蝶の世界

 列車は喧噪の駅へと滑り込んだ。

 ごったがえす人また人の波を縫って、私は古びたホームに降り立ち、頭上になにやら巨大な布包みを持ったおばさんに、危うく線路に突き落とされかけながら、なんとか九死に一生を得て、ポケットの切符を改札の駅員に手渡すことができた。

 改札を抜けて、初めて踏み入った異国の街は、目新しい風物に満ちていた。

 立派な駅舎の丸天井の、高い天窓から差し込んでくる、夕方の陽の光。

 それに照らされる一角を足早に行き交う、白っぽい肌をした人々の群れ。

 列車が運んできたばかりのバナナを、一山いくらで売りたたく者もあれば、帳面をつつき合って商談をする、老練の商人らしい、砂漠の民族服の者もいた。

 白い口ひげを蓄えた恰幅のいい商人の肩には、小さな白い毛の猿がいて、どこぞでくすねてきたらしい乾し棗(なつめ)を、黒い両手の指で器用に持ち、熱心に貪っている。

 どこかで政治的なスローガンを怒鳴っている人々もいた。近々選挙があるとかで、赤い三つ星に投票するようにと、彼らは繰り返し述べた。

 時代は革命を待っている。今こそ変革の時である。新時代を望む者は今こそ、赤い三つ星に決意の一票を投じよ。それによって諸君は、赤い三つ星の同志となるのだ。

 壊れかけの拡声器を通して叫ばれる彼らの演説は、時々調子っぱずれになり、きいんと耳障りな故障の音を鳴らしたりもした。

 行き交う人は忙しく、演説を聞いている気配のする者は、誰一人いなかった。

 私は僅かな荷物をおろして、薄暗く人のまばらな駅舎の隅の、古びた木製のベンチに腰掛けた。はげかけた灰色のペンキに塗られたベンチは、そこに幾つもあったが、腰掛けて休んでいる者はほとんどいない。誰も皆ここでは、忙しく歩き回り、やって来ては出ていく列車に殺到するほうが、性に合っているらしかった。

 私は途中の駅で物売りから買った、炙った鶏に塩と香辛料を振ったものの包みを、荷の中から取りだした。車窓越しに買ったものの、あまりの混雑に食いそびれ、結局ここまで持ってきてしまった代物だった。

 買ったときには、いかにも美味そうな匂いをふりまいていた鶏は、今ではすっかり冷えて、幾分固くなっており、食い時を逃した残念無念を、私に感じさせた。しかし、冷たい脂で透けた白い紙包みから、まだ微かに漏れてくる鶏と香辛料の匂いは、私の空きっ腹を奮い立たせるには十分な威力を残していた。

 鶏にかぶりつこうと、私は膝の上で、紙包みを開いた。そしてまずは儀式のように、指を濡らした美味そうな脂を舐めた。遠い異国の味がした。

「美味そうな、いい匂いがするなあ」

 うらやましげな声に呼びかけられ、私は両手で口にもっていきかけた肉を宙に浮かせた。

 涼しげによく響く、まだ若い男の声だった。

 その声のしたほうを、探し出して見ると、駅舎の壁にもたれ、青年とも少年ともいえない年頃の男が、放埒に脚を投げ出して、床に座りこんでいた。彼は地元の砂漠風に、白いターバンを巻いていたが、そのほかの形(なり)は、私にとって異国であるこの地にとっても、さらに遠い異国のもののように見えた。

 彼はにこにこと愛想のいい顔をし、投げ出した脚のうえに、長い竿(さお)をした華麗なリュートのような弦楽器を、いかにも大事そうに抱えて持っていた。

 どこがどう良いとは言えないが、彼は一目見て、人が好きなる種類の人間だと、私には思えた。

「あんた旅の人だろう。どうかな、流れ者どうしの誼(よしみ)で、その弁当を半分、俺に恵んでみてくれないか」

 にこにこ朗らかに、彼は歌うような口調で、そう頼んできた。

 それは物乞いではないかと、私は思った。しかし彼の口調にはなぜか、そんな卑屈なところも、物欲しげなところも、微塵もなかった。まるで気安い友達に頼む、ちょっとした頼み事のようだった。

「実は、かなりの腹ぺこで、立ち上がるのも億劫なような次第なのさ。ここらの連中は世知辛くて、旅の楽師にご用はないんだとさ。お陰で俺は、もう何日ここでこうして干されてるやら。砂漠の駅のお情けで、ただで水が飲めるのでなけりゃ、もうとっくに彼岸の人間だったかも……」

 そう教えて、彼は、いかにも可笑しそうな笑い声で、あははと笑った。

「いいや、それはまだ大げさとしても、あんたが俺にここで情けをかけなれば、明日にはこの琴を売り払って、楽師をやめて食いつなぐしかなくなるさ。それが気の毒と思うなら、どうだろう、この際、前払いということで、あんたは俺に肉をやって、俺はそのお礼に、あんたに一曲とっておきの秘密の歌を、歌ってきかせてやるというのは?」

 悪くない話だと、人に思わせる話術を、彼は持っているらしかった。

 それが割に合う取引かどうかが、私に分かる頃には、鶏はすっかり彼の胃袋に収まっていて、返せとも言えなくなっている案配だ。

 そんなことを行きずりの他人にしれっと持ちかける根性をした彼が、見かけの年に似合わず老練に思え、私は微笑した。なんとなく他人とは思えなくなったからだ。

「いいけど、半分こで手を打たないか。私もけっこう腹ぺこなんだ」

「それはそれは。お優しい旦那様」

 皮肉めかして彼は言ったが、どうも承諾の意味らしかった。

 そして身軽に立ち上がり、リュートを背にしてやってくる足取りは、とても飢えている者の歩く姿とは思えない軽快さだった。

 口調とは打って変わって嫌みなく、彼は近すぎず遠すぎない初対面の距離で、私の隣に腰をおろし、分け与えられた鶏を遠慮なく受け取って食った。

 それはまさに飢えている者の食いっぷりだった。

 私はそれを見て、自分用に半分取り分けていた肉の、さらに半分を彼にやり、荷の中に持っていた、真っ赤な林檎も、惜しまずくれてやった。

 弁当はまた買えばよかった。私はいまここで食えなくても、行き倒れる訳ではなかった。

 しかし旅の楽師のほうは、どうも本当に、このまま行き倒れる運命だったらしい。

「嘆かわしいことだよ、今の世の中は。俺みたいな天才楽師が食い詰めるなんて」

 悔やむように言って、彼は私の水筒からごくごく水を飲んだ。半分とは言わず、せめて一口くらい残すべきではと、彼はちらりとも思わないらしかった。最後の一滴まで振り落として飲む姿を、私はいっそ爽やかだと思った。

 彼は物乞いかもしれないが、自分がその代償として与えてやれる音楽に、よほど自信があるらしい。

 隠す気配もしない、げっぷをしてから、彼は話を続けた。

「この街はつまらないところだよ。あんた、悪い事は言わないから、とっとと通り抜けるのがいいよ。俺もあんたに歌ってやったら、それでここでの仕事はお仕舞いにして、別にところへ行くつもりだ」

「私は、ついさっき着いたばっかりなんだけどなあ」

 私は情けなくなって、顔を歪め、駅舎の壮大な丸天井を見上げた。

 それが期待に胸をふくらませて、この駅に降り立った者への、一飯の礼として、ふさわしい話だろうか。

「とにかく歌おう。とっとと歌って、とっとと消えよう」

 着ているものの裾で念入りに指を拭いて、彼は言い、脚を組んでその上にリュートを抱えると、調弦を始めた。

 ぽろんぽろんと溢(こぼ)れるように爪弾かれる音は、駅の喧噪にまぎれて、耳心地よく響いた。

 伏し目になって音を合わせ、やがて彼はそれに合わせて歌う声を上げた。

 それは発声練習らしかった。

 たった今、脂ぎった鶏肉を貪ったのと、同じ喉とは思えない、どことなく少年の声の残る音程で、彼は自分の声の調律をした。

 それはリュートの音を背景に押しやるような、声高い美声だった。自分のことを天才だと言った、彼自身の言葉が、あながち自惚れではないのではないかと、私には思えてきた。

 声はどこまでも鮮やかに響き渡ったが、それに耳を傾ける者がいる様子はなかった。

 もしかして、この街の者は皆、耳が聞こえないのではないかと、私は疑った。そうでなければ、この歌声を無視して、商売の話や、政治の話をしていられるものだろうか。

 やがて調律が合ったらしく、楽師の男は伏し目のまま微かに笑い、唇を舐めた。

「じゃあ始めようか、旅の人。これから俺が歌う歌は、俺が師匠のもとを出るとき授けられた、免許皆伝の一曲だ。金のためには、今までに一度として歌ったことはない」

 もったいぶったありがちな前口上も、歌うがごとき美声で教えられると、有り難みがあった。

「あんたは命の恩人だ。だから特別の返礼として、この秘密の歌を聴かせよう。いかにしてこの世が生み出され、そして今も成り立っているかの、創世の秘密を詠った歌だ」

 土にまみれて労働したことがないような、楽師の白い指で、彼は弦を奏でた。そして歌い始めた。

 その歌は時折、耳慣れぬ異国の言葉だった。もとはその言葉で詠まれているものを、彼は翻訳して歌っているらしかった。それでも度々繰り返して出てくる一節だけは、彼は訳さずにそのまま歌っていた。

 もの皆、生まれ出(いず)る創世の森よ、レタ・ニ・ヌイ、サマ・ギータ・ロワンナ、と、彼は歌った。繰り返すその謎めく言葉によって、複雑な伴奏のある旋律は、美しく素朴な調子をとられ、どこか懐かしい子守歌のような曲調で、楽師は創世の秘密なるものを語った。

 謎めく歌は、教えている。

 かつてこの世には何もなかった。

 都市もなく、もちろん鉄道もなく、ただ無限の森が拡がるだけで、そこで人々は野生のままに、気楽な猿のように野蛮に暮らしていた。

 しかしある日、ある集落の娘は歌を聴いた。遠くの森から歌いかけられるその歌は、彼女を誘うようだった。その歌声を運ぶ風に乗って、沢山の蝶が、色とりどりに舞い飛んできた。

 集落に住む者の中には、それらがどこから来るのか、気にする者はいなかったが、ただひとり、その娘だけは、昼は呆然と、夜もろくろく寝られずに、その歌の出所に焦がれぬいて悶え苦しんだ。

 いてもたってもいられず、彼女はとうとう琴を抱いて、旅に出た。住み慣れた故郷を後にして。

 道のりは遠かった。

 それでも歌は絶えずに聞こえてきた。耳をそばだてた沈黙のまま、娘はこれまで集落の誰ひとり歩いたことのない、遠い道のりを踏破した。

 辿り着いた先には、明るい森の日だまりの中に、信じられない数の色とりどりの蝶が、群れて戯れ、ゆらめくような球を作って、創世の歌を歌っていた。

 レタ・ニ・ヌイ、サマ・ギータ・ロワンナ。

 蝶に求められるまま、娘は琴を掻き抱き、我が耳に聞こえている旋律に相和して奏でた。夢中に弦を掻き鳴らすうち、娘が気づくと、同じその蝶の森のなかに、数知れぬ男女が立っていた。

 誰も皆、自分と同じ忘我の表情で、群れ飛ぶ蝶に取り巻かれ、明るい森の中の、色とりどりの羽が作る球を見つめ、あるものは歌い、ある者は笛を吹き、ある者は鼓を打った。娘には見当もつかない、不思議な楽器を携えた者もいた。

 目の色も肌の色も、様々で、誰も見知らぬ者ばかりだったが、血の繋がった兄弟姉妹たちよりも、彼らは自分に似た者たちだと、娘は悟った。相和する声や音色は血の流れよりも濃く、娘の肉体を満たして流れた。それは熱い流れだった。

 レタ・ニ・ヌイ、サマ・ギータ・ロワンナ、と、蝶が求めた。

 それは娘の耳には、創世の森に集い、創造の歌を奏でよという意味に聞こえた。

 いや、聞こえたのでは、なかったかもしれない。それがそういう意味だと、娘には理解できた。そしてそれが、どんな歌なのかも。

 求められるまま、楽師たちは奏でた。その旋律が振るう魔法が、優しい風となって、群れ飛ぶ蝶を各地に送り届け、そこに街道を生み、港を生み、都市を生み出した。

 蝶に誘われ、野蛮な猿のようだった人間たちは、不意に立ち上がった。とこか遠く、まだみぬ未踏の地へと、旅をしてみようと思い立って。

 そして彼らは地に満ちた。そして今も、蝶の世界で生きている。

 創世を終えた楽師たちは、その森で愛し合い、子を成して、その子たちはまた森を出でて、各地を歌い歩いた。魔法が解けぬように。

 だから実はこの世のものは全て、蝶でできている。歌う蝶に喚ばれて、森へと旅した最初の楽師たちも、本当は人ではなく、蝶の眷属だった。

 今ではもう、それを知るものは稀だが、これが創世の秘密だ。

 レタ・ニ・ヌイ、サマ・ギータ・ロワンナ。いつまでもこの世がここにあるように。歌い継がれよ創世の歌よ。この世の真のからくりを忘れた、哀れな兄弟たちが、滅びぬように。

 最後の弦の余韻を残して、楽師の男は歌い終えた。

 その残響は、駅の丸天井に吸われ、舞い飛ぶ蝶のように、いつまでも長く残って聞こえた。

 私はぼんやりとして、頭上を舞っている音の残滓を、目を瞬きながら聴いた。

 奇妙な内容の歌だった。ひどく美しく懐かしいが、確かに未だかつて、どんな土地でも、聴いたことがなかった。

「この歌は、君の師匠が作ったのかい」

 やがて私が訊ねると、男は薄笑いして、首を横に振った。

 彼はもう、楽器を膝に置いて、歌う声ではなく言った。

「いいや。この曲は本当に、創世の蝶の森で奏でられていたものだ」

 本当にそうなのだと諭す顔で、彼は私に頷いてみせた。

「だから本当に、魔法がある。旅の人、あんたの旅が実りあるように。行く先にいつも、道があるように。そしてその道の先で、もしまた飢えた楽師を見つけたら、どうか、そいつにも食うものを恵んでやってくれ。世界を創る魔法が、消えないように」

 楽器を背負って、そう私に頼み、彼は音もなく立ち上がった。

 彼はもう、どこかへ行くようだった。

 しかし駅の改札には背を向けて立つ彼を、私は名残惜しく見上げた。

「君は私も、この駅も、君自身も、実は蝶でできていると言うのか」

「そうさ、歌の魔法によって」

 こともなく頷く男に、私は、まさかという笑みを向けたらしかった。彼は小首をかしげ、どことなく意地悪い笑みをした。

「信じないのは、あんたが忘れた者だからさ。もしも今でもそれを思い出せれば、いつでも蝶になって、飛ぶことができる」

 ゆっくりと何度も頷いて教え、彼はじっと私を見た。

「たとえば、こんなふうに」

 鮮やかに見える、最後の微笑とともに、彼は消え、色とりどりの蝶が群舞する、密集した群れへと変わった。蝶たちは一陣の風とともに、撒き散らされる綿毛の種のように、駅舎の中のあちらこちら、好む方向へと飛び去った。

 私は呆然とそれを見たが、なぜかは分からない、駅にたむろして忙しくしている者たちには、その赤い蝶も、青く輝く蝶も、全く目に見えていないかのように、気にもならないらしかった。

 蝶はその者たちに、からかうように二度三度と戯れかかったが、彼らが自分にかまわないのを見ると、諦めたふうに駅から出て行った。

 空耳に、歌が聞こえた気がした。

 レタ・ニ・ヌイ、サマ・ギータ・ロワンナ。歌え兄弟たちよ。心の弦を奏でて。この夢がいつまでも、終わらぬように。

 私は思わず微笑していた。その声があまりに美しいので。

 これまでこの世で、旅をしているのは自分ひとりと、そういう気持ちになっていたものだったが、どうも、そんなことはない。

 旅をしている者は、ほかにもいる。

 たとえば腹ぺこの楽師とか。蝶とか。そういう、様々のものが、様々の都合で。様々の方角へ。

 私は笑って、ベンチから立ち上がった。

 今夜の宿を探さねばならない。あの男が、つまらぬといったこの街にも、きっと何か、私なりの見所はあるだろう。

 少しはここに留まって、旅を楽しもうと思う。

 どんなちっぽけな街にも、そこにしかない魅力があるものだ。たとえば夢を忘れたような街の人々にも、かつては蝶だった頃を、憶えている者がいないとも限らない。

 そういう者を探し、それと出会い、そしてまた別れるのが、旅の人である私の道だ。

 どうか君の行く道に、いつも親切な風が吹くように。そしてできれば、時折は、弁当を半分といわず、全部恵んでくれるような、親切な者との出会いがあるようにと、私は祈った。あの美しい声の、蝶のために。私を守護する旅の風に。

 そして歩み出た喧噪の街は、もう夕暮れを終えた、夜の始まりの顔をしていた。



──完──

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