第3話 旅という名の即売会

 クラスでも人気の可愛い女の子と、端っこで寝てるような孤立派の男が日曜日にデートした。

 事情を知らないとそんな経緯に見える今回の出来事。

 もちろん実情は全然違うのだが。

 翌日、ちょっとした祭りになったりしたらイヤだなあと思ったが、僕も三条さんも特に何事もなく日常が帰ってきたのだった。一部の男子からこっそり聞かれた程度で、あとはそもそも何かがあるとは思われてないようで。ある意味正解ですけども。

 学校での変化といえば阿賀野先輩がこの学校の生徒だという事を知った事くらいだろうか。

 いつものようにスニーキングミッションをこなしていたところに廊下でばったり出会い、お互いに改めて自己紹介をしたりとかしたのだ。芸能人でも何とか先輩って人がいたので、先輩まで含めてあだ名なのだとばかり思っていたが、普通に本名だった。

 彼女は放送部に所属していて、毎日学校でアナウンスをしたりしていた。なんとなく聞き覚えのある声だと思ったのはそれが原因だったらしい。ついでに放送部に誘われたものの、丁重にお断りさせて頂いた。

 そしてなんとケータイの連絡先も交換した。女子の連絡先を立て続けに入力出来るとか、ずいぶんな変化じゃないか。

 そして変化と言えば、一番は、やはり毎週末事務局に通っている事だろうか。

 もちろん、三条さんの部屋で二人きりの甘い時間を過ごすわけもなく。

 何故かほぼ必ずいる黒埼さんや川口さんたちと一緒にお仕事なのである。

 自宅から電車とバスを乗り継いで四十分ほどかかるが、目的地が目的地だけに特に辛いと感じることはない。帰りが遅い場合は黒埼さんが家まで送ってくれることもあるので安心だ。

 三条さんの家ではゼストの後の処理が色々行われていたり、次のイベントの準備が行われていたりと、終わったばかりなのにずっと忙しいのだった。

 今日は委託販売会場での売れ残った在庫を返送する作業を行った。

 丸一日段ボールと格闘し、ほとんど売れてしまってスカスカになった箱の隙間を埋めたり、逆にほとんど動きがなくて送られてきた時と変わらない姿で梱包し直したり。

 なんとなくネットで調べた同人誌の世界は景気の良い話ばかりだったので、ちょっと意外だった。

 夕方には終了し、隣の部屋に戻った。この委託荷物の積まれていた部屋は倉庫のような使い方をされていて、普段は隣の編集室で作業をしている。

 そもそもこの家、三条さんの自宅かと思ったら全然違った。三条さんの自宅の裏に建てられた離れなのである。離れと言っても二階建てで電気ガス水道完備なのだから立派な一軒家だ。一階の部屋は今説明した通りの使い方で、二階はいざというときの仮眠室として使っているらしい。

 ちなみに、この建物をスタッフの皆は事務局と言っている。

 そういえば委託の同人誌の入った段ボールに貼ってあった荷札にはゼスト事務局宛と書いてあったな。

「委託の返送は予定通りに終わりましたので、この後はオリジンの準備に入りますね」

「あ、お願いします! 編集の方も来月の頭には終わる予定だから」

 休憩がてら、これからの予定を確認している。こういう所は凄く、なんというかオフィスっぽい感じがして格好良い。

 ちなみにオリジンというのは、創作ジャンルオンリーの同人誌即売会だそうだ。今月の二十七日に開催される。本家は東京で行われている「コミックオリジン」という即売会なのだそうだが、同様に創作ジャンルオンリーイベントが全国でその名前を借りて開かれている。ここではゼストが運営する「ゼストオリジン」を指している。

 創作というのは二次創作をともなわない、作者オリジナルの作品全般を指すそうだ。漫画だけでなく小説や評論といった、パロディ作品じゃなければだいたいなんでもここに分類されるっぽい。

「まあ、東京でやるオリジンはもの凄い大規模だけど、ウチのオリジンは百スペースくらいの小さなイベントよ」

「まだ大きさの基準がよくわからんけど、ゼストの六分の一と思えば十分小さいのか」

「会場も振興センターじゃなくてピアメッセの会議室だよ」

 ピアメッセというのは振興センターよりも新しく出来たイベントホールで、振興センターとは駅を基点とすると反対方向にある。

 ほぼ海の入り口に近い川沿いに建っていて、景色も良いし駅からそれなりに近くて歩いていけるので、こっちでイベントやった方がいいんじゃないかとは常々思っていた。

「今回使うのはイベントホールじゃなくて会議室だから狭いんだけどね。ホールは高すぎて使えないの」

 振興センターとピアメッセでは使用料の差がかなり大きいらしい。

 実際あれだけの大きな会場を借りて、机を借りたり沢山の人の手を借りたりと、金額の想像はつかないが、振興センターだったとしてもお金は相当かかるだろう。

 前に比べて参加者数が減ってるって話を以前ちょっとしていた気がするから、お金がないっていうのは思ったよりも深刻な話なのかもしれない。

「とりあえず、今日はもう終わってもらって、来週からオリジンのカタログの編集も手伝ってもらうから、よろしく!」

「あ、うん、がんばるよ」

 なし崩し的に手伝う事になってはいるが、多少なりとも頼りにされるのは僕も嬉しい。


「おはようございます」

 次の土曜日、少し早めに着いたが、川口さんはすでに定位置に座っていた。

「……!」

 ああ、通訳の三条さんが居ないと全然聞こえないんだな。パソコン関連の機械がうなりを揚げているのでこの部屋は案外静かじゃない。本来は日常会話に支障をきたすレベルではないはずなんだが、彼女は特別だ。

「……。……!」

 川口さんは自分のスマホを取り出して指差している。電話を介しても音量は上がらないだろ。

「どうかしましたか?」

 よく見るとこちらに向けている画面は、川口さんの名前と電話番号、メールアドレスが書かれた画面だった。

 あ、登録しろって事ですね。

「登録しました! メール送りますね」

 送って五秒で返信。

『おはようございます! よろしくお願いします!』

「あ、よろしくおねがいします。仕事内容全然わかってないですけど」

 なんか嬉しそうにスマホいじってるんだけど見た事ない速度で指を動かしてる。

 そして即座に返信メールが届く。

『大丈夫ですよ。そんなに難しい事をいきなりやらせたりしませんからね!』

「やっぱり川口さんは優しいですね」

『そんな事ないですよー』

 オフィス機器に囲まれた中に、ぽつんと小さなフリフリ満載のスカートドレスが鎮座する。

 まるで可愛らしい人形のような小さな女性が発する言葉はその見た目通り可愛らしかった。

 まあ、メールだけど。

「あ、おはようございます。早いですね」

「ああ、黒埼さんおはようございます。暇だったんで、早めに来てみました」

「ありがとうございます。本当に助かります」

『無理はしなくていいですよ?』

 会話の中にナチュラルにケータイのメールが入るというのも大変新鮮だな。

「そらちゃんはまだ起きて来ていませんね?」

「……」

「ああ、やっぱりそうですか。じゃあ、鳥屋野さんにはサークルカットを貼ってもらいましょう」

「あ、はい」

「サークルカットというのは、参加サークルさんが自分のスペースの陳列内容をアピールするためのカットです。ひとつのサークルさんに規定のサイズが割り当てられています」

 そういって黒埼さんは未記入の参加申込書を取り出し、そこに描かれた枠を示す。一辺が五センチもないような小さな枠だった。

「ここに直接描いたりして、切り取って送ってくるんです」

「こんな小さい中に絵を描くとかよく出来ますね!」

「やってみると案外出来るもんですよ。今回はゼストじゃなくてオリジンのカットだからもっと大きいんですけどね」

 そして実際に描かれたサークルカットを川口さんが出してくれた。

 クリップでまとめられた小さな紙片の束には、それぞれ綺麗な絵が沢山描かれていた。

 それぞれが独自の世界観で描かれていて、これを見ているだけでも楽しい。

 可愛らしい女の子の絵もあれば、渋いおっさんの絵やよくわからないキャラクターの絵など、実に様々だ。こんな凄いの糊で貼っちゃうのか。

「こちらの台紙に書いてある数字と、カットの裏に書いてある数字を合わせて貼ります」

 用意されたのは枠の描かれた紙と、さっきの紙の束と、スプレー糊の缶。

 部屋の隅に置いてあった段ボール製のスプレーブースにカットを置いて吹き付けて、ピンセットで剥がして台紙に貼り付ける。

 これを繰り返して、台紙をサークルカットで埋めていく。

「うん、そんな感じで大丈夫です。くれぐれも数字を間違えないでくださいね」

「わかりました!」

 慣れてくれば、確かにそれほど難しい作業ではないかもしれない。

 しばらくは黙々とサークルカットを貼り付ける作業を続けた。

 しかしこの三人だとほとんど会話が発生しない。

 川口さんも黒埼さんもずっとパソコンのモニタに向かったまま作業を続けているし、その後ろにいる僕は話しかけるようなネタがない。

 何かこう、会話を振った方がいいんだろうか。

 この沈黙がなんだか怖い。

 ああ、こんな時に頼りになる明るい女の子はいずこへ……。

「おあよー……」

 来た。

 部屋のドアを開けて来たのは我らが三条さんだ。

 眠そうに目をこすりながら、ちょっとあくびもしながら、見るからにわかりやすく寝ぼけておられるようだ。

「おはようございます。今朝は遅かったですね」

「うーん、録画消化してたら朝になっちゃってぇ……。昼過ぎまで上で寝てていーぃ?」

「えー、まあ、鳥屋野さんが良いとおっしゃるなら……」

「え?」

 本当に寝ぼけておられるようで、僕がいる事に気付いたのはこのタイミングだったらしい。

 うん、そうだろうな。いくら慣れて来たからといって、ピンクのパジャマ姿をそんな気軽に披露してくれるはずはないよな。

 僕と目があった瞬間、声にならない悲鳴のようなものを上げながら外に出てドアを閉めた。寝起きとも思えない実に素早い動きだ。

「お、おはよう鳥屋野くん! 早かったね! とりあえず着がっ……着替えてくる」

 ドア越しにそういうと、そのままバタバタと走る音やどこかにぶつかる音などがして、やがて静寂が訪れた。

 思わず深いため息をついてしまう。

 可愛かったな……。

 パジャマがちょっと大きめでだるくなっている所とか、髪がまだ綺麗になっていない所とか、いろんな意味で無防備な姿は、普段のしっかりした状態からのギャップが大きい。

「ただいまっ!」

 しばらく脳内に焼き付けるべく目を閉じていたりしたらあっという間に帰ってきた。

 もちろんちゃんと着替えて。

 そして幾分何割か増しで元気に。

「さぁ鳥屋野くんには頑張ってもらわないとね!」

「え、ああ、がんばる……よ?」

「うん! 頑張ってくれたまえ!」

 だいぶキャラも変わってきてる。

 すごく元気に話しかけてくれるけど、微妙に目を合わせてくれない。

 あんまり気にしすぎると逆に良くないかもしれないと思ったので、あえて突っ込まずに黙々と作業をする事にした。

 それにしても三条さんがいると二人の間に入って会話が発生するので一気に空気が和む。

 川口さんの声も聞き取ってくれるから会話がスムーズだし。

 今日は朝まで見ていたアニメの演出や声優の話で盛り上がっているようだ。

 僕もここに来るようになってからアニメを録画して見るようになったが、まだまだ彼女らの会話に入り込めるほどの知識はない。

「だからさー、あの人の脚本だったら次の展開は彼が死ぬしかないわけよ!」

「まあ、あの方は大体いつもそのパターンですけど……」

「……!」

「いや、里奈ちゃんの言う通りフラグは全然立ってないかもだけどね」

「しかしここで彼がいなくなると前回の伏線が……」

 うーん、わからん。

「皆さんって、そういう知識とか情報とか、どうやって集めるんです?」

「えー、なんだろ」

「主に雑誌やネットでしょうねえ。ずっと長く見て来た蓄積なのですけど」

「そうだね、集めるっていうか、気がついたら覚えてた」

「野球やサッカーを好きな人が、膨大な選手情報を覚えるのと同じですよ」

「集めるって感覚はないんだよね。まあ、集まっちゃうけど」

 その蓄積が物凄いんだなあ。

 オタクの中にもコレクター気質の人とそうでない人では部屋の物量が結構違うという。特に黒埼さんや川口さんはあまりものを集めないタイプだそうで、逆にコレクターとしてスタッフ内で一番凄いのはベルトさんだそうだ。玩具で一部屋埋まってるとか……。

「まあ、話を戻すけど、鳥屋野くんが今後アニメとか観て、気に入ったものがあるとするでしょ」

「実際、最近は観るようになってるんだけど」

「気に入ったら、そのアニメを誰が作ってるのか気になるでしょ」

「そ、そういうもんなの」

 ちょっと考えれば当たり前の話なのだけど、この感覚が抜け落ちていた。

 そりゃあ、そうだよな。いるよな。

 映画やドラマなら監督は誰だとか主役は誰だとか、多少なりとも作ってる人の話になるのに、漫画やアニメでそういう話になった記憶がない。あったとしても、海外で賞を取ったり毎回の映画の興行成績が話題になる大物くらいのものだ。

「これから意識してみるよ」

 自分に言えるのは今はこれが精一杯。

 意識をしたこともない状態から考えれば恐らくは大きな進歩になるはずだ。

「きっと面白くなるよ。誰が作ってるのか気になったら、エンディングのスタッフロールで監督や声優、作監や脚本の人なんかの名前を見て、誰が作ってるのか調べるの」

「そうしたら、その人の名前を検索でもしてみれば、過去に何の作品に携わったのかがわかりますよね。最近ではネット上でのデータも充実していますから」

『声優さんだと、意外な役を同じ人がやっているっていうのが面白いですよ』

「いろんな見方があるもんですねえ」

 そういやゲームでも新規タイトルの時は会社がどこかによって、内容や難易度などの予想はある程度立てられたものだった。

 作っている人を見る事でまた違った視点で見られるというなら、今度はそういう事を考えてみようと思う。

「何か興味のある作品が出てきたら、ウチにあるものだったらいつでも貸してあげる」

「ああ、ありがとう。まあこの仕事が一段落ついてからかな」

「あ、そうだった。里奈ちゃん、どこまで進んでる?」

「……」

「そっか。カット貼りが終わるなら、そのままスキャンもやってみてもらおっか」

「……?」

「多分大丈夫でしょ。スキャンだけなら。余裕があればゴミ取りもしてもらうけど!」

 三条さんは僕に仕事をさせようとする時は本当にいい笑顔になるな!

 逆に川口さんはちょっと心配そうな顔をする。信用されていないとかそういう事じゃなくて立場の違いじゃないかと思う。思いたい。

 そして貼りつけたカット台紙をパソコンにスキャンするやり方を三条さんから教わった。

 簡単に言えばスキャナーの台の上に台紙を載せて、パソコンからスキャン用のレタッチソフトを立ち上げて操作するというだけで、初めて使うソフトではあったものの、それほど難しいものではなかった。

 思ったよりあっさりと使えてしまったので、皆に無駄に期待されてしまった気がする。

 画像処理ソフトのちゃんとした使い方とか、イラストレーターとかいうソフトの使い方とか、そのうち本気で教えてきそうな気配。ちょっと川口さんの目が怪しく輝いた気がする。まあ、期待されるのは悪い気はしないけど。

 しばらくはスキャン作業とゴミ取り作業を行っていた。ゴミ取りはスキャンした時に一緒に写った不要な黒い点を消す作業で、消しゴムツールで一つ一つ消していく作業はやり始めるときりがない。

「黒いゴミもそうだけど、貼ったカットと台座の隙間の白い所も塗りつぶしてあげてね」

 本当にきりがなかった。


「んー、また増えてるなあ書き込み」

 パソコン画面をずっと見ていた三条さんが、不機嫌そうな声で言い出した。こちらから見える範囲では画面にはインターネット用のブラウザが表示されている。

 軽くのびをして深く息を吐くと、キーボードになにやら打ち込み始めた。

「どうしたものかな、これ」

「何の書き込みです?」

 何の気なしに聞いてみたが、そこから三条さんがこっちを振り向くまでに数秒を要した。振り向いたら振り向いたで微妙な表情をしたまま視線が泳いでいる。

「いや、ごめん言いたくないならいいんだけど」

「んー……、いや、そんな大した話じゃないんだけどね……」

 そう言ったものの、そこからもしばらく逡巡して、たっぷり数秒の沈黙の間の後でようやく話始めた。

「ネットの匿名掲示板の『いっちゃん』って知ってる?」

「あー、いろいろちゃんねるの略だっけ。色んな掲示板が沢山ある所」

「うん、そこの同人関連の板に、ウチの専用スレッドがあるのよ、実は」

 いろいろちゃんねるは、様々な話題の掲示板がまとまったサイトだ。匿名で書き込みが出来るため、しがらみを気にせず好きな事が書き込めるという利点がある反面、誰が書いたのかわからないなら、と悪意全開で書き込む事も可能なため、時々問題も起こったりしている。

 一時期はインターネットを見るといえばほぼいっちゃんを見るのが同義と言えるほど流行し、あらゆる情報の発信源であり集積地でもあったし、掲示板のログをまとめた書籍も沢山出版されていたものだが、最近はSNSの人気に押されてか全盛期ほどの勢いはないらしい。

「同人関連の板なんてあったのか。でも凄いね、結構知名度あるんだね」

「まあ……長くやってるしね。でね、そこがここ数年ですっごい荒れ出してるのよね。とにかくある事ない事書き込まれちゃってる」

「どんな感じの?」

「うーん……見た方が早いかな」

 そういってパソコンの画面をこちらに向けたので、近くまで移動して掲示板のログを読んでみた。

 そこに書かれていたのは、言うなれば陰口に値するような、運営に対する不満から、スタッフ等への誹謗中傷にまで及んでいた。

 特に矢面に立っている三条さんについては、口にするのも憚れるような書き込みが実に多い。もう少し具体的に言うと自分の願望を直接的に描写した、彼女が登場する官能小説のようなものが書かれていた。

「これは……、ちょっと……」

「ごめんね、あまり読んでて気持ちの良いものではないよね」

 いや、僕はいいよ、当事者じゃないから。

 でも、これ三条さん本人が読んでいいものじゃないだろ。

「こんなの……ッ! よく冷静に読んでいられるね! 読んじゃだめだろ!」

「参加者の情報は集めなきゃいけないし、中には真面目な、参考になる意見もあるの。それら全てを無視してしまうわけにもいかないわ」

「だからって! こんなのゴミの中に手ぇ突っ込んで砂金集めるようなもんじゃん!」

「まあいっちゃんの書き込みはトイレの落書きだって言ってた人もいたしね。例えとしては下品だけど的確かもね」

 高校生の女の子が、自分を題材にした、露骨な性描写の入った妄想文章を延々と読まされる。その妄想は日々エスカレートし続け、周囲に止める者もおらず、毎日書き込まれ続けていく。こんなの、本人に取ってみれば地獄以外の何ものでもないだろ。

「黒埼さん! こんなの三条さんにやらせちゃっていいんですか!」

「私もこんなチェックはさせたくはありません……。私が知る限りではそらちゃんはまだそういった経験は全くないはずですし……」

「ちょっと今その情報いらないよねッ?」

「ああ、ごめんなさい……つい。とにかく、私やベンツ先生も、エスカレートしてくる前から止めてはいるんです」

 顔を真っ赤にして迅速なツッコミを入れた三条さんはさておき、黒埼さんもこの件についてはだいぶ申し訳なさそうに視線を下げていた。そんな表情の割にはすごい僕しか得しない情報混ぜて来たけど。

 でもおかげでちょっと落ち着いたかもしれない。意図したのかどうかはわからないが。

「僕もこんなの三条さんがやるべきじゃないと思う。なんなら僕が……」

「いいの。覚悟は、出来てる」

 短く、力強く言った三条さんは、真っすぐ僕の目を見た。その目に宿る決意が炎となって見えてくるかのような、そんな凄みがある。

 あまりの凄みに何も言えなくなり、視線を外す事すら出来ず、ただその目を見つめ続けた。

「この仕事をやるって決めた時に、覚悟はしたわ。矢面に立つ以上、批判も中傷も受けるのはわかってた」

 今まで見た事がないような真剣な表情に押され、何も言い返せないままでいた。

「予想してた以上に風当たりは強かったけど、それでもこれを、ゼストを続ける事は大事だと思ってる。だから、やめない。絶対」

 どうあっても止まる気はなさそうだ。知り合ったばかりの僕がどういう言う問題じゃないのはわかっていた。

「わかったけど、こんなのをまともに読んでたら……」

「ちゃんと読んだりはしないわよ、あんなの。最初のうちはたまに読んだけど、『てにをは』はおかしいし表現も稚拙な割に難しい言葉で誤摩化してて結局中身はないし、テンポも悪くて読みにくいし、内容以前に読むだけで疲れちゃうのよあの文章」

「そこまで読んでませんでした」

 まさか書いた人も文章力の方を全力でダメだしされているとは夢にも思うまい。

「その三文エロ小説はどうでもいいとして、そっちよりは運営関連の苦情みたいな奴とか、勝手に内情を妄想した知ったかぶり事情通とか、そういうのも困るのよね。大体嘘だし」

「自称事情通な人が書かれる内容は、見当違いな方向に話が進むんですけど、すごくもっともらしく聞こえてしまうんです」

「でも、ゼストの事知ろうとして検索かけてやってきたのがこのスレッドだったら、どう見ても残念な気分にしかならないよね……」

 たしかに有用な情報は何一つ手に入らないし、雰囲気も悪い。時折本当に参加しているような書き込みも見られるが、ネガティブな書き込みしか見当たらない。

「あー、こんな空気の中じゃ、楽しかったなんて絶対書き込みようがないもんなあ」

「そうですね。中の人乙って言われて終わりでしょう」

「どっちかというと、そっちの方がダメージ大きいかもしれない。ゼストとしては」

「なんとかならないのかな……」

「里奈ちゃんが色々駆使してくれてはいるんだけど、決定打が見つからないのよね」

「誰かが意図的にやってたりするんですかね、これ」

「あまり仮想敵を作るのはよろしくないだろうけど、書かれている文章の癖が共通してるものがあって、二人か三人くらいで書いてるんじゃないかなっていう気はするの。IPアドレスみる限りでもそんな感じだし」

「いっちゃんって匿名だからそういうのわからないって話じゃ」

「里奈ちゃんなら何とかなっちゃうのよね」

 あー、前に行ってた「川口さんはスーパーハカー」って、本当の話だったのか。

 思わず川口さんの方を見てしまったら、何だか妙に照れたような表情を浮かべていた。パソコンとか電源も入れられなさそうな感じがするのになあ。人は見た目によらないね。まあ、ここのスタッフの人は大半がそんな人ばかりだけど。

「とにかく、わたし達の体制で復帰した途端に荒れだしたのは、わたし達に至らない所がある事を差し引いても、ちょっと不自然かなとは思う。ただ、今の所それ以上の事はわからなくて、踏み込めてない。そういう状態」

「ありがとう。状況は把握した。何かこっちでも手伝える事とか、あれば教えて」

「わかった。一緒に怒ってくれて、ありがとう」

 そういって、まっすぐ僕を見ながら右手を差し出して来た。

 さっきまでの決意に満ちた表情とはちょっと違う、とても澄んだ表情。本来彼女はこういった表情でいて欲しいと思う。どこまで出来るかわからないが、力になりたいと思った。

 そのまま握手をして、その決意を新たにしたのだが、今僕はルート選択をちょっと間違えたんじゃないだろうかという気がして来た。

 これ、完全に友情エンドだよな。


「お茶を淹れましたので休憩しましょう」

「あ、もうそんな時間?」

 昼食を挟んでしばらく作業を続け、時間は午後四時を回ったところだった。

 それほど作業に没頭していたという訳でもないが、思ったより時間の進みは早かった。

 スキャン作業はともかく、ゴミ取り作業は思ったより難物で、絵の中のゴミをある程度判別するのは元の絵と画面を見比べながら間違わないように注意が必要だった。

「んー……」

 思わず伸びをする。

 あまり長時間ディスプレイを見る事がないので目も疲れた。

 作業はかなり終わったものの、もう少し時間が必要だ。

「こんちは! がんばってるー?」

 お茶が入って四人で休憩に入っていると、のっちさんが陣中見舞いにやってきてくれた。

 お土産はシュークリーム。

 市内にある、ルテティアというケーキ屋のものだそうだ。初めて食べたが実にうまい。堅めの皮と表面のナッツが、今まで食べていたものとは全然イメージが違ったけど、こんなにうまいシュークリームは初めてだ。

「鳥屋野くんはルテティアのケーキ食べた事ない?」

 そもそも店名を初めて聞いたくらいなので。

「あ、ないです。この辺全然わかんなくて……」

「え、そらちゃんが言ってたけど、鳥屋野くんって市内でしょ。西区に住んでるんじゃなかったっけ」

「ああ、僕中学までは永丘にいたんです。高校入る時にこっちに来たんで」

 永丘は新越から電車で一時間半ほどかかる場所にある。県内では新越の次に大きな市だ。高校入学にあわせて引っ越したばかりなので市内の事はほとんどわからない。今のところ把握しているのは学校までの道沿いにあるものくらいだ。

「あ、それでだったのか……」

 急に何かを思いついたように三条さんが呟いたが、孤立派である事の理由付けがされた事への納得だったりするのだろうか。

 しばらく五人で話をした……というか、ほぼ三条さんとのっちさんの会話を聞いてる感じではあったが、楽しくお茶会を行った。

 まさかこんなに女の子に囲まれてお茶とお菓子をごちそうになるとか、不思議の国にでもいかないと実現されそうになかった事態に遭遇できるとは。受験勉強頑張って本当に良かった……。

 話の中で同人誌を未だに読んだことのない僕に対し、どうやって沼にはめようかという相談を二人が始めたときは、沼というあまり穏便でない言葉に反応してどうしようかと思ったが、沼というのは何かにハマる事の同人的表現だそうなので安心した。

 そのうち読んでみたいとは思うけど、のっちさんの薦めてくる本はどうにも男同士の恋愛を綴った本らしいので注意が必要だ。

 しばらく盛り上がったところでのっちさんは帰られ、軽く片付けてまた作業を再開した。

「ねえ三条さん。のっちさんとか、結構ここに来るの?」

「そうだねえ。たまにあんな感じで差し入れ持って遊びに来てくれるよ」

「他のスタッフも、市内の人は来てくれる事が多いですね」

「ここなら、ほぼ必ず誰かいるからね」

 それは僕も思った。

 いつでも誰かがいる。いつでも好きな趣味の話が出来る。

 それは、とっても嬉しいなって。

 学校でそういう話をする友達が見つからなかったときとか、そういう時にこんな場があればきっと楽しく過ごせるんじゃないだろうか。

 中学の時に、こんな感じの場があれば、もう少し早く気付けたのだろうか。

 一人でいる事は、何よりも楽である代わりに、進路を定める能力は落ち、ふらふらと彷徨いがちになった挙げ句、間違った方向に進んでしまった時には修正も難しくなる。

 今更過去を悔やんでもどうしようもないのだが……。

「鳥屋野くん?」

「え、うわ!」

 左の肩を叩かれて、我に還って左を見たら視界いっぱいに三条さんのお顔が。

 近い! 近いよ!

「大丈夫?」

「え、何が?」

「何がじゃないわよ。なんか難しそうな顔して虚空を睨みつけてたから……」

 どうも僕が考え事をしている様を見た三条さんの感想がそれらしい。

「てっきり何か霊でも見えてたのかと」

「それはない」

 猫か何かと同じ扱いを受けているような気がしてきた。

「なんだあ。……で、鳥屋野くんは何か考え事してたの?」

 最初にそう聞いて欲しかったな。とはいえ、あんまり人に話す内容でもない。

「いや、別に大したことじゃないよ」

「そうだよねー」

 おいそこは踏み込んで来ようよ!

 そこはほら、一度「そんな感じじゃなかったよ?」とか心配そうに聞いてきてから、実は……って真相を話す流れじゃないの。

 ってもう川口さんと違う話題になってるし。

 あの、ねえ?

「え、どうかした?」

「あ、いや……なんでもない」

 よく考えたら過去の恥ずかしい話をなんで自分から暴露しようとしているんだ。

「そういやそろそろお腹空かない?」

「おおう、急だね」

「久しぶりに上海行こうかと思うんだけど、どうかな」

「そうですね、せっかくですからそうしましょう」

 多分パスポートが必要な方じゃなく、市内にそういうお店があるんだろう。

「え、皆で行くの?」

「うん、四人で行こうかなって思うけど、だめ? 鳥屋野くんの代わりにさっき見えてた霊を連れて行けっていうならそうするけど」

 見えてないですし。

「連れてってください」

「素直でよろしい。里奈ちゃんもいいよね?」

「……!」

「よーし、じゃあ決まりだね! 仕事一段落したら行こう!」


 四人で向かった上海という店は、事務局から車で二十分ほどの距離にある中華料理店だった。店の見た目は地味だが味は本格派。炒飯とか豚の角煮とか、特に珍しい料理という訳ではないのに、本当はこんな味だったのかと驚かされるような、未知の旨さに襲われ続けた。料理一つ一つに詳細なレポートを書きたい所だが、それだけで小説の一章分くらいのボリュームになりそうなのでやめておこう。

 ゼストのスタッフはこのお店によく立ち寄るそうで、特に三条さんはお父さんと小さな頃から通っていたのだという。

 食後の車中で、食事代を支払おうとしたら、今回の手伝いの対価としておごって頂くことになった。大した仕事もしてないので申し訳ないと言ったが、バイト代として現金の支給が出来ない懐事情のため、せめて食事くらいは、という事になったのでありがたくお言葉に甘えることにした。

「いやーおなかいっぱいだねえ」

「……」

「だ、大丈夫だよ里奈ちゃん。これくらいなら許容範囲。今朝何も食べてなかったしセーフ」

「食時は半端に抜く方がよろしくないと以前言ったかと思うのですが……?」

「あ、いや、その……」

 三人ともダイエットとは無縁のスタイルを維持していると思っていたが、それはそのうちの二人がちゃんと努力しているからだったようだ。

 今回の食事でも食べきれなかった分の処理は主に僕と三条さんで担当した。二人で、というよりは三条さんが率先して食べていたら周囲の視線に気付いて途中で僕におずおずと差し出して来た、という感じ。あんなに未練たっぷりに食べ物を渡してくるとは、シュークリームの時も思ったけど、三条さんって意外と食い意地……いや、健啖家なんだな。

 意外と、といっても僕が勝手に清楚なお嬢様風なレッテルを貼り付けていただけなんだけど。

 そしてそのレッテルはこの一ヶ月ほどで見る影もないレベルで剥がされているのだけど。

「……最近、鳥屋野くんってわたしに冷たくない……?」

「はっはっは、何をばかなことを」

「バカって言った方がバカなんだからね」

「今その文脈でバカって言ってないよね僕?」

「知らないっ」

 剥がされて現れた三条さんの姿は、食い意地がはってて、人使いが荒くて、くるくると表情が良くかわる人で、そして全然完璧じゃなくて。

 でもその分気さくで、話しやすくて、今の方が、全然いい。

「……なによ」

「い、いや、また食べたいなって思っただけ」

「そうだね。また来ようね!」

「三条さんに言われると、まず働いてからってオプションが付きそうなのがなあ」

「やっぱり冷たいー!」

 こんな風に普通に会話が出来るようになるなんて、一ヶ月前には想像すら出来なかったもんなあ。

 事務局までの道すがら、しばらくは店の料理について何の料理がうまいだとか、夏や冬の限定メニューがどうとか、そんな話で盛り上がった。夏限定の棒々鶏をのせた冷やし中華や、冬の上海蟹コースなど、色々とうまそうな話ばかり聞かされてしまい、これが食後で本当に良かったと心から思う。

「あ、少し、コンビニに寄らせて頂きますね」

 途中にあったコンビニに停めて、特に用事はなかったものの一緒に店に入った。

 夜も遅いので店内は客もほとんどおらず、雑誌の立ち読みをしている人と、コピーをしている人くらいのものだった。田舎は十時過ぎたら深夜ですから。

 黒埼さんは真っすぐレジに向かって行って、振込か何かの手続きをしているようだった。川口さんと三条さんはやっぱり用事はなかったらしく雑誌のコーナーで立ち読みしたり、食玩を眺めたりしていた。何故かカゴを持って、何故かお菓子やジュースがその中に入っているのだが、あれは道端のお地蔵さんにでも備えようと言うのかな。まさかあの話の流れで夜中に食うつもりじゃあるまいな。まさかね。

 じっとカゴを見ていたら睨み返された。開き直っておられる。

 あわてて視線を外すと、ちょうどコピーをとっていた人が終わって出ていくところだった。コピーした紙をまとめて鞄に入れて、そのまま蓋をあけずに出て行ってしまったので、あわててコピー機に駆け寄って蓋をあけてみたが、原稿は置かれていなかった。

「あれ、何をコピーしてたんだ、あの人」

「おそらく、ネットプリントのサービスを利用していたのではないでしょうか」

 ちょうど手続きが終わった黒埼さんも見ていたようで、そんな事を教えてくれた。そういえばそんなサービスがあったね。家でデータをアップロードしてコンビニでプリントする奴だ。利用した事がなかったので気付かなかった。

「あれって、確か番号だかがわかれば誰でもプリント出来るんですよね。あれで同人誌を自分でプリントさせるとかやったら面白いですかね」

「そうですね。イベント当日に在庫の心配がないのは面白そうですね。製本機がとなりにあれば完璧ですけど」

「あー……本になりませんね。だめかー」

「そのままだと色々穴はありますが、うまく使えば面白い企画になるかもしれませんよ」

 まあ、僕自身が同人誌を作るわけでもないし、ただの思い付きなので、これ以上広げるつもりはないけど、何かの役には立つかもしれないので覚えておこう。

 結局三条さんと川口さんが二人でお菓子と飲物を買ってからコンビニを出て、改めて事務局に向かった。


「あれ、車がある?」

「あの車はベルトさんのかな」

 事務局に到着すると、駐車場に一台の車が停まっていた。

 三条さんの言う通り、我々が降りるのに合わせて車から出てきたのはベルトさんだった。不適な笑顔とサムズアップも忘れていない。

「いやあ、待っておりましたぞ」

 ゼストの時とあまり変わらない革のジャケットを着ていたが、当然のように変身ベルトが腰に装着されていた。あれは昔のタイプの携帯電話を挿して変身する奴だったか。

「こんばんはー!」

「あ、ど、どうも」

「まあ、とりあえず中に入りましょう。鍵かけてしまっていてすみませんでした」

「いやいや、ヒーローたるもの、セキュリティはしっかりしておくに越したことはありませんぞ」

 あんまりヒーロー関係ないな。あとそれだとヒーローなの黒埼さんだな。

 皆で部屋に入り、黒埼さんはお茶をいれるためにキッチンへ移動する。

「ごめんねーベルトさん。今上海帰りなのよ」

「なんですと?」

「もうちょっと早ければねー、一緒に行けたんだけど」

「そ、それは……大変悪いタイミングで来てしまったようですぞ……。ああっ上海飯! 今から行ってももう遅い! ああっ!」

 そんなに悔しがるほどなのか。

 いや、そうかもしれないなあ。一度知ってしまえばそれくらいのリアクションはしちゃうかもしれない。

「あ、やっぱりスタッフの間でも上海は有名なんですか」

「当然なのですぞ! 打ち上げなどで食事をする場合も、高確率であのお店! お客さんをもてなす場合も、ちょっと特別な日のご褒美的なご飯も、あのお店なら万全!」

 眼前に構えた手を力強く握りしめて、半泣き気味の目で力説されてしまった。見た目で判断すると申し訳ないけど、大変にボリューミィな体型のベルトさんに力説されるとなんだか説得力が違う。

「まあ、ヒーローたるもの、過ぎてしまった事をとやかく言ってはなりませんからな、今日は大人しく諦めましょうぞ」

「多分オリジンの後にも行くと思うから、ね」

「おお、そうでありましたな! 再来週までの辛抱! 楽しさが先に延びたと思えば軽い事でござろう!」

 ベルトさんのポジティブっぷりは見習うべきかもしれない。

「ところで今日は入り待ちまでして何か用事があったの?」

「うむ、川口殿よりメールで鳥屋野殿がまだおられるという情報を入手いたしたのでな、ここは我が輩の秘蔵のDVD鑑賞会を行おうではないかと思ったのですぞ」

「でぃ、DVDですか」

 まさか女性のいる中でえっちな奴を見たりはしないだろうなあ。そういうのはこっそり貸して頂く方向で。

「然り! これは今年の某テレビ雑誌にて配布された特別なDVD。ベルトライダーの超特別版ですぞ! これを見れば今年のライダーの内容も一目瞭然!」

 えっちなものではなかった! 残念だけどちょっとほっとした!

「幼児向けのテレビ雑誌に毎年付いてくるのよね、特別に編集された映像が入ってるの」

「あー、なんか昔見た事あるかも。あれってまだ続いてるんだ」

「然り! 最近の特別編はちゃんと本編に登場している役者を起用してアフレコをしたり、オリジナルの脚本があったりとかなり本格的なのですぞ!」

 ベルトさん、本当にそれを皆で観るためにきたようで、部屋に入るなり奥に進んでディスクをセットしていた。リモコンを持って部屋の後ろに下がり、腕を組んで立つ。三条さんと川口さんも見やすい位置に椅子を動かして座っているので、普段からこういう感じでテレビを観ているのだろう。僕の席の位置はあまりテレビを観るのには向いていないので、ベルトさんの隣に立って観ることにした。

 黒埼さんが来るまで、特撮の、例によって僕が全く立ち入れないレベルの話が始まっていた。三条さんだけでなく川口さんも特撮が守備範囲らしく、この人たちの守備範囲の広さは計り知れないものがある。

 しばらくして、黒埼さんが部屋に入って来て、テーブルにお茶が並んだところで映像は再生された。

「あれ? これ、ナレーションが……」

「そうなのですぞ! 再編集だけでなく、このナレーションが涼ちん撮りおろし!」

「すごいすごい!」

 涼ちんという人はベルトさんや三条さんの好きな声優さんなのだろうか。声を聞いただけでテンションが上がっている。

 それにしても三条さんは特撮も守備範囲なのか。アニメや漫画などの話題で話が通じなかった所を見た事がないな。

「涼ちんって、新越出身の声優さんなの。学生時代はゼストでレイヤーとかやってたんだ」

 へえー、地元出身の声優さんかー。

 ってレイヤー?

「ゼストに過去に来ていらしたという事?」

「うん、もちろんデビュー前の話だけど。東京の大学に行ってからはたまにしか来られなくて、最近は事務局に遊びにくるくらいかな」

 ここには来るんだ。

 なんというか、さすがに顔が広いな。こういうお仕事をしていれば、必然的にたくさんの人と知り合うとは思うけど、プロの人とも交流が持てるものなのか。

「昨年くらいに出たアニメで人気が出て、最近では結構な売れっ子なのですぞ。入広瀬涼で検索してみると出てくるのではないかと思われ」

「確かここにブルーレイあったんじゃなかったかな。二階見てくるよ」

 そういうと三条さんは颯爽と部屋を飛び出して廊下を駆け出した。

「あれ、二階って仮眠室って言ってませんでしたっけ」

「ええ、そういう使い方もされますけど、そらちゃんやスタッフのお宝倉庫としても使われてるんです」

 お宝倉庫……。

「ブルーレイとか漫画とか、皆で観ようと思うとここに置いておくのが一番手っ取り早いですからな!」

「え、でもアニメなら動画サイトとかでちょっと落としたりとか出来るじゃないですか」

 普通に。

 普通の事を言ったつもりだった。

 僕はパソコン持ってなかったんでやった事はないが、中学時代のクラスの奴はよくそんな事を言っていたし、スマホで見せてもらったりもした。オタクの人なら特にパソコンやネット関連の知識も豊富だからそういうのも活用してるのかと思ったんだけど。

 僕が言った途端露骨に空気が変わって、全員がこっちを凝視した。

 まるで爆発物を見るかのような態度で、何故か周囲を気にしながら、全員が黙ってしまった。

「鳥屋野さん、それは……そらちゃんに言っちゃいけませんからね?」

 黒埼さんがドアの向こうをしきりに気にしながら忠告してきた。

 どうも相当な禁句だったらしい。

「鳥屋野殿。コンテンツに金を払わずに楽しもうという事は、それすなわち未来のクリエイターを潰す事に他ならないのですぞ」

「未来でなくても、今頑張って作られている漫画やアニメ、ゲームは、人が作っているものです。人は夢だけでは生きていけませんから、ちゃんと対価を払わなければならないのです」

「クリエイターが数日、数ヶ月、果ては数年かけて作り上げたものを、ただでかっさらおうという考えは、出来れば改めてもらえると嬉しいのですぞ……」

 ……そりゃあ、そうだよな。

 作品を誰かが作っているという事を意識した事がなかったので、ダウンロードする事についてもあまり悪いものだという意識がなかったかもしれない。二人の言うとおりだ。

「あー、えっと、ごめんなさい。僕自身はパソコン持ってなかったんでやった事はないんですが、クラスでは結構普通にやってる奴がいたもんで、普通の事なのかと思って」

「悲しい話ですぞ……。クリエイターに対価を払うという習慣を、子供のうちにちゃんと植え付けておかないと、日本のオタク産業は将来がありませんぞ」

「生半可な知識でダウンロードサイトやソフトに手を出して、おかしなウィルスにやられてしまう事だってありますからね」

「そうそう。ちょっと前まで暴露ウィルスが猛威を振るいましたからな!」

 コンピューターウィルスの中でも、自分のパソコンの画面をそのままネットにアップしてしまうというものが、ファイル共有ソフトの使用者を中心に流行した事があり、テレビのニュースにも取り上げられた時期がある。最近はあまり聞かなくなったものの、おかしなダウンロードサイトの中にはそういうファイルが仕込まれたものがまだあったりするという噂もある。

「こんな話の後でなんですけど、アニメ制作会社の人の画面がアップされてしまった事もありましたしね……」

「公務員とか大企業の社員なんてのもありましたぞ。あれは根深い問題でしたぞ……」

「とにかく、鳥屋野さんは今後もそういった所は利用せずに、ちゃんとお金を払って楽しみましょうね」

 小学生が交通安全の指導を受けているような気分になってきたが、多分大事な事だと思うので、ここは素直に受け入れておく事にした。三条さんに話してしまっていたらどんな事になっていたのか、想像するだに恐ろしい。

『二階にあるお宝は、自由に見てもらって構いませんからね』

 そんなにお金がある訳でもないので大変助かる。何があるのかはそのうち見せてもらいにいこう。

「おまたせー! やっと発掘してきたよ!」

 セーフ。

 ギリギリでこの話題が彼女に聞かれる事なく終了出来て、全員でほっとため息をついた。

 事情のわからない三条さんだけが、首を傾げていたが、あまり気にせずディスクをレコーダーに挿入した。

 始まったのは四コマ漫画が原作の、ファミレスを舞台にしたアニメだった。

 様々な店員が仕事そっちのけでドタバタを繰り広げていて、入広瀬さんはその中でも小柄な女の子の役だった。新米店員のトラブルメーカーといった感じだ。

 キャラクターはどれも個性的で、まるで働いている様子がない事を除けば楽しそうな職場だ。

「あーやっぱりこの作監の絵がいいなー」

「この時のゲストが二言しか話さないのに源田さんという無駄な豪華さがたまりませんぞ!」

 皆の感想がハイレベル過ぎてまったくついて行けない。

「この回はアニメオリジナルなんだけど、ちゃんと原作者が脚本書いてるから原作の雰囲気が損なわれてないのが凄いんだよね!」

「涼ちんはこのロリキャラが至高!」

 みなさん実にテンションが高い。一度見たアニメで盛り上がれるものなのか。

「やー、久しぶりに観ると新たな発見があったりして面白いですな!」

「意外な人が意外な役だったりするもんね!」

 楽しいらしい。

「鳥屋野くんはどうだった?」

「あ、結構面白かったです。入広瀬……さんは、凄い可愛い声も出るんですねえ」

 そうなのだ。最初に観たDVDのナレーションは、もう少し大人しい感じの声だったのが、このアニメではとてもかわいらしい少女の声になっていた。同じ人がやっているとは言われるまで気付かなかったくらいだ。

「声優さんは今時これくらいの演技の幅が要求されるのですぞ。それにちゃんと応えられるだけの実力を涼ちんはお持ちなのですぞ!」

「うーんなんか盛り上がってきたから他にも何か観ようか!」

「そうですな、せっかくですからな」

 今度はベルトさんと川口さんも連れて二階に上がっていった。一緒に上がろうかと思ったが、三人で何を選ぶのかここで待つのも面白そうだと思って大人しく黒埼さんの淹れてくれたコーヒーを飲みながら待つことにした。待っている間に黒埼さんと何を話していたかというと、もちろんほぼ無言だったのである。

 待つこと十五分。永劫にも等しい待ち時間はようやく終わりの時を告げた。やっぱり一緒に上がっておけば良かった。

 三人はいくつかのDVDやブルーレイを持って帰ってきて、そのままアニメ鑑賞会へとなだれ込んだ。それぞれのおすすめを順に流していく。

 初めて見るアニメが大半だったが、傍らで解説を聞きながらの視聴は普段見ているより何倍もわかりやすく、楽しめた。


「ああ、もうこんな時間!」

 気がついたら日付をまたいで午前一時。全員がテンションを維持したままこの時間まで騒いでしまっていた。

「いやー、楽しかったですな。さすがに疲れましたが、鳥屋野くんはどうでしたかな?」

「……疲れました……」

「そうね……。わたしも……」

 珍しく三条さんがぐったりした表情を見せている。

「ベルトさんの解説はいつも面白いんですけど、笑い疲れてしまいますよね……」

「いやいや、皆さんの解説も実に面白いものでしたぞ」

「まあ、もう疲れたし終わろうか」

「じゃあ、私は鳥屋野さんを送って帰りますので」

「あ、すみませんこんな時間なのに」

「こんな時間だからお送りするんですよ」

 黒埼さんはやさしいなあ。

「じゃあまたあしたねぇ」

「そらちゃん、ちゃんと布団で寝てくださいね」

「はぁい……」

「では我が輩もこれにて失礼つかまつる。では!」

 もう少し作業があるといって残る川口さんを残して、全員建物から外に出た。そういえば彼女が事務局にいない場面を見たことがない。いつ帰ってるんだろう。

 外に出て、少し涼しくなった空気を吸った途端に大きな欠伸がでてしまった。

「今日は、疲れましたね」

「そうですね……。でも、楽しかったです」

「本当ですか?」

「こんなに濃い一日、多分今まで経験した事ないです」

「事務局にいると、月に何度かあんな感じの日があるんですよ」

「マジですか」

 あんな濃密な時間を月に何度か……。

 好きなものを好きだと自由に言い合えて、忌憚なく意見をぶつけあえる。知らなかった作品の意外な面白さを教えてもらえる。時間も気にせず、ずっといられる。

 改めて考えると、ここは物凄い空間なんだな……。

「そらちゃんも私たちも、ほとんどずっといますからね。たまり場みたいになっちゃってます」

「そうか、三条さんはここかイベント会場にしかほとんどいないのか」

 学校でも三条さんは謎の人扱いされている。休みに何をしているのかとか、どういうところに遊びに行っているのかとか、そういう部分を知っている人がクラスや同学年の生徒たちの間では皆無らしい。

 入学してからまだ日が浅いからだと思っていたが、中学が一緒だった奴らからも同じ扱いをされていた所を見るに、ずっとこんな生活を送っているのだろう。

「そういう生活を私たちが強いている部分は、少しあるのですけどね」

「まあ、本人が楽しいなら、いいんじゃないですか」

「そうであればよいのですが」

「きっと、そうですよ」

 学校ではあんなにはしゃいだりしないし、ゼストの時ですらあそこまでのテンションはなかった。一番、素に近いのが、今日の三条さんだったんじゃないだろうか。そうだとすれば、黒埼さんに強いられているような感覚はないんじゃないかな、と思う。

「とにかく、もう遅いですから、帰りましょう」

 帰る頃には午前二時くらいだろうか。

 黒埼さんの車で家まで送ってもらい、自宅についた頃にはさすがに眠気も限界に来ていた。

 部屋に入るなりベッドに倒れ込むようにして眠り、朝までそのまま目覚めることはなかった。


 翌日も昼頃に事務局に到着して手伝いを行う。

 今日はほとんど来客はなく、三条さんも夕方まで起きてこなかったため、実に淡々と作業は進み、予定よりも少し早く終わることが出来た。

 終わった頃に三条さんが事務局にやってきて、買ってあったらしい焼き菓子をいくつかと一緒にお茶の時間になった。いつものように四人でテーブルを囲み、黒埼さんの淹れてくれたお茶を飲む。

 家でこんな優雅な時間過ごしたことないぞ。しかも女性三人に囲まれて。

 この時間を得られただけでも、ここで手伝っている事のメリットはある気がする。

「あ、そうだ。ねえ、鳥屋野くん。今度の週末、空いてる?」

 その誘われ方をしてホイホイ乗っていったら今この状況になっているわけで、デートのお誘いである事は絶対ないだろうな、という程度には僕も慣れてきた。

「来週、ちょっと一緒に来て欲しいところがあるんだけど……」

 あれ、今度こそおデートのお誘いだったりする?

「んー、どこ?」

「ヘヴン永丘に行こうかと思うの」

「え、あんなところで何かあるの?」

「あ、そうか、鳥屋野くん中学まで永丘にいたんだっけ」

「あの辺はわりと近所だったから、よく知ってるんだ」

 ヘヴン永丘は永丘市内では唯一のコンベンションセンターだ。駅からも遠い郊外にあり、様々なイベントが行われるが、すぐ近くに美術館もあるので、やっぱり骨董市みたいなイベントが多い気がする。周囲に広い公園やショッピングモール、大きな病院などの郊外らしい施設が多いので、イベントは抜きにしても遊びに行く人が多い。

「なるほどねー……」

「ヘヴンって事は何かのイベントがあるの?」

「そう。来週、コミックジャーニーっていうイベントがあるのよ。この辺でゼスト以外でオールジャンルの即売会はそれしかないの」

 イベントってやっぱりそっちかー。まあ、そうですよねー。

 コミックジャーニーは同じ県内で活動する即売会という事で仲良くしてくれていて、お互いによく手伝いをしているのだそうだ。

「多分来週はベンツ先生とわたし達の三人になると思う」

 え、という事は永丘までベンツで行くの?

 他の参加者に無駄な威圧感与えちゃったりしないの?

 ベンツ先生が車から降りた途端に蜘蛛の子を散らすように皆逃げちゃったりしないの?

 会場に入った瞬間モーセのように人混みと言う名の海が割れちゃったりしないの?

「鳥屋野さん。今、あなたの考えている事は汗をなめるまでもなくわかりますが、大丈夫なのですよ」

「え、いや、そんな変な事は……考えたかもしれません……」

「ジャーニーはベンツ先生もよく手伝いに行くからね、特に怖がられたりする事はないわ」

「あ、そうなんだ……」

 ほっとしたような、がっかりしたような。

「じゃあ、とりあえず来週日曜の朝九時半に鳥屋野くんは新越駅で待ってて。前にゼストの時に待ち合わせたのと同じ場所ね」


 翌週の日曜日の朝、さすがに田舎の駅とはいえ、九時半ともなれば、それなりに人や車の往来は出てくる。そうなればなったで、その中で真っ黒いベンツに乗り込むというのはなかなかに視線を集めてしまうもので。

 せめて知り合いがいない事だけを願いながら、ついでに変な通報とかされない事を願いながらベンツに乗り込み、三人で永丘へ出発した。

 しばらく走ってから高速道路に入り、そのまま永丘まではまっすぐ進む。

 高速道路を走っている最中、二人に対して、特にベンツ先生とも以前よりはかなり普通に会話が出来るようになっていたので、二時間近い移動時間も地蔵にならずに済んだ。車内のBGMがずっとプリンセスファイトの曲だった事については追求しないでおこう。

 あっという間に、とまではいかなかったものの、それほど長くは感じないで永丘のインターを降り、ヘヴン永丘に到着した。

 会場では即売会がすでに始まっていて、数人が入り口に並んでいたのでそれに普通に並んでそのまま入場した。

 会場自体が振興センターよりも狭く、さらにそのホールの半分くらいを使用しているため、、ゼストと比べるとかなり机の数は少ない。スペースにいるサークル参加者は若い女の子が多く、会場内の雰囲気はゼストとはまた違った感じを受ける。ホールの残り半分はコスプレ撮影会場となっているようで、奥の方の、特に壁際に華やかな格好の女の子がたむろしている。

「やあ、わざわざどうもお疲れ様です」

 入ってすぐに男性に声をかけられた。とても親しげに話しかけてくる人で、受付から出てきたのでジャーニーのスタッフの人だろう。

「お疲れ様です。今日はチラシ配らせて頂くだけですけど」

「いや、来週はオリジンが控えてますからね、気にしないでください」

 三条さんから、ジャーニーの主催者の方だと教えて頂いた。

 年齢は四十代くらいだろうか。ガタイが良いのでとても若そうに見えるが、頭髪に少しまじった白髪や、笑ったときの目尻の深いしわなどがちょっと年齢を感じさせる。物腰の柔らかい人で、初対面である自分にも優しく、丁寧に接してくれた。その辺はさすがたくさんの人をまとめて運営する人だなと思う。

「そういや開始直後に魚住さん来てましたよ。今日は三条さんいないんですねって」

「あー……やっぱりか。わざと時間ずらしたんですけどね……」

「はっはっは。そうじゃないかと思いました」

 魚住? 知らない名前だな。三条さんがあまり歓迎していない風なので、スタッフとかではなさそうだが。

「魚住ってのは、コミックパイレーツっていう即売会を運営してる企業の社員なんだ。最近、ゼストと合同で即売会を運営していかないかって誘ってきているのさ。前回のゼストにも来ていたよ。そらちゃんはその時も君と一緒にいる事で逃げてたけど」

 なんだ、ずいぶん協力的なところなんじゃないか。なんで逃げるんだ。

「そういう事なら、挨拶していければよかったですね」

「冗談じゃないわ……」

「え?」

「あいつら、最初に合同で開催っていっておいて、労せず参加者を丸ごと頂いて、そのまま乗っ取った挙げ句元のスタッフを全部捨てていくのよ。そんな奴らと挨拶なんかするもんですか」

 なんだか想像以上にきな臭い組織だったらしい。

「ごめん、そんな所だったとは思わなかったもんで……」

 魚住という人個人も好かれていないようだが、それ以上にその組織が嫌われている。自分たちでは新規にイベントを立ち上げる努力をせずに寄生して入り込み、そのまま宿主を殺してしまうというのだからまっとうな主催者からは嫌われるに決まっている。しかもタチの悪いことにコミックパイレーツは全国で同様の展開をしている大きな組織だという事で、今までどれだけの被害者がいたのか計り知れない。

「別にいいの。参加する側からしたら、主催者の事情なんて普段は全然関係ないし、興味もないと思う」

「ウチにも最近声をかけてきてるんですよ。今日もメインはその話でした。パイレーツが唯一進出できていない県ですからね、ここ」

「とにかくどこかを足がかりにしたいってのは、わかりやすいですね。今、稼げるウチに稼いでおこうってだけじゃないですかね……」

「あの男の考えそうな事だな」

 コミックジャーニーの主催者も、魚住にはあまり良い感情を持っていないようで、吐き捨てるようにそう言った。

「もちろんウチだって、ゼストさんほどじゃないにしても、それなりの歴史がありますからね。そう簡単には落とされませんよ」

「お互い、協力して乗り切りましょう!」

 二人で固い握手をして、主催者の人は本部受付に戻っていった。そのまま参加者の応対の業務に戻る。小さいイベントとはいえ、やらなければならない内容はゼストとはそうそう変わるわけでもない。受付の応対や更衣室の仕事など、スタッフが会場を駆け回っている。

 普段ならそれらの手伝いをしてから帰るのだそうだが、来週のコミックオリジンの準備のために早く帰らなければならない。持ち込んだチラシを配ったり、サークルやスタッフへの挨拶を済ませて、早々に会場を出た。

 エントランスホールを抜けて外に出ると、目の前に設置されている大きな噴水から盛大に水が噴き出していた。

 六月にしては大分気温が高く、天気も良かったため、子供達が大喜びで水を浴びてはしゃいでいる。奥に見える公園にも、親子連れが遊んでいる姿が見える。

 噴水の近くにあるベンチに三人で並んで座る。

 太陽の高さも結構な位置に来ており、日差しもいつもより強い気さえする。日陰ではないこともあり、座っているだけでも汗がにじんでくる。

「暑いね……」

「いいなあ水浴び……」

「いいねえ、水浴び……」

 多分、三条さんとベンツ先生では「いいね」の意味が全然違う。

 この辺には知り合いはいないようで、ベンツ先生にかけよってくる子供はいないようだが、その分じっくり観察が出来て嬉しそうだ。しばらくそっとしておいた方が良いかもしれない。

「あ、なんか飲み物買ってこようか」

 確か、エントランスホールの端に自販機のコーナーがあったはずだ。

「わたしも行くわ。先生はコーヒーでいいよね?」

 子供達から一瞬たりとも目線を外さず、組んだ両手の上に顎をのせたポーズのまま、ダンディーな声で「ブラックを」とだけ答えるベンツ先生。視線の先にあるものがわからなければ、とても格好良いんだが。

 エントランスホールに入って左の端、トイレの奥に自販機が並ぶコーナーがある。何を飲もうか悩んでいると、あっという間にブラックの缶コーヒーとスポーツドリンクを買われてしまったので、あわててお茶のペットボトルのボタンを押した。

「別にあわてなくていいのに」

 そういうと、三条さんは軽く笑った。

 もう大分慣れてきたかと思ったのに、面と向かってそんな笑顔を見せられると、やっぱりまだ少しドキッとさせられる。

 一瞬息が止まって、その後すぐに顔が熱くなってくるのがわかる。この部屋がガラス張りの部屋のせいで大変暑いため、汗をかいても不自然ではない事はありがたい。

「こ、この部屋暑いからさ、早く出たかったんだよ。先生も待ってるかもしれないし」

「先生は、子供がいる限りはわたし達の事はどうでもいいんじゃないかなあ」

「そうかも」と言って二人で笑いながらエントランスを出て、先生の座っているベンチへ向かった。

 果たしてベンチには、先刻席を外した時と全く変わらぬポーズのまま、子供達を見守る先生がいたのだった。

 通報されてないだろうな。

「ごめんお待たせー」

「ああ、どうも」

 コーヒーを受け取る時すら視線を外さない。もはやプロの領域だ。なんのプロだ。

 時間も正午を回り、気温もさらに上がってきている。噴水に集まる子供はまた増えているようだ。

「子供さん本当に多いんだねえ」

「この先に新しい住宅地があってね、休みになるとそこからこの辺まで遊びに来るんだ。だから子供の数も多いし、ランニングや散歩する人も多いんだよね」

「鳥屋野くんもよく来てたの?」

「ああ、昔は、……ッ!」

 ふいに昔を思い出して目をそらしてしまった。

 この辺は、確かに昔よく歩いていた。

 公園や、河川敷などのロケーションが良かったからだ。

 ロケーションというのは、その、あれだ。

「どうしたの? 具合悪くなった?」

「あ、ああ、いや、その、ちょっと昔を思い出し、イヤなんでもなくてね」

「ああ、そうそう。その昔の話なんだけど……、鳥屋野くんって昔ここでコスプレして遊んでなかった?」

 今まさに僕が思い出していた事をなぜこの人は読み取れる?

「三条さんって本当に僕の心読めるの? ニンジャなの?」

「やっぱりそうなの?」

 僕の疑問は完全に無視して目をキラキラさせてこっちを見てきた。なんなんだ。次の言葉を読み取ろうというつもりか。次に僕は何というのだ。

 白状してしまえば、僕は中学までコスプレを趣味としていた。

 より正確に言えば、それは僕の中ではコスプレではなく、真の姿への転身という設定だった。いわゆる厨二設定という奴だ。

 黒い衣装を着て、鎌倉のお店から通販で買ったエクスカリバーを背負い、腰にはコンバットナイフを装着し、指ぬきのバトルグローブと完全装備の状態で、この辺を歩いていた。

 当時の設定上は、僕は平和な世界に一人転生させられてしまった勇者だった。転生元の世界の魔王は僕を追うため、ゲートを作って追っ手を送り込もうとしていた。僕はそれを阻止するために普通の中学生として生活しながら、放課後や休日は勇者として活動をしているという、そういうアレだ。

 今思うと微妙に設定にツッコミどころがあるのは若気の至りと言うことで勘弁していただきたい。当時は真剣にノートに設定を書き綴っていたのだ。それこそ世界の名前から前世の名前、王国の姫の名前や使用する魔法の詠唱などなど。思い出したくないから詳細は黙秘だ。聞かれても絶対答えないしノートはすでに焼却した。

 設定を作るだけでなく、週末の朝や平日の夜などに実際にこの辺を歩き回り、ゲートが開かれそうな気配を感じるとすぐに背中の聖剣で封印を施していた。聖剣は何度も地面に突き刺したもんだから、スプレーで黒く塗って闇に墜ちた聖剣とか言ってたのに刀身の先っぽだけ塗装がはげてるぞ。

 衣装も最初はただの黒い服だったのが、だんだんエスカレートしてきてチェーンとか紋章とか肩パッドとか色々ディテールも追加されて、どこから見ても恥ずかしくない、いや恥ずかしすぎる勇者姿ができあがっていた。

 そんな格好でこの辺をうろうろしてゲートの発生源を探しては地面に剣を突き刺していたのだ。自慢じゃないが今のベンツ先生よりよほど不審者だ。

 この趣味が学校で噂になり、さらに見回りの警察官に見つかって職質を受けて補導というコンボを受けて一発KO。そのせいで学校でもちょっと有名になったり有名税として色々あったりして、おかげでこの設定と衣装を投げ捨てる事が出来た。聖剣は高かったので部屋の奥に隠してある。

 ただ、もう目が覚めた時には色々な意味で手遅れだったので、全てを捨てて新越で受験して、とにかく目立たないようにひっそりと普通に暮らしていたのだ。

 なので、正直あまりこの辺には来たくなかった。

 しかし、それを何故三条さんが聞いてくるのかが謎だ。まさか三条さんこそが真の転生戦士だというのか。本当にそうだと言われたらどうしよう。

「……という感じなんだけど……」

「ああ、やっぱりアレ鳥屋野くんだったんだ!」

 もうバレてるんなら、と開き直って、有名税の詳細以外はほぼ全て話してみた。

 話を聞いていく内に彼女のリアクションは興味から確信へと変わっていくようになり、そして最後には「やっぱり」と来た。

「やっぱりってどういう事?」

「中学の頃にもジャーニーは開催されていたのよ。今日はあんまり長居出来ないからやってないけど、普段は朝から運営のお手伝いをしてるのよね、わたし達」

「あ……」

「あるとき、開催時間の直後に外の参加者の列整理をしていたら、公園の方から真っ黒いコスプレイヤーが歩いてきたの。見たことのないキャラだったし、まだ更衣室も開いたばかりだし、ちょっと変だなって思ったのよ」

 変だなと思う所が「開催時間から考えて着替えの時間が短すぎる」という点だったというのはさすが三条さんというべきか、ツッコミどころがそこか、というべきか。

「それで、一応声をかけたのよ。コスプレ参加の方でしたら、会場の奥で撮影しますから、中へどうぞって。そしたらその人が『私はこの周囲のゲートの探索に……』」

「あああやめて止めて僕ですごめんなさいそれ僕ですからもうやめて」

「じゃあアレ鳥屋野くんでよかったんだ」

「はいすみませんそうですごめんなさい死んできます」

 このまま本当に川に飛び込みに走りたい気分でいっぱいだ。なんでそんな詳細に覚えてるんだこの人。ニンジャか。ニンジャ関係ないか。

 ……思い出した。一度だけ、女の子に声をかけられた事があったんだ。あれはコミックジャーニーの開催日だったのか。

 いつものように着替えて散策をして、ヘヴンを通りがかったところで同年代の女子が多かったんでやばいと思って方向転換しようとしたところで声をかけられ、中に入れと行ってきたのでテンパってしまってつらつらと設定を話して逃げたんだった。あれは三条さんだったのか。

 ちなみにそれから程なくして補導からの学校バレによって自分の中では暗黒期に突入するわけだが。

 それはさておき、まさかそんな出会いが当時あったとは……。

「わたしが春に声をかけたのは、実はそれを確かめたかったから、っていうのもあったんだよね」

 なるほど。ようやく謎が解けた。

 どう考えても接点もなければ共通点もないと思われた三条さんが、わざわざ僕に声をかけてきた理由はこれだったのか。

「まあ、普通にレイヤーさんなら話早いかなと思って声かけたんだけど、思ったよりオタク知識の無い人だったから、今まで確認しにくかったんだよね」

 僕がいわゆるオタクとちょっと違うのは、厨二設定に目覚めて以後は完全にそれに没頭してしまっていたからだ。ゲームは変わらずプレイしていたものの、アニメや漫画はほとんど見る事もなかった。自分の携帯電話もパソコンもなかった当時、情報源はたまに親から借りるパソコンくらいだったのでオタク知識が広まったり深まったりする事もなかったのだ。。

「色々と、さぐるような事聞いたかもしれないけど、ごめんね」

「いや、別にいいんだけど……。よくわかったね」

「まあ、顔がそのままだったから、女子のレイヤー見分けるよりは楽だったかな」

 女子コスプレイヤーはお化粧もしっかりやるから素の状態と区別が付きにくいらしい。そのうち、コスプレイヤーの知り合いでも出来ればわかるだろうか。もっともコスプレの内容にもよるだろうけど。

「ああ……」

 よりによって一番知られたくなかった相手に知られてしまっていた……しかも自分から堂々と姿をさらして……。今こそ本当に異世界の扉開いてくれないかな……そして過去の僕を止めに行きたい。頭を抱えてうずくまりながら、そんな事を考えていた。

「どうしたの? お腹空いた?」

「知られたくなくて新越まで来たのになあ……」

 うずくまっていた僕にふわっと覆い被さってきた。え、ちょ、ちょっと?

「だいじょーぶだよ」

 横から、優しく包み込むように覆い被さったまま、頭をなでてくれた。

「そんな事で変に思ったりなんかしない。誰にも言わない」

「……うん」

「鳥屋野くんは、鳥屋野くんだよ」

 暖かくて、柔らかくて。優しい言葉までかけられて。

 なんか、全て赦されたような気分になった。

 しばらくそのままでいてくれたので、昼食にしようとベンチを後にするころには、地面に出来た二点の染みは、もうほとんど乾いてくれていた。


「来週はいよいよゼストオリジンです。設営からお手伝いなどをお願いできますでしょうか」

 事務局に帰ってきて、しばらく事務作業などの手伝いをして、帰るときに来週の確認をしておくことにした。場所はわかっているし、自力でも行けるから集合時間さえわかればあとはどうとでもなる。

「会場はピアメッセですので、必要であればお迎えしますが……」

「いやあ、あそこなら駅から歩いていけるし」

『あそこから歩くのは大変ですよ……?』

「うーん、歩くの好きなので、多分大丈夫です」

 パソコンでルート検索してみたら、徒歩で二十五分と出た。

 地元の人間なら間違いなく歩かない。五分歩くくらいなら車を出そうとする人が多い。それくらい車への依存は高く、都会の人より田舎の方がよほど歩かないんじゃないだろうか。

 まあ、二十五分くらいなら普通に歩けるだろう。ちなみにゼストの会場である産業振興センターを調べてみたら徒歩で一時間を超えた。さすがにやめておこう。

「それでは、来週は朝八時に会場前でお待ちしておりますね」

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