5 春季キャンプ

 一月二十五日、嬉しい給料日。

 ベイサイドスタジアム内にある、横浜マリンズ球団事務所のドアを誰かがノックしている。

「はい、どうぞ」

 受付に座っていた事務職員、夕凪朝子がいざなう。すると、

「どうも、失礼いたします」

 と挨拶しながら顔を出したのは、風花涼であった。

「どちら様で……ごめんなさい、監督さんですね。どうしました?」

 夕凪朝子はまだ風花の容貌をしっかり把握してなかったようだ。

「ええ、舵取社長か吊橋専務はいらっしゃいますか」

 風花はまだ顔だけ出した状態でオドオドと尋ねる。まだ、デパ●錠は飲んでいないようだ。

「はい。お二人ともおりますよ。どうぞ、社長室まで」

 朝子が案内をする。

「では、失礼します」

 風花が緊張の面持ちで事務所に入る。職員たちの目を気にしてか頬を赤らめ、下を向いて歩く。そして、

「やっぱり、無理だ……あのう、夕凪さんですね」

 風花が朝子の胸の名札をチラリと見て言う。

「なんでしょう?」

 朝子が聞くと、

「お水を一杯戴けませんか」

 と風花が頼んだ。実は風花、いつまでもデパ●錠に頼っていてはいけないと減薬に取り組んでいたが、この新世界に飛び込もうという時に減薬など出来るはずもなく、結果的に増薬してしまった。かかりつけのクリニックの先生からも、

「そりゃあ、無理でしょう」

 と自立の努力を笑われた。悔しいので再度減薬にチャレンジしてきた今日だがやっぱり無理みたいだった。

「はい、お水です」

 朝子においしい水道水を渡された風花は胸ポケットからデパ●錠を取り出し服用。すると、すぐに、

「ありがとう、夕凪さん。それにしても、お美しい」

 と人格変わりしてしまった。恐ろしや、デパ●錠。

「まあ……」

 古風に夕凪が恥ずかしがると、

「今度一緒にクルージングディナーにでも……バシッ! 痛い!」

誰かが、朝子を口説く風花の後頭部をハリセンで叩いた。まさか……今出川・セレーヌ店長?

「風花さん、社内恋愛はご法度ですよ」

 ハリセン片手に立っていたのは佐藤智子であった。

「ああ、美しすぎる秘書の佐藤智子さんじゃあ、ありませんか。なぜここに? なぜハリセンをお持ちで?」

 八方を美女に囲まれ、嬉し恥ずかし、頭は痛い状態の風花が問う。

「私、今日付けで、マリンズの統括部長兼監督付きマネージャーに出向になりましたの。そして、あなたの身分照会をした際、友人堂・北新横浜店の今出川店長から『風花がサボっていたり、女性に鼻の下を伸ばしていたりしたらこれで、叩いてやって下さい』と、このハリセンを渡されたのよ」

 と美しすぎる秘書改め、美しすぎるマネージャーの佐藤智子が超不機嫌そうに言った。ああ、眉間のしわまで美しい。

「監督付きのマネージャー! ではあなたはずっと僕と行動するのですね。嬉しいなあ、出来たら『監督好きのマネージャー』になるともっと嬉しいのですがね……バシッ、痛いですよ、何度も……」

 風花の後頭部はまたしてもハリセンの餌食となった。

「まあこのハリセン、便利ね。あなたの調教にぴったりだわ」

 ほほ笑む佐藤智子マネージャー。顔に似合わず、そうとうなドSだな。

「ところで今日は何の御用?」

 智子が尋ねる。

「ええ、沖縄キャンプの事で大事な用件がございまして……詳細は舵取社長に言います」

 風花が深刻そうな顔で答える。

「そう。じゃああちらへどうぞ」

 自分に大事な用件を聞かされないと思った智子はプイッと横を向いて自分の席に戻って行った。怒った背中も美しい。

「それはそうと……舵取社長、お疲れ様でーす」

 とご陽気に社長室に入る風花。デパ●錠の威力は凄い。

「おお、風花君、いや監督。今日はどうしました?」

 舵取社長が笑顔で向かい入れる。

「ええ、沖縄キャンプのことなのですが……」

 風花は言いにくそうにしている。

「なんでもおっしゃって下さい」

 舵取が言うと、

「はい。実は僕……」

 モジモジしだす風花。

「さあ、遠慮なく」

 舵取が促す。

「はい。実は僕、飛行機が怖くて乗れないのです。だから沖縄まで新幹線と船で行きたいのですが……」

 舵取は飲みかけたお茶を噴き出した。

「風花君、きみは苦手なものが多すぎるねえ。まあ仕方ない。早速乗車、乗船の手続きをしましょう。きみ、確か重度の方向音痴だったね。一人にしたら札幌か北朝鮮にでも行ってしまいそうだな。そうだ、誰かを一緒に付けよう。ここは佐藤智子君かな。マネージャーだから」

 舵取が言うと、

「はい、はい!」

 と風花、妄想モードに入って喜んでいる。しかし、

「あと、ギャーギャー君も一緒ね」

と風花の妄想を舵取が打ち破った。

「社長、付添いは佐藤さん一人でいいですよ。僕、横綱じゃないですから」

 と風花が抗議する。横綱の場合は付き人だけどね。しかるに舵取は抗議に対し、

「いや、ギャーギャー君も飛行機苦手だから新幹線と船で行きたいって、さっき電話して来たのだよ。なんならギャーギャー君と二人で行くかい?」

と反撃する。

 旅の仲間が一人増えた……。


 一月二十九日。

 横浜からキャンプ地である沖縄県、G市までは新幹線、フェリーを乗り継ぐ場合、この日の朝早く出ねば期限までに到着出来ない。だから風花ら三人はこの日午前九時に新横浜駅に集合した。三十一日にはナインと合流し、地元市民の歓迎レセプションに参加する義務がある。フェリーが荒天で欠航する可能性も考慮し早めの旅立ちなのである。


※この作品はフィクションであり、この先の電車、バス、フェリーの時刻表など『実際と違う!』等のクレームは(特に鉄の皆様)一切お受け致しかねます※


 午前九時四十九分、風花たち《陸路班》は新幹線のぞみ39号に乗り込むべく、プラットホームへ上がる。その際、風花は、

「のぞみ、かなえ、たまえ!」

と訳の分らないことを口走り、さらに、

「僕、窓の方!」

 と叫んで、風花が三人掛けの窓側に飛び込んだ。そして靴を脱いで正座の姿勢で外を見る。子供だ……テンション高すぎる。

「ギャーギャーさんはどうします?」

 佐藤智子マネージャーが風花を無視して尋ねる。

「ワタクシはどちらでもいいですよ」

 紳士な対応。

「じゃあ、私、通路側にします」

 智子は即決した。おデブと、巨漢に挟まれたら息が苦しいと判断したのである。

「では、ワタクシは真ん中で」

 どっこいしょ、とギャーギャー着席。

「出発進行!」

 風花が元気に号令。長旅の始まりだ。


 五分後。

「スピードが速すぎて景色なんか見てられない……」

 早くも乗り物酔いする、風花。一方のギャーギャーは物静かに読書に励んでいる。

「何を読まれているのですか?」

 と智子が尋ねると、

「サルトルです」

 ギャーギャーが答える。案外、文化人じゃん。すると、

「猿飛ね、真田十勇士だ。この講談好き!」

 と勘違い十勇士の大将、六文銭ならぬ一文なしの風花がギャーギャーをからかうが、ギャーギャーと智子は無視した。


 十分後。

「うう、気持ち悪い。佐藤さん、お水を下さい」

 完全に酔っぱらった(乗り物にね)風花が救いを求めると、

「そう来ると思って、ただの水道水持ってきました」

 と、智子が水筒を差し出す。察しがいいねえ。

「ありがと」

 美空●ばりか美川●一のように答えると風花は《こころの万能薬》デパ●錠を水道水で飲み干した。

「ああ、気持ちが落ち着く~」

 風花は叫ぶとデパ●錠の副作用で眠ってしまった。

「これで静かに読書出来ますな」

 ギャーギャーがポツリと言うと、

「そうですわね」

 智子は同意し、鞄から東京経済新聞を取り出して読みだした。


 新大阪より先は、さくら409号という新幹線で鹿児島中央まで進む。風花はその間全く目覚めず、佐藤智子マネージャーとギャーギャーは読書を堪能していた。ちなみに智子が東京経済新聞の後に読んだものは、『役立たず操縦法』というビジネス書と雑誌『アーンアーン』の《今年のあなたの運勢特集》であった。結果は『今年一年、あなたは重い荷物を背負って急な山道を登らされるでしょう』と書かれており、智子は途中で『アーンアーン』を放り投げた。だからその後に『頂上に着いた瞬間、荷物はあなたにとって大切な宝物になるでしょう』という一文までは読まなかった。


 午後三時十分。

 一行は鹿児島中央に到着。そこから鹿児島新港までバスに揺られ、午後六時に那覇行きのフェリーに乗り込んだ。その際、朝から寝っぱなしで何も食べていなかった風花が空腹を訴えたが、智子は風花にエサを与えなかった。そしてクレームをつける風花の後頭部をハリセンで殴打。風花は失神し、食事代と時間が少し浮いた。


 鹿児島新港を出たフェリーは午後七時過ぎにようやく那覇港に到着した。あまりの長旅に風花はヨイヨイになってしまい、ギャーギャーにおんぶして貰ってタクシーに乗り込み、G市にやっとこさ、到着した。すると風花は、

「時差ボケでつらい」

 と勘違いこの上ない発言を残してホテルのベッドで寝てしまった。

「この、一生寝太郎め!」

 智子は怒ったが、自身も眠くなり隣室で寝入っている模様。ただ一人、ギャーギャーだけが広報の責任者として明日からのスケジュールチェックに励んでいた。テレビ、ラジオに出演しているときの『おふざけ、大声野郎』はあくまでも演技だったのか? 案外、真面目な人かもしれない。

 旅の行程がスムーズに行ったので翌日は休養。風花はホテルの部屋から一歩も出ず、惰眠をむさぼる。さらに明けて翌々日。残りの、と言うか、ほぼ全員のマリンズナイン、及び関係者。さらには例年より若干人数の多い報道陣が飛行機にて那覇空港に到着。風花が不在なので、上島オーナーと元町選手、横須賀投手が《ハイサイ娘》というおばあさんたちから花束を贈呈されたが、全部ドライフラワーであった。ハイサーイ!

 同日、夕刻。

《飛行機組》のメンバーを乗せた大型バスが宿舎である、G湾ヤンバルクイナホテルに到着。玄関で待ち受けていた風花たち三人が笑顔で迎え入れる。

「風花はん、無事だったかねえ。私、一昨日、うっかり《タイタニック》を見てしまいましたわ。やばい、思うたわ」

 と上島オーナーが毒舌を吐くと、

「ええ、こちらも皆さんの飛行機が墜落しないかと、夜も眠れないほど心配しておりました」

 風花は大嘘を平気でついた。

「まあ、お互い無事でなにより。歓迎レセプションまで、少しミーティングでもしまひょか? なんか、冷たいもんでも飲みまひょ」

 上島はそう言って、首脳陣、球団の重役たちを連れて、ホテル内のティーラウンジ《マングース》に入った。

 上島たちはアイスコーヒー、風花だけ、ダイエットコーラを注文した。そして上島が胸ポケットを探りだすと、

「オーナー、ここでは煙草を吸わないで下さい」

 すかさず、佐藤智子マネージャーが釘を刺した。

「ふ~ん、禁煙パイプだも~ん」

 上島が、したり顔を見せる。

「ムーッ」

 智子は隠し持ったハリセンを使おうかと思ったが、これは風花専用なので止めておいた。

 冗談は、はておき。

「まずは風花はんに謝らにゃあならんのよ」

 上島が頭を下げる。

「どうしたんですか? もしかしてもう、クビ?」

 風花はオロオロする。

「ちゃいまんがなあ。詳しくは駒込君言うてえや」

 上島が駒込渉外部長に振る。

「はい。監督が希望された右の大砲ですが、現在メジャーにも3Aにもフリーランスにも適当な人材がおりませんでした。左の長距離砲なら余るほどいるのですが、どういう訳か右打者にこれと言う有望株がいません。今後、韓国、台湾、オーストラリアなどのコネクションも当たってみますが望みは薄いです」

 うーん、風花希望の右打者は獲れなかったか……。

「駒込さんの力を持ってしても獲得できないのならば仕方がないですね」

 と言いつつも、珍しく落胆する風花。

「現有の日本人バッターで候補はいないんでっか?」

 上島が問うと、

「まあ、実績と潜在能力からすると、ベテランの宗谷、三年前に三十ホーマー打っている葦村あたりでしょうか? 沖合コーチはどう思われます?」

 風花が沖合コーチの意見を聞く。

「オレが見たところでは、宗谷は下半身の衰えが激しく、去年以上の働きをするには走り込みが必要だね。でもあの巨漢だから膝に故障がありそうだ。期待は出来ない。葦村はバッティングにも心にも柔軟性がない。時間をかけて一からやり直さなくては、これも難しいね」

 厳しい見方だ。

「左にはいいのがおるよ」

 水門コーチが言った。

「三年目の台場は、私がきっちり育てます。それに投手から野手に転向した五年目の潜水がよろしい。去年までは下に沈んどったようだが、下半身が出来ているから今年、浮上させられるんとちゃうかな」

こちらは威勢がいい。

「まあ、お二人にはそれぞれ和製強打者育成を中心にお願いします。あとの中距離バッターは徹底的なチームバッティングの指導を河合コーチにお任せします」

 なるほど、沖合、水門両氏は大砲専門なのか。あとの小っちゃい奴ら(あほなスカウティングの成果だ)は小技を磨くのだな。

「投手の方はどないでっか?」

 上島が切り込んでくる。

「右投手は若いのが大勢います。鍛えがいありますよ。日吉なんかは将来のエース候補かな」

 浮島コーチが張り切っている。

「ワシが見たところ、左は大陸を除くとまだ弱い。その中で、港、新丸、関門、そしてベルーガが先発候補だな。キングから来た古井戸はオフに遊んじょったみたいで身体が出来とらん。少し可愛がってやらんといかんな」

 甘夏の凄味のある笑みに一同固まる。

「あと、左投手は網元、未来と沢野井だけか……まだ足りませんね」

 風花がオーナーの方を向く。

「私にどないせえちゅうねん」

 上島が怯えると、

「別に」

 風花はどっかの勘違い女優のように冷たくあしらった。

「先発は、横須賀、船頭、日本丸……これに左から二枚ですかね」

 尾根沢コーチがまとめる。

「正捕手は亀岡か黒舟。リザーブは鵠沼です」

 新田が発言。

 その後船木ヘッド、老松、氷川、座敷、湧水、橘コーチから簡単な現状報告と練習方法の確認などがなされたがここでは省略する。ただ一人沈黙していた河東ベンチコーチが、

「ビール頼んでもええかな?」

 と、佐藤智子マネージャーに言い、プルプルと肩を震わせた智子の右手からハリセンが飛びそうになったところで、

「まあ、まあ、とにかく去年の秋は買収騒動でキャンプもままならなかった。まずは選手たちの体調をみるため、第一クールは基礎トレーニングと体力作りに費やしましょう。それから河東のおやじさん、お酒は歓迎レセプションで浴びるほど飲んで下さい。酔いつぶれたらギャーギャーさんに介抱して貰いますから」

と風花が締めて第一回ミーティングは終了した。


 そのG市による歓迎レセプションはとんでもない、無礼講であった。G市、田芋市長の挨拶、上島オーナーの返礼挨拶、風花の寒~い、ダジャレ挨拶(沖縄に約四十五年ぶりに雪を降らせた)のあとは、泡盛の入った大きな甕が大量に持ち込まれ、乾杯の挨拶もなしに選手たちは飲みだす。もちろん沖縄料理もふんだんに用意されている。下戸で沖縄料理が苦手な風花はそーっとホテルに帰ろうとしたが、河東率いる《大虎軍団》たち(元町、横須賀、宗谷ら)に捕まり、甕ごと泡盛を飲まされてしまった。その間にやはり酒の飲めない沖合と甘夏はさっさと逃亡。風花一人が取り残され、最後には優勝もしていないのに、泡盛を頭からぶっかけられ《酒も滴るダメ男》と化した。当然記憶はない。

「たいらのあわもり~」

 と意味不明な雄たけびをあげ、会場の中央で失神。救急車で病院に搬送された。もちろん病名は急性アルコール中毒症である。


 二月一日。午前九時。

 プロ野球選手にとっての正月である春季キャンプが十二球団揃ってスタートした。そしてG市、市営野球場を中心とした広大なスペースで、新生横浜マリンズのキャンプが始まる訳なのだが。今朝のスポーツ紙の紙面には、

『風花新監督、救急搬送!』

『風花監督にプロの《洗礼》! しかも泡盛で!』

『マリンズ選手、素人監督をKО!』

 と、昨夜の事件が面白おかしく書かれていた。こちらも、報道陣からの《洗礼》である。改宗した方がよいのか?

 こなた、風花をやっつけた選手たちは、

「やり過ぎたかなあ?」

 などの反省の言葉が聴かれる一方で、

「あの程度で倒れるんじゃプロの世界では生きていけないよ」

「主犯は河東さんだよ。俺たちはちょっと度が過ぎただけ」

「初日から休むようじゃ、先が思いやられるなあ」

 と、批判的な声も多くあがり、選手たちに風花の旗下に置かれるのを快く思っていない者が多数いることを窺がわせている。

「じゃあ、全員集合!」

 船木ヘッドコーチが号令をかけた。

「初日にあたり、本来なら監督から一言あるところだが、よく知っている……」

 と船木が事情説明しようとしたところに、

「ちょっと待ったあ~」

 と一塁側ベンチから大声がした。

「なんだ、なんだ?」

 と皆が振り向くと、

「風花、ただいま参上!」

 と鞍馬天狗か、月光仮面か、はたまた、けっこう仮面かという轟きとともに風花涼登場。アルコールは抜けたのか?

「やあやあ、皆さん」

 風花はスタンドにいる熱狂的マリンズファン数人と報道陣に帽子をとって挨拶しながらナインの方へ歩いてくる。

「監督、ご無事で」

 舟木ヘッドが聴くと、

「ははは、昨日は失礼いたしました。僕、酔うのも早いですが立ち直るのも早いのです」

 風花は平然と答える。

「では、昨日の恨みも込めて一発、ガツンといきますか」

 と恐怖をナインに与えて初日の監督講話を始めた。

「おはようございます……声が小さい! 朝の挨拶は溌剌と! 河東コーチお手本を」

 風花はいか●や長介風に怒鳴った。昨日の負い目もあって河東は素直に従う。

「おはようございまーす」」

 ナインも続く。

「よし、では初日にあたり皆さんに僕のチーム運営方針を説明致します。まずはっきりとさせておきたいことは、僕はこのチームの指導者ではないということです」

「はあ?」

 戸惑うナイン。

「野球に素人である僕が皆さんの指導など無理です。そのために超一流のコーチ陣をお招きしたのです。どうぞ、存分に教えて貰って下さい。そのかわり僕は指揮者ですので作戦面においては命令に従って下さい。ところで、あなた方の中には僕の旗下に入るのを不服に思う人もいるでしょう。そういう方は遠慮せずにに名乗り出て下さい。早急に移籍先を探して貰います。ただし移籍先がなかった場合は引退となることは覚悟願います。あと、野球の技術とお金のこと以外なら、人生経験豊富な僕が無料でご相談に乗ります。練習後にでも僕の部屋に来て下さい。ただし、僕は午後十時には就寝しますからね、お早めに!」

 選手たちはキツネにつままれたような顔をしている。

「じゃあ、初日の練習を始めますか。元町君、気勢をあげて」

 風花が元町を指名。強心臓の元町は、憶することなく、

「新生、横浜マリンズ。素人監督の下で奇跡の優勝目指して、ガンバルぞー」

と若干嫌味気味の入った雄叫びを張り上げ、ナインもそれに続いた。

「では、今日はまずウォーミングアップから。みな、ケガをしないよう気を引き締めていきましょう」

 橘右近フィジカルコーチの指示でランニングが始まった。

「さてと……」

 コーチ陣が練習計画を確認している輪から抜け出した風花は、バックネット前に、どこで見つけたのか知らぬが、テニスの主審が座るような背の高い椅子を持ってきて、そこに着席した。ここからならグランド一面が見下ろせる。ただ、その際のいでたちが、頭には、両耳当ての付いたヘルメット、顔はキャッチャーマスク、身体もプロテクターを着け、完全防備をしている。さらには椅子には座布団を敷いて、そこに胡坐をかいていた。

「監督はん、なにやってまんねん?」

 河東が聞くと、

「ここから、選手の動きを観察します。実技指導は出来ませんが、客観的アドバイスは、出来ますからね。まあ、選手が僕の意見を真面目に捉えるかはわかりませんが……」

 風花はそういうと選手たちの動きに集中する。まるで、マリンズナイターを家で見ているときのようだ。

「では、我々も気合いを入れて指導しましょう」

 船木ヘッドの号令のもと、各コーチも持ち場に就いた。


 第一クールは、ルーキー四選手を除いて一、二軍の区別なく横一線で身体の出来具合を計測することにした。昨年の秋は、買収騒ぎのせいで首脳陣未定のため、指揮を執るものが居なかったのでキャンプが行えず、各自の自主トレーニングで終わってしまった。そのなかで、きっちり身体を絞ってきたもの、逆にサボってブーちゃんになっているものがすぐにわかってしまう。

 よく練習してきたのは、エース横須賀大介に、彼と合同自主トレを行った若手投手たち。それに浦田の抜けた穴を埋める期待の高い、台場八郎太、あとは意外にも、チーム一の巨漢、宗谷一三に鳴門巻男のベテラン陣。それに比べて一部を除く若手、中堅、それに問題児、古井戸などはチンタラしていて不甲斐ない。風花は、それを見ると、河東ベンチコーチに目で合図をした。河東はサインを受け取ると、

「なに、チンタラやっとんのか! 正月に餅喰って、でぶった奴は死ぬ気でやらんと育成契約にするで!」

 と真っ赤になって怒鳴った。これぞ、河東コーチのお仕事。風花に代わって選手をビビらすのが彼の役割である。河東が怒鳴るだけでナインの表情が引き締まる。後はそれがシーズン中まで続けば良いのだが。お母さんが怒ってばっかりの子どもは、免疫が付いてそのうち馬耳東風になるからなあ。そうしたら、もっと威圧感の強い甘夏コーチの出番かな。

 それはともかく、第一クールは淡々と基礎トレーニングに費やされた。橘コーチ曰く、

「プロ選手はとかく無理をしがち。その、はやる気持ちをいかに抑えるかが重要」

だそうである。うむ納得。

 その日の昼食休憩時、第五捕手の武智三平太が風花に移籍を志願し三日後、埼玉ザウルスの五島烈内野手との交換トレードが発表された。まさに電光石火のトレード。残った選手たちはある意味、風花の持つ実権に恐怖した。一方、風花から見れば不満分子を早々に排除出来たことに加え、竜田川スカウト部長、ボルバンスカウト部長補佐に亜細亜スカウト部長補佐代行の《言葉のバケツリレー》が、全国に張り巡らされた新しいスカウトの陣容を適切に動かしていることがわかり気分がよかった。


 風花率いるマリンズは今キャンプを四勤一休で臨んだ。

「ちょっと、甘いのでは?」

 と沖合コーチらの意見もあったが、風花が、

「五日連続で働くと疲れが一日で取れない」

 と、書店アルバイト時代の経験則から言いだし、彼らの意見を聞き入れなかった。そのため、早くもスポーツ紙には、

『風花、沖合と確執か?』

 などと、内部不和を書き立てられた。


 第二クールに入ると、一、二軍の仕分けが行われ、身体の出来ていない選手と、高校生ルーキーたちは暖かいG市から、微妙に寒い、静岡県K市に移動させられた。せいぜいお茶でも飲んで、ミカン食べて風邪をひかないように。

 なんて風花が嫌味を言っていた時、

「風花はん、義田のおやじがな」

 と、いきなり河東コーチが話しかけてきた。

「義田のおっさん?」

 風花が、誰? という顔をすると、

「義田吉男のおやじやがな、元大阪タワーズの名ショートやがな。タワーズで唯一、ジャパン・シリーズを勝ち取った名将やがな」

 と河東が怒鳴った。

「ああ、梵天丸ね」

 風花がほざくと、

「アホか、牛若丸じゃ」

と河東が親切に訂正する。

「で、武蔵丸がどうしました?」

 風花がとぼけると、

「マジ、アホやわ。まあいい、義田のおやじがな、フランスに、ごっついこと打つ右打者がいるちゅうて教えてくれたんやわ」

河東が懸案の右の主砲候補をあげる。

「でも、フランスの野球ってセミプロでしょ。日本の野球に通用するのかなあ?」

 風花は半信半疑。

「いや、桁違いらしい。義田のおやじも太鼓判押してた。『なんで、メジャーが獲りにこんのかのう』言うてたわ」

 河東が駄目を押す。

「そこまで言うなら、現地に行って視察しないといけませんね」

 若干興味が出てきた。

「ほな、監督、フランス行きまひょか?」

 河東が言うと、

「ムリムリ。私、飛行機乗れませんし、パスポートも持ってませんから」

 風花はムッとして答えた。沖縄に船で来たこと忘れたか!

「ああ、そうやったわ。じゃあ、誰に行かせます?」

 河東が聞くと、

「もちろん、言い出しっぺの河東さんと、右打者だから沖合さん。それに打撃投手とブルペンキャッチャー。あとはフランス語の通訳かあ……これはクルリントから派遣して貰いましょう」

 即決の風花。

 翌日、沖合、河東両コーチはキャンプ地から姿を消した。広報のギャーギャー斉藤は、

「両名はインフルエンザに罹り、ホテルで、隔離、休養していマッシュ!」

と記者発表したが、スポーツ紙はそれを信ぜず、翌日の紙面は

『ついに沖合、ボイコットか! なぜか河東も』

という煽情的な見出しが躍った。どうにもスポーツ紙は風花とコーチ陣を不仲にさせたいらしい。素人監督はつらいよ……。

 沖合、河東コーチがいない第二クールは、守備のフォーメーションや状況に応じたチームバッティングなど、選手間での意志の疎通が必要なプレーの練習が繰り返し行われた。それは選手が悲鳴をあげるほどの反復練習であった。

「ランナー一塁の際は、徹底的に右打ち!」

 河合コーチの怒号が聞こえる。ランナー一塁のとき、単純に送りバントと決めつける野球を風花が嫌い、悪くてもランナーを進めるバッティング。あわよくば一、三塁の状況を作るのがチームの方針となった。また、相手投手のスタミナを消耗させる為、わざとファールを打つ練習なども行われ、今まで、『大味』と言われてきたマリンズ野球を身の丈に合った『細かい野球』に変化させ、チームに浸透させるべく各コーチは指導した。

 その一方、『大砲』候補の台場や潜水は、水門コーチの元、ピッチングマシンから放たれる百六十キロの剛速球をもっとも重いバットで打たされるという過酷な打撃特訓を受けていた。水門コーチは、

『早い球を打ち返せれば、変化球にも対応できる』

 という持論を持っているので、両手にマメが大量生産されるほど、二人に鋭いスイングを要求した。ちなみに、現在訪仏中の沖合コーチは水門とは逆に『緩い球』を打つことで速球にも対応できるという考えの持ち主であった。全く真逆な理論の持ち主が二人とも大打者の称号を受けているのが不思議であり面白いところでもある。ただし、沖合に『右の大砲候補』として指名された葦村は思い通りのバッティングが出来ず、二軍行きの宣告がされそうなほど厳しい状態に置かれている。もう一人の候補者、宗谷は張り切ってやっているが年齢から来る衰えは隠しようもない。故に、フランスにいる『すごい右打者』に一縷の望みを風花は掛けていた。


 ※次の節でフランス人が話している言葉は、通訳されたものです※


キャンプ地から急遽、フランスに派遣された、沖合、河東コーチら一行は現地時間二月十日、午前十時にパリ郊外のドトール空港に到着した。約十三時間の長旅である。空港ラウンジで、コーヒーとホットドックという軽く朝食を摂ったあと、早速、フランス野球協会へと赴く。今回通訳として同行した丘田真純くん(二十五歳)は、元外交官で日本人の父と、フランス人の母を持つハーフであり、十五歳までパリに住んでいたのでとても頼りになる青年だった。ちなみに彼の兄はフィリッツ・フォン・エリック・プランクトンという芸名でバラエティー番組に引っ張りだこの外タレである。それはさておき、河東が義田氏から貰った紹介状を持参して凱旋門近くの野球協会に入り、案内を請うと、

「オー、ムッシュヨシダノブラザーネ、ナンデモイッテクダサーイ」

と小太りで頭の禿げあがった会長のムニエル氏が快く迎え入れてくれた。ムッシュ義田は大阪タワーズ監督を十年前に解雇されたあと、フランス野球代表チームの総監督として招かれ、かの地で長年にわたり技術向上に尽くしており、今では名誉顧問となっている。それだけにフランス野球界では優遇されているのだ。一行はその威光をめいいっぱい利用して、ムニエル氏に早速『すごい右打者』の事を訪ねると、

「オー、ソレナラ、ぷろばんす・くろわっさんずノとらふぁるがーセンシュノコトネ。カレハあめりかんノべーすぼーるぷれいやーヨリモほーむらんタクサンウチマス。ドウゾ、ミテヤッテクダサーイ」

と教えてくれた。

「トラファルガー……スペインの生まれか?」

 沖合が世界地理に強いところを見せると、

「ノー、カレハ、あるじぇりあノシュッシンネ」

 とムニエル氏が訂正した。

「アルジェリア? ワシはサンガリアしか知らんわい」

 河東がぼやいたがムニエル氏に通じるはずもない。

 とにかく、一行はプロバンスに急いだ。レンタカーを借りて南下する。そして、クロワッサンズの事務所にアポを取り、翌日にトラファルガー選手の視察を行う事とし、ホテルで一泊した。

 フランス二日目。

 ついに『すごい右打者』を観られると興奮しきりの河東に対し、沖合は、

「河東さん、ここは話し半分くらいに思っていないと、期待倒れのとき、落胆しますよ」

 と冷静に先輩コーチを押さえた。

「そら、わかってんがな。でもなあ……」

 河東の心はそれでも踊っていた。

 そして、約束の地、プロバンス・ワイナリー球場へ到着。

 そこに、現れたのは……。


 日本時間、二月十三日、午前二時。

 ホテルで熟睡していた風花の傍らで、球団から借りたスマホが布袋●泰の『サ●ンダー』(古い?)をかき鳴らした。スワ、一大事かと風花が飛び起きて、スマホを取ると、

「監督はんでっか? 河東でんがな」

 と呑気な声が聞こえてきた。

「河東さん、時差考えてくださいよ! こっちは真夜中ですよ……」

 風花がぼやくと、

「ああ、えらいすんまへなあ。でも朗報ですから早い方がいいと思いましたんねん」

 河東は悪びれずに話した。

「ということは『すごい右打者』は実在したんですね」

 風花が聞くと、

「おお、沖合君も太鼓判押しよったわ。ただし外角に落ちる変化球に弱かったんで、沖合君が修正して、打てるようにしますんで、ちょいと時間くれ、言いちょります」

 えっ? 河東、沖合コーチはずっとフランスにいる気? 風花がびっくりして尋ねると、

「アホ、言うなや。ワシ、白い米、喰とうてかないませんがな。すぐに、帰国しますわ。後の手続きは、クルリントの丘田くんが、やってくれますがな。そうそう、在仏大使の大仏はん、いう方がワシのファンでな、入国管理局への就労ビザの申請、そっちで早ようしてくれたら、根回ししてくれる言うちょりましたわ。ただ、役人さんやからのう、信用はしてまへんがな、ハハハ……。ではよろしゅう」

 河東は言いたいことを話すと電話を切った。風花は起きて、佐藤智子マネージャーに伝えるべきかとも思ったが、面倒くさいのでまた寝た。

 風花が動かなくても組織は動く。翌朝、フランスの丘田君から正式な情報が上島オーナー、舵取球団社長、佐藤智子マネージャーに『メール』で届き、速やかな就労ビザ申請の手続きが、クルリントお抱えの行政書士さんからなされて、河東の効果があったのかどうかは知らないが、あっさり許可された。二月二十五日、来日予定である。

「あれ? なんて名前の選手だったっけ?」

 風花だけが、肝心なことをなにも知らされなかった……。


 朗報は続く。

 右の大砲を探していた駒込渉外部長が、その過程で思いがけず『大型左腕』を見つけたのである。砲丸漁(ほう・がんりょう)という中国人で、北朝鮮との国境付近に住んでいたので誰の目にも止まらなかったが、たまたまそこへ野球啓蒙のための巡業をしにきた中国棒球リーグ、天津マロンズの劉雷田監督が『礫でハヤブサ(小惑星探査機ではなく鳥の方。念のため)を打ち落とせる若者』と現地で有名だった砲を見出したのである。そして、天津マロンズと横浜マリンズは提携関係にあったことから、劉監督が駒込に、

「日本で、全世界に通用する投手になるよう大きく育ててほしい」

 と彼を託し、今回の獲得にいたった。まさに棚からぼたもちである。


 第三クールでは、シートバッティングが始まった。順調に調整の出来た投手陣が打者を相手に実践さながらの投球をする。中でも、エース、横須賀がバシバシとキレのある直球を投げ込み、風花や浮島コーチを喜ばせた。元々、横須賀は筋骨のほうは丈夫だが、内臓が虚弱体質なのでキャンプ中必ず一度はダウンするのが通例であった。しかし今キャンプでは橘コーチが作成した《横須賀特別ディナー》という体調管理に適した食事を与えられ、ここまで元気はつらつだ。それに釣られて、船頭山彦、日本丸一といった中堅投手たちも例年にない急ピッチで肩を作って来ている。左投手も、甘夏の指導の下、新丸、港に昨年の雪辱に燃える、網元正午が目の色変えて頑張っているし、元々外人で目の色が違うブルーアイのベルーガも巧みな変化球とツーシームで打者を翻弄していた。一方残念なことにチーム期待の台場が打撃練習中に自打球を足に当ててしまいリタイア。風花構想の一角が崩れた。しかし、奇策王の風花はまたしてもトリックプレーを見せる。それは翌日の練習後、広報のギャーギャー斉藤が、

「格闘家で、元神戸バイソンズの外野手、かつて我がマリンズにも在籍した、枯木山水(かれき・さんすい)選手、右投げ左打ちを獲得しまシュワッチ!」

と発表し、報道陣を驚かせた。

 その日の練習後、記者たちに囲まれ、枯木獲得の真意を問われた風花は、

「ああいう、潜在能力を生かし切れていない選手が僕は大好きなんだ。球団からは『自らトレードを希望して出て行った選手は獲るな』ってきつく言われたけど、台場君が怪我した今、彼みたいな『ホームランか三振か』タイプの選手が必要になってくると思いますよ。それに彼の事が僕は一ファンのころから好きだったんだ。あっ、別に僕はホモじゃないですよ!」

 と珍しく本音を語って宿舎に戻った。

 翌日、枯木選手は二軍のキャンプ地、静岡県K市に入った。


 二月十六日、第四クール突入。

 沖合、河東コーチがフランスより戻り(公式発表はインフルエンザからの回復だシュワッチ)、紅白戦が始まった。他チームより若干遅い実戦開始である。初日の今日は、

「右投手と右打者チーム対左投手と左打者チームで対戦ね。右チームの指揮は沖合さん、左チームは老松さんが指揮して下さい」

風花が命じた。すると元町が、

「オレ、どっちに行けばいいですか?」

 と真剣に悩んで聞いてきた。彼はチーム唯一のスイッチヒッターだった。

「うーん……好きなほうに行ってよ」

 風花が投げやりに言うと、

「じゃあ、老松さんのほうに行こう。優しそうだから」

 と沖合に失礼なことを言って左チームへ行った。

「監督!」

 今度は新田バッテリーコーチが叫ぶ。

「なんですか?」

 風花が聞くと、

「左チーム、キャッチャーがいません……」

 迂闊であった。

「じゃあ、鵠沼君、左チームへお嫁入りして、一時左打ちに挑戦してたでしょ」

 風花が、マリンズカルトクイズに正解したような顔で言った。(三年前の選手名鑑を見ればわかるが、鵠沼は左打ちにチャレンジしたが挫折し、翌年から右打ちに戻っている)

 次の日は、右投手と左打者チーム対左投手と右打者チームの対戦。そのあとは中継ぎ投手と小粒選手チーム対先発型投手と長距離砲チームで試合と、風花は色々なバリエーションを試して紅白戦を楽しみつつ選手たちを観察していた。頭の中でチームの編成が行われる。

「そりゃあ、ジグザグ打線が理想だけど、上手くはいかないよね。だから様々な形を作ってみてどんな事態にも対処できるように練習してるんだ」

 と、第四クール終了後に風花は取材陣に語った。


 二月二十五日。

 成田国際空港にひっそりとクルリント社員、丘田真純君とフランス人、トラファルガー選手が降り立った。まだトラファルガー選手のことは公になっていなかった為、報道陣の姿はない。たまたまトラファルガーを見た日本人の老夫婦は、

「大きな外人さんだねえ、プロレスかK―1の選手かねえ」

 と上を見上げている。トラファルガーの身長は二メートル十センチ。球界ナンバーワンの身長だ。

 丘田君とトラファルガー選手の二人は、周囲から奇異な目で見られながら電車を乗り継ぎ羽田空港へ。そこから那覇行の飛行機に乗り込んだ。早速一軍に合流するのである。同便には先日入団した枯木選手に中国人左腕、砲丸漁も乗り込んでいたが、いずれも一般的知名度が低いので他の乗客はてんで気にも留めていなかった。


 二月二十七日。

 沖縄G市でのマリンズ春季キャンプが、元町選手会長の一本締めにてほぼ予定通り終了。残念ながら台場選手は怪我の治りが遅く、開幕には間に合わないと報道されているが、残りの選手は体調も良く無事にオープン戦を迎えられそうである。そこへ、上島オーナーがご陽気に現れ、

「皆はん、ご健勝でなによりでんな。早速やけど新しいお友達……英語でなんちゅうたかな?……ああ、チームメイトを紹介しますがな」

と言って三人の異形の者を呼び寄せた。

「まずは皆はんもようご存じの枯木君やがな。ま、一言抱負でも」

 上島がふると、

「お久しぶりです。枯木山水です。一度は諦めかけた野球の道を、風花監督のご助力でまた歩むことができます。格闘技で鍛えた身体を活かし、チームの勝利に貢献できるようがんばります」

チームから拍手が起きる。

「堅いのう枯木君は。風花はん、彼は左打ちやけど、沖合君につけた方が良いとちゃいまっか? 少し柔らかくしたらよろしいや。葦村君と一緒やな」

 上島が鋭い慧眼をみせる。風花も同意見だった。

「次はお隣の中国から日中友好のために送られてきたパンダちゃん……ではのうて、砲丸漁君や、本格左腕でっせ、風花はん!」

 上島が誇らしげにドヤ顔する。タナボタのくせに。

「そいで最後はおフランスから遠路遥々やってきなはった、ネルソン・トラファルガー君や。よう打つらしいで! でもア●ン・ドロンとは大違いな大男やのう」

 ナインの前に現れたのは身長二メートルを超える黒人の大男であった。選手たちはフランス人だからまさにア●ン・ドロンみたいな伊達男を想像していたのでびっくり仰天。そのなかで風花だけが、

「ああ、ブラックマンの再来だ。アンカーはバトラーの再来だし、強かったころの外国人の二世が揃った!」

 と感涙した。

「大げさやで。まあトラファルガー君も沖合道場で日本式の打撃を教えてもらいいな。ほいで、我が社のエリート社員の丘田真純君を砲君とトラファルガー君の通訳に付けたるから可愛がってえな。ホンマ、惜しい人材やけど、風花君に貸したるわ」

 なんと丘田真純君はフランス語だけでなく中国語も出来るのか! なら当然英語も出来るな、と球団付き通訳の沈没さんがビクついていると、

「私、英語の方はからきしダメなんですよ」

 と丘田真純君が照れた。ほっと胸をなで下ろす沈没さんであった。

「さあ、派手に三人の記者会見でもやりましょか?」

 上島が風花に聞く。しかし、

「いや、記者会見には枯木君だけを出しましょう。トラファルガーと砲くんは、提携球団から預かった練習生扱いにしときましょう。ああ、だからって育成契約にしちゃダメですよ! 開幕から使えなくなっちゃいますからね。あくまでも彼らは秘密兵器、秘密兵器」

 と風花は秘密のダッコちゃんを強調した。


 その夜。

 風花の部屋のドアを叩く者がいた。

「はあい、いま開けますよ~」

 と風花がおどけながらドアを開けると、そこに立っていたのはリリーフエースの大陸広志投手であった。

「あれ、大陸君、もしかして人生相談第一号?」

 風花が冗談めいて言うと、

「はい」

 大陸は深刻な顔で応えた。その姿を見て風花は、

「これは、ひょっとするとかなり重大な悩みではないか?」

と気付いて、お茶らけキャラを封印し、大陸の次の言葉を待つことにした。しかし、朴訥で純粋な男、大陸はなかなか口を開かない。焦れた風花は、

「とにかく、話をしてください。人に話すだけで心が軽くなることもあるんですよ」

と大陸の気持ちをほぐしに掛かった。そしてようやく、

「監督、私はもうストッパーの役目が怖くて逃げ出したいのです」

 と衝撃的発言を口にした。

「ええっ? ブルペンでもシートバッティングでも凄い投球してたじゃないですか。なんで、そんなに弱気になるのですか?」

 風花は心底不審に思って尋ねる。

「はい、練習では平気なのですが、ふとした瞬間に去年の大森退助に打たれたホームランが脳裏に甦るのです。ストッパーを任されて五年、その間ホームランを打たれるなんてこと考えもしませんでした。しかし、あの一球。あれは自分でも最高のストレートでした。あれを打たれるとは……もう自信がありません。引退も視野にいれています」

 大陸はそうとう思い詰めている。そのとき、風花の脳細胞が動き出した。

「大陸君、君は完璧主義者なんだね。百か零かの二つしか心にないんだね。でも、世の中っていうものはそんな簡単なものじゃあないんだよ。僕をご覧よ。人生、失敗の連続さ。正直、自殺を考えたことだってしょっちゅうある。でもね、失敗、屈辱も人生のスパイスなんだよ。大事なのは失敗を恐れない勇気と、若干のいい加減さ。君は物事にストイックすぎるよ。もっと大らかな気持ちを持たなくちゃ。リリーフに失敗したっていいじゃない。そのせいで殺される訳じゃないんだ。やられたら明日、やり返す! そんな気持ちを持てるようになれば、君は日本一のストッパーになれるよ。まずは気持ちを朗らかに、柔らかくしなくちゃね」

 珍しく風花がまっとうなことを言う、大陸の頬に赤みが差してきた。

「どう、いけそう?」

 風花が訊くと、

「はい、少し気分が楽になりました」

 と大陸がかすかに笑みを浮かべた。

「そりゃあ良かった。ああ、この機会に言っておくね。今年の開幕戦、大阪タワーズとの対戦のオープニングピッチャーは君に決めてるから。頑張ってね」

 風花、爆弾投下。

「えっ? 私、先発転向ですか?」

 大陸がびっくりして尋ねると、

「いやいや、先発はその一試合だけ。奇策を講じてタワーズに動揺を与えるのさ。とりあえず先発だけど、毎回九回だと思って投げてね。バテたら他の投手に代えるから安心して全力投球して頂戴。ああもう眠くなっちゃった。バイバイ哀愁デート!」

 言いたいことを言い終わると風花はご陽気に鼻歌を歌いつつ、眠りに就いてしまった。取り残された大陸は茫然と風花の部屋を出た。その瞬間、

「誰にも言っちゃダメだよ」

 という風花の寝言が廊下にコダマした。

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