3 勘違いの面接

 前章ラストから時間を少し遡った一二月二日、午後三時。

 不惑のフリーター、風花涼は友人堂・北新横浜店の店長席のパソコンでインターネットを必死に見ていた。貧乏なため、自室にテレビもねえラジオもねえ、当然携帯電話もねえ~という吉幾●状態の風花は、店長の今出川・セレーヌに土下座して頼み込み、休憩時間のみ、店のパソコンでインターネットの閲覧を許可されていた。ただ、私用で会社のパソコンを使うのを他のパートの奥様やアルバイトの若い衆に見られるのは規律上良くないとの理由で個室であり、曇りガラスで遮断された店長席での閲覧に限定された。

「これだって、特例中の特例なんだからね」

 とセレーヌは風花に念を押した。風花に厳しいセレーヌが今回、インターネット閲覧を許可したのは、ひとえに『風花の目が異常なまでに真剣だった』からである。彼をそこまで真剣にさせたもの、それは当然『横浜マリンズ買収劇』であった。豪華マンションを追い出されたのがマリンズの今季最終戦の日の翌々日であったことから、久しくその存在を忘れていた風花であったが、先日商品管理室で見たヤッホーニュースの見出し『横浜マリンズ 人材派遣及び出版大手、クルリントが買収!』から受けた衝撃は風花の心の中に熾火のように燻っていた『マリンズ魂』を巨大な炎へと燃え上がらせた。この思いは消防署の人たちにも消すことは出来ない。彼のおちゃらけキャラはそれによって焼失してしまった。そして本日、クルリントのホームページで、『人材募集』の見出しを見つけた風花は一も二もなく募集に登録してしまった。ただし、せっかちな彼はそれが《監督》募集とは気が付かず《球団職員》の募集だと勘違いしていた。その勘違いこそが歴史の転換点であった。

「店長! 十五日、僕欠勤します」

 風花は横の席で煙草をふかしていたセレーヌ店長に大声あげて宣言をした。

「どうした? カトリーヌから復縁の申し込みでもあったか?」

 とセレーヌ店長が聞くと、

「いいえ、横浜マリンズの球団職員の面接に行きます。さあ、履歴書を書かねば! そうそう、僕が考えた『マリンズ再生案』も帳面に書いて持って行こう!」

張り切る風花。

「いつもそれくらいのやる気があればいいのにねえ……まあ、なんにしても正社員目指すのはよいことだ。店の事は気にせず頑張って面接されてきな。ついでに採用になったら『月刊マリンズ』を復刊させておくれよ。あれは友人堂では売れ筋雑誌だったのに、去年休刊になってしまったからね。いまだに年配のお客様からお問い合わせ受けるのよ」

 とセレーヌ店長は快く欠勤を認めると同時に横浜マリンズ球団について愚痴をこぼした。

「はい、僕のキャリアを考慮されれば、出版方面に採用されるでしょうね。来年のファンブックは僕が編集するぞ!」

 完全に勘違いしている風花は気勢を上げた。

「おお、そしたら友人堂が全店あげて増売するわよ」

 とセレーヌ店長も気勢をあげた。

 それから風花はセレーヌに、

「見かけが大事だよ、見掛け!」

 と言われ、小遣いを渡されて理髪店に行った。十年ぶりのことである。その間、風花は自分で髪の毛を切っていたのだ。続いて、先日の労働災害(セレーヌによる尻、蹴飛ばし)で損傷した三本の前歯を歯科医院で取り付けてもらった。

「これでよし」

 帰宅早々、鏡で自分の姿を確認した風花は思い立って、出版社勤めのころ着ていたスーツをパイプハンガーから取り出し試着しようとした。しかし、

「き、きつくて着られない……」

なんと風花、約二年の間に体重が十キロ、腹回りに至っては二十センチ以上膨れ上がっていた。これでは太鼓腹と言われてもしようがない。完全なるメタボリック星人、いや成人病だ。

「うむ、これはいかん」

 と風花は《紳士服のドナタ》へとスーツを買いにアパートから飛び出したが、考えてみれば先立つお金がない。

「困ったなあ」

 途方にくれた風花は、アパートのオーナー、菅井さだに、お金を借りようと彼女の豪邸を訪ねた。

《ピンポーン》

 と前門のチャイムを鳴らすと、

「おや、風穴さん(まだ間違えてる)じゃあないかい、どうしたんだい。家賃の徴収にはまだ早いよ」

さだがインターホン越しに話しかける。

「ええ、あのー」

 と風花が事情を説明すると、さだは、

「しかたのない店子だねえ。今回は就職活動だから貸してあげるよ。でも絶対返すんだよ。私はケチな元アイドルだからねえ」

さだは念を押した。

「はい、ありがとうございます。お金は出世払いでお返しします」

 と風花が余計なことを口走ると、さだは、

「あんた、出世の見込み有るの?」

と詰問した。自分の失言に気が付いた風花は、冷や汗を掻きつつ、

「世界大統領を目指します」

と今度はお子様発言をしてしまった。

「おお、それなら十倍にして返しとくれ」

 さだは、洒落のわかる婆さんであった。めでたし、めでたし。

 しかし風花に苦難は続く。さだに借りたお金で《紳士服のドナタ》へと急いだのだが、

「あいにくお客様の太鼓腹に合うスーツは吊るしのものにございません。オーダーメイドで急いで作っても三週間はかかります」

 と店員に言われてしまった。それでは面接に間に合わない。

「どうしよう……」

 悩む風花。すると、彼の脳裏に昔、ラジオで聞いた、

「太った僕でも着られる服が一杯。紳士服の《サガセン》!」

という、お笑いコンビ《ホントニジャマ》の石ちゃんの宣伝文句が浮かんできた。

「そうだ、《サガセン》に行こう」

 決意した風花はまた急いで店を飛び出したが、

「あっ、《サガセン》ってどこにあるんだろ?」

 とまた考え込んでしまった。しかたないので久々に近くの交番へ行くと、なんと奇跡的にお巡りさんが在席している。

「お巡りさん、《サガセン》が探せなくて困っています。どうしたらいいでしょう?」

 涙ながらに尋ねる風花。

「《サガセン》ね、ちょいとお待ちを……墨田区にあるみたいだよ。あの辺は相撲部屋が多いからねえ」

 お巡りさんが答えた。

「墨田区? 自転車では行けないなあ」

 方向音痴で、電車が苦手な風花はすこし戸惑ったが、ここは背に腹は代えられぬ。一念発起、なけなしの小銭をポケットから取り出し、近くのО駅から電車に飛び乗った。

 結局それから二日かけてスーツをゲットした方向音痴の風花だが、その話はまた長くなるので割愛しよう。ただ、彼がスーツを手にした翌日、友人堂・北新横浜店の横に《サガセン》北新横浜店がでっかくオープンしたことだけは付記しておく。


 さて、監督面接の日に戻ろう。

 会場のヨコハマニューグランデホテル正面入り口前にはたくさんの報道陣が詰めかけていた。しかし、

「当ホテルには由緒正しきお客様が内外問わず多数お越しでございます。報道関係の皆様はどうぞお客様のご迷惑とならないよう、敷地からお立ち退きください」

とニューグランデホテルの支配人、実直一途(じっちょく・いちず)氏に追い出されてしまい、道路を挟んだ反対側の山下公園で待機している。だがそんな中、一人だけホテル内に潜入している男がいた。フリーライターで現在は文藝夏冬のスポーツ雑誌『ナンダー』の委託記者として活躍している綱渡通氏である。彼は老舗ホテルのニューグランデが報道陣の横暴を許すはずがないと察知し、昨日のうちに部屋を予約して泊り込んでいた。他の記者たちとは目の付け所が違うのだ。彼は客の風を装い、というか本当に宿泊客なので、ほぼ自由に歩き回ることが出来た。しかし彼は面接会場に近づくような愚かな真似はしない。フロント横にあるソファーに座りこみ、新聞を読むふりをしながらホテルに入ってくる人々を観察していた。万が一、ターゲットが報道陣を避け裏口から入って来ても、ここからなら見通せる。

「さてと……」

 彼は広げた新聞の奥から周りを見渡す。彼が手にした秘密情報によると今回の監督募集に応募してきた人間は四人。一人は大マシンこと、元メジャーリーガーで球団ОBの笹舟主計。ついで東京メトロ、舞浜の投手だった、ギャーギャー斉藤こと斉藤武志。彼はほぼタレントだから厳しいかなというのが綱渡の私見。三人目は元大阪、メジャー、札幌と渡り歩いた新造強(しんぞう・つよし)。彼もタレント色が強いが、カリスマ性、人気面では前の二人を凌駕している。あの、上島オーナーと気が合うのではと、綱渡は本命視している。四人目はよくわからない素人さんで、名前を失念してしまった。何かの勘違いか、目立ちたがり屋の類であろうと綱渡は気にも留めていない。そうこうするうち、上島オーナーを先頭に、舵取社長、佐藤智子秘書、吊橋球団専務(川崎時代からの生え抜きで人望のある老人。多くの旧経営陣が解雇された中、舵取社長以外に残留を要請された唯一の人物)、それにクルリント本社の若手社員数名がフロントに向かってくる。いよいよ面接の始まりだ。


午後一時少し前、綱渡にとっては第一のターゲット、マリンズにおいては最初の監督志望者である笹舟主計がサングラスにマスク姿で、綱渡の予想通り裏の入口からフロントに面接場所を聞くために入って来た。綱渡は鞄に取りつけた隠しカメラでその姿を映した。場所を聞いた笹舟はエレベーターに乗り込んだ。止まった階は三階。綱渡は(歩けよ、それくらい)と心で呟いた。

『トントン』

 と扉をノックする音が聞こえ、佐藤智子秘書が第一の志望者を招き入れる。

「わあ、実物はでっかいなあ」

 という感嘆の声が上島オーナーからあがる。

「笹舟です」

 という簡単な挨拶。彼に履歴書はいらない。

「私が上島ですわ」

 オーナーが破顔一笑で挨拶を返す。ここでも彼は表の顔を演じている。面接者に本心は見せない方針のようだ。と、思ったのも束の間、

「笹舟さん、私はプロ野球のこと全然知りません。だからあなたにお聞きしたいのはただ一つ、『マリンズをどういったチームにすればいいのか? どうすれば強いチームになるか?』それだけですわ」

 上島は単刀直入に聞いた。

「えー、私は十五年前の日本一、そしてメジャーリーグでの経験。それらを生かしてマリンズを再生したいと思います」

 笹舟は額から汗をにじませて答えた。それに対し、上島は、

「いや、私がお聞きしたいのは抱負ではなくて具体的なチーム作りの方針ですわ、笹舟さん」

と再度の返答を要求した。すると、笹舟は、

「具体的な方針は正式に監督になったあと、コーチ陣を含めて協議して作っていくつもりです」

 と、はたまた抽象的な意見に留まった。

「ほう、コーチ陣ね。笹舟さんはどないな人物をコーチに招くおつもりでっか?」

 上島はあくまで具体的な答えを要求する。

「そ、それは、舵取さんや吊橋さんに相談して決めていきたいと、お、思います」

 でかい図体に似合わず、実は小心な笹舟はしどろもどろになってきている。

「さようでっか……では面接はおわりです。ご縁がありましたらまたお会いしましょ」

 上島は面接を打ち切った。

「では、失礼します」

 退出する笹舟の顔は真っ青になっていた。

 あいかわらず、フロントで二紙目の新聞を見ているふりをした綱渡はエレベーターから出てきて裏口に向かう笹舟の背中を見て、

(やっぱり、ダメだったか。あいつは監督の器じゃないからな)

 と毒づく。もちろん心の中でね。


そうこうしているうち、二人目のターゲットが来た。ギャーギャー斉藤だ。彼はフロントで面接の場所を聞くと階段を走って上っていった。

(そうだよ、その走りだよ)

 と綱渡の心の中でギャーギャー斉藤の株が少しあがった。

「失礼シュワッチ」

 とハイテンションでギャーギャー斉藤は面談場所に入って来た。舵取、吊橋と佐藤智子秘書はドン引きしたが上島オーナーは大喜びして斉藤を迎え入れた。

「初めマッシテ! ギャーギャー斉藤こと斉藤武志どぅえす。元投手どぅえっす。今はラジオ南関東で『もうすぐキングナイター』の司会、あとはバラエティー番組に引っ張りだこの四十五歳どぅえっす。よろしくお願いシュワッチ」

 ギャーギャー斉藤はいつも通りの強烈キャラで上島を笑わせた。

「ははは、君ぃ面白いねえ。でもテレビで見たことないよ、私」

 喜びながらも毒を吐く上島。

「えっ、そうっすか? ワタクシ……CS放送が多いからかなあ」

 斉藤、素に戻る。

「まあいいや。君、採用決定!」

「えー?」

 上島発言に斉藤を含めた皆がびっくり。いくらなんでもギャーギャーが初代監督では……と舵取がとりなそうとすると、上島は、

「採用! ただし監督ではなく広報とスタジアムDJね。キミの明るさでマリンズを元気にしてよ。ところで君はどこのプロダクション所属?」

と皆を驚かして楽しんだ後、マネジメントに入った。

「松梅芸能です」

 斉藤は素のままに答えた。

「では、あとは私どもと松梅芸能さんとで、契約を進めますわ。頼みまっせ」

 と言って上島はギャーギャー斉藤とがっちり握手した。

 面談を終えたギャーギャー斉藤が微妙な顔つきでフロント階に降りてきた。

(うん? 何かあったな。まさか、ギャーギャーが監督? それはないよな)

 綱渡は考えあぐねた。ギャーギャー斉藤がコーチングスタッフ及び新球団マスコット《マリンバくん》とともに公に球団広報兼スタジアムDJとして発表されるのは年明け、翌年の一月四日の事である。


 綱渡がさすがに新聞に飽き、文庫本『此花ノート完全版』を取り出し読んでいると、表玄関の方から、

『キャー』

という歓声とカメラのシャッター音が激しく鳴っているのが聞こえた。

「なんだろう?」

 と綱渡が見ると、三人目のターゲット、新造強が華々しく登場した。前の二人は裏口から入って来たのに新造は堂々と正面から入って来た。さすが、トリックスターだ、と綱渡が感心していると、彼の後ろからガードマンのおじさんが来て、

「お客さん、あそこのフェラーリ、あなたのでしょ。あそこ駐車違反だから裏の駐車場に回して!」

と新造に注意している。綱渡は思わず失笑した。新造はバツが悪そうにフェラーリに戻って行った。彼らしい天然ボケだ。

 新造が車を駐車場に移してフロントに再び現れたのは午後二時五分過ぎであった。そして彼もギャーギャー斉藤と同じように階段を走って行った。

『これで、新造で決まりかもな』

 綱渡は自分の物差しで三人を比べ、新造を選んだ。

『トントン』

 新造が扉をノックする。しかし、扉は開かない。

『トントン』

 再度ノックをするが音沙汰無い。

「新造です。開けてください」

 大声で叫ぶ。すると、扉が少し開く。しかし、チェーンロックがされており新造は中に入れない。

「どういう事だ!」

 新造が怒鳴ると、

「あなたは約束の時間に遅れました。オーナーは遅刻が大嫌いなのです。故にあなたは不合格です。お帰り下さい。大変残念です」

と佐藤智子秘書が新造に不合格を言い渡した。

「なんでだ、たった五分だぞ。それに車を駐車場に入れ直したから遅れたんだ。オレは時間前にここへ来ていた。ホテルのガードマンに聞いてくれ。そう、証言してくれるはずだ」

 新造は未練がましく叫ぶが、佐藤智子秘書は取り合わない。

「せめて、一言お電話でもいただけたら、オーナーもお許しになったかもしれません。しかし今の言い訳は逆にオーナーの怒りを増大させただけです。どうぞ、お引き取りを」

 佐藤智子はそう通告すると扉を閉めた。

「クソッ、こんな球団なんて、こっちからお断りだ。上島って奴もケツの穴が小さいな! バーカ!」

 新造は捨て台詞を残して去って行った。

「あれ?」

 数分も経たずにフロント階に戻ってきた新造を見て思わず綱渡は声を漏らした。新造の顔は普段見たことがないほど怒りに震えている。これはどう見ても交渉決裂だ。そんな新造に正面入り口から走ってきた少しおデブなオッサンが突っ込んで、二人はひっくり返る。

「あーい、すいまてん。所用で急いでいたものですから」

 そう言ってオッサンは深々とお辞儀をして、階段を上って行った。

「ふざけんなよ、ジジイ」

 新造が悪態をつくと、オッサン血相を変えて階段から降りてくる。すわ、新造と一般市民の大喧嘩か? と綱渡がソファーから立ち上がると、オッサンは新造をスルーしてフロントに駆け込み、勢い止まらずフロントの台に膝を強打しぶっ倒れる。大丈夫か、このオッサン? 綱渡が思う間もなくオッサンは渾身の力で立ち上がりフロントのお姉さんになにか聞いている。そして、せわしなく階段をまた昇って行った。


 風花はフロントのお姉さんに聞いた部屋の前で、躊躇していた。扉には会議室と書いてあるだけで、《マリンズ球団職員試験会場》とか《横浜球団新規採用試験入口》とか目印になるようなものが全くなく、自分と同じように試験を受けるであろう、リクルートスーツの男女も見当たらない。彼は急激に不安な気持ちになってきた。

『あれ、僕、日にち間違えたかな? でもフロントのお姉さん、そんなこと一言もいわなかったよな。あれ、もしかして、ニューグランデの新館のほうだったかなあ。うわあ、わけわからなくなってきちゃった……』

 と頭の中がグルグルしてきて思わず、

「助けてくださーい」

と床に倒れこみ、ホテルの中心で愛を……ではなくて救いの声を、か弱く叫んだ。

 すると、部屋の扉が開き、

「あのう、あなた風花さんですか?」

と眉目秀麗な女性が床に倒れこんだ風花を見下ろしている。

「はい、さようでございます」

 美人を見て正気に戻った風花はなんとか起き上がる。

「大丈夫ですか? なんかお疲れのようですけど」

 美しい女性が心配してくれる。嬉しい。

「ええ、たいしたことないのですが、自転車でここまで来たもので」

 と風花。

「自転車で? 風花さんの住所、港北区、端の町って書いてありますけど遠くなかったですか?」

 美女が驚く。

「ええ、本当は地下鉄か東横線で来ればよかったのですが、給料日前で小銭がなかったもので……お恥ずかしい。それに私、極度の方向音痴を患っておりまして、今日も山下公園を目指していたはずが、気が付くと坂道グイグイ登っていまして、着いたら、港の見える丘公園でした。いい眺めでしたよ。なんてぼんやりしていましたらお約束の時間が間近に迫っていまして、近くの交番でお巡りさんに聞いてようやくここまで辿り着いた次第でして……申し訳ないのですが、お水がありましたら一杯戴きたいのですが……」

 風花、美女に興奮して長饒舌になってしまった。

「はい、お待ちください」

 美しい人は水差しを取り出しグラスに注ぐ。動作すべてが美しい。

「さあ、どうぞ」

 美しい人に注がれた水は多分水道水だと思われるがキラキラと輝き、泉のように迸る。ああ、ダメダメと風花はそこで妄想モードから、現実に戻り、胸ポケットに常備しているデパ●錠を、戴いたお水で呑みこんだ。

「あら、お体でもお悪いのですか?」

 と尋ねる美女に、

「ええ、心も体もボロボロです。けれど愛するマリンズの為に残された命を燃やそうと、ここまでやってきました」

「まあ……」

 驚く美女……なんかお昼のメロドラマになってきてしまった。

「ああ、風花さん、そろそろ良いかね。私が上島です。どうぞおかけください」

 安物のメロドラマに辟易した上島オーナーが風花に着席を促す。

「はい、わたくし風花涼と申します。琴風の風にフラワーの花、名前は涼しいの、涼でございます。経歴のほうはこちらの履歴書にしたためて参りました。どうぞ」

 と言って風花は風呂敷に包んできた履歴書を差し出した。そういえば、前の三人は履歴書もなにも持ってこなかったな。

「では、拝見……ほう、K大の文学部文学科を主席でご卒業ですか。それから陶酔社! ほう、大手の出版社ですな。こちらで編集に携わる。ええ! あの『東京だわあ』の編集もされているんでっか。私、あれ読んでラスト大泣きしましたわ。ちょうど花粉症の季節と重なって両目、KОされたボクシングの内●大●選手みたいに腫れ上がりましたわ」

 上島オーナーは感心しながら履歴書を読み進める。しかし、

「ええと、諸事情により陶酔社を懲戒解雇……なにされたんですか?」

眉をひそめて尋ねる上島オーナー。それに対し風花はあっけらかんとして、

「ああ、気に食わない無能な上司を潰してやった、いや病院へ送り込んで差し上げたんです。頭の悪い男だったんで、よく検査して貰ったみたいですよ。風の便りで聞いただけですがね」

 と答えた。

「そうでっか……私、健康ですから病院に送らないで下さいね。それから家事手伝いが一年間……花嫁修業かいな、そいで離婚……落ちる一方やんけ。現在友人堂さんでアルバイト、ちゅうことは……」

「はい、フリーターです!」

 と力強くお返事できました。

「そいでね、風花さん。失礼ながら私、あなたの事を全く存知あげないのですが、アマチュアで野球の経験とか、あるんでっか?」

 そうそう、それが重要なことだ。

「はい、全くございません」

 またもはっきりお返事風花くん。

「ああ、そうでっか……ではどないして今回の監督募集に応募されたんでっか。あなたの他にそんな、はねっかえり、おりませんねん」

 当然な質問である。

「えっ? これ監督の面談なんですか?」

 ようやく自分の勘違いに気が付く風花。

「そうですがな。まさか間違えて来たとは言わせませんで。風花さん、あんたが監督になったらどのようにしてマリンズを再建出来るか答えてもらいまひょ」

 上島オーナーは何かに火が付いたかのように風花を追及した。なんだかヤクザみたいで怖い。

「ええと……」

 考え込む風花。すると、彼の脳内でビックバンが起こり、普段眠っている脳細胞が起きだして急速回転を始めた。その瞬間から風花はダメオヤジから超人的なIQを持つ天才バカボン、ではなくて数々のベストセラーを世に送り出した天才プロデューサーに変身するのだ。

「上島オーナー! マリンズがなぜこのように悲惨な状態になったのか分りますか? わからないでしょう。だから私がここに来たのです。お教えしましょう、マリンズ弱体化の主たる原因は一も二もなく『スカウティングの甘さ』にあります。一言にスカウティングと括られてもあなた方に難しいですかな。ハハハ、では噛み砕いてご説明しましょう。まずは投手陣。所属三十五人のうち、左投手がたった八人です。左打者に強力バッターの多いア・リーグでこの数では全く戦えません。それに今季左の先発投手は神戸バイソンズからトレードできた網元ただ一人、しかも彼は二勝十一敗の散々たる結果です。今マリンズに必要なのは即戦力の左腕なのです。それなのに先日のドラフト会議でマリンズは高校生右腕を一位指名しています。二位以下も高校生。しかも左腕は、なし。どうですか? 今すぐスカウト部長を更迭したくなったでしょう。ああ、もうしたんですね。次に野手ですが、これは投手と反対で左打ちの中距離バッターしかいないのです。つまり同じタイプの選手しかいないので攻撃にバリエーションがない。どうして、こうも左の中距離バッターしかいないのか不思議でなりません。どうです? スカウト部長だけでなくスカウト全員をクビにしたくなってきますよね。ああ、したんだった。私はそれに賛成しますよ」

 そこまで言うと風花は一息ついて、美しい人が再度注いでくれた水を飲み干す。

「続けます。次はトレードです。昨年はナ・リーグの神戸バイソンズと複数の交換トレードをしていますが、結果から言うと『持ってかれ損』です。前述の網元投手ですが交換相手は四年前、主砲の田子浦を出してまで、『将来のエースに』と言って福岡ドンタックから獲得した宮島です。いくら左腕が欲しいからと言っても出して良い選手といけない選手がいます。実際、今季、宮島はバイソンズで十四勝あげています。二勝十一敗の網元とは雲泥の差。その他若手の先発候補だった塩田、貴重な左の中継ぎ高台、代走のスペシャリスト砂丘を放出して島影内野手、波風外野手を獲っていますが正直、戦力にはなっていません。これらは全て、ナ・リーグ選手をきちんと見ていない、スカウトの問題です。チームを変えるには根本から正していかねばなりません。そのためにはスカウトという部門を、引退したり、コーチを辞めたりした人の受け皿ではなく、戦力となる人材を発掘できる目を持ったプロの集団にしなくてはなりません。これは簡単に出来ることではありません。何年か掛けて綿密でグローバルな組織を作ることが肝要です。そして第三には外国人選手の補強です。近年のマリンズは『ダメ外人』しか獲得していません。今年のタグなんて体は小さいしパワーも俊敏さもないし、なんで獲ったかわかりません。この問題を解決するためには良策があります。元渉外部長の駒込氏を復帰させることです。彼はメジャーに太いパイプを持っています。日本の野球に適した優良外国人選手を獲得出来るでしょう。まあ、これは確率の問題ですがね」

 ここまで言うと風花はまたしても一息ついた。すると、上島オーナーが、

「スカウティングが大事やというのはようわかりました。しかし、現実問題として現有の選手たちはどうすればいいんでっか? まさか全員クビって訳にもいきませんし……」

 と疑問を投げかける。

「ああ、その点については腹案があります。昨日寝ないで書いた帳面をご覧ください」

 そういうと、風花は風呂敷から青いノートを取り出し、上島ら経営陣に見せた。

「き、君……これは無理だよ」

 今まで黙っていた吊橋専務が口を開く。

「そうですかねえ。わたしは上島オーナー、舵取社長さんたちが誠意と情熱と少しのお金を見せれば皆さん来てくれると思いますよ」

 と風花は反論する。

「実際どうなの? 舵取さん、吊橋さん」

 上島オーナーが二人に尋ねる。

「うーん、こればかりはやってみないとわかりませんね」

 舵取が答える。

「可能性はあるわけね?」

 上島が突っ込むと、

「相当な誠意と資金が必要となりますなあ」

 と舵取より現場に詳しい吊橋が答える。

「そう、ならやってみましょ」

 上島は即決した。すると、佐藤秘書が彼に耳打ちする。

「ああ、そう。風花さん。ウチの派遣スタッフに登録しているみたいだね」

 上島が問う。きっとさっきの耳打ちはこのことだったに違いない。

「はい。しかし四十の私立文系フリーターにはいい仕事ありませんでした」

 トホホと風花が答えると、上島が、

「私がええ仕事紹介しましょ。あなたはウチの派遣スタッフとして横浜マリンズ球団で監督をやって貰いましょう。時給計算は難しいので日給三万円。期間は派遣法に基づき三か月、ただし更新の可能性あり。正社員登用の可能性もあり。これでどうや?」

「オーナー、それでは野球協約に引っかかる可能性が……」

 舵取が口を挟む。

「じゃあ、表面上は統一契約書に名前書いて貰いましょ」

 上島の決断に舵取社長も吊橋専務も美しい人佐藤第一秘書も、そして当の本人、風花も唖然として言葉が出ない。ここにジャパン・プロ野球初の『派遣社員監督』(表向きには内緒)、『ど素人監督』が誕生した。

「風花さん。今日のところは報道陣に知らんぷりして帰ってください。追って、日を決めて就任記者会見をします。連絡先は……風花さん、履歴書に電話番号がありませんよ」

 美しい人が尋ねる。

「僕、固定電話も携帯もないのです」

 恥ずかしげに答える風花。

「しかたないわね、これ使って下さい」

 と美人が会社用のスマホを風花に渡す。

「変なことに使っちゃダメですよ」

 美しい声に風花は興奮する。そして風花は、

「あのう」

と美しい人に尋ねる。

「なんです?」

 ああ美しい。

「あなたのお名前とメルアドを教えてください」

 思い切って風花は告白した。

「ああ、申し遅れました。私は株式会社クルリントの本部秘書課社長付第一秘書の佐藤智子です。アドレスはそのスマホに登録してあります」

 美しい人は案外、平凡な名前であったと風花はその夜、日記に書いた。


 午後五時。

 上島オーナー、舵取球団社長、吊橋球団専務がニューグランデホテル正面玄関から出てきて、山下公園にて待機していた報道陣の前に姿を現した。

「オーナー、監督人事は決定しましたか?」

 報道陣から声が上がる。

「はい、お一人に内定を出さしていただきました」

 答える上島オーナー。

「今日は何人の方が面接を受けたのですか?」

 別の記者が尋ねる。

「四人です」

 舵取が答える。

(四人だって?)

 報道陣の後方にいた綱渡は首をひねった。新造のあと誰か来たか? いや、自分の見ていた限りでは誰もいなかったのだが……。

「面接を受けた方のお名前を教えてください」

 スポーツジャパンの東記者が質問した。

「それは、プライバシーに関わるのでお教え出来ません」

 舵取がまた答えた。

「せめて内定者の名前だけでも教えて下さい」

 綱渡が後方から叫ぶと、

「内定ちゅうか、私の中では決定なんやけどね。取締役会の承認とかいろいろ面倒な手続きがあるからねえ……」

 上島が言いよどむ。

「そう言わんと」

 珍しく出入~スポーツの南記者が聞くと、

「じゃあ、名前だけね。我が新生横浜マリンズの監督は、カザハナ・スズシ氏です。カザは琴風の風、なんや、わからんのか? スポーツ記者失格やのう。風間杜夫の風にフラワーの花。スズシはサンズイに京都の京。涼しいの、涼です。経歴等はコーチ陣発表と一緒にお教えします。多分年明けになってしまいまんな」

 上島が発表する。すると報道陣は、

「風花って誰?」

「お前知ってる?」 

「いやあ、記憶にないなあ」

「誰かググってみなよ!」

「ああ、今やってるよ。おっ、静岡の競艇選手に風花涼って選手がいるぞ。ああ、でも涼の読みがリョウだ」

「とりあえず、そいつを調べよう。静岡支局に連絡だ!」

 全国紙の記者やテレビクルーは静岡方面のネットワークに連絡を取り出した。それを、見ていた上島オーナーは、

「静岡の競艇選手は違うよ。余計な迷惑かけますからやめときなはれ」

 と報道陣を止めた。

「じゃあ、きちんと教えて下さいよ!」

 報道陣がクレームを入れると、

「まあ、まあ。楽しみは後に取っておきましょ。ほな、さいなら」

と上島は会見を切り上げた。


 夕方や夜のニュース、さらに翌日の新聞各紙は、

『風花涼とは誰だ?』

と大騒ぎし、過去のプロ野球名鑑をひっくり返したり、アマチュア野球の専門家に聞いて回ったりしたが全くわからない。

『Who is he?』

 年末、年の暮まで街の話題は、『マリンズの新監督、風花涼とは誰だ?』という疑問で盛り上がった。まさか全くの、ど素人が派遣社員としてプロ野球チームの監督として采配を振るうなど、その時は誰も思い浮かばなかった。


 そして、横浜マリンズオーナー上島竜一氏が新監督の名前を発表し報道陣を混乱させたのと同じ十二月十五日、午後五時。

 国内FA権を行使していた横浜マリンズの主砲、浦田蔵六内野手が東京キング入団を発表した。

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