有することも、癒やすことも出来なかった。

「……ごめん」

「え? いや、なんで鳥屋野くんが謝るの」

「なんか、結局、……力になれなくて、ごめん……」

「やめてよ、そんなことないから! 鳥屋野くんのおかげですっごい助かったって思ってる。て言うか、まだ終わってないから。最後の手段を使うってだけで、全部終わったわけじゃないから、ね」

「……」

「ああ、里奈ちゃんありがとう。あとはこれを押すだけね」

 川口さんのパソコンの画面にはアップロードを実行するかどうかのダイアログが出ていた。実行のボタンをクリックすれば、数秒後には公式サイトは告知文に変わる。

「ね、みんなでこれ押そうよ。みんなでマウス持って」

 狭くて四人密着した完全に僕だけが得する状態で、さらにマウスに手を重ねて僕得状態の二乗で構えた。こう、二の腕辺りに黒埼さんの隆起した胴体の一部が接触したりとかそういう不可抗力はないものかと思ったものの、そういう所だけ冷静な三条さんが、僕と黒埼さんは一番遠くになるように配置してくれていたのでそんな心配は無用だった。一人だけ無理な姿勢で腕を伸ばしているので早く終わってくれないと筋がおかしくなりそうだ。

 このボタンを押してしまえばやれることはほぼ終わる。残りの日数で申込数がどれほど増えるのか見守るくらいしか、もうやる事はないかもしれない。

「じゃあ、みんなで押そう」

 みんなでマウスを押さえる。カーソルは、実行のボタンの上に位置してある。

「せーので言うなら、この場合、アレだよね」

「アレって?」

「終わりの言葉。映画のアレ」

 僕以外の二人はそれだけでわかったらしく、急に笑い出した。一人だけ分からずにきょろきょろしてると、隣にいた三条さんがそっと耳打ちして教えてくれた。実にジョークの利いたかけ声じゃないか。

「じゃあ、せーの」

「バ●ス!」

 四人でマウスをクリックして、ファイルはアップロードを開始した。

 数秒の後、アップロードが完了すると同時にSNSでの告知も入る。

 公式サイトのトップには、これまでの経緯と今回の必要な数字、そして現状が細かく綴られた文章が掲載されているだろう。

 この告知で、少しでも興味を持つ人が出るだろうか。

 それとも、クリック時の言葉の通りに崩壊してしまうだろうか。

 まあ、今はそんな事よりも洒落の利きすぎた状況とよくわからないテンションで笑いの止まらなくなった四人がいつ平静を取り戻せるのかという事の方が優先かもしれない。

「あははははは!」

「なんだよコレ! 四人でバ●スとか!」

「意味わかんないし!」

「やろうっていったの三条さんじゃん!」

「ひーもうおなか痛い!」

「お、お茶を、お茶淹れ、アハハハ!」

 黒埼さんまでバカみたいに笑ってる。あんなに破顔した黒埼さんはさすがに初めてじゃないだろうか。皆目に涙を浮かべて笑い転げている。

 しばらく笑い続けたあと、最初に落ち着いた黒埼さんがお茶を淹れてきてSNSなどのネットの反応を確かめてみることにした。

 ゼストが終わるのかという驚きの意見や、訳知り顔で見当違いの解説をする人、終了を嘆く人、諦めずに呼びかけを行おうとする人。

 様々な人が様々な反応を示している。

 いっちゃんでもさすがに今回は一様に叩くような流れでは無く、これからどうするべきかを話し合おうとする人が現れている。

 少しでも、ゼストの存続について気にしてくれる人が増えればいいと思う。もし、申し込みが足りなくてこのまま消えてしまうとしても、その事を考える事自体は、決して無駄にはならないんじゃないかと思う。

「……!」

「え、どうしたの里奈ちゃん」

「……! ……!」

「え、画面? ……なにこれ」

「……なんだこりゃ……」

 川口さんが見つけたのは、いっちゃんにアップされている画像だった。

 誰かのパソコンのスクリーンショットだと思われるのだが、そこにはメールソフトといっちゃんの書き込みの画面が写っていた。

 複数のスクリーンショットが次々にアップされているようだが、内容はほぼ同じ。

 それは、いっちゃんでゼストを意図的に叩くように依頼するメールと、そしてあの三文エロ小説の書きかけのデータだった。

 メールの方には、現状のゼストがどういう状態かをリークしつつ、どういう方向で叩くべきかが記されている。頼まれた側の返信も、それなりにノリノリなようだが、謝礼に関する文面と、それに対する返答も見られる事から、金銭を支払った依頼である事がうかがえる。

 三文エロ小説に関しては、実際にいっちゃんのログを見ると全く同じ文章が残っている事から、これも本物だろう。画面に映っている他のウィンドウは、アダルトビデオのタイトルみたいな卑猥な言葉の綴られたファイル名がずらずら並んでいた。全部ファイル名の最後に「zip」って書かれている。

「これ、例の暴露ウィルスって奴?」

「画面が本物かどうかはまだわかんないけど、多分そうだと思う……」

「なんでピンポイントでこいつの画像が……?」

「わかんない! わかんないけど……、この流れは……」

 いっちゃんではこの画像が出回って、ゼストのスレが色々な意味で大紛糾している。今まで「善意の第三者」として、ゼストのためを思って書かれていたと言われていた叩き発言が、全て誰かに依頼された悪意の塊であった事が暴露されてしまったのだから当然だろう。

 画像に書かれていたメールアドレスなどからそれぞれ依頼主と受注者の特定が始まり、依頼主はあっという間に特定された。

 ゼストについて掲示板などで徹底的に叩く指示を出し、自分自身は三文エロ小説を書いてはアップしていた人物は、パイレーツの魚住その人であった。

「うそ……!」

 事務局あてに来ていた魚住のメールアドレスを確認してみると、確かにスクリーンショットの中に記載されているアドレスと同一のものなのは間違いない。仕事で使うアドレスでそんな事するとか、迂闊すぎるだろ魚住。

 魚住が三条さんを見る時の目線が心地よいものではなかった理由がよくわかった。あれは本当に性的な目で見ていたんだなあ……。

 SNSも、いっちゃんも、この話題でもちきりだ。

 ここぞとばかりにパイレーツのやり口を批判する人や、ゼストの擁護に回るもの、そして魚住からゼストへの参加を思いとどまるように言われていたと告白するものまで現れた。

 魚住のSNSアカウントとパイレーツの公式ブログは炎上し、その後の彼の発言は完全にしらを切ろうとしたものだったため火に油を注ぐ状態になってしまう。

 当然だがさっきまでアップされていた三文エロ小説は途中で止まり、いっちゃんの勢いは完全に反パイレーツの流れに変わってしまった。

 ゼストへの応援メッセージも大量に届き始めた。公式サイトの掲示板も、SNSアカウントもそんなメッセージであふれている。

「なくならないで」

「頑張って」

「これから申し込みます」

「ゼストのおかげで今の自分があります」

「地方でも頑張れるって証明してください」

「パイレーツに負けないで」

 次から次へとメッセージが舞い込み、読むのも追いつかない。

 中にはそれでも意地の悪い書き込みやメッセージを送ってくるものもいるが、ごく一部だ。大半は心配して、応援してくれるメッセージだ。

「なんか、凄いね」

「頑張った甲斐があったなあ」

「あの滅びの呪文が、あっちに効いてしまいましたね」

 そういう考え方もあるか。

 事務局のパソコンでそれぞれの画面を開いて同時に流して確認していたが、とにかく凄い勢いで流れていく。色々な想いがここに集まっているのがよくわかる。長く続けていられるという事がどういう事なのかというものの一端を見せてもらえた気がした。

 きっと、三条さんをはじめとしたスタッフの皆は、こういう事のために頑張っているんじゃないだろうか。

 普段言葉にされる事も、ましてやそれが自分たちに直接向けられることも、普段はほとんどないかもしれないけど、参加してくれる皆が思ってくれる、こういった事のために頑張っているんじゃないだろうか。

 三条さんが以前言っていた、イベントもまた創作物だという事の意味の一つは、こういう事かもしれない。人の心を動かすことが出来るものであれば、それは漫画や小説、映像などの媒体である必要すらない。そんな才能がなくたって、人の心を動かし、心に残るものを作ることは出来るのだ。

 延々とネットの流れを見ていたら、もう入広瀬さんのラジオが始まる時間が近づいていた。

「あー、ラジオつけなきゃラジオ」

「パソコンで聞けるからそっちでいいでしょ」

 パソコンでラジオのネットサービスの方を検索して、なんとか放送開始直前に開くことが出来た。パソコンでラジオを聞くのって初めてだけど、なんだか変な気分だな。

「よし、間に合った!」

 軽快なオープニング曲とともに、入広瀬さんと相方の女性のタイトルコールが入る。挨拶の後に軽いフリートークで近況を話し合い、リスナーからのメールを読もうかというタイミングで相方を止めて入広瀬さんが声のトーンを変えて話し出した。

「今日はね、リスナーの皆にちょっと聞いて欲しい事があるの。私の地元の新越で、昔からお世話になってるゼストってイベントがあるんだけど。同人誌の即売会なんだけどね」

 それから数分、自分のゼストの思い出を語り出し、相方さんは静かに相づちを打ちながら話を聞いてくれている。

 学生時代に初めて参加した時の事。

 コスプレに初挑戦した時の事。

 次第に増えていった友達の事。

 前代表の、三条さんのお父さんやスタッフとの事。

 現代表である、三条さんとの思い出。

 デビューしてからの繋がり。

「自分にとって、ゼストってすっごく大事な存在で、ここがなかったら、きっと今、こうして声優やってないし、ラジオもやってないと思う」

 入広瀬さんとの思い出の多い三条さんと黒埼さんは、ラジオから聞こえてくる話に、自分達の思い出を被せていくように話している。端で聞いているとオーディオコメンタリーのようだ。

「今、そのゼストがなくなろうとしているの。公式サイトの告知を読んだ人もいるかもしれないけど、現状はもっと酷い事になってる。ネットの一部で大騒ぎになってる暴露ウィルスの話題も、私が聞いている限りは本物だと思う。タイムリーすぎてびっくりしちゃったけど」

 ですよねー。

 さすがに僕たちも顔を合わせて苦笑した。

「大事なものって、だいたいがなくなってから気付くのよね。大事だったって事に。でもね、それじゃ遅いんだよね。もう帰ってくる事はないの。どんなに悔やんでも、遅いの」

 その言葉の重みに、全員が沈黙する。

 今、まさにその遅きに失することになりそうな状況の中で、彼女の言葉は重くのしかかる。

「ただ、今、まさに今、大事なものを失おうとしているその瞬間に立ち会っているの。ここで何もしなかったら本当にそのままなくしちゃうの。でも、まだ間に合う。今なら、まだ、手が届くの!」

 ゆっくりと、優しく問いかけるような話し方から、次第に強い語気と大きな声に変化していく。本人の気持ちも相まって最後には叫びにも近い声になってしまっていた。

 気持ちを落ち着かせるために相方さんに少し話しかけて、それから改めて話を再開した。

「今回のゼストで、参加サークル数が千を超えないと、ゼストはその段階で終了します。次はありません。どんなに後から要望しても、もうゼストは帰ってこない。そうなる前に、どうか、協力してほしいの。番組を私物化した、勝手なお願いなんだけど、行ける人は是非サークル参加して欲しいの」

 もう直球すぎるお願いだ。

「もちろん、今回は私もいきます。何かトークライブっぽい事やらせてもらおうと思います。多分聞いてると思うからお願いしておくね。そらちゃん! 適当にステージとかお願い! いいよね、マネージャーさん!」

 近年まれに見る無茶ぶりを見た。

 しばらく意味が分からずに呆然としていたが、よく考えれば仕事量が大幅に増加するわけで、黒埼さんが頭を抱え出した。ステージの手配、音響の手配、参加者の動線の確保、誘導、ライブの運営など、とにかく人出と機材の準備が大量に必要になるという。

「いえ、まあ……何かイベントの企画は用意するべきだとは思っていましたが、こうも急に大型のイベントが決まってしまうとは思っておりませんでしたので……」

「あ、ステージと音響は大丈夫だって」

 携帯電話を見ながら三条さんが言い出すが、何を根拠に言い出したのだろうか。

「大丈夫ってどういう事?」

「阿賀野先輩からメール来たの。ステージと音響了解したって。ラジオ聴いてたみたい」

 恰好良すぎるだろ阿賀野先輩。

 彼女が了解したというなら、それは多分問題ないのだろう。実際、過去にもあの会場でステージイベントをやった事もあるらしいし。

 事務局の喧噪をよそにラジオは続き、結局フリートークとふつおたコーナーを全部潰し、番組の半分をゼストの話題に費やしてくれるに至った。最後には入広瀬さんが再度番組の私物化を謝罪していたものの、ネット上で見る限りは好意的な反応が多いようだった。

「これでまた少しは申込増えてくれるといいね……」

「そうだねえ。ここまでくると千まで言って欲しいね」

「うん、さっきまでは足りなくてもいいかなって思ってたけど、これだけ話が大きく動くと欲が出ちゃうね」

 とにかく、結果が出るまでは数日かかる。

 しばらくは学校で大人しくしておこう。


 数日がすぎ、木曜日の昼休み。

 今週末には全ての結果が出る。明日の放課後には事務局に行って結果を聞こうかなと思っているが、それまでは結果を知りようがないので大人しく過ごすことにしている。

 今日もいつものようにスニーキングミッションを遂行し、屋上入口が誰もいなかったのでここを今日の安全地帯と認定して休息をとっていた。

 もうすぐ夏休みに入ろうかという時期の昼過ぎ、さすがに暑い。人気がないのも頷ける。

 そろそろ教室で寝てた方がマシになってくるかもしれない。場合によっては阿賀野先輩のいる放送部にお邪魔したら涼しいかもしれない……。

 などと考えていたらドタドタと足音が近づいてきた。

 神聖な昼休みに無粋な足音を立てるとは。ゆっくり休んでなさい。

 あろうことか足音はどんどんこちらに近づいてきて、明らかにここに繋がる階段を駆け上がってきていて、そして足音どころかその主が今目の前にやってきた。

「さ、三条さん……?」

「はぁ、はぁ、はぁ、やっと……見つけた……」

「ど、どうしたの、そんなに急いで」

「だって……はぁ、はぁ、いっつも昼……休み……はぁ、いないし」

 とりあえず会話するのも大変そうだったので、持っていた水筒の麦茶を一杯差し出して落ち着くまで待った。

 ……ナチュラルに、間接キッ……!

 見られないように軽くガッツポーズを、いや、それはともかく、息が落ち着くのを待った。

 夏の日の午後。

 ブラウスを来た三条さんが、汗だくになって、息を荒くして隣で座っている。

 例によってめっちゃ近い。

 周りに聞こえてくる音は蝉の音と三条さんの呼気だけ。

 肩で汗を拭く仕草、大きく口を開いて呼吸する仕草、そこから時折滴り落ちる汗。

 所作の全てが美しい。何も言えず、黙ってその姿を見続けていた。目を合わせられなくて、視線を下げて襟元付近ばかり見ていたけど。

「ごめんね、わたし汗っかきで」

 返答の代わりに麦茶をもう一杯渡す。

 それを一気に飲み干し、しばらくすると呼吸の勢いは落ち着き、間隔も長くなっていった。

「……ありがと。落ち着いた」

「う、うん。……どうしたの、そんなに急いで」

「そう! そうなの! 申込が! 電話がもう!」

「オーケーわかった落ち着いて素数を数えるんだ」

 普段は凄く理知的でわかりやすい喋りをするのに、興奮したり感情的になると途端に何言ってんのかわかんなくなるな。

「えっとね、えーっと、月曜から事務局の電話が鳴りっぱなしで、メールもどんどん届くの。今までこんな事なかったのに」

「それは全部、ゼストへの応援の?」

「そう! もちろん、申し込みたいっていう問い合わせも沢山! 申込方法がわかんないとか、申込用紙が欲しいとか、もう色々あって大変なの!」

 それはもう大変そうな、困ったような顔で畳み掛けるように言われてしまった。

 応援だけじゃなくて申込も来てるのか。しかも、恐らくは新規の参加者が沢山。

 ゼストはサークル参加のための申込方法が二種類あるという。

 一つは申込用紙やサークルカットを描いた紙を郵送する方法で、もう一つはオンラインで済ませる方法だ。

 オンラインでの申込の場合は、サークルカットもデータで送らなければならないため、用意ができない人は郵送による方法を選ぶ必要がある。郵送するなら申込書が必要で、そのためにはどこかでもらってくるか、公式サイトでデータをダウンロードしてプリントしなければならない。

 やり方がわからない人やプリンターがない人など、様々な問い合わせが来ているそうで、応対にも苦労しているらしい。

「今までゼストを知らなかった人が興味持ってくれてるから、出来るだけ対応したいんだけど、どうしたものかなって。カットの用意のために時間が欲しいって人も結構いるし」

 問い合わせが増える事で単純に万歳かと思ったら意外な所でつまづいてるもんだな。

「少しでも多い方がいいんだから、諦めてとは言えないもんねえ」

「そうなの! だから困ってるのよ! 本当はやったねって言う報告にしたかったのに!」

 まさに嬉しい悲鳴というやつだ。

 とにかく申込のハードルを下げなければならない。今から希望者に郵送していては間に合わないし、ネットや出力環境の違いはどうにもならない。県内なら主要なアニメショップや画材店などに申込書が置いてあるのだが、県外ともなるとフォローしきれないのが実情だ。

 誰でも使える、同じ環境のプリンター設備があれば……。

 ……。

 あるね。

「コンビニのネットプリントサービス使えばいいんじゃないか?」

「!」

 あれは確か、ネットでデータを登録して、そのデータの番号さえわかれば誰でも出力が可能だったはずだ。コンビニが近くにない人もいるかもしれないが、今まで提示した環境のどれもないという人はそうそういないだろう。

「やってみる! 摩耶ちゃんに電話しておくね! あと、〆切一週間延ばすから!」

「え、マジで?」

 申込の〆切を延ばせば、その分受付作業や編集作業の時間が圧迫される。一週間も延ばしてしまえば編集する時間がほとんど残らないような気がするのだが……。

「カタログ印刷してくれるサンシャイン印刷さんに電話して何とかしてもらえることになったから大丈夫!」

「そっか。じゃあ再来週が楽しみだねえ」

「うん! もし予定が空いてるなら、申込用紙の処理とか色々手伝って欲しいんだけど、いいかな」

「もちろん」

「じゃ、待ってるね!」

 そう言って元気に階段を駆け下りていく姿を見ながら、水筒に残った麦茶を飲み干して、どれくらいの間隔をあけたら間接キス扱いが無効になってしまうのかという事をずっと考えて昼休みが終わった。

 考えがまとまらないままその日の授業も終了した。


 土曜日の朝から、事務局では申込の処理と電話の応対に追われていた。

 あのラジオとウィルスの騒動から一週間で郵送は百、オンラインは二百の申込があったそうで、まだ千には足りていないとしても凄いペースで申込が届いている。

 ほとんど一日封筒を開けて申込書の処理をする作業に費やされ、翌日以降も学校帰りに事務局で封書を開ける作業が続く。先週よりも郵送の申し込みが多いのだが、コンビニのプリントサービスが使われるようになったからのようだ。

 締め切りの七月二十五日まで残り五日の段階で、申込数は八百を超えていた。

 このペースで届けば千を超えるのは時間の問題だろう。公式サイトとSNSでは毎日申込数のカウントをするようになり、たくさんの人が注目している。

 ほぼそのままのペースで申込数は増え続け、そしてとうとう二十五日の夜十二時、つまりオンライン申込〆切時間を迎えた。

 事務局にはいつもの三人に、阿賀野先輩、のっちさん、ベンツ先生が結果を見届ける為にやってきている。時間になった段階で黒埼さんは集計を始め、今日届いた郵送分と、オンライン申込数の合計を計算していた。

 黒埼さんのキーを叩く音だけが、室内に響く。

 全員がその作業している後ろ姿を黙って見守っている。今日ばかりは軽口を叩いている余裕がない。

 しばらくして、作業を終えたらしい黒埼さんが顔を上げ、深く息を吐いてから立ち上がって後ろを振り向いた。

 全員で息をのんで、結果の発表を待つ。

 軽く全員を見渡してから、ゆっくりと口を開いた。

「……現状で、合計千と八十二サークルの申し込みがありました」

「ばんざーい!」

「よかったねえ!」

「本当によかったああ!」

 大喝采。

 それぞれが万歳したり拍手をしたり雄叫びを上げてみたり。クラッカーやくす玉でも用意しておけばよかったかもしれない。いや、深夜の住宅街でそれはよろしくないか。今の雄叫びでもアウトかもしれないのに。

 もし届かなかったとしてもパイレーツがあの約束を履行できていたかは今となってはちょっとわからないが、それはさておき目標突破。

「鳥屋野くん、いろいろありがとう!」

「え、僕?」

「すっごい頑張ってくれたもんね」

「いや、そんな、何もしてないよ僕なんて……」

 謙遜でも何でもなく役に立ってないと思ってるんだけど。参加者集めにも全然貢献してないし、事務作業もどれほど役に立ったかわからないし。

「鳥屋野くんがいなかったら、あのオリジンの時に空気を変えられなかったんじゃないかな。あれは、本当に勇気がいるよ」

「いや、そんな……」

「うん! きっとそう! そらちゃん守ろうとした鳥屋野くん、めっちゃ緊張してて格好悪かったけど格好良かったよ!」

 のっちさん、褒めるのか貶すのかどっちかにしてください。僕もあんまり思い出したくないんです、あの事は。

「鳥屋野くん」

「は、はいっ」

「本当に、ありがとう」

 いやまあ、そんな風にまじめに目を見ながら言われてしまうと悪い気はしないというか、何かフラグでも立つの、とか思ったりも一瞬したけども。

「あとは編集でもよろしくね!」

 まあそんなところですよね。

 さすがに僕もそれくらいは学びましたよ。無駄に期待をしちゃいけないって。

 冗談はさておき、締め切りが一週間延びているとはいえ、サークルカットに関しては通常よりも倍以上の作業量が待っているわけで、ここからが本当の地獄だと言い出したのっちさんの言葉は、あながち冗談で済まされる話ではない。

「夏休みに入ったからね、毎日来られるからなんとかなるんじゃないかな」

「ありがとう! 宿題は一緒にやろうね!」

 宿題、やる暇あるんだろうか……。

「会場の配置とか図面とかは、これからやんの?」

「ああ、先輩。元々千サークルを想定しておおよその図面は引いてあるし、ライブステージの場所も確保してあります」

「そっか。机の確保も大変そうだしね。前から机のことも考えてはいるんだけど」

「その辺も複数の業者あたってなんとか集めます」

「んじゃ、私は音響とステージ周り、先にやっとくから」

「お願いします!」

 祝勝ムードもさめやらぬ中、一応やっとくかという事で魚住に電話をすることに。

「あ、電話なら僕とかベンツ先生がやった方が」

「いいの。わたしがやるから、意味があるの」

 そういって携帯電話を取り出した。

 また、携帯電話から流れてくるコール音が聞こえるほどの静寂が戻る。

 十回近いコールの後、ようやく音が止んだ。電話に出たのだろうが、以前と違って彼の声はまるで聞こえてこない。

「……あ、どうもお世話様です、三条です。ええ、ええ。おかげさまでー! じゃあまあ、そういう事ですんでよろしくお願いしますね! それでは!」

 通話を終了させ、皆の方へ向き直り、満面の笑みでVサイン。

 全員で拍手喝采。

 今すぐ彼に電話して「ねえ今どんな気持ち? どんな気持ち?」って聞いてやりたい。あいつの勝利を確信していた、あのいやらしく歪んだ笑顔が、今はどんな風に歪んでいるのか見てやりたい。

 もっとも、ここにいる人達はそれを望まないだろうけど。そういう人達だから、皆が集まってくれて、協力してくれるのだろうけど。だから、それでいいのだと思う。

 ともあれ、これで当面の問題は回避されたわけだ。

 今回同情して来てくれた参加者がどれくらいリピーターになってくれるのかという問題はあるものの、とにかくパイレーツがゼストに対して何かしてくる心配はほぼなくなった。

 魚住が個人で何かしてくるとか、そういう可能性はちょっとある……かな。

 一応、してきそうな事はあとで考えておくことにしよう。

「ここで祝勝会開きたいくらいの気分だけど、明日からは本格的に編集作業に入ります! 皆にもまた色々手伝ってもらいたいと思うんで、今日の所はこれにて解散!」


 翌日からは夏休みという事もあって朝から毎日のように通い、申込の処理からカットの処理などの手伝いを行った。

 そこからは黒埼さんがジャンル毎にサークルを配置して並べていくという作業が終わらないと次に進めないのだが、実はこのジャンル配置という作業が些か難物で、様々なジャンルを効率良く並べ、ジャンル毎の様々な問題を考慮して並べなければならないそうで、この作業だけで一週間近い時間を必要とした。

 ちなみに、「様々な問題」について詳細に語ろうとすると各ジャンルの歴史から問題の構造までで一冊の本が出来そうな内容だそうなので、また機会があれば教えてもらおうと思う。

 閑話休題。

 ジャンル分け作業が終わった後、滅多に疲れた様子を見せない黒埼さんが疲労困憊状態で這いずるように二階の仮眠室に上がっていき、まるまる一日下りてこなかったのだから、その作業の過酷さは想像を絶するものがある。

 ようやく始まったサークルカット貼りの作業だが、以前やったオリジンのカタログに比べて一ページに貼られるカット数が倍以上あって、ページ数もまた数倍という事で、貼っても貼っても終わらない。四割くらいがオンライン申込なので、その分のカットは貼り込まなくていいから楽なのかと思ったら、データの張り込みはもっと面倒だった。

 解像度の違いとかデータ形式の違いとか、ルールが規定されているはずなのにそれはもう様々な種類のデータが入り乱れる。あらゆる実例を今回の作業だけで網羅出来てしまい、おかげで覚えるのは早かったので、そういう意味では良かったと言えなくもない。

 八月に入り、出稿の〆切まであと一週間となった今でも毎日サークルカット貼りとデータ化の作業を続けていた。

「もう誰よっ! 〆切一週間延ばそうなんていった人ーっ!」

 鏡がなかったのでカメラを自画撮りモードにして彼女にスマホを向けてみた。

 後で麦茶と偽って麺つゆを飲まされた。

 たまにそんな微笑ましいやり取りがありつつも作業は続く。

 朝早く、出来るだけ気温が上がりきらないうちに家を出て、日中はエアコンの効いた室内で黙々と作業。そのまま深夜まで作業を続けて帰宅。毎日それの繰り返し。帰りはほとんど黒埼さんに送って頂いているので、そのうちバイクの免許でも取ろうかと思っている。

 学校に行かないので曜日の感覚が薄いが、締め切りまでの日数が一日ずつ減っていくことだけはわかる。残り三日の段階でようやくサークルカット貼りが終了し、スキャンとゴミ取りも終わりが見えてきた。それ以外の作業はほとんど事前に済ませてあるので、ここを乗り切ればかなり楽になる、らしい。

 終わっていない部分での最大の懸念が、表紙イラストを担当している三条さんだった。他の仕事や手続きが忙しすぎて〆切前日の夜まで作業がもつれ込んだのだ。

 通常はイラストが仕上がってきてから、それにあわせて川口さんが表紙デザインを行うのだが、それだと時間が足りないので、二人で話し合ってデザインを考えながら同時進行でイラストを進めていた。

 僕はすでにやれる事がないので、ただ二人の作業を見守っていた。

 オリジンの時にも見てはいたけども、こうして目の前で本物の京ヶ瀬ソラの絵がすらすらと生まれてくるのが不思議な気分。

 さらに二人で相談しながら同時にロゴや文字が配置されたり色がくるくる変えられたりしていくのも面白い。本人達は懸命にやってるんだろうけど、端から見る分には楽しそうだ。

 文字の大きさやフォントの変更、色の変更をしつつ、それらのバランスを見て絵の位置をちょっといじったりして、絵の中に綺麗に文字が入っていく。文字を含めて一枚の絵になるように、それでいて溶け込んでしまわないように仕上がっていくのは凄い。プロの人に対して凄いというのも当たり前すぎるが、感嘆しながらずっと見続けていた。

 レイアウトと配色が決まり、そこから色塗りを本格的に始めると、あとはずっと三条さんのターン。画面からまったく目を離さずにずっとタブレットペンを動かし続ける。

 下塗りとして水彩絵の具でさっと塗ってあったような部分が、どんどん細かい絵になっていき、光の加減や物の質感まで再現されていくのを目の当たりにしていると、本当に魔法のように思えてくるからすごい。

 ずっと後ろで見ていたかったが、いつのまにか寝てしまっていたらしい。

「鳥屋野くん……」

「ん……?」

 テーブルに伏して寝ていたのを三条さんに起こされ、黙って作業していた画面を指さしていた。

「どう……?」

「すげえ……!」

 画面の中には、見事なイラストが出来上がっていた。

 森の中に、真っ白いドレスを着た美しい女性が一人、大きな木に寄りかかるように座っている。周りを小動物に囲まれ、手のひらにのせた栗鼠と何か話しているようだ。

 木漏れ日に浮かんだその女性は、とても安らかな笑顔をしている。

 よく見ると木の後ろや絵の端に、傷ついた甲冑のようなものや、折れた剣が見える。彼女が着けていた物なのかどうかはわからないが、色々と想像させられる。人によって、その状況が色々違って見えるんじゃないだろうか。

 木々や甲冑などの重い質感と、神々しささえ感じる光の表現の対比が印象的だ。

「ちょっと、ありきたりな構図かもしれないけどね。さすがに時間がなかったし」

 自信なさそうに言うけどとんでもない話で。

 文字もきれいに絵にはまってるし、画集の表紙だと言われても納得しそうだ。こんな凄い物が表紙に使われるのか。

「いや、本当に凄いよ。感動した。僕がネロならこの絵の下で犬と一緒に死ねる」

「褒め言葉だと受け取っておくわ」

「本当に、お疲れ様!」

「よし、後は、編集後記と、冒頭あいさつと、最終チェックだけだね!」

 まだ仕事あった!

 残りの作業は一旦寝てから一気に終わらせよう、という事になって全員で仮眠室へ。女性陣はみんなで床に布団を敷いて、僕はロフトベッドで寝るという陣形。

 え、いいのこれ。

「許可なくベッドから降りてきたら、わかってるわよね……?」

 ですよね。

 部屋に入った時にはすでに四時。もうそろそろ明るくなってくるころだが、電気を消した途端全員で寝てしまった。女子と雑魚寝するとかもう二度とないんじゃないかというシチュエーションなのに、さっき一度寝てたというのに、それでもその空間を満喫する余裕もなくあっさり寝てしまうとか、もったいなさ過ぎる。

 さらに、寝たのが一瞬なら起こされるまでの時間も一瞬だ。夢も見ちゃいない。

 昼前に起き出してコンビニのパンで軽く食事を済ませてから、残りの作業に取りかかる。

 編集後記なんて言われても何を書いたら良いのか思いつかないので、無難にあいさつだけ書かせてもらった。他の人は、最近はまったものとか、ちょっとした日常の一コマを書いたりしていたようだった。

 全ての編集作業が終わった後の最終チェック時に文字の間違いなどはいくつか見つかったものの、大きな問題は特になく、夕方には全てのデータが出そろった。

 データは印刷所のサーバーにアップロードして、全てのページを出力した見本をまとめて発送して、カタログの出稿作業は、これをもって完全に終了した。

「終わっ……たぁー!」

「お疲れ様でした……ッ!」

「今度こそ、終わりだね!」

 あとは、ゼスト当日を待つのみ。

 一つだけ、確認しておきたい事があるが、それはまた後日。


 数日後の昼、一人で事務局に来てみると、川口さんだけが作業をしていた。

 もちろん知っていて来たのだけど。

「川口さん、お疲れ様です」

『どうしたの? そらちゃんなら東京だよ?』

「ええ、知ってます。ちょっと、聞きたいことがありまして」

 今日から三条さんと黒埼さんは、東京で行われるコミックユニオンに参加するために上京しているのだった。コミックユニオンは、全ての同人誌即売会の元祖ともいうべき存在で、全国から参加者が集まる超巨大イベントと化している。三日間で三万サークル、五十万人の参加者がいるというのだから、もう想像がつかない。

 毎回、二人はコミックゼストの広報活動のために参加しているのだそうだ。編集の終了後にその事を言われていたので、川口さんと話をするならこの三日間だと思って待っていた。

『なんでも聞いてくれて構いませんよ?』

 神妙な雰囲気で話しかけたせいで、ちょっと不思議そうな顔をしながらも、やさしくメールで答えてくれた。

「えー、その。証拠とか全くないんで、違ったら、殴ってくれてもかまわないんですが」

『そんな事しないよー』

 彼女の顔よりケータイのメール画面を見ながら話をしてしまう。実質それで間違ってはいないのだけど、ちょっと本人の顔を見ながら話せる自信がなかった。

「魚住のウィルスの件、あれって、川口さんが何かしてくれたんじゃないんですか?」

「……」

 しばらくメールを打つ手が止まった。

 返答が来るまで、長い間があった。

『証拠は残してないよ』

「……!」

 思わず息をのんで、顔を見た。そこにはいつもどおりの優しい笑顔の川口さんがいるだけだった。

「あなたがスーパーハカーなのはわかりました。でも、そんな、自分で手を汚すような……」

『あれは、絶対に必要だったのは、わかってくれると思う。私は私なりに、そらちゃんを助けたかった。そして、魚住が許せなかった』

 しばらく黙って見つめ合うことしか出来なかった。

 もし、自分が同じ事を出来る力があったとしたら、どうしただろうか。

 どうしたもこうしたもないな。まったく迷う余地なく実行したね。間違いない。あの時、あの画面を見たとき、もしこれを意図的にやってくれた人がいたのだとしたら、心の底から感謝しなければと思ったものだった。

 ただ、実際にやった人を目の当たりにしてしまうと、本当にやらせてしまって良かったのかという疑念を抱いてしまう。

『事実を公表しても構いません。私は、そらちゃんを守れた。後悔はしていません』

 多分、同じシチュエーションで川口さんに問い詰められたとしたら、きっと全く同じ返事をしたと思う。三条さんを、ゼストを守りたい。行為の是非はさておき、だ。

「じゃあ共犯者という事で」

「……?」

 驚いた顔をして、メールを打つのも忘れて口に出して答えてくれていた。もちろん聞こえないが、口唇を見る限りは「なんで?」と言ったところだろうか。

「ばれたら、僕がやらせましたって事にしましょう。実際、そんな流れありましたし」

『そんな事、言うわけないじゃないですか!』

「そうですね。僕も言わないです。多分僕も同じ事したと思うんですよね絶対。だから、このまま二人だけの秘密にしておきましょう」

 三条さんにも、黒埼さんにも言ってはいけない。言ってしまったら、どれほど罪の意識を持ってしまうかわからない。

 この件は、このまま迷宮入りして頂こう。

「今日来たのは、その確認がしたかったんです。今日じゃないと川口さんと自然に二人で話し出来るタイミング、なかったですから」

『ありがとう』

「じゃあ、帰りますね。他のスタッフに見つかって変な噂されたら恥ずかしいですしね」

 そういって、足早に事務局を出た。普段帰るときはほとんど黒埼さんに送って頂いていたもんで、自力で帰ろうとすると思ったより時間がかかる。

 とにかく、確認したい事は確認出来た。

 今度こそ本当に、ゼスト当日を待とう。


 八月二十二日。

 コミックゼスト当日。朝五時。

 産業振興センターは、ゼストの準備のために早朝から開いていた。

 会場内にはすでにトラックが入っていて、備品や委託同人誌、それからぎりぎりで間に合ったカタログが下ろされていた。

 机の設置のためのガイドとして会場の何カ所かに大きなメジャーがまっすぐ敷かれている。チェックの入った場所に机の脚を置くと、ちょうど計算通りの間隔に配置されるようになっていた。

 更衣室用の壁の設置や、委託販売会場用の机など、次々に設営が始まり、真っ白で広かった会場に、徐々に物が置かれ、様々な色がつき始めている。

 作業の指示はのっちさんが努めていて、二つのホールを行き来しながら適切に指示を出している。机の数もそうだが、トークライブなどの特殊なイベントもあるため、いつもとちょっと勝手が違う。それらも全て含めて指示を出せるのはさすがだ。

 何事もない、普段通りの設営の風景。

 の、はずだった。


「え、どういうことですか?」

 不穏な言葉がエントランスに響いたのは朝の六時になる少し前。

「いや、そんな連絡していませんし、今更ないと言われましても……」

 黒埼さんが立て続けにそんな内容の通話ばかりしだして、周囲のスタッフにどよめきが走る。

 何が起こった?

 ないって、何が足りないんだ?

 黒埼さんの顔色が真っ青だ。三条さんが駆け寄って、何があったのか確認していたが、今度は聞いた三条さんまでもが顔を真っ青にして絶句している。

「どうしたんですか、二人で顔真っ青ですよ」

「と、鳥屋野くん……どうしよ……」

 三条さんが助けを求めてくるとか本気で非常事態だ。

 慌てると要領を得ない話し方をしてしまう彼女を何とか落ち着かせ、話を聞いてみると、なるほど確かに非常事態だ。これはちょっと洒落にならない。

 結論から言おう。

 机が、ない。

 借りる契約をしていた複数のレンタル会社が、全て誰かの連絡で直前になってキャンセルの扱いを受け、他のイベントに全て貸し出してしまっていたという。もちろんスタッフ内でそんな事をする人がいるわけがない。

 イベントの日程と、利用する業者に詳しく、相手を信じさせられるだけの力を持った人など、我々には一人しか思い浮かぶ者はいない。

「魚住め……」

 そこまでするのか。いや……証拠ないけど。

 すぐに様々な業者に電話をしてみたものの、さすがにこの時間では営業時間外か、やっていたとしても間に合わないか、数が足りない。夏休みという事でイベントの開催数も多く、どこも断られてしまった。

 三条さんと黒埼さんが二人で膝から崩れ落ちた事で周りのスタッフが驚いて駆け寄ってきた。事情がわからないまま二人の健康を気遣うのだが、さすがに今はまだ言える事ではないので、大丈夫だと言って立ち上がる。もっとも、顔色は悪いままだからバレるのも時間の問題か。。

 会場にある机の数はそこまで余裕がなく、委託コーナーなどで使ってしまうため、全部出してもサークル用には百がいいところ。まるで足りない。

 このままではサークルスペースの用意が出来ない。用意が出来なければ開催出来ない。ここまでの注目を浴びたイベントが、そんな事で開催が出来なくなってしまっては、ここまで頑張ってきた事が全て水の泡になってしまう。

「ここまで来たのに……」

「あ、三条さん、実はですね……」

 実はですね、それについてはちょっとありましてね。……と言おうと声をかけたところで、たまたま近くを通りがかった阿賀野先輩が三条さんに声をかける。

「ん? どしたの」

「せ、先輩……!」

 意を決して声をかけたのに通りがかった阿賀野先輩の方に反応して、絞り出すような声で机が来なくなった事を伝えた。僕より阿賀野先輩の方が頼りになりそうだという彼女の判断は、まあ、おおむね正しい。僕の言おうとした事も、結局は阿賀野先輩の関わる事だ。

「まいったな……」

「もう、どうしたらいいのか……。せっかく皆ががんばってくれたのに……」

「まさか鳥屋野くんの言ったとおりになるとはねえ……」

「え?」

 困った顔で言い放った阿賀野先輩の言葉に、虚を突かれたような顔をして、僕と阿賀野先輩の顔を交互に見つめる。

「サークル数が千いったあたりでさ、鳥屋野くんから電話が来たのよ。机欲しいと思いませんかって」

 三条さんと黒埼さんの二人で、僕たちが何を言い出しているのか全く理解出来ないというような、狐につままれたような顔をして話を聞いていた。

「前から専用の机があったら、レンタル代とか諸々が安く済むかなって話してたじゃない。そこに来て鳥屋野くんにまで言われたからさ、作ってみたのよ」

「つ、作った……?」

「うん。時間なかったから五百も作れなかったけど」

「そんな、突発本作ったみたいな……」

 魚住がこの先妨害してくるとするなら、どんな手段を講じてくるだろうかというのを、あれからずっと考えていた。会場施設側、または役所に話しかけてこの振興センターを使えないようにするとか、嘘情報をスタッフに伝えて来ないようにしたりとか。

 色々と考えてみた結果、効果がありそうで、かつ実行できそうだったのが、「机を搬入させない事」だった。

 彼自身もイベントの主催をする立場らしいので、机のレンタル会社とも顔が利くだろうし、立場上話を通しやすい。自分の立場からでなくても、ゼスト関係者を騙る事もたやすいだろうから、予約のキャンセルや別イベントへの変更なども出来るのではないかと思ったのだ。まさか本当に実行するとは思わなかったが。

 そして、その対抗策として、唯一対抗できそうだと思ったのが阿賀野先輩。机のことも以前気にしているような事を言っていたので相談してみたのだ。聞いて見ると、やはりいつか机を持つべきだろうと思っていたというので、この機会に用意してみる事になった。

 数が数だけにホームセンターで買うようなわけにもいかず、まとめてオーダーして作成してもらったそうだ。

 それにしても、ここまでで何が大変だったかというと、もちろん阿賀野先輩の携帯に電話をかける事だ。携帯電話の連絡先の、阿賀野先輩の項目をタップするまでに軽く一時間は悩んだ。掛けたはいいが留守電になっていて、自分でもよくわからない事を口走って慌てて切って、返信の電話でさらに動転してしまって、よくあれで話が通じたものだと我ながら思った。

「それ……使われなかったらどうする気だったんですか、先輩……?」

「えー、その次のゼストに使えばいいんじゃないの。トラックごと買ってあるから、とりあえずウチの実家にでも置いておけばいいし」

 え、トラックも買ったの?

 確かに、作った机を運ぶ手段まで考えてなかったので、正解なのだろう。なのだろうけど、頼んだ僕までびっくりしたわ。確かに「欲しいといった量の十倍は持ってくる」という三条さんの言葉は正しかったね。

「なんで皆で鳩時計に額つつかれたような顔してるのよ」

「それを言うなら鳩が豆鉄砲を食ったような顔ですね……」

 鳩しか合ってねえ。

 しばらく全員で呆然として、周囲のスタッフも何があったのかいまいちわからずに近づけないでいたのだが、突然三条さんがこっちを向いて声を上げた。

「鳥屋野くん!」

「ハイィ!」

 あ、これ怖い奴だ……。

「なんでそんな大事なこと教えてくれなかったの!」

「いや、だって、本当に憶測だったから、変に不安がらせるのも良くないかなって……」

「あんな絶望味わうくらいならちょっと不安だった方がマシだわ!」

 人前ではそうそう出さないレベルの怒鳴り声を上げられてしまった。声もそうだが、顔を真っ赤にして怒る姿も、他のスタッフは見たことがなかったらしく、そっちでみんなが驚いてしまっている。

「ご、ごめん……」

「と、とにかく! もうしょうがないから使わせて頂きます! 机はすぐ届くんですか?」

「うん、さっき電話したから二十分くらいで届くよ」

「のっち! ごめんね、そういう事だからよろしく!」

「おっけー調整する!」

「はい、みんなも机以外で動けるところお願いしますね!」

 あっという間に平静を取り戻して全員に指示を出し直した。机が遅れる分はステージなどの他の作業に人員を回しておけば無駄はないし、あとはのっちさんが調整してくれれば万全だ。

 予定通りに二十分後に机のトラックがやってきた。十トン車二台という編成で、一度に大量の机を運んできた。当たり前だがトラックも机も新品でピカピカだ。

 黒埼さんのお父さんのフォークリフトが器用に机重戦車を各所に配置し、それをスタッフが一斉に並べていく。数が多く、時間も足りないが、何とか皆で机を並べ、椅子の配置とチラシ配りへ移ることが出来た。あそこからよく時間通りに設営出来たものだなあ。

「はい、もうすぐ九時だからサークルさん開けちゃうよ! 一般と事前更衣室も急いでね!」

 会場内にのっちさんの指示が響き渡る。

 そういや、前回はこの辺りで仕事を手伝うようになったんだった。この後で一般参加者の列整理を頼まれて、しばらくして開場したんだったなあ。

 今回も列の整理を頼まれて、十時過ぎまでベルトさんと一緒にエントランスの中へ誘導し、整列を行った。今回はこの時間の段階で参加者数が倍近くなっていて、エントランスに入りきらないほどになっていた。

 想像以上に盛況だ。

 前回と違って、一般参加者がエントランスホール内に入れられなくなった段階で整理の仕事は終わり、ベルトさんは伸び続ける屋外の列整理に回った。

「僕も行った方がいいですよね?」

「鳥屋野くんはここが終わったら三条殿の所へ! そう言われているのですぞ!」

「え、三条さんの?」

「然り! ヒーローたるもの、出来るだけ守るべきもののそばにいるべきですぞ!」

 ベルトさんは恥ずかしげもなくそう言ってのけると、いつもの笑顔とサムズアップで送ってくれた。やめてください。周囲の視線だけでもうヒットポイントがゼロになりそうです。

 逃げるように本部受付に向かうと、すでに準備の完了している三条さんが待っていた。

「もうすぐ挨拶の時間だから、そばにいて欲しかったんだ」

「喋れって事ならさすがにお断りするぞ」

「ううん。いてくれればいいから」

 まあ、そういう事なら。

 しばらくして、阿賀野先輩からマイクを渡されて、挨拶をはじめた。

「みなさん、おはようございます! どんな夏休みを過ごされましたか? わたし達は、まあそれはもうさんざんな夏でした!」

 会場中から笑い声と拍手が巻き起こる。あの事情を知ってから参加してくれた人が大半なのだから、話は早い。

「色々と、本当に色々あって、一時は開催を諦めかけもしましたが、こうして開催できることになったのは、今、この会場で準備をしていらっしゃるサークル参加の方と、そして外で並んでくださっている一般参加者の方のおかげです。皆さんが来てくれるから、わたし達はこうやって運営する事が出来ます。本当に、ありがとうございます」

 頭を下げると、また拍手が起こる。

「話したい事、いっぱいあるんですよ! ほとんど言えないけど! 昨日からずっと、今日のこの挨拶で何を言おうかって考えてて、ぐるぐる回って、ほんとに、言葉が、うか……浮かばな……」

 だから、冷静にならないと言葉がうまく出ないのわかってるんだから……。

 差し出したハンカチで目を軽く押さえて、少し落ち着くまで待つ。会場も一気に静かになって、彼女の言葉を待つ。

 開場時間の十時半までもうほとんど時間がない。

 俯いていた三条さんが、ハンカチを外して顔を上げて、マイクを改めて構えた。

「たくさんの感謝の言葉の代わりに、わたし達は、このイベントを開催していきます! これからも、ずっと! 何があっても!」

 会場中から盛大な拍手が巻き起こる。

 三条さんはもう流れる涙をぬぐうこともなく、しかし晴れやかな笑顔をしていた。

 もう一度マイクを構え直し、声高らかに、開催の宣言を行った。

「コミックゼスト、スタートです!」

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