木樵の王

 森の中を歩いていた。

 人里に近い気配のする、その森の中には、踏み分けられた道がついており、間伐された切株が点々とあった。

 昼なお暗いという森ではない。たしかに枝葉に遮られて薄暗くはあるものの、梢には十分なゆとりがあり、有用な木々が成長しやすいように手入れされていた。

 つい最近の時代まで、この近辺では小さな戦が相次いで、小さな国々をしょって立つ諸王が、絶え間なく争っていたらしい。

 そこに英雄的な戦上手が現れ、国々を統一し始めたのが十年ほど前のことだという。

 長い戦いの時代を、結局戦いによって終わらせたその男が、近々、上王として即位するというので、私はその、きっと賑やかになるであろう即位式の祭りを見物しに、足をのばしてきたのだった。

 上王の出現により、この周辺の人々の暮らし向きが安定したことは、森を見ればわかる。

 切株には真新しいものから、古く朽ち果てたものまである。最近に伐採されたものがあるのは、ここらの男手が潤沢であることを物語っている。戦にとられていた男達が戻り、父や息子、夫としての義務を果たしているからこその、森の整然とした佇まいだろう。

 この辺の人々は、木を売って生計を立てている木樵(きこり)たちだ。森で育てた木を伐って、材木に曳き、木の乏しい土地に売って、金銭を稼いでいるのだ。

 しかし彼等は戦士でもあった。木を伐るための斧を担いで、そのまま戦場に赴き、ろくな武装もないままに、敵と相対して、家族のために戦った。その精神は、愛する者のために斧をふるう点において、何ら変わらなかっただろうが、違っていたのは、死ぬことがあるという点だった。

 伐り倒そうとしても、木は襲ってはこないが、敵は襲ってくる。元々からして侵略にきている連中である。男手を戦死させ、森をがらあきにさせて、女達が途方にくれたところに、我が物顔で入り込んでくる。そして森を根こそぎ伐採し、農地に変えて支配する。

 上王は、木樵の王と呼ばれていた。彼の治める元々の民の多くが、木樵だったからだ。

 決して豊かな土地ではないが、人々は純粋で勇猛だった。自分達の生きる形に、自信を持っていた。

 農地を拓けば、その分豊かになれたかもしれないが、そのために先祖から受け継いだ森を根こそぎ伐ることを、恥としか思えない人々だった。

 それで彼等は戦に勝った後、国に戻り、木樵に戻った。撃ち負かした相手から勝利は奪ったが、侵略はしなかった。皆の自由にさせておいた。彼らはただ、敗北したくなかっただけなのだ。

 かつん、かつんと、斧を振るっている音が、今もどこか森の奥から聞こえていた。その音は、歩いていくに連れ、だんだんと近くなってくるようだった。

 私はそれに耳を澄ましながら歩いた。これが清廉なる英雄の振るう斧の音かと聞き惚れて。

 やがて、チピピと小鳥たちが鳴いて、数羽飛び去っていくのが聞こえた。そして、めきめきと何かの倒れてくる音が。

 倒れるぞと叫ぶような声が朗々と森の奥から聞こえてきた。

 私は呆然として、梢を割り、木漏れ日の踊る薄暗い森を割って、一本の目を見張るほど立派な樹が、自分めがけて倒れてくるのを見上げた。

 まさか私の上に倒れたりはすまい。

 そのはずだ。

 だって、たまたま通りかかっただけの罪もない旅人が、倒木に押しつぶされて旅を終えるというのは、あまりと言えばあまりな話だ。

 そんなことを思う暇はあるのに、もう一瞬早く飛び退るだけの余裕が、私にはなかった。無様にびっくりした声を上げて、尻餅をついた足の上に、ずしんと音を立てて、大木の梢がのしかかってきた。

 森からの一撃のごとき撲たれように、私は再び悲鳴を上げていた。痛かったのだ。足が折れたのではないかと思えた。

 脂汗をかいて、下敷きになった足を引き抜こうとしたが、樹はびくともしなかった。

 その事実に、苦痛よりも別の不安が湧いて、汗がだらだらと額から湧いてきた。このまま夜が来て、狼どもの跋扈する暗い森の中に、ひとり取り残されるかもしれない自分のことが、脳裏をちらりとかすめ、どうなるのだろうかと神に祈りかけた。

 しかし心配は無用だった。

 冷静に考えれば、すぐ分かることだ。

 この樹が倒れる時に、倒れるぞと警告した者がいた。それに元々、この樹は伐り倒されたのだ。自然に倒れたわけではない。

 だから木樵がいるはずだった。

 その男は倒木の上を歩いて、とことことやって来た。無造作な金髪の巻き毛に木くずを絡ませ、悠々と斧を担いでいた。

 太い眉の下にある灰色の目で、木樵は倒木の上から、私を見下ろして言った。

「なにをやってるんだね、そこで」

 鷹揚に訊いてくる声の主は、ずいぶん、いい身なりをしていた。白靴下に包まれた脛(すね)を晒した短袴の上には、白い肌着のようなシャツ一枚だったが、汗にはりついているそれは、上等の亜麻でできているように見受けられた。髪と同じ金の口ひげを蓄えており、筋骨隆々としていて、いかにも木樵の国の者らしい屈強さだ。

「旅の者です。あなたの伐り倒した樹に足を挟まれまして……」

 滑稽なような丁寧さで、私は答えていた。足は痛かったのだが、悶絶するほどではなく、助けを求められる相手が現れた安堵で、私はずいぶん気が大きくなっていた。

「確かに、そのようだ。一体なにをやっていたのかね。倒れるぞと教えただろう」

 口ひげを捏ねながら、身なりのいい木樵は、いかにも不思議そうに言った。私は脂汗の浮いた顔で、苦笑するしかなかった。

「だが、こうなったからには、仕方あるまいなあ。逃げようにも逃げられぬ時はあろうから」

 頷きながら、そう独りごち、木樵はひょいと倒木の上から降りて、森の土を踏み、すたすたと私の傍までやってきた。

 尻餅をついている私の足先は、ぎっちりと樹の下に踏みつけられていた。木樵は腰を折って、それをじいっと眺め、それが癖なのか、またしきりに口ひげを捏ねていた。

「痛むかね」

 観察する目で、樹の下になっている私の足先を見つめて、木樵は訊ねてきた。

「今は、さほど。でも抜こうとしても、びくともしません」

「では、こうしてみようか」

 木樵は肩に掲げていた柄の長い斧を使って、梃子(てこ)を効かせ、下敷きになった私の足のすぐ脇あたりを、ぐいと持ち上げるようにした。ふっと重みがましになり、私は慌てて、自分の足を引っこ抜いた。どことなく、無理矢理の感はあったものの、足はなんとか抜けた。

 その後、やっとのように苦痛があり、私は膝を掴んで声にならないような悲鳴を堪えた。皮膚の下に血の流れていく脈打つ感じが、はっきりと分かった。

「歩けそうもないようだ。手当てせねばなるまいな。私が伐り倒した樹の下敷きになったわけだから、私には責任がある」

 再び斧を担ぎ、頷きながらそう言って、木樵は援助を申し出てくれた。

「私の馬を、貸して進ぜよう。城に連れ帰って、侍医に手当を命じようほどに、安心するがよい。腕利きの名医であるぞ」

 おっとりと響く、しかし厳かな声で、木樵は私を励ました。

 私は目を瞬いた。

 彼は木樵の王だった。


 ぽくぽくと石畳を歩く彼の馬は、見るからに名馬だった。つややかな毛並みの栗毛で、見ず知らずの足を挫いた旅人でも、文句も言わずに乗せてくれる寛大さを持っていた。

 栗毛の鞍は、これまた色よく使い込まれた浮き彫りのある革で、森林の民らしい、植物の文様だった。見事な逸品ではあったが、華美ではない。愛用された実用品としての美が、日々、脂を塗って手入れされたらしい、つやのある表面に現れていた。

「確かに私は木樵の王と呼ばれている。しかし本日限りは、ただの木樵だ」

 私を乗せた馬の轡(くつわ)をとって、王は機嫌も良く歩いていた。本当かどうか分からないなりに、陛下と呼ばれるご身分の方から、乗馬を奪って歩かせ、轡までとらせることに、私は恐縮していた。

 王は一人で森に来ており、斧を携えて単騎でやってきたという。護衛の者も、誰一人いなかった。

 そんな王様がいるだろうかと、私は少々怪しく思ったけれど、馬上から見下ろしていても、彼はいかにもそれらしい、王様そのものの容姿をしていた。少しばかり屈強すぎるようなきらいはあったが、それでも亜麻のシャツを着て、上質なウールの短袴をはき、白靴下に立派な革靴をはいていた。頭の上に、赤いビロードで飾られた金の王冠がないことが、不思議に思えるくらいだ。

「痛むようだな」

 青い顔で脂汗をかいている私を見上げ、王様はけろりとして言った。私はそれに頷いた。優しく歩いてくれる馬の一足ごとに、右足首よりやや上あたりが熱く、ずきずきと脈打つように痛んだ。

「気の毒に。では少しは気が紛れるように、なにか話していよう。痛みがつらければ、返事をしなくてもよい。気を遣うことはないぞ」

 轡を握ったまま行く先を見て、木樵の王は言った。

 はい陛下と、私は微かな声で答えた。もし本当にこの男が木樵の王だったら、一帯の上王になる御方だ。万が一の場合を考えると、せめて返事くらいはしたほうがいいと思えた。

「では何の話をしようか。見たところお前は旅の者であろう。上王の誕生を見に来たのであろうな」

 はい陛下と、私は平板な声で答えた。明日の上王は、口ひげを捏ねながら、感心感心と頷いていた。

「街には大した人出で、賑やかなようだ。楽師や芸人までもが集まってきて、さながら祭り……」

 言いかけてから、上王は首を捻った。

「いいや、まさに祭りであったな。即位を祝う祭りなのだな」

 ふっふっふと籠もったような笑い声をたてて、上王は面白そうに笑っていた。

「それが明日に迫ろうというのに、いまだに決められぬ。木を伐りながら考えていたが、とうとう倒れるまで、なにも思いつかなんだ」

 そう言って彼は、私の顔を見上げた。答えを求めるように、まるで私がそれを知っているとでもいうように。

「記念に銅像を建てるのだがな、それをどんな姿にしたものか」

 話す上王は笑っていたが、苦笑の顔でいた。

「銅像でございますか……陛下の」

 やっとの声で、私は答えた。やはり話さねば失礼だろう。

「さよう。木樵の王の。それがどんな姿をしているか、私は悩んでいる」

 彼は私に相談していた。通りすがりの旅の者に。ただ行き過ぎるだけの、土地にも血筋にも何の縁(ゆかり)もないものに。

 だからこそ正しい答えを、私が返すと思ったのだろう。

 しかし、まず上王は私を、城の医師に診せた。冷や汗を垂らしていては、まともに頭も回らぬだろうと思われたらしい。

 医師は名医だった。彼は城の侍医というよりは、むしろ軍医のようで、戦う上王に付き従って、数々の戦に赴いた猛者らしい。

 木に挟まれた足など、ほんのかすり傷という顔で、私の足に添え木を当てて、骨を痛めたようだと言った。だが折れてはいない。そのうち歩けるようになる。無理をせず、城に留まるようにとの上王の仰せだと。

 そして苦痛の消える薬と、ふんだんな食べ物とが私には与えられて、小さいが窓のある心地よい部屋も与えられた。通りがかりの馬の骨に与えるにしては、破格の待遇だった。王はよほど、自分が伐った木の下敷きになって、死ぬかもしれなかった私のことを、済まなく思ってくれたらしい。

 純真な人だと私は思った。数々の戦いを見てきた割に、子供のような目をしていたし、旅の者など知るかという尊大さがない。

 城の人々も彼のことを、上王として敬いはしていたが、恐れてはいなかった。彼は木樵であり、戦士でもあり、家臣には気さくに声をかけ、日々の宮廷では人の話にじっと耳を傾ける、名君のように見受けられた。

 私がなぜそれを知っているか。王がそれを、私につぶさに見るようにと命じたからだった。

 わざわざ椅子に棒を渡した輿(こし)のようなものを作らせて、力自慢を二人付け、私をどこにでも連れて行った。

 なぜそんなことをされるのか、極めて疑問で恐ろしくもあり、今後自分の旅がどういうふうになるのかと、私は危ぶんでいた。傷が治れば暇乞いをして、感謝の辞を述べ立ち去るつもりでいたが、それにしては私は随分と、いい待遇を受けていた。祭りはなかなか始まらず、王は私に、そなたの足が治るのを待つよう命じてあると言った。

 私が祭りを見るために、ここへ来たと話していたので、怪我をして足の萎えている間に、肝心のその祭りが始まって終わるようでは、私に済まないと思ったらしい。

 そんな話があるものか。

 筋が通っているようで、それは彼の口実だった。

 王は悩んでいたらしい。銅像の件だ。

 銅像は土台になる形を粘土で作り、それを雄型(おがた)として、溶かした銅を流し込むための雌型(めがた)を作る。そして鋳造するわけだが、祭りで披露される予定の銅像は、粘土の雄型の段階までいったところで、上王の命により、制作が中断されたままになっていた。

 わざわざ招致されて制作を命じられ、そして中断を余儀なくされた芸術家は、くよくよと困り、いつも昼間から酒を食らってくだを巻いていた。

 いったい王はあの像の、どこがお気に召さないのか。駄目なら駄目で、何かおっしゃっていただきたい。お前の腕では不足だというお考えであれば、さっさと追いだしてくださればいい。なぜ何も下命のないまま、こうして城で飼い殺されているのやら、不名誉の極みだと、いつも決まってそんな話だ。 

 王は彼に、二体の像を造らせた。そして二体目の完成を見てから、深く沈黙なさっているという。

 そういえばそんな話だったと、私は思い出していた。王はどんな像を造らせるかを、悩んでいると話しておいでだった。私を連れて森から戻る道すがら、そんな事を相談された。

 そしてその話は中断したままになっている。

 王は日々の政務でお忙しいので、お忘れなのだと思っていた。

 しかし実のところ彼は、私の足が癒えるのを待っていただけらしい。

 とうとう歩けるようになったと、私は玉座に礼を述べ、つきましてはお暇をと願い出た。森で倒木に足を噛まれて以来、一月半ほども過ぎていた。

 すでに、すっかり城にもとけ込み、旅の人とは呼ばれるものの、ここに居着いてしまいそうな心持ちだった。田舎の城は、のどかで暮らしやすく、そこに住む人々も領民も、気だてのよい素朴な顔ばかりだったし、王は王で見る者を爽快な気分にさせるような名君主だ。このままこの国の行く末を見守りたいという気持ちが湧いて、旅の続きを行く足を引き留めそうだった。

 だが考えてもみよ。私はただの食客であり、この国に何の貢献もしていない。詩作ができるわけでも、道化なわけでも、博識な学者として、治世に意見を述べられるわけでもありはしない。

 ただの旅の者として、ふらふら流れてきただけなのだ。長居の出来る身分ではない。

 だから去らねばならないと、辞去を申し出る私の顔を見て、治って何よりと玉座の上王は言った。

 そして相談の続きが、やっとまた始まった。

 明日には祭りを始めさせようと、上王は私に請け合った。

 そなたは祭りを見に来たのであるから、それを見ずして去りはすまい。とうとう私も上王として、名実ともに即位すべき時が来た。ついては、そなたに相談事がある。今宵一夜は城に留まり、私の話を聞くがよい。

 そんなご命令を受けて、私はもう一晩を過ごすことになった。

 世も更けて、別れを惜しむ宴席に、次々現れてくれる今では見慣れた顔たちと、名残の酒を酌み交わし終える頃、王は参れと私を呼びつけた。

 はいと答えて付き従う先には、すでに酔いどれが板についた気の毒な芸術家の作業部屋があり、ずいぶん前に作り上げられた二体の粘土像が、虚しく乾いて待っていた。

 王は私と並んでそれを見上げ、深いため息をついていた。

 像の一つは見るからに出来のいい、目の前にいる王の勇姿を象ったものだった。

 上王にふさわしい王冠を被り、貂(てん)の毛皮で縁取られたマントを纏った出で立ちで、王杓(おうしゃく)を持ち佇んでいる。泰然として遠望する目をしており、どことなく微笑んだような表情をしていて、この純真で気さくな名君の似姿としては、申し分のない仕上がりだった。

 そしてもう一方の像に目を向けると、それは誰とも知れない男の像だった。

 粗末な麻の服を身につけて、短袴の下は素足のままだった。髪はぼさぼさで整髪した気配もなく、蓄えた髭もどことなく粗野な様子で、粘土の男は大きな木樵の斧を持っていた。それを刃のあるほうを下にして地に着き、やはりこれも遠望する目をしている。

 木樵の像だと私は思った。

 片や上王。片やただの木樵の像だ。

 王が何を悩んでいるのか、私にはよく分からないまま、じっと腕組みをして二体の像を見る彼に、黙って付き従っていた。

 しばしの息詰まる沈黙の後、王はぽつりと言葉を発した。

「この像は、よく似せてある」

 はい陛下と、私は答えた。それに王は、ふふふと笑っていた。

「私の像ではない。この男。そなたは知るまい、こいつが誰であるかは」

 知らなかった、確かに。

 誰でもない男かと思っていた。芸術家が適当に作り上げた、誰ということもない、ありきたりの木樵の像かと。

「私の話を聞き、思うところを話してくれまいか」

 真剣味のある相談の目で言われ、私は黙って頷いていた。

 それにゆっくり頷き返しながら、王は語り始めた。彼がまだ上王でなく、うち続く戦を終わらせるための戦いを、始めたばかりの頃のことを。彼が上王になるための道を、歩き始めた夜のことを。

 その物語は、侵略者の来襲劇から始まった。

 彼はもともとは隣国の王子だったらしい。この木樵の国には姫がいて、その一人娘の父である王が、小さな国を平和に治めていた。

 姫は子供の頃からの彼の許嫁(いいなずけ)だったが、なんと間の悪いことに、とうとう婚礼という夜になって、侵略者は現れた。

 おそらく、宴席の隙を突くということだったのだろう。

 やはり名君の誉れ高かった前の王は、娘の婚姻を祝う宴席の場で奇襲され、命と首とを奪われた。そして姫は城に軟禁されてしまい、彼は命からがら逃げおおせることになる。

 そのまま母国に帰ろうかという段に至り、花嫁となるはずの娘のことを、彼は一度は諦めた。命あっての物種と、そう考えたのだ。

 侵略者たちは強大で、喧嘩相手にしては、あまりに腕っ節が強かった。諦めるのは許嫁の娘ひとりと、婚姻によって手に入るはずの、小さな森の国の王冠だけだった。

 彼も故国の一人息子で、戻れば自分のための玉座が用意されている身の上だった。二重王国になるはずの統治が、その半分になるだけのこと。諦めて引き返しさえすれば、当座の首は繋がっていた。姫とはまだ寝ていない。婚姻は不成立のままであり、言うなれば赤の他人だったからだ。

 未練断ちがたいほどの恋情も、実は無かったのだ。

 姫とは確かに幼少の頃よりの許嫁だったが、とりわけ美しい娘でもなかった。どこにでもいるような素朴な娘で、栗色の巻き毛が美しくはあったが、そんな娘の代わりはいくらでもいそうに思えた。命がけで救いたいほどには愛着がない。

 それで去ろうと決意した。英雄的ではないと罵る、若い自分の声は聞こえたが、生きてこその英雄性だ。国に戻って取引をして、侵略者たちとの戦いを避けようというのが目算だった。

 そして夜逃げの時が来て、騒がしい領民たちの目を盗み、身近な家臣たちだけを連れて馬を駆ろうというときに、事は起きた。

 姫が城の城壁に現れたのである。

 軟禁された部屋を逃げ出して、城壁より民に述べたのである。

 父王は身罷られ、今や私がこの国の女王である。侵略者に奪われて、王冠こそはないものの、そんなものが必要ないことを、今から私はそなたたちに見せましょう。

 侵略者は私に、この国の玉座を明け渡し、彼らの王の妾になるか、それを拒めば首を斬り、遺体を辱めると言いました。私はどちらも血筋に恥じることだと思います。ついては今から身を投げるゆえ、そなたたちは戦いなさい。森の男の誇りを見せよと、姫は叫んで身を投げた。

 その時の篝火に照り映えた顔の、今までに見たことのない女のようだった誇り高さが目に焼き付いて、彼は逃げる手綱をとる手を止めていた。

 助けなければと思ったが、姫はあまりにも潔く飛んだ。馬で駆けても手の届くものではなく、我と民との見守る絶叫の中で、姫はあえなく地に打ち付けられて死んだのだった。

 しかし即死ではなかった。彼女を救わんとして駆けつけた者は他にいた。

 それがこの像にある、木樵の男だった。

 我が姫はこいつに抱かれて死んだのだ。なんという淫売であろう、あの姫は、とりたてて美しくもなく、そして私という許嫁がありながら、土地の木樵と想いを交わしていた。そうに違いない。そうでなければ誇り高い王家の女が、恋人の死を嘆く木樵ふぜいに、最後の口付けを許しはすまい。

 私は大勢の見る前で、妻になるはずだった娘を寝取られた。

 木樵の男は隣国の王子などには丸で頓着もせず、姫の死を嘆くにまかせて斧を取り、侵略者たちの眠る城に奇襲をかけた。それが一人きりの殴り込みにすぎないのであれば、男は殺され、それだけで終わりだっただろう。

 だが、この森の者たちは忠義にあつく純真で、一命を賭した健気な姫の檄(げき)によって、男心を鞭打たれたのだ。

 斧を携え城門を襲う者は、ひとりきりではなかった。ほとんど全ての斧を持つ男たちが、その夜の反乱に馳せ参じたのだ。

 凄惨な夜だった。日頃穏やかな木樵たちが、火のついたように荒れ狂い、城を制圧していたはずの侵略軍を、常には木を伐るための大斧によって、一人残らず血祭りにあげた。

 姫を看取った男はその後、あたかも玉座を継いだような親分格となり、増援を寄越した侵略者たちと勇猛果敢に戦いはしたが、しょせんはただの木樵にすぎぬ。怒りにまかせた勇猛さだけで、百戦錬磨の軍隊と、いつまでも互角に戦いつづけられはしない。一時優勢を得ても、いずれは押し返される。私にはそれが分かっていたと、今では上王となった男は語った。

 いかにして戦うか、私は知らなかったわけではない。

 偉い博士や軍人たちに、戦の定法は教えられていた。私に足りなかったのは、勇気だけだったのだ。一命を賭して戦う、向こう見ずな勇猛さが、若い王子には足りず、敵と取引をすることのほうに、賢さがあると思えたのだな。

 しかしその夜、私も姫の檄(げき)に背筋を打たれた男のひとりだったのだ。姫に惚れたというわけではない。本来であれば、私が務めるべきだった反乱軍の先鋒を、間男の木樵ふぜいに奪われたことに、私は衝撃を受けていた。血筋正しき私を差し置いて、その男はこの国の民の英雄になろうとしていたのだ。

 私はその足で故国に戻り、援軍を出す支度は調えていた。しかし、すぐには戻らずにいた。あと少し引き延ばせば、あの男はいずれ死ぬだろうという目算が、我が心の悪魔として囁き続けていた。

 果たしてそれはその通りで、木樵の王は死んだのだ。勇猛果敢に戦って、結局敵に撃破され、そして本物の英雄となった。

 民は今もそのことを、忘れていないだろうと思う。

 名も無き真の英雄として、あの男を憶えている。きっと忘れないだろう、永遠に。王冠もなく、銅像がなくても、木樵たちの住む家の炉辺では、きっと永遠に語り継がれるのだろうと思う。王冠をかぶったよそ者の王子より先に、戦いを始めた男のことを、真の英雄として、民は心に生かし続けるだろう。

 私はそれへの嫉妬に身を灼きながら、名も無き木樵を凌がんとして、必死で戦ってきたのだ。民が愛し敬うような、立派な王になりたいと、あらゆる努力を惜しまなかった。

 なぜあの夜、姫を看取って最後の口付けをしたのが私ではなかったのだろうか。なぜ私は逃げようなどと、臆病風に吹かれたのだろうか。

 それは賢明な判断だったと思う。そこで暴れて見せたところで、援軍なくして戦いにはならなかっただろう。しょせん木樵の集まりだ。それを率いる真の王がいなければ、有象無象の集まりでしかない。

 結局私が勝ったのだ。敵を打ち払ったのは私の軍で、あの木樵ではない。今や私が王の中の王、木樵の王と人は呼ぶ。

 しかし疑問なのだ、旅の人。果たして私は誠に木樵の王であろうか。そうでありたいと後釜を狙い、その玉座におさまっただけの、偽者の王ではないのだろうか。果たして私は英雄として、男として、この木樵の男を越えられただろうか。

 そうではあるまい。

 私がするのは、この男の猿まねで、真の王はこの木樵。これが本物の木樵の王なのだ。

 上王の即位を祝う平和の祭りには、この男の像を建てて祝うべきではなかろうか。そのほうが民も喜ぶだろう。私はそれをよく知っているつもりだが、それでも耐え難い。この男の像に歓呼する民を見ることに、言いしれぬ屈辱があるのだ。

 私は私の像を建ててもよいだろうか。

 私は私なりの辛酸を舐めてきた。英雄的に戦ったつもりだ。名君として統治している。それはお前も見たであろう。

 今後も私は名君として、決して奢らぬ木樵の王として、我が領土を統治し続けるつもりだ。きっと民は私を愛してくれるだろう。そんな王の銅像があれば、祭りには足りると思わぬか。

 いずれ歴史も私のほうを讃えるであろう。立派な王であったと。この私こそが、木樵の王であり、最初の英雄なのだ。その物語があれば、民の幼子が聞く炉辺の物語として、なんの不足もないだろう。

 どう思うかね、旅の人。

 どちらの像を明日の祭りで、そなたは見たいだろうか。この国を打ち建てた、偉大な男の像として。

 答えてほしい。私の望む答えを。

 上王は淡々と、しかし熱っぽくその物語を語り終え、求める目をして私を見つめた。

 私はなんと答えるべきだっただろう。

 陛下のお望みのままにと。陛下が正しいと思し召すようにと。私には分かりませんと、答えるべきだったろうか。

 それともこう言うべきだったか。あなたは木樵の男の像を建ててやるべきだ。この人が民の望む真の英雄なのであれば、それを揉み消すべきでない。あなたが名君なのであれば。

 悩みのつきない、難しい相談事だった。

 私はこの王に恩義があったし、その時の彼は王のようには見えなかった。

 道に迷った哀れな旅人のようだった。

 行きたい場所があるはずなのに、そこへどうやって行けばよいやら、道が見えない。そんな不安げな顔をして、どこの馬の骨とも知れない私に、縋り付こうというふうな目だった。

 どうせ私は行きずりなのだ。この国に何の縁もない。もう二度と足を踏み入れないかもしれぬ片田舎の都の広場に、どんな銅像が建っていようが、いったい私になんの関係があろう。

 私は王が気の毒だった。永遠に追い抜けない背を追いかけている。死ぬほど駆けても、その背には手が届かないだろう。そういう相手がいるものだ。常に自分の先を行く、道の向こうに見えている影が。

 だがこの人も、いずれは気づくだろう。その背を追うからこそ、踏破できる道のりがある。そしていずれは、その背に感謝する。もしかしたらそれは、ずっと先のことかもしれない。結局分からなくても、恥ではない。だってこの人は本当に、王の中の王で、うち続く戦いを終わらせた男なのだ。その戦果を讃えない者が、この森の中に、ひとりでもいるだろうか。

「陛下の像をお建てになればよいかと存じます。陛下は王の中の王で、真の英雄でいらっしゃる。陛下のご即位を祝う祭りなのですから、陛下の像がなければ始まりません」

 畏まって、私は答えた。

 上王はそれに、かすかに首をかしげ、にっこりと微笑んだ。

「そうか。そう言ってくれるか。ありがとう。これでやっと、私も決心がついた」

 王は満足げに私に軽い目礼をして、そして自分を模した立派な像を見上げた。それは木樵の王にふさわしい、堂々した像であり、きっと永遠に民によって愛されるだろうと思われた。

 もう眠ろうと王は言い、私とともに作業部屋を出て、宴席にいた飲んだくれの芸術家を叩き起こさせていた。とうとう像を鋳造する時がやってきたのだ。芸術家は躍り上がって喜んで、酒に飲まれた赤い顔のまま、作業部屋に飛んでいっていた。

 それを笑って見送って、居室に引き上げていく木樵の王の背を、私は複雑な思いで見送った。

 私は嘘をついただろうか。

 あの人が気の毒だというのが言い訳で、案外悪い人らしい王様のことが、ちょっぴり怖くなっていただろうか。

 もしも木樵の男の像にしろと答えてやって、もう二度と日の目を見られないような、そんな悲惨な目にあいはしないかと、私も臆病風に吹かれたのだろうか。

 そうではないと思いたい。

 本当に気の毒だったのだ。日々の努力を怠らぬ、民に愛されたあの王が、実は敗北しつづけているというのが。

 あなたも良くやったと、一言言ってやりたかったのだ。

 そうしたことを、私は後悔していない。私は正しいことをした。そう思って旅立つことにする。明日の朝、即位の祭りを少しばかり眺めたら、その足でまた、遠くへ旅立つことにしようと思う。そしてもう、二度とこの森へは足を踏み入れまい。

 後悔はないが、私は感じていた。私が間違った答えを教えたことを。

 あの人は、木樵の像を建てるべきだった。きっとそれこそ正しい選択で、民が待つのはその像だ。しかし文句は言わないだろう。胸の中の英雄像だけで、誰もが許してくれるだろう。建国の英雄は、二人もいらないのだから。

 そうして眠り、私は旅立ちの朝を迎えた。

 祭りの支度はとっくに整っており、森の民たちは、すでに長々と待たされすぎたその時を、やっと迎えられる喜びに沸いていた。

 像を仕上げた芸術家は、城門のあたりで酒瓶を抱いて眠りこけており、当の祭りを見られそうにない。

 それを笑って見て通り、旅装の私は街の喧噪へと分け入った。

 田舎の街を埋める人の波に混じって、私が見上げた銅像は、仕上がったばかりの熱がまだあるような荒削りのままで、ずいぶん荒々しい姿をしていた。花に埋もれて遠望する目をした男がひとり、銅で作られて、台座の上にいる。

 私はそれに目礼をした。伝説の英雄に。

 そして城を振り返り、もうひとりの英雄にも一礼をした。

 王は、木樵の像を建てていた。斧を携え、粗末な服を着た、ぼさぼさの髪の英雄像を。

 それを建国の父として、この国の民は永遠に崇めるのだろう。この、名も無き英雄を。

 しかし私は思うのだが、きっと語り継がれる男になる。この像を建てたあの王も。

 またいつか、それを見届けにこの森へ、旅をしようかと私は思った。

 讃えよ王の中の王、森の上王を。真の英雄にして、決して奢らぬ木樵の王。彼は己に打ち勝った。その戦いの勝利こそが、彼を真の英雄にするだろう。

 私だけが知っている。その孤独な戦いを。そして、もしかすると、誰もが知っているのかもしれない。この木樵の像を見上げて祝う、森の民人たちも。

 そうであるといい。そう願いながら、私はまた旅に出た。美しく照り映える緑の森を抜けて、喜ばしく響く歓呼の声を聞きながら、誇り高き木樵の国を後にした。


──完──

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