1 愚者の追放

 同日、午後八時四十六分。

横浜市郊外の豪華マンション《セレブリティー四季の街》三号館五階501号室。

「なぜ、なぜ大陸を出さないんだ!」

一人の男が、リビングで大型テレビに向かって絶叫している。右手にダイエットコーラ、左手に低脂肪ラクトアイスクリーム。健康に気を付けているのか、いないのかわからない微妙な飲食物を握りしめて画面に食い入っている。窓は開け放たれ、秋の夜風と虫の声が少し、ひんやりとした空気を室内に運び入れる。人肌恋しくなった、ねこの《おでん》が男の膝の上に乗ってきても気付くことなくテレビに集中している。この男の名前は、風花涼かざはな・すずし、四十歳。現在無職の浪人である。もともと彼は有名私立大学の文学部を主席で卒業し、某大手出版社に入ると、たちまちのうちに敏腕編集者となり、数々のヒット作を世に出した人物である。一例を挙げれば、南野圭子の『被害者Yの全身』(植木賞受賞)、伊佐坂幸太郎の『ゴールデン・レトリバー』(ブックショップ大賞受賞)、津久井敏晴『某国のせいです』(中居井貴一主演で映画化)『終電に乗ーれない』(江戸川散歩賞受賞)、ジジー・フランキー・サカイ『東京だわあ』(二百万部突破!) など枚挙に暇もない。しかし、好事魔多し。大型新人として育てて一押しで売り出した、仇出加絵須(あだで・かえす)のデビュー作『花の子ルンルンを買っておうちで観よう』がなんと、植木賞選考委員の大作家、森まさかのデビュー作『廃寺と蔵羅』に酷似した箇所が多数見つかり、盗作事件として大スキャンダルとなった。当然、大ヒット間違いなしと大量に刷った初版五万部は全部回収。風花は責任を取らされ大減俸の上、営業部に異動となった。しかし営業センスの欠片もない風花は、書店営業に行った先で、「今度ウチの社で出した『こうすればいい人生を送れる』なんですが、はっきり言ってくだらない、洗脳本です。注文用紙置いていきますけど、注文しなくていいですよ」とか「香蘭社の出した綾取先生の『二十面相館の殺人』最高ですよ。絶対平積みしたほうがいいですよ。えっウチの戸栗鼠川先生の新刊ですか? あれは雑誌連載の焼き直しですから棚でいいですよ!」という滅茶苦茶なことを言って歩き、書店員から『少しおかしなところがある、面白い営業マン』と評判は良かったが、全く売り上げに貢献せず、挙句の果てに彼の仕事ぶりに堪忍袋の緒が切れて、叱責した上司を得意のアトミックドロップから、ブレインバスター、ジャーマンスープレックスでとどめを刺し、病院送りにして当然の如く懲戒解雇された。ちょうど昨年のクリスマスイブのことである。以後、彼は、

「僕は専業主夫になる!」

 と宣言し、妻(三歳年上のスーパーキャリアウーマンで現在、外資系の総合商社で企画部門の専任部長をしているタフなハーフ美人である!) の脛をかじって生きていく道を勝手に歩きだした。


 彼の紹介をしている間にテレビ画面にはピッチャー大陸と代打の大森が登場している。では現在、テレビにかじりついている、風花涼のプロフィールの続きをどうぞ。


 初めのころこそ、掃除洗濯ご飯炊きにお皿洗いと、チャッチャカこなしていた風花であったが、春先には飽きてきたのか主夫を放棄して、軽ーく、自堕落三昧に陥っていた。その理由を思うに、一つは、やっぱり外で仕事がしたいと《ハロー! お仕事》こと職安に行っても、人材派遣の《クルリント》に登録しても、四十歳の文系男に、いい案件はなく、無力感に苛まれてきたことや、自分が社会の前線に居なくても誰も困らないし世界は廻っているという現実に自暴自棄になっていたことなどが原因として浮かんでくる。自分への過信と不安、色々なことが頭で消化出来ずに身動きが取れない。結果として人間不合格。とにかく毎日、朝ゆっくり起きて、妻の作ったご飯を食べたら大好きな読書。すぐに眠くなって昼寝。目が覚めて、妻が作りおいてくれた昼食を摂ったらまた読書。またまた眠くなって夕寝。そして起きると、電子レンジで温めた妻の手料理を食べつつ、子どものときからの大ファンである横浜マリンズの試合を最初から最後までテレビ観戦(もちろんCS放送。金さえあれば全試合観られるのだ)三昧。負ければ等身大たらえもん(国民的アニメの主人公キャラ)の縫いぐるみに八つ当たりし、あわれ《たらえもん》は耳がちぎれ、色が黄色から青に変色してしまった。そして、たまに勝てば下戸で飲めもしないビールをシェイクして一人ビールかけに興じ、部屋中を酒臭くする。ワイン通の妻が秘蔵していたビンテージワインを勝手にあけて《おでん》に飲ませ、アルコールのせいで野生に還り凶暴になった《おでん》と部屋中でサバイバルデスマッチを繰り広げ、部屋中をグチャグチャにして転げまわる。

 まさに荒くれ、狂気の沙汰である。

 だが、そんな生活がいつまでも続けられるはずがない。当然である。


 東京キングが今、逆転サヨナラで優勝した。風花はふて寝してしまった。


 翌朝、風花は妻からこう切り出された。

「別れましょう。あたしといると貴方は甘えて何にもしない。このままでは貴方は本当にダメになってしまう。あたしだって仕事と家事とあなたの面倒で心身共に疲れたわ。お互い別の道を行くのがベストだと思うわ」

 淡々と語る妻。その一言一句が風花の胸に突き刺さる。武蔵坊弁慶の立往生のように全身に矢が突き刺さり、すすき野のようだ。ああ、共に白髪が生えるまで一緒に過ごす、運命の人と思った愛妻に離婚を告げられるとは。風花の頭は混乱し、パニックを起こした。

「うわああああああー」

 狂ったような叫びを上げ風花は部屋中を駆け回る。

 そして妻のウエスタン・ラリアットを咽頭に喰らい失神した。


 風花が息を吹き返すと、部屋に妻の姿はなかった。仕事に出かけたのだろう。

「さて、どうしたものだか……とりあえず点数稼ぎに洗濯と掃除でもするかな」

 などと考えていると、寝室の方から、

『にやーご』

と《おでん》の鳴き声が聞こえる。

「なんだろう? ミヤーゴならマリンズ球団初の首位打者だが?」

 不思議に思って風花が寝室に入ると、布団の上で《おでん》が、

『お父さん、一緒に寝ようよ』

 とでも言うように手招きしている。それを見た風花は《おでん》の誘惑に負け、

「省エネのために寝ましょう、寝ましょう」

と《おでん》と一緒に惰眠をむさぼってしまった。それは点数稼ぎにもならない、致命的行為であった。


「起きろ! このブタ野郎」

 気が付くと妻が帰宅して早々、寝ていた風花の太鼓腹を踏みつけていた。

「うぎゅー」

 あまりの激痛で声も出ない風花。

「今日、会社の帰りにあんたの新居と働き口決めてきたから、三日以内にここから荷物をまとめて出ていくように! ああ、それから離婚届に署名、捺印忘れないでね!」

 まあ、なんて優しい奥様だろう。食う寝るところに住むところ。さらには仕事まで紹介してくれるとは! 感動で目から涙が、踏みつけられたはずみで胃酸が口から流れ出て止まらない。

「あの……新居とはどんなところでしょう?……仕事ってなんでしょう?」

 息を詰まらせながら風花は尋ねた。

「おお、新居は格安、家賃月二万円の木造アパート、広さは四畳半だよ。さらに風呂トイレ完備、ロフトまで付いているよ。贅沢言わなきゃ最高の住処だね。仕事はあたしの知り合いが店長している、大手書店のアルバイトさ。あんた本好きだろ。好きなものに囲まれて仕事するなんて最高じゃないか。あたしからの最後のプレゼントだと思って受け取ってちょうだい」

 そういうと妻……いや、元妻はアパートの鍵と地図、書店への紹介状をブン投げてきた。もう、言われたとおりにするしかない。風花はあきらめて、それらを受け取り、また寝た。妻の波状攻撃はもうなかった。


 翌日、早朝。

 風花は風呂敷ひとつ抱えて、豪華マンションから追放された。

『にゃーご』

 見送っているのか、悲しげに《おでん》が鳴いた。

「おでん、ごめんよ。お父さん(ねこを飼うとなぜかその子の親になってしまうのね)、お前を連れてはいけないんだ。おまえはお母さんの所有物だからね。持っていったら窃盗罪で牢屋に入れられてしまうのだよ……」

 そういうと、風花は《おでん》の頭を撫でた。そして、

『へ、へっくしょん!』

と大きすぎて近所迷惑な、くしゃみをした。彼はとんでもない『ネコアレルギー』の持ち主であった。

 妻は、いや元妻は見送りに出ては来ない。彼女は超低血圧の夜型女であった。

「さらば、カトリーヌ(元妻のファーストネームね。ハーフだから)、さらば、おでん。さらば、豪華大マンション!」

 彼は近所迷惑だから小声で叫ぶと、愛馬、ではなくて愛自転車の《サイクロン号》(B社のロードマン、高校生の時から乗り続けている)に跨り走り出した。

「盗んでないバイシクルで走り出すぅ~」

 案外呑気に、いい加減な鼻歌かまして、新生活の地へと旅立った。


 七時間掛かった。

 予想外に新居は遠かった。さらに風花は。超のつく方向音痴であったため全く新居を探し出せない。しかたなく、交番のお巡りさんに聞こうとしたがあいにく不在。やむを得ず、そこら辺で草むしりをしているお婆さんに、

「すいません。荷多井荘というアパートはどこにありますか?」

 と尋ねたが、

「はあ? ひどいケガ? なら救急車呼ばねえとなあ」

 お婆さんは耳が遠いらしくトンチンカンなことを言っている。

「困ったな。もっと大声で聞いてみるか……あーのー、に、お、い、そ、う、は、ど、こ、で、す、かあ~」

 風花が全力で叫ぶと、

「う、うるさいねえ! 人を年寄り扱いするんじゃないよ!」

 とお婆さんは怒りながら耳からイヤフォンを外した。なんとipodでお湯を沸かして……間違えた、そりゃポットだ、音楽を聴いていたらしい。耳は遠くないようだ。

「すみません」

 風花は謝った。

「いや、いいんだよ。ところでなんの用だい?」

 お婆さんは尋ねた。

「はい、このあたりにある荷多井荘というアパートを探しているのですが?」

 風花が聞くと、

「あんた、目ぇ悪いねぇ。ここが荷多井荘だよ」

「へえ? あ、本当だ!」

よく見るとブロック塀にローマ字でNIОISОHと書かれている。

「ここが荷多井荘。そしてあたしが、オーナーの菅井さだ、だよ。今日からうちの店子になる風穴さんだね」

 お婆さんは元SKⅡ48の菅井さだであった。

「あの風穴ではなく、風花です、大家さん」

 風花が訂正すると、さだは、

「そりゃあ、失礼したね。そしたら、あたしも大家じゃないよ。オーナーとお呼び!」

 と声を荒げた。

「おおや……失礼しました、オーナーさん」

 風花がまた謝る。

「まあ、いいさね。じゃあ、部屋に案内するよ、風穴さん」

 ああ、これから先、ずっと名前を間違えられるんだなあと思いながら風花は菅井オーナーのあとに続いた。

 

 部屋は一階の真ん中。102号室。四畳半のまさに畳張りで、昼間なのに薄暗い。それもそのはず、唯一の窓がある南側のすぐそばに、オーナー菅井さだの豪邸がそびえ立ち、遮光カーテン並みに太陽を隠してくれる。風呂、トイレはユニットバスで一応洋式だが、もちろんシャワートイレではない。大痔主である風花は、

「このトイレ、シャワー付きに出来ませんか?」

 と菅井さだに尋ねた。すると、

「悪いけどそれは無理。電源取れないし狭いから」

願いは一蹴されてしまった。

「そうですか……」

 考え込む風花。しかし、すでに貯蓄は尽きてしまっている。月二万の物件など他にないだろう。彼は民族痔血を覚悟した。

「まあ、住めば都というからね。ぼちぼち暮らしてくださいな」

 そういうと菅井さだは豪邸へ帰って行った。うらやましい。風花は軽く嫉妬した。


 さて、新居が決まったところで次は職場訪問だ。彼は再びサイクロン号に跨ると大手書店友人堂・北新横浜店へと向かった。ここから直線距離で二キロ弱。三十分もすれば到着できるだろう、と風花はお気楽に考えた。

 八時間経った。

 もう真夜中だ。なんだか、周りは畑ばっかりで街灯もほとんどない。自分がどこにいるか全くわからない。恐怖感が広がる。持病のパニック障害が出そうだ。(風花は元妻に離婚宣告を受けた瞬間からパニック障害を発症していた)やむなく頓服として持ち歩いている抗不安剤、デパちゃんことデパ●錠を飲んで、恐怖を拭い捨てた。落ち着いたところで、しかたがない、お巡りさんに聞こうと交番に駆け込んだがあいにく不在。近くのコンビニの前で一人、缶ビールを飲んでいる、たぶん、自分より年上だろうと思われるボサボサ頭の女性に、

「友人堂・北新横浜店はどこですか?」

 と尋ねた。すると、

「あんた、目が悪いの? ここが友人堂だよ」

とコンビニの隣の店舗を指差した。

「へえ? あ、本当だ!」

 よく見ると壁にローマ字でYUZINDОと書いてある。しかし店内は消灯され、シャッターも閉まっている。閉店してしまったようだ。

「あれ、潰れちゃったのかなあ」

 自転車を漕ぎ疲れたのか風花は時間の感覚を消失してしまっている。

「あんた、馬鹿だねえ。今、何時だと思っているの、もう夜中の十二時よ。本屋はコンビニじゃあないんだから、ここは十一時閉店よ。これ以上あたしを働かせないでちょうだい!」

 女性は怒鳴った。

「どうも、すみません」

 風花は謝った。なんだか似たようなことが以前にもあったような気がしたが、おそらくデジャヴであろうと彼は自分を納得させた。すると、

「あんた、もしかして、カトリーヌの元旦那?」

女性は元妻の名前を出してきた。なんでだろう?

「さようでございます」

 とりあえず風花は下手に出た。

「あんたねえ、あたし今日ずっと待ってたのよ! なんでこんな時間に来るのよ。常識ないの?」

 女性は怒りだした。酔ってるし、かなり怖い。

「すると、貴女さまは……」

 風花は超下手に尋ねた。

「そうよ、あたしがカトリーヌとハワイ、カメハメハ国立大学で一緒だった今出川セレーヌよ」

「じゃあ、ここの店長さまですか」

「そうよ!」

「ではこれを……」

 風花は背負っていた風呂敷から元妻の紹介状をセレーヌに渡そうとした。だが、セレーヌは、

「こんなもん、なくても採用よ、採用。親友の頼みは断れないからね」

と叫んで、紹介状をコンビニの燃えるゴミ箱(べつにゴミ箱が燃えている訳ではない。ニホンゴ、ムズカシイアルネ)に破り捨てると、

「さあ、歓迎会だよ、居酒屋のんだくれへ、レッツゴー」

と絶叫して風花を強引に引っ張って行こうとする。

「僕は、下戸ですし、自転車なので……」

 と風花は断ろうとしたが、

「ノープロブレム。自転車はそこに置いときなさい。酒は飲み続ければ自然と強くなるものよ」

 とセレーヌは風花を居酒屋のんだくれに拉致した。


 結局朝七時までつき合わされ、風花はトイレで五回嘔吐した。


「さあ、そろそろ仕事に行くよ」

 今出川セレーヌが酔いつぶれてグロッキー状態の風花の背中を蹴りつけた。

「はあ、今日は無理です。帰らせて下さい」

 風花が土下座して許しを請う。しかし、

「なに、甘ちゃんなこと言ってんのよ。初日から休んだら、即、クビね。どうせ、朝の荷物片付けたら、いい汗かいて気分リフレッシュするから、ついておいで」

 セレーヌは強引に風花の首根っこをつかみ居酒屋を出た。ときに十月十二日、午前七時半。

 風花にとって、苦しくて長い一日が始まった。

午前八時。

 二人は《友人堂・北新横浜店》の従業員入口にたどり着いた。すると、セレーヌが、

「いい、これから《セコイム》の防犯設備を解除するからよく見ておいてね」

 と、言いながら扉を開け、勢いよく中へ走りこんだ。その瞬間から、警報器が狂ったように鳴り響く。風花はびっくり仰天、目が覚めた。

「まず、入口横のタイムカード入れの一番上にあるセキュリティー・カードをこうやって飛び上がって取る」

 セレーヌは垂直跳びで自分の背丈より一メートル弱のところにあるセキュリティー・カードをガシッと取り、

「これを二百メートル先にある警報解除キーに二十秒以内に差し込む!」

 そう言うとセレーヌは猛ダッシュで客用自動ドア付近に全速力で走っていった。

「おらおらおらー」

 気勢をあげてセレーヌが猛ダッシュする。

「うおおおおおー、挿入ぅー」

 セレーヌがカードを警報解除キーに差し込み警報器の音が消えた。早朝の開店前の店舗内に静けさが訪れる。

「はあ、はあ。これで、解除完了。明日からはあんたにやって貰うからね」

 息を切らしてセレーヌが言った。さらに、

「二十秒以内に解除出来ないと《セコイム》のガードマンが来ちゃって、一回につき二万円取られるから、気をつけてね。そのお金は給料から天引きするからよろしく」

こともなげに、セレーヌが言う。

「ちょ、ちょっと待ってください」

 風花はあわてて聞いた。

「二百メートルを二十秒以内ですよね……僕、陸上のオリンピック選手じゃないんで無理です。カール・ルイスでも連れてこなきゃ、とてもとても……」

 しかし、セレーヌは意にも介さず、

「古いねえ、カールときたか、普通ならボルトだろ、ボルト! それがダメなら、ベン・ジョンソンみたいにドーピングでもすればいいじゃない。ええっ、それも無理? 体力的に無理なら頭脳を使いなさい。頭脳を!」

 と言い捨てて女子更衣室に入ってしまった。一人、残された風花は、

「頭脳たってさあ……ああ、客用出入口から入ればいいのか!」

 と僕は賢いなあと悦に浸った。しかし、

「それは却下でーす」

 と女子更衣室からセレーヌがブーブーブーとクイズ番組で間違えたときみたいな音を鳴らす。

「ああ、セキュリティー・カードを持って帰れば、時間短縮になる!」

 風花の二の矢。

「それも却下。カードはその一枚しかないから持ち出し禁止。無くしたら五万円の罰金。もちろん、給料から天引きね」

「うむー」

 さすがの風花も考え込んでしまった。

「ふふふ、明日までによく考えあそばせ」

 セレーヌが茶化す。

「でも、根本的な質問ですが、なんで僕が一番に来なくちゃいけないんですか?」

と風花は質問した。

「ああ、あんたには、朝の商品搬入をやって貰うからさ。体力使うよ。ビールが美味くなるよ」

 セレーヌ、酒ばっかり。

「僕、四十歳の年寄りですよ。力仕事なんか無理ですぅ」

 泣きをいれる風花。

「年寄りって、あんた相撲の親方かい? 太鼓腹はそれに近いか。しっかり働いて、痩せな。そしたらカトリーヌが、よりを戻してくれるかもよ」

 セレーヌは風花にとってのキラーワードを出すと、更衣室から出てきた。爆発していた髪は後ろで纏められ、薄化粧に真っ白な清潔感漂うシャツ。これがさっきまでの酔っ払いかと思うほどの格好良さだ。さすが、大手書店の店長。オンとオフの切り替えは素早いようだ。

「さあ、一仕事するよ。顔でも洗って、ついでに髭剃ってきな。接客業は清潔感が一番」

 そういうとセレーヌ店長は《プラウン、スーパーグレートシェーバー》を風花に投げて寄こした。風花は、なんで女性が髭剃りなんて持っているんだろう、とは考えないようにした。


「さあ、商品搬入だよー」

 セレーヌが叫ぶ。すると、アメフト選手かはたまた柔道選手かと思わせる、ごっつい若者が五人ほど集まって来た。すごい圧迫感と体育会系の香りが風花の周囲を取り囲む。ファ●リーズをたっぷりスプレーしたくなる。

「きみたち今までどこに隠れてたの?」

 風花、素朴な疑問。

「いやあ、俺たち隠れてたわけじゃないっすよ。商品管理室でコーヒー飲んでいただけですよ」

 若者Aが答える。

「でも《セコイム》の防犯ブザー止めてなかったじゃん。どうやって店に入ったんだよ?」

 素朴な質問、その二。

「ああ、俺たち、商品搬入口から入るから、あれは関係ありませんよ」

 と若者B。

「なーんだ、じゃあ僕もそこから入ればいいんだ」

 と喜んだのも束の間。

「あんたは、ダメー。年長者なんだから、ロック開錠するの。これ、店長命令っ」

 とセレーヌは風花に蹴りをいれた。

「い、痛たたた。なんでハーフはみんな暴力的なんだ?」

 人種差別発言をのたまう、風花。

「ハーフじゃなくてもあんたは殴りたくなるよ! このうつけ!」

 セレーヌは隠し持っていたハリセンで風花を殴打した。

「あんた、チャンバラトリオか!」

 風花は叫んだ。しかし若者たちは、

「チャンバラトリオ? Why?」

 首を傾げる。セレーヌも傾げるがそれはウソだな。

「オゥー、ジェネレーションギャップ!」

 風花は叫んだ。

 その叫びに呼応するように大型トラックが、

『ブォーン』

 とクラクションを鳴らして搬入口に入って来た。朝のお荷物の到着らしい。

「はよーす」

 運転手のおじさんが超略語であいさつしてきた。

「はよーす」

 若者たちも返答する。

「お、おはよーす、す……」

 なぜか照れる風花。文科系の彼は体育会系のあいさつが苦手なのだ。

「今日は、女性誌の発売日だよ。それに角丸文庫と集団社文庫も来るから、気合い入れて頼むよ!」

 セレーヌが皆に喝をいれる。築地市場の朝みたいだ。

『グイーン』

 と音を軋ませて、トラックの荷台後方のリフトが降りてくる。大きな籠台車が二つ載っている。中にはビニールに包まれた雑誌が大量に詰まっている。

「風花! ぼーっとしてないでそのコンビを店に運ぶ!」

 現場監督のごときセレーヌが風花に命令する。

「こ、コンビですね、はい」

 そういうと風花は、若者AとBの両手を掴んで、

「きみたちは、お笑いを目指しているんだね。大変だねえ」

 と囁きながら二人を店に連れて行こうとする。

「な、なにをしているんすか?」

 AとBが焦っている。

「だって、きみたちコンビなんでしょ? ボケとツッコミ……」

 非常に冷たい空気が場を凍りつかせた。

「馬鹿野郎、風花! コンビっていうのはこの籠台車だよ!」

 セレーヌが凍りきった空気をぶち破って、ハリセンを風花に叩き付けた。まるで氷柱が刺さったような痛みである。

「失礼しやした」

 と風花は太鼓持ちのようにすり手をしながら、コンビを動かそうとした。しかし、

「お、重い。まったく動きません」

額から汗がたらりと落ちてくる。元小錦と元山本山でも載っているのか? コンビはピクリともしない。

「ははは、台車ロックしたまんまですよ」

 初登場、若者Cが滑車についたロックを解除してくれた。コンビが動き出す。

「イェーイ、ロックンロール」

 風花はちょっとおかしな老人歌手? のようにお礼を言うと、コンビを動かした。しかしこれで終わった訳ではない。コンビを運び終えた風花が、搬入口に戻ると、今度は大量の段ボールがリフトの上に積み上がっている。

「これはなんですか?」

 風花がやさしい若者Cに尋ねると、

「新刊と注文品です」

 とやっぱりやさしく教えてくれた。

「新刊ねえ」

 風花の脳裏をかつて彼が手がけたベストセラーたちが通り過ぎる。そして最後に『あら、バレちゃいました? おほほ』と笑う、仇出加絵須の無邪気な顔がどアップで映る。

「うわ、ちょっと失礼」

 風花はデパ●錠を飲んでパニックが起こるのを避けた。しかし、そんな心の苦しさを知らないセレーヌは、

「こら、クソジジイ! なにサボってるんだよ」

 とハリセンを繰り出す。

「あーい、すいまてん」

 心の苦しさに比べたらハリセンなど、取るに足らないのさ、と風花は心でハードボイルドしていた。


「えいさ、ほいさ、はい超特急」

 と若者プラス年寄りは段ボールを台車に載せては店に運び、また下すという、帝政ロシアの拷問みたいな作業を十往復してやっと終わらせた。やっと一息だ、と思う間もなく、

「また、サボってるなクソジジイ。早く雑誌を開けて付録組みしなさいよ」

 とセレーヌに怒鳴られた。

「ふろくくみ?」

 フロククミさんはいませんか? コウダクミさんなら居ますよーとか思っていると、若者たちがせっせと雑誌のビニールを開けている。なんと、本誌と付録が別々になっているではないか。

「付録って、出版社が付けてるんじゃなくて、書店で付けるんだあ!」

 風花はびっくりした。

「あんた、出版社にいたんだろ? そんなことも知らないのかい」

 侮蔑した表情でセレーヌがまた怒鳴る。

「はい、私は書籍畑が長くて雑誌部門のことは……」

 よく知りませんと言おうとした風花の口をセレーヌがふさいだ。

「ごちゃごちゃ言ってないで付録組みなよ。あんたは不器用そうだから、ひも組みでなくて輪ゴムで止めるやつにしな」

 と店長命令。

「はい」

 素直に従い風花は適当に付録組みをしだした。


 風花たちが雑誌の付録組みに取り組んでいると、エプロンをつけた老若男女が売り場に入ってきた。社員やアルバイトの人たちらしい。みな、チラチラと見慣れぬ中年男、風花を見ながら、興味なさげに書籍の入った段ボールを開けだした。

「みんなが俺に注目している!」

 皆の注目を一身に集めていると勘違いした風花はまるで、ベテラン書店員のように付録を輪ゴムで括ろうとするが、

『パッチーン』

 と音がして切れた輪ゴムが風花の左目に直撃した。

「痛ーい」

 悶絶する風花。みんなが笑ってる。おひさまも笑ってる。弱り目に祟り目だ。すると、

「大丈夫ですか?」

 一人の女性店員が濡れたタオルを持って風花の元へ矢って来た。

「いやあ、なんのこれしき……大丈夫でないみたいです」

 甘える風花。

「じゃあ、これで患部を冷やしてみて、ダメだったら近所の眼科へ行きましょうね」

 やさしい。どこまでもやさしい。風花は、見える右目で彼女の顔を見上げた。

「……う、美しい……」

 そこには白い素肌にほんのり赤いほっぺた。長くてストレートな黒髪。そして、潤んで黒目がちな二重の瞳。姿勢はバレリーナのようにピンと伸び、お尻がきゅっと上がっている。これぞ、究極の美。地上に降りた天使よと風花の心は踊る。

「せめてお名前を」

 名を問う風花。

「はい。今出川・エレーヌ・結衣、セレーヌの妹です」

 恥ずかしげに答えるエレーヌ・結衣。姉、セレーヌとは正反対の女神よ。

「ああ、もう死んでも悔いはない」

 風花はエレーヌ・結衣に抱かれて神に召され……かけたその時、

「なに、サボってんの! しかも、あたしのかわいい妹に色目使いやがって、このクソジジイ、いや、エロジジイ! 今日は閉店までレジ研修だよ、試用期間だから時給は七百円だ、この野郎」

 恐怖の大王、セレーヌが天国へ行きかけた風花の足を引っ張り、地獄へ突き落した。

「頑張って、風花さん」

 エレーヌ・結衣が耳元で囁いた。風花の体全体にやる気が漲る。スイッチオンって感じだ。なんだかこの店でやっていけそうな気がした。そして、できればロマンスも……。

 風花は左目の痛みも忘れて妄想ゾーンに突入した。


 午前九時四十五分。

「朝礼をしまーす」

 と、全くいけてないおばさん社員が声を張り上げた。スタッフが皆、レジの前に集合する。小心でパニック障害の風花は、

『きっと、みんなの前で自己紹介させられる。いやだな』

 とため息をついた。心臓がドキドキしてハートブレークしそうである。

「各担当から何かお知らせなど、ございますか?」

 いけてないおばさん社員が叫ぶ。声からして酒焼けかなんか知らないが『ボヘミアン』でも歌いそうなガラガラ声。髪は今どき流行らぬチリチリ・ソバージュ、エプロンがはじけそうなほど太った体、象みたいなごっつい足。エレーヌ・結衣ちゃんを見たあとに彼女を見ると、日本人にもいろいろあるなーと感じてしまう。興味ついでに若者Cに、

「あのおばさん年齢いくつ? もちろん独身だよね」

 と聞くと、

「いえいえ、ジャニ●ズみたいな若くて格好良い旦那さんがいますし、年は三十そこそこですよ」

 と相変わらず親切な答え。

「へー」

 世の中わからんものだ、と風花が感心していると、セレーヌ店長が、

「新しい、役立たずが今日から仲間入りします。世間知らずのMr.アダルトチルドレンですが、親友の元旦那だから仕方なく採用しました。みなさん、彼には厳しーく接してください。どうぞよろしく」

 と風花を手ひどく紹介する。ここは自己紹介でイメージ回復だ! と彼が一念発起、話そうとすると、セレーヌが、

「自己紹介は省略。どうせくだらないこと言うんだろ。時間のムダムダ」

 と風花の晴れ舞台を台無しにした。そして、

「じゃあ、今日も頑張りましょう。そう、徳大寺さん、この馬鹿のトレーナーよろしく」

 と、あのいけてないおばさんに風花の身柄を預けた。

「えー、僕はエレーヌ・結衣さんに教わりたいです」

 と風花が訴えると、

「バーカ、エレーヌは庶務と電話番。あの娘、店に出したら客がいっぱい来ちゃうじゃないか」

 と、店長とは思えぬ意味深な暴言を吐きセレーヌは店長室に消えた。

 午前九時五十五分。

 開店まであとわずかな友人堂・北新横浜店のレジ裏のスペースで、風花は、イケてないが格好良い旦那がいる徳大寺さんに、接客の基本応対やカバーの掛け方、包装の仕方などを叩き込まれていた。なんちゃって、徳大寺さんは、イケてないけれど、セレーヌ店長とは違ってやさしく、懇切丁寧に書店業務を教えてくれる。風花は、

『人間、顔じゃあないね、ハートだね』

 と心でシャウトした。イエーイ、ロックンロール。へんなじいさん歌手の生霊がまだ彼に取り付いているようだ。

 午前十時ジャスト、開店。しかしレクチャーは続く。

「徳大寺さんはお名前、なんて言うのですか?」

 と風花は聞いた。性格重視の風花、徳大寺さんに惚れたか?

「小雪っていいます。似合わないでしょ。でも私が生まれた日に関東に大雪が降ったらしいの。だからそんな名前にされちゃった。ほんとは大雪って名前の方が似合っているのにね。それとも雪だるまかしら」

 徳大寺さんは自分にコンプレックスがあるようだ。

「でも、格好良い●ャニーズ系の旦那さまがいるって聞きましたよ」

 別方向から褒める風花。しかし、

「彼は……和也さんは、私じゃなくて、我が家の資産目当てで私に言い寄ったとしか思えないのです。でなければ、こんな私にあんな美形男子が近づいては来ないわ」

 軽い世間話のつもりが、なぜかどんどん深刻な方向に傾いていく。やばいと心のカラータイマーが点滅しだした風花は、

「僕はこの数十分のレクチャーであなたがとっても良い人だと感じましたよ。旦那さまもそうなんじゃないかなあ」

と慰めた。だが、

「あの人はそんな人間じゃないわ。仕事もろくにしないし、昼間は家で寝てるだけだし、夜は毎晩のように出かけて行って、朝まで帰らないの。結婚当初は真面目な銀行員だったのに。今では私の家の財産を喰い潰しているとしか思えないの……」

そういって徳大寺さんは涙を流した。なんだか和也ってやつは自分そっくりだと感じた風花は、

「じゃあ、三行半、突きつけなさい。そしたら目覚めるかもしれないよ」

 と自らに置き換えて言ってみた。

「それが出来ればねえ」

 涙を拭き拭き答える徳大寺さん。

「離婚作戦ではダメなの?」

「私の父が超の付く厳格な性格で『彼の今の状態は異常だが、ワシは彼が実は大変有能で優しい男だと知っている。なにせ元は《みずこ銀行》でワシの資産運用係としてとてつもない利益をもたらしたからな。お前も、もう少し、彼を見守ってあげなさい』と言って聞かないの」

 うーん、金満家にある父親の強権か。悩む風花。

《チックタックチックタック》

 小坊主のように大脳を働かす……。

《チーン!》

 グッドアイデア、ウェイクアップ!

「今夜、和也さんを尾行しましょう。そして、浮気や、仁義に背いた行動をしていたら、根性叩き直してやりましょう。ここは僕に任せてください」

自身満々。勇気百倍!

「でも、そんなこと……彼、空手の黒帯よ。風花さんのその太鼓腹では、勝てないわよ、絶対」

 不安がる、徳大寺さん。

「お任せあれ。でも材料を仕込みにちょっと商品管理室に行ってきます。店長には内緒にして下さい」

 そういうと風花はレクチャーを中断して、走り去った。


「やあやあ、若者たちよ!」

 部屋に入るなり、風花は叫んだ。書籍の検品やストック分の雑誌のひも組みに勤しんでいた例の若者五人が一斉に固まる。

「どうしました? 風花さん」

 リーダー格のAが尋ねた。

「おう、そのことだ。君たち《人助け》をしてみないか?」

 風花が戦場の武士みたいに芝居掛かって話す。

「風花さんの尻拭いならお断りですよ」

 Bが笑う。

「違うよ。徳大寺さんを助けるのだ!」

 風花、力強く宣言! すると、

「徳大寺さんなら頼まれなくったって助けますよ。なあ?」

 Aが叫びB~Eが同調する。

「徳大寺さん、俺と違って人望あるのね」

「それは当然でしょう。どこの馬の骨ともわからぬ風花さんなんか、開店時からここに居て皆に親切な徳大寺さんとは比べものになりません」

 いきり立つ、若者たち。

「そうかい、では協力してくれるね?」

 すこし、ひがみっぽく風花が尋ねると、

「おー!」

 と、ナイスなチームワークでハモった。

「で、なにをするんですか?」

 代表者Aが質問する。

「徳大寺さんのイケメン旦那の魂胆を探るのだ。そして、不埒な考えを持っていたら俺たちで成敗してくれよう」

 風花は時代劇の再放送みたいな口調になってきた。浪人中に見てたんだ、きっと。

「で、我々はなにをすれば?」

 冷静なる代表者A。

「きみたち、いい体格してるよね。体育会系でしょ。なにやってるか教えてよ。それに名前をまだ聞いてなかったから、軽く自己紹介をお願いします」

 今更の自己紹介か。読者が混乱しなければよいが……

「では俺から」

 Aが口火を切った。

「俺の名は永三助(えい・さんすけ)。柔道八段です。オリンピック強化選手になるはずでしたが、テレビのバラエティーで、グリズリーと戦い、処分されました。」

「僕は尾井武男(びい・たけお)。ラグビーで花園に行きました。ポジションはナンバー8です。花園で優勝しましたが、その帰りに『桃園』という風俗店に行ったのがバレて退学させられました」

「私は志位レモンと言います。ハーフです。アメフトでスーパーボウルに出たことがあります。しかしその試合で《世紀の大凡プレー》と後世に語り継がれる、100フィート逆走オーウンゴール・タッチダウンをやり、ファンから殺されそうになり、日本に逃げてきました」

「初めて喋ります。僕は出以優(でい・まさる)です。元力士です。ちゃんこを作るのが下手で、兄弟子に包丁で刺され廃業しました。幸い傷口は脂肪のおかげで内臓に届かず。今も生きています」

「しんがりの拙者は井伊直須是(いい・なおすぜ)と申します。北辰一刀流、薩摩示現流、柳生新陰流などの免許皆伝を戴いておりますが、愛刀の村雨丸を銃刀法違反で、お上に没収され無剣の徒となりました。無念です」

 なんと姓もABCDEであった。とっても分りやすい。

 しかし、世が世なら各世界で大活躍出来る大器にも関わらず運命に翻弄され、書店裏方のアルバイトとは……風花は彼らに親近感を覚えた。そして、

「我ら六人のサムライ、心優しき徳大寺さんを不埒なジャニー●野郎から解放するため、いざ出陣いたーす!」

 風花の掛け声は時代劇というより大河ドラマ調になってきた。そしてAからEが「おー!」と叫ぼうとした時、

「六人じゃあ一人足りないんじゃないの?」

 といいながらセレーヌ店長が部屋に入って来た。

「うぬ、卑怯千万。聞き耳立てたなあ」

 とファイティングポーズをとる風花。しかし、

「なめんじゃないよ、このジジイ。あんたよりあたしの方が大戦力になるわよ。自慢じゃないけどあたしは、空手五段、柔道九段、合気道にキックボクシング、グレコローマンレスリング、テコンドーにモンゴル相撲、カピバラ……じゃなくてカポエイラにコザックダンスと世界の格闘技をほとんどマスターしているのよ。風花ジジイはなにが出来んのよ? 聞かせてごらんなさい」

 セレーヌは詰め寄った。

「かっかっかっ、セレーヌ店長。あなたの格闘技など所詮、兵士の技。私の場合は『孫子の兵法』『甲陽軍鑑』から『ドラッガーのマネジメント』まで幅広く熟読し、『将に将たる器』を身に着けております。すなわち、皆様方は私の戦略のままに己が力を存分に発揮し、敵である、徳大寺和也の息の根止めてしんぜようぞ!」

 興奮してきた風花は叫んだ。

「我らの良心、徳大寺小雪殿の苦悩を取り除こうぞ。エイエイ、オウ!」

 AからEが気勢を上げ、釣られてセレーヌまでが天に拳を上げている。ここに友人堂北新横浜店の『七人のサムライ』が誕生した。(なお、この名称は黒沢大先生の作品とは何ら関係ないことをお断りしておきます)

「では、決行時間までお仕事を続けてください。特に風花! 初日からサボってんじゃないよ。ディスプレーのサボテンにしちゃうわよ」

 そういってセレーヌ店長退場。AからEも持ち場に帰った。当然、風花は徳大寺トレーナーとレジ研修である。


 午後一時。

 研修を一通り終えた風花は、初心者マークの可愛い名札をつけてレジに立っていた。一緒にパート歴十年の尾根沢さんという主婦も入っている。あれ、尾根沢さん? どこかで聞いた名前だが……あっ横浜マリンズの尾根沢監督と同じ苗字ではないか。すっかり親近感が芽生えた風花は尾根沢さんに話しかけた。

「尾根沢さんって、マリンズの監督と同じ苗字ですね」

 すると、尾根沢さんは顔をしかめた。

「どうしました? 急な、さし込みでも?」

 人の心の機微に疎い風花が尋ねると、

「尾根沢昭夫……わたしの主人なのです」

 夫人が今にも泣きそうな声で話した。

「えー、そうなんだ。今度、サイン貰ってきてくださいよ」

 どうしようもなく、人の心の機微に疎い、風花が呑気にサインを頼む。

「でもねえ、サインはもう書けないかも。だって、主人、十日のキング戦のあと、無期限の休養を言い渡されたの。多分、解雇だわ。ねえ、風花さん、主人の采配はどこが悪かったのかしらね?」

 風花に尋ねる,夫人。

「そうですねえ……」

 少し考えたのち、風花の長口上が始まった。

「有体に申し上げて、最大の失敗は投手陣の底上げを期待され監督に就任したのに、結局一人として若手を育てられなかった、これに尽きます。さらには戦略面、打者の育成などをヘッドコーチの海辺さんに任せてしまったことも選手に無駄な動揺を与えたと思います。はっきり言えばご主人は投手コーチとしては一流ですが、監督の器では無かったということです。マリンズはご主人を投手総合コーチとして呼べばよかったのです。しかし当時、東京キングの投手総合コーチだったご主人を同じ地位で招くことは出来なかったのでしょう。例の《ナベハダ》氏辺りが反対するのは目に見えていますからね。それで、監督としていわば『昇進』の形で移籍するしかなかった。ご主人にとっても、マリンズにとっても不幸な選択でした。しかし、奥さん。悲観する必要はないです。来年は無理かもしれませんが数年のうちにご主人はどこかの球団に招聘されますよ。だって、舞浜ランボーズや福岡ドンタック、さらには東京キングで強力な投手陣を作ってきたのだから。これは私が断言します。尾根沢さんは汚名を返上出来ます」

 風花は愛する野球の事だけに熱く語った。尾根沢夫人は、

「風花さんの話を聞いて勇気が出てきたわ。帰ったら主人に風花さんのことよく話してみるわ」

 と言ってほほ笑んだ。

「わあ、うれしいな。ところで……」

 風花が不思議そうに尋ねた。

「さっきからお客様、一人もレジに来ませんねえ?」

「いつも、そうよ」

 何気なく答える尾根沢夫人。

「えー? だって朝、あんな大量に商品が入荷したのに、全部余っちゃうんじゃないですか?」

 風花が疑問を呈すと、

「そのことはあたしが教えるよ」

 とセレーヌ店長が登場した。

「これには書店業界の根幹に関わる重要な理由があるのさ」

「重要な?」

 風花オウム返し。

「そう、二十年前いわゆる《バブル経済》が弾けたあと、書店も好景気から一転『売れない時代』に突入した訳よ」

「はいはい。でも僕はベストセラー連発しましたけどね」

 自慢げな風花。

「それは、例外中の例外。百万部を超える本なんて、十年に一回でればよい方。ほとんどが売れずに出版社に返品され裁断されちゃうのよ。在庫持つのも金が掛かるからね。書店だって同じ、バブル時は『仕入れろ、仕入れろ。置けば売れるぜ』なんて言ってた上司たちが、バブルの弾けた途端、『在庫増やすな、返品、返品』って、手のひらを返すように在庫抑制を命じ出したの。そうすると出版社も返品が増えて困るでしょ。そこでどうしたと思う?」

「さあ?」

「わからないの? 出版の第一線にいたくせに!」

「あーい、すいまてん」

「ムカッ、まあいいわ。答えはね、『新刊をジャンジャン作って取次(書籍の問屋)に送り込む』なの。そうすれば、委託期間まではとりあえず取次からお金が入る訳ね」

「へえ」

「それで、そのお金で、次の本を作るのよ。まさに自転車操業。こんなんじゃ、良心的で素晴らしい本なんて出来ないわよね」

「全くその通り」

「でね、その悪循環を防ぐために取次は新刊の受け取り条件を厳しくしたの。だから最近中規模や小規模の店には売りたい新刊が入荷しないってことが起きだしたの」

「あらま」

「その指数として『返品率』っていうのが重要視されだしたの。つまり、返品ばっかり出している書店には本を卸さないってことが起きてきたのね」

「はあ、世知辛い世の中ですねえ」

「それに対抗するために我が友人堂はこの巨大な《北新横浜店》を作ったの」

「それで、なんのメリットがあるのですか?」

「この店は実は『倉庫』なのよ。つまり《世界は一つ、本は友達・友人堂》チェーンの中規模、小規模の店舗に必要な数の書籍新刊や雑誌をここから送り出すの。そうすれば、商品確保に躍起にならずに済むでしょ。だから、当店は原則返品0%の最優良店な訳。だからこの店自体は暇でも売り上げ伸びなくてもいいの」

「はあ……」

 風花は分かったような、分からないような呆けた顔をした。ようするに、『大人の事情』だということかなあ、くらいは理解できたかな。そんな時、

「よう、いつもの奴くれや」

 突然、レジにいかにも《その筋》の人が現れた。風花の体は緊急危険警報の発令により、フリーズした。すると、

「あら、親分さんいらっしゃい。いつもの『週刊暴力世界』と『月刊トカレフ』それに『週刊たらえもん大百科』に『すてきなお母さん』ですね。ご用意してありますよ」

 と、さっきまで沈み込んでいた尾根沢夫人が慣れた手つきでレジ打ちして、お会計する。《親分さん》は真っ黒なクレジットカードを出して、

「一括払いでね。あと領収証を《(株)稲庭興業・横浜支社》でね」

 といかつい顔に似合わず、やさしい声で尾根沢さんに話す。

「そこまで、仰らなくても万事心得ておりますよ。はい、クレジットのお控えと、領収証。それにお品はいつも通り三つに分けてお入れしましたからね」

 尾根沢さんも愛想がいい。

「お、いつもすまないねえ……うぬ、そこの若いの新入りかい? にしちゃあ少し年齢いっているな」

 親分が風花を睨み付ける。

「は、はい。今日からこちらに、お、お世話して、いやお世話になっております。か、風花涼でございます。な、なにとぞ、お見知りおきを……」

 恐怖のあまり、フルネームで言っちゃったよ。

「おう、そこそこ社会常識持っている挨拶だな。緊張することないぜ。俺は稲庭会系指定暴力団鳥肌組の組長やっている鮫肌啓二だ。鳥肌の鮫肌だから《ハダハダ》って呼んでもいいぜ。機嫌が悪い時はボコボコにすっけどな。ハハハ、ここ笑うとこだぞ、風穴くん」

 また風穴だ。場合によっては戸籍を変えた方が良いかもと思いつつ、

「ハ、ハ、ハ、ハ、ハー」

 と作り笑いをした。

「おまえ、黄金バットか? じゃあ、またな」

 と言い残し、《ハダハダ》は店を出た。風花は、尾根沢さんに、

「ちょっと出ます」

 と言い残し休憩室に入りデパ●錠を飲んだ。今日の処方分三錠はこれで終わり。

「やばい、和也討伐のとき飲む分がない……ああ、十二時過ぎたら翌日分飲もう」

 と良いように考えてレジに戻った。

 その後、風花は殆ど客の寄り付かないレジに閉店まで約九時間立たされていた。尾根沢さんは三時で上がり、そのあとは五時まで徳大寺さんに益子さんという女性社員。五時から十一時までは近くの神奈川国立大学の学生、新島裕子さんという、ファニーな女子大生と一緒に暇な、というか何かの宗教的修行ではないかとも思える厳粛な直立不動に耐えていた。時々、裕子ちゃんに話しかけても、

「風花さん。(裕子ちゃんは名前を間違えずに言ってくれた)レジ内での私語は禁止ですよ」

 と、取り付く島もないお言葉。随分真面目だなあと風花が小さく呟くと、

「私、裁判官を目指しているのです。だから法律や決まり事は絶対に守りたいのです。はい、以後私語禁止!」

 と二十歳も違う女の子に説教されてしまった。なので、ひたすら案山子になる。だが、客もスズメもよっては来ない。やはりここは《北新横浜倉庫》なのだと実感した。実際その通りで、風花がぼさーっと立っている間に、商品管理の若者たちは他の店舗へ送る商品の梱包、小型バンへの積み込み。そして配送などをテキパキとこなしていたのである。セレーヌ店長がそれらの仕事を風花にふらなかったのは、

「あのジジイにやらせたら、ここの流通機能を絶対、麻痺させるに違いない。奴はトラブルのオーラが体中から滲み出ている」

 と見事な人物分析をしたからである。流通機能が破綻したらセレーヌのエリート人生も破綻するのだ。それだけここ北新横浜店は友人堂にとって中枢かつ重要な場所なのだ。倉庫としてだけど……。


 午後十一時半。

 閉店と共に、裕子ちゃんはチャッチャカとレジを精算してしまった。風花は何もすることなしに、その後ろ姿を眺めていた。特に腰から臀部にかけてを。よっ、エロジジイ! そして、(やっぱり、一番はエレーヌ・結衣さんだな。二番は裕子ちゃん。三番は益子さん。性格的には人妻だけど、徳大寺さんがトップ。セレーヌ店長はどん尻決定!)などと心の中で女子店員のランクをつけて、喜んでいた。

 そこへ、どん尻セレーヌが現れ、

「なに、裕子ちゃん見てデレデレしてんのよ。犯罪だよ。それはともかく、昼間の件で打ち合わせするから大至急支度して《のんだくれ》に急行、いや超特急! あたしゃ、激務でのどが渇いてしょうがないんだよ。ああ、早くビール飲みたい」

 と見事なアル中ぶりを見せた。

「打ち合わせって、今日実行するんじゃないんですか?」

 風花が聞くと、

「あんた、やっぱり莫迦だね。徳大寺和也の顔、知ってるの? どこに出没するか知ってんの? 仲間の数とか腕っぷしとかわかるの? 準備もしないでいきなり何するつもりだったの? ああ、これで軍師気取りなんだから、世間を知らないおぼっちゃまはこれだから困るのよね」

 とセレーヌは嫌味を百連発した。

「ぼ、僕はおぼっちゃまじゃあ、ない! 貧乏詩人の息子だい! むー」

 風花はガキ丸出しで反論したが、意味はない。

「まあ、とにかく行くよ。商品管理のあんちゃんたち呼んできな」

 そういうとセレーヌは風花の尻を蹴り飛ばした。十メートルは飛んだ。


 午前十二時。

 居酒屋のんだくれにて『徳大寺小雪さんの婿養子である、徳大寺和也の夜の行動を調査し、場合によっては袋叩きにする、七人のサムライの会、第一回会合』が始まった。黒メガネにマスク姿の店員が八人掛けのテーブルに彼らを案内する。会合の司会は今出川セレーヌ、友人堂北新横浜店店長。言い出しっぺの風花は先ほどセレーヌに尻を蹴飛ばされた際に顔面を壁面にて強打し、差し歯を含む、三本の前歯を損傷。痛みと恥ずかしさで無口になっている。あとはおなじみ、商品管理の若者A~E君たちである。

「じゃあ、まず徳大寺和也の面を割るわね」

 そういうと、セレーヌは自分のスマートフォンを取り出し、徳大寺小雪さんに電話を掛けた。

「ああ、小雪ちゃん。遅くにゴメンね。昼間、風花のバカに旦那さんのこと、相談したでしょう? だめよ、人にものを相談するときは相手をよく選ばなくちゃ。うん、心配しないで。あたしがバカに代わって指揮を執るから。でね、悪いんだけど和也さんの写真あるかしら。そう、ある。携帯にはある? ある。じゃあそれをあたしの方に添付メールしてくれる? アドレスは《sexydynamite0404****.ne.jp》ね。よろしくじゃあね、おやすみ。ええ、期待して結果を待っててね。チャオー」

 なんて、自信過剰なメールアドレスだ。と風花が考える間もなく、セレーヌのスマートフォンから着信音が流れた。曲は八代亜紀、『舟歌』。渋すぎる。

「さあ、来たわよ、顔写真。本当に男前だねえ。みんな、写真を携帯に送るから出してちょうだい」

 セレーヌが命じると、A~Eがポケットやカバンから皆、スマートフォンを取り出した。しかし、風花だけは微動だにしない。

「ジジイ、早く携帯出しなさいよ。別にスマホじゃなくたって、恥ずかしがることないじゃん」

 と急かすセレーヌ。しかし、風花はなお、微動だにしない。しかし、両肩がプルプル震えている。

「こっちは暇じゃあないんだよ。早くしないと奥歯ガタガタにしちまうよ」

 セレーヌの恫喝。前歯の無い今、奥歯までやられたら、総入れ歯だよ。意を決して風花が口を開いた。欠けた前歯が痛々しい。

「僕、携帯持ってません。離婚したとき取り上げられました。ついでに言うと固定電話もありません。だから僕と連絡をとるには電報かハガキ、封書。可能であれば、テレパシーを送ってください。ただし、テレパシーを送られても受信できるかはわかりません。一番手っ取り早いのはアパートに直接来ることです。でも居留守使っちゃうかも。対人恐怖症だから」

 風花の発言に一同、ズッコケる。新喜劇か!

「あんた、本当に役に立たないねえ。寝ててもいいよ」

 風花、軍師から雑兵に格下げ。会合からも締め出された。以後は、セレーヌとABCDEによる真剣な会議が始まる。

「まず、夜に徳大寺家から出るところを押さえて、尾行しなければなりませんね」

 若者Aこと永三助が発言。的を射てはいる。

「そうすると、うちの店の閉店前に、誰かを徳大寺家の近くに潜ませないといけないわねえ。でもそんなことしたら、商品流通に支障がでるわね」

 セレーヌが悩む。

「なら、僕が行きましょう。店に居たって役に立たないんでしょ?」

 寝ていたはずの風花がムクっと顔を上げて立候補した。

「あんたはバカだからダメ! 余計な口出ししないで寝てな」

 そういうとセレーヌはお店のメニューの角っこで風花の脳髄を思いっきり叩いた。風花は白目をむいて昇天したかのように気絶した。

「この人手不足の折に、尾行部隊を編制するのは難しいわねえ。えーと生ビールのお代わりちょうだい~」

 エレーヌが、黒メガネにマスク姿の店員を呼ぶ。

「はい、かしこまりました。ピッチャーでお持ちしますね」

 店員は素早くセレーヌ専用ビールをピッチャーで運んできた。ついでに風花専用ウーロン茶のピッチャーも持ってくる。

「あら、あなた気が利くわね。でもジジイには手洗いの水でよかったのよ。ほほほ……」

 セレーヌが店員に言う。そして、

「あなた、新入りさん? 初めて見る顔だけど……」

 と店員さんに、いやらしく絡んだ。

「いえ、ここに務めて三か月です。お客様とお会いするのは初めてですから、ローテーションの関係だと思います。」

 店員は真面目な口調で答えた。すると、

「ウォオー」

 突然、風花が目を覚まし、両手を力強く天に突き上げた。何か怖い夢でも見たのだろうか? さらにその左手が店員さんの大事な黒メガネを吹き飛ばした。

「風花さん、どうしたんです?」

「ジジイ狂ったか?」

 皆が心配し、駆け寄る。しかし、風花は、

「ワハ、ハ、ハ、ハー」

 今度は笑い出す。

「誰か、こいつを潰しちゃいな」

 セレーヌが言うと、

「店長も、皆も目が悪いのか? この店員さんをよく見ろ!」

 と風花は叫んだ

「え?」

 皆の目が店員さんに注がれる。そして、

「あああああー」

 と唸った。

「わかったか? 彼こそ徳大寺和也くんだ。皆の衆。私は店に入った瞬間からわかっていたんだよ、ワトスン君」

 と訳のわからないことを言うと、テーブルに突っ伏してまた寝てしまった。多分何かに取りつかれて口寄せをさせられたのだろう。

「徳大寺和也さんですね」

 セレーヌが黒メガネの吹っ飛んだ店員さんに尋ねる。

「そうですが、あなた方は?」

 尋ねる和也。

「あなたの奥さん、徳大寺小雪さんの同僚です。彼女はあなたが夜な夜な街に出歩いていることに心を痛めていると聞き、何とか真相を確かめようとしていました。しかし、こんな所でお会いするとは……」

 偶然とは恐ろしい。あのとき、風花はなぜ黒メガネを吹っ飛ばしたのだろう?

 それはそれとして、

「和也さん? あなたは毎晩ここで働いていたのですか?」

 代表質問が始まった。

「そうです。ただし週三日はここで、残りはコンビニで夜番をしています」

「では遊びまわっていたわけではなく、アルバイトに精を出していたのですね?」

「まあ、そうです」

「じゃあ、なぜそれを小雪さんに隠していたのですか?」

「……恥ずかしかったからです」

「恥ずかしい?」

「ええ、私は元々銀行員でした。真面目に働いていました。そこを小雪のお義父さんに認められ、結婚しました。ところが別件で損失を出してリストラ……周囲からみたら『徳大寺家の財産目当ての結婚だ』とやっかみを言われ、心が壊れました。小雪に当たることもしばしばありました。しかし小雪はなにも言わなかった。我慢していたのか、耐えていてくれたのか……いや、小雪は心底優しい女なんです。マリアさまなんです。そう気づいた私は少しでも働いてスイートテンダイヤモンドを買おうと思いました。もうすぐ、私たちの十年目の結婚記念日だからです。でもそれを知られるのが恥ずかしくてグレたふりをしていました。それが小雪を苦しめていたとも知らずに……」

 和也の独白は終わった。

「いい話じゃないか」

 セレーヌは目に涙をためて聞いていた。

「僕らの腕っぷしは不要だったんですね」

 A~Eが笑う。

「皆さん、出来たら、このことしばらく小雪には隠しておいて下さい。あと一週間で記念日なのです」

 和也は頭を下げた。

「わかった。小雪さんには『風花がドジって調査に失敗した』と言っておくよ」

 セレーヌが答える。すると、

「ぼ、僕はドジなんて踏んでなーい!」

 風花は突然目覚めると、店内で暴れだした。そして和也に襲いかかる。

「お客様。店内ではお静かに」

 そういうと和也は風花に正拳突きを食らわした。

「ぐへっ」

 風花は膝から崩れ落ちた。

 しばし歓談の後、風花を除く一行は、明日も早いので帰宅の途についた。風花はセレーヌ馴染みの店長さんのご厚意によりその場に放置され、朝までぐっすりと眠りこんだ。いい夢が見られますように……。


 翌日、早朝。

 友人堂・北新横浜店、従業員入口前に《サイクロン号》に跨った風花がいた。北風が彼の髪を揺らす。

「では、勝負だ」

そういうと風花はポケットから従業員入口の鍵を取り出し、鍵穴に差し込みノブを開いた。

『ビービー』

 警報器が鳴る。罰金二万円まで、あと二十秒。

「うおー」

 風花は《サイクロン号》を発車させる。第一関門はセキュリティー・カード。頭上二メートルの高さだ。取れるか、風花?

「それ、ジャーンプ!」

 なんと風花、昨日のうちに三角形の什器をタイムカード入れの下に設置し、スタントマンよろしく《サイクロン号》ごと飛び上がった。

「セキュリティー・カード、キャッチ!」

 見事なサーカス・プレイ。しかし、着地に失敗! 転倒した。残り十秒。行けるか?

「まだまだ」

 態勢を立て直し、風花、猛ダッシュ!

 五,四,三,二……時間がない。間に合うか?

「挿入!」

……どうだあ?

無人の店に静寂なときが訪れる。セキュリティー解除成功。

「ふー」

深呼吸すると、風花はデパ●錠を飲み、心を鎮める。そして、店電の受話器を取ると某所に電話を掛けた。

「ああ、《セコイム》さん。私、そちらに加入しております、友人堂・北新横浜店の風花と申します。いつもお世話になっております。ひとつお尋ねしたいのですが、よろしいですか。ええ、セキュリティー解除のことなのですがね、二十秒だとギリギリで厳しいのですよ。もう少し延長って出来ませんか? え、出来る! ああそうですか、では二分にしてもらえますか。ええ、今日来て設定してくれますか。そう、ではよろしくお願いいたします。私、セキュリティー担当の風花です。そう、琴風の風、えっ? 琴風がわからないの? 若造だなあ、じゃあ風間トオルの風ね、えっ、仲村トオルじゃなくて風間! はあ? 風間杜夫……ああ、そっちでもいいや。それにフラワーの花ね。えっ、風穴じゃあなくて風花! そう。ではよろしく」

風花はセレーヌに言われたように頭脳を使ったのである。


そんなこんなで、皆にバカにされながら、風花涼、不惑の四十歳はふらふら、わくわく、さまよいながらも店に溶け込んでいった。徳大寺さんにも笑顔が戻り、エレーヌ・結衣さんや新島裕子ちゃんは今日もかわいい。

そんなある日。

風花は、セレーヌ店長に店内のゴミを片付けて商品管理室横の事業ゴミ捨て場に持って行くように命じられた。

「うぃーす」

 と適当に返事をした風花は、紙ゴミ、燃えるゴミ、プラスティックに段ボールと鼻歌交じりに仕分けし、

「僕はどこかの莫迦旦那か?」

 と題名を忘れたが、なんかの落語の登場人物を思い描いていた。

「まあ、こんなところでいいや。捨てに行こう」

 と台車をゴロゴロ転がして大型業務用エレベーターに乗り込み、地下二階にある事業ゴミ捨て場へと向かう。途中、商品管理室を覗くと、若者A君がパソコンで、インターネットを見ている。

「ああ、いけないんだあ! 仕事中にお店のパソコンでアダルトサイト見てるう。店長に言いつけちゃおー」

 と風花がクラス委員みたいなことを言うと、

「ち、違いますよ風花さん。僕は《ヤッホージャパン》のニュースサイトを見ているんですよ。それに休憩時間ですから!」

 と、珍しく顔を真っ赤にして抗議してきた。怪しい。

「ほんとかな? どれどれ」

 モニターを覗き込む風花。

「えーと……えっ!」

 画面には大きな見出しで、

『横浜マリンズ 人材派遣及び出版大手、クルリントが買収!』

 と書かれていた。

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