軌跡 素人プロ野球監督、風花涼
よろしくま・ぺこり
0 十月十日 晴れ
十月十日、元体育の日。
ジャパン・プロ野球ア・リーグ、横浜マリンズの本拠地、ベイサイドスタジアムには四時の開門前から当日券を求めようとする多くの人々でごったがえしていた。
この日の試合は、もともと八月に台風五十五号(この年は異常なまでに台風が多かった!) の影響で中止になった試合を、予備日に充てられていた日程に組み込み、ア・リーグ事務局が昨日になって、あわただしく公式発表したものである。なぜ、事務局の発表が遅れてしまったかというと、超大型でとてつもなく強い台風九十九号(通称、サモン台風)が日本に接近していたため、予定をなかなか決められなかったからである。しかし台風九十九号は気象予報士のヒライさんの予想進路を外れ、今シーズン、メジャーリーグに移籍した元札幌ベアーズ、日向五右衛門投手の《釜茹でシュート》のように、日本列島を大きく右に大きく逸れていった。これにより本日の試合開催が決定した。
時期的に、いわゆる消化ゲームになってもおかしくない試合にもかかわらず、これほどの観客が集まって来るのには二つの理由があった。
まず、一つにはマリンズが戦う相手である、東京キングの優勝がこの試合に懸かっていることである。今シーズン、春先から絶好調、独走状態にあった東京キングが、秋風吹くここまで、どうして優勝にお預けを喰ってしまったのか?
それは、台風五十五号が東京を直撃した日に、無謀にも本拠地キングダムドームでマリンズとの試合を強行したバチがあたり、三回表の途中に球場を覆う強化被膜が烈風で吹っ飛んでしまうという異常事態が起こる。さらに間が悪いことに、たまたまオーナー席で観戦していた東京キング会長にして『球界のドン』の異名を持つ《ナベハダ》こと
「必ず勝て!」
と厳命されていた。
当然、キングファンにとっても必勝を祈願すべき試合であり、黒い帽子にオレンジ色の憎いタオルの輩たちがどんどん球場めがけて集まってくる。
一方横浜マリンズ側にもこの試合に期すものがある。
マリンズはすでに今季の最下位が決定していた。七年連続の指定席である。ドラフト制となって、はや半世紀。チームの戦力は均衡になるはずなのに一向に光が見えない有様である。最後に優勝、日本一になったのは、かれこれ十五年前のことである。熱烈なマリンズファン以外は誰も覚えていない。さらに問題なのがその負け数である。過去六年の間の負け数は九十一、九十五、九十四、九十二,九十一、九十三となんと! ずっと九十敗以上しているのである。球史に残る負けっぷりである。そして今季は、ここまで百四十三試合で五十二勝八十九敗二引き分け。もし今日勝てば久々の九十敗以下! 哀れなマリンズファンは灯火のように小さな希望を胸にマリンブルーの帽子を被り、水色のメガフォンを持って、みなとみらい駅、もしくは関内駅でキヨーケンのシューマイ弁当か泉平の助六を買って球場に足を運ぶのである。
午後四時、開門。
いつもならばビジターの東京キングが打撃練習をしている時間だが今日は違う。球場を貸しているためビジターにまわったマリンズナインが打撃練習に取り組んでいる。拍子抜けしたキングファンは、
「あーあ、つまんねーの」
とか、
「なんだ、凡打する練習でもしているのか?」
と辛らつなヤジを飛ばす。しかし、打撃ケージにマリンズの主砲、浦田蔵六内野手が入った瞬間、スタンドのキングファンはサーっと静かになった。浦田は型通り初球をバントすると徐々に力を入れていき、打撃投手の放つボールをレフトスタンド、バックスクリーン、ライトスタンドへと打ち込んでいく。キングファンからはため息が漏れる。
「さすが、浦田だ。ほかの屑バッターとは格が違う」
「来年は彼がキング打線の四番だな!」
半可通のキングファンが気勢を上げる。そう浦田は国内FA(フリー・エージェント)の資格を昨年獲得している。しかし、同じく権利を取った団扇川外野手がナ・リーグの福岡ドンタックに移籍したため主軸二人が抜けることを危惧してマリンズ残留を決めた。「大きなチーム愛だ」「これで来季こそ最下位脱出だ」とファンの誰もが思った。しかし蓋を開ければ開幕から、いいところなくチームは最下位。浦田自身も精彩を欠いたシーズンだった。さらに早くもストーブリーグに突入したスポーツ新聞各紙は『浦田、FA決断!』『浦田、東京キング決定的!』とはやし立て、浦田本人も、
「優勝争いを出来るチームに居たいという気持ちはある」
と移籍を匂わす発言をして、マリンズファンを失望させた。ゆえにライトスタンド側(利便性を考えマリンズが一塁側、キングが三塁側にベンチをとった)からは大きな歓声はない。冷ややかな目で浦田の打撃を見つめるのみである。
ここに一人、グランドやスタンド全体を球団関係者席から悲しげに見つめる男がいた。横浜マリンズ球団社長、
彼はプロ野球経験者でも親会社の首都テレビの社員、役員でもない。八年前、マリンズがヨコハマ造船から首都テレビに株式売買によってオーナー変更されたとき、大手広告代理店、博物堂から招聘されたのである。そのマーケティング手腕を期待されてのことである。すなわち、首都テレビの上層部は横浜マリンズという商品で金儲けをしたがっていたと考えられる。マリンズはその時点で悲惨な時代に突入したのである。
しかし、舵取は予想に反して、チーム運営に真摯に取り組んだ。ファン層拡大をめざし、現役選手による少年野球教室や養護施設、老人ホームなどの慰問。さらに横浜市や神奈川県主催のイベントには浦田やエース横須賀大介など主力選手を惜しげもなく参加させ《地元密着》の方針を推し進めた。お手本として、ナ・リーグの札幌ベアーズ、舞浜ランボーズ、福岡ドンタックなど、地元に愛される球団を研究し、アイデアを出した。実際、キャップ、レプリカユニホーム、その他さまざまなグッズの売り上げは格段に伸びた。
だが彼はやはりプロ野球については素人だった。特にスカウティングやドラフト、トレード戦略、さらには外国人選手の獲得などを前体制からの古株に任さざるを負えず、傍からみてもおかしなトレード、不可解なドラフト結果をもたらし、ファンを憤慨させた。特にひどかったのが外国人選手獲得で、この六、七年間一人として成功した選手はいない。かつてはスピン、ボイジャー、ミヤーゴ、パンチ、パチョレーム、バトラー、ブラックマンなど枚挙に暇がないほど優良外国人を獲得していたのに、なぜこんなことになってしまったのか? それはオーナー移譲のさいに、メジャーに太いパイプを持ち、前述の選手を獲得してきた《大リーグ通》の駒込渉外部長を首都テレビ側が『高年俸』『使途不明な経費』などを理由に解雇してしまったからである。以来、マリンズはジョージ四万十川という日系三世の駐米スカウトを採用しているが、その実力は推して知るべしである。
だが、最下位、戦力不足よりもっと、舵取が心を痛めているのが『球団売却』であった。結局のところマリンズは首都テレビに収益どころか莫大な負債をもたらした。ただでさえ視聴率低迷に苦しみ続ける首都テレビにとって、マリンズは最悪の象徴であった。「せめてもう少し強ければ……」首都テレビの重役たちは口を揃えた。「優勝争いでもしてくれれば、優良コンテンツとしてスポンサーに高値で売れるのに……」、「期待していたキング戦も視聴率が取れなくなっているからな」、「それならばプロ野球中継なんかやめてバラエティ番組を放送したほうがいいな」、「U局の対大阪タワーズ戦のほうが視聴率良かったりして……」、「それならいっそU局のカナガワテレビにでも買って貰いましょうか?」、「あちらさんにそんな財力ないでしょ!」そんな冗談めいた会話がいつしか現実化しつつあった。まずは昨年に発覚した大手トイレットメーカー《ヨクデル》との買収交渉だ。この案件は、横浜残留を条件とする首都テレビ側と社長の出身地である鳥取に球団を移したいヨクデル側との意見の食い違い。さらには「ヨクデルの売名行為だ」「トイレがオーナーじゃあ、すとーんとまた最下位だよ」などファンからの声が上がり、まさにお流れになった。
しかし、今年もまた水面下での買収交渉が首都テレビのメインバンク《花菱東洋UFО銀行》主導で進められているらしい。舵取には上層部からの説明はない。上層部から見れば、おそらく彼はもう〈死に体〉なのだろう。そのことを教えてくれたのは博物堂時代からの知り合いである東京経済新聞の友永記者であった。
「マリンズにとって良い企業が買い取ってくれればいいのだが……私はこの歳でまた職探しだな」
と舵取は小さく呟いた。
午後五時半。
両チームの先発バッテリーが発表される。
『先攻の横浜マリンズ、ピッチャーは横須賀、ピッチャーは横須賀。背番号18。キャッチャーは鵠沼、キャッチャーは鵠沼。背番号29』
マリンズはエース、横須賀の登板だ。スタンドから歓声が沸く。しかし、エースとはいいながら彼はここ三年間で六勝、五勝、七勝と、とてもエースなどとは呼び難い状況である。今年も現在七勝である。それでも世間では《マリンズのエース》といえば横須賀大介なのである。それはチームで彼以上に勝利をあげたものが居ないからである。いかに若手の育成が出来ていないかがわかる。そしてキャッチャーの鵠沼真一。彼は昨年途中までは四番手捕手。すなわち一軍メンバーではなかった。それがこの大事な試合で起用されたのは、昨年までの正捕手、相乗翔がFAで東京メトロサブウェイズに移籍し、二番手捕手だった亀岡は昨シーズン途中に東京キングにトレード。三番手の糸魚川は大卒ルーキーで期待されたが打撃、インサイドワークいずれも力不足で今季は二軍暮らし。必然的に鵠沼真一、三十歳、二児のパパ、がとりあえず正捕手、という、居酒屋のビールみたいな状態なのである。とくにファンの間では「相乗がFAするのは分かり切っていたのに、なんで亀岡を出したんだよ!」という声が多く聞かれた。
『後攻の東京キング、ピッチャーは北条、ピッチャーは北条。背番号26。キャッチャーは土肥、キャッチャーは土肥。背番号10』
東京キングは名実ともにエースになった左腕の北条哲也。受けるキャッチャーは主砲でありチームのキャプテンでもある土肥新之丞。黄金バッテリーで最終戦に優勝を懸ける。場内三分の二を占めたキングファンのボルテージは、早くも絶頂に上りつつある。
午後五時五十分。
スターティングメンバーの発表だ。
先攻、横浜マリンズ。
一番、
二番、
三番、
四番、
五番、タグ、背番号44。レフト。
六番、
七番、
八番、
九番、
後攻、東京キング。
一番、
二番、
三番、
四番、
五番、ナイト、背番号44。レフト。
六番、
七番、
八番、
九番、
東京キングのファンたちは、一斉に各選手の応援歌を叫びだす。その音声は場内にすさまじく響き渡る。一方マリンズ応援団も応援歌を歌いだすが、キングファンの絶叫でほとんど聞こえない。これではここがどっちのホームグラウンドかわからない。だが、それは今日に始まったことではない。横浜市民は
午後五時五十五分。
人気韓流スター、チャン・タンソクによる《国家斉唱》が行われ、のちに日韓問題となる。さらにはなぜかこの最終戦にお披露目となった(ナベハダ氏がОKを出すのに半年かかったともいわれる)、東京キング公式チアリーディングチーム《クィーン》による軽快なキングダムマーチが踊られ、のちに商標権にからみ、東京キングは英国大手レコード会社と米国アミューズメント会社から訴えられることとなる。しかしそんなことには関係なく、球場の雰囲気はいやがうえにも盛り上がる。そのほとんどがキングの勝利を願っているのだ。
午後五時五十八分。
ついにキングナインがグランドに飛び出てくる。『グォーン』という歓声が渦巻き、まき込まれた数人の観客が空に舞う。なんだか嬉しそうだ。中には胴上げされているおっさんもいる。ビールのペースが早過ぎるのではないか?
午後五時五十九分。
始球式に、スーパーアイドル《SKⅡ48》の最年長メンバー、菅井さだ七十六歳が登場! スタンド中の熟女好き草食系おたく男子たちがスタンディングオベーションでそれを迎える。バッターは元町商司。おもむろに左バッターボックスに入る。
菅井さだがアンパイヤーに促され会心の速球、時速二十六キロをストライクゾーンに投げ込む。
『うぉ―――』
熟女ファン大興奮。すると、
《カキーン!》
鋭い打球音を残して、ボールはライトスタンド場外へ! なんと元町選手、始球式のボールを打ってしまった。しかもプロ入り一号である。元町は喜び勇んでグランドを一周する。球場中、大ブーイングだ。しかし強心臓の元町、いまホームイン。一方、打たれた菅井さだは持病の狭心症の発作が起こり救急車で病院に一直線。なんとか命は取り留めたが救急車の中で『普通のお婆さんに戻りたい』とつぶやき、翌日『高齢を理由』としてSKⅡ48からの卒業を発表した。なんとも暗雲漂う試合前のセレモニーであった。
午後六時。一回の表。
主審、伊能の右手が上がった。
「プレイボール!」
試合開始と同時にこの時期には異例ともいえる地上波での中継放送が始まった。放送は首都テレビではなく、東京キングのオーナー企業である、闇雲新聞系列のジャパンテレビ。実況は下重聡アナウンサー、解説は元ミスター・タワーズの掛布団雅之氏である。どうぞよろしく。さらには屋根のないキングダムドームでパブリックビューイングが行われたが、観客はヘルメット着用が義務付けられ、かなりの緊張感を強いられている。それでもキング優勝を見たい約一万人のヘルメット(野球のではなく工事用の頑丈なやつ)男女の眼が試合開始を映し出すオーロラビジョンに集中していた。
それはさておき。
横浜のトップバッター元町商司が始球式とは逆の右バッターボックスで構える。元町はマリンズ唯一のスイッチヒッターだ。
左腕北条が初球を投げる。外角低めのストレート。
「いただきっ!」
とばかりに元町が打ち返す。彼は『早打ちの元さん』と言うあだ名を持っていて、初球ストライクは必ず売ってくる。キングバッテリーはそのことを失念していたのか。打球はライトの頭上を越える大飛球。ライトの畠山、必死に追いかけるが間に合わず、元町いわゆる『スタンディングダブル』で二塁へ。マリンズ初っ端から大チャンス。
続く富士公平は初球を手堅く送りバントで元町三塁へ。
「落ち着け! 相手はマリンズだぜ」
土肥が北条に近寄りささやく。
次打者はベテラン、巨漢の強打者、宗谷。
土肥のサインは外角へのスクリューボール。宗谷は外国人バッターなみに外角にすべるボールが打てない。外海は外角めがけボールを投げ込む。しかし、若干高めに浮いた。宗谷は左足を思いっきり踏み込み、強靭な上半身でバットを振りきる。
《ドスーン》
鈍い音がしてボールはライトスタンド一直線のホームラン!
『ぐわっー』
ライトに固まる少数民族マリンズファンの歓声があがる。わずか三球でマリンズがキングから二点をもぎ取った。マウンドでうなだれる北条。それを見た、キングを率いる若き司令官、
「おーい、テツ。うなだれるのはまだ早いぜ。お前、どこのチームとやっているんだ。マリンズだぜ、マリンズ。沈没船に二点なんてハンディをあげたようなもんだぜ。もっと、リラックスして投げろよ。優勝なんて気にしない、気にしない」
武衛監督はそう言ってベンチに戻った。
「我、落ち着け」
呪文を唱え、平常心を取り戻した北条は続く、主砲浦田、ダメ外人タグ(もちろんジョージ四万十川がスカウト)、好打の錨を得意のフォークボールで連続三振に斬って取った。
「よっしゃ、その調子!」
武衛監督の檄が飛ぶ。わずか二点差ぐらいではキングナインは誰も負けを予感しない。今シーズン、キングの対マリンズ戦平均得点はなんと八点なのである。
午後六時二十分。一回の裏。
マウンドに立つのは《名ばかり》エース、横須賀大介三十六歳である。球歴十八年。前回のマリンズ優勝を知るただ一人の現役である。地元三浦高校からドラフト四位で指名された横須賀は二年目後半から頭角を現し、優勝した年には十六勝をあげ一気にチームの顔となった。また普段からアフロヘアーにスカジャンという奇抜な格好で街を練り歩き、ゴルフシャツに黒いパンツしか履いていないプロ野球選手の中で《オシャレ番長》とマスコミにあだ名をつけられた。ついでにおだてに乗せられて、某男性ファッション誌の表紙を飾ったこともある。ただし、その号の売り上げは歴代ワーストを記録し、半年後には雑誌そのものが休刊となった……。とにかく海千山千の男であり最近は老獪なピッチングで味なところをみせる。しかし味方のマリンズ打線は七年間沈黙続き、彼が好投すればするほど得点を奪えず、しょっちゅう見殺しにされる、命がいくらあっても足りない男である。
「さあ、いこうか」
横須賀がプレートに足を懸ける。バッターはキングのニュー若大将、トップの武田隼人二十三歳。昨年、主力選手だった仁王火選手のケガをラッキーなステップにして一躍レギュラーショートとなった期待の若手である。そしてレギュラーに定着した今季はホームランも狙える核弾頭として他球団から恐れられている。その陰で、仁王火選手はリハビリ中にタレントの愛須モナカとの不倫を写真週刊誌に激写され、私生活の乱れを球団から厳重注意された挙句、今シーズン前に札幌ベアーズにトレードされてしまった。あわれな都落ちである。
それはさておき、横須賀は振りかぶって第一球を投げ込んだ。大きく縦に落ちるカーブだ。武田は思わず見送る。
『ストライク!』
伊能主審の右手が上がる。
第二球、ボールは内角をえぐるシュート。武田はのけ反ってよける。
『ボール』
第三球は同じ内角にストレート。
『ストライク!』
カウント、一ボール二ストライク。ここで常道なら外角に外すところだが、横須賀は鵠沼のサインに首を横に振る。しつこく内角攻めか? いや横須賀は鵠沼の二回目のサインも嫌った。なにを投げる? 武田が瞬間的に迷った時、すーっと横須賀は超スローボールのチェンジアップをど真ん中に!
「わあー」
武田が叫ぶ。バットはピクリとも動かなかった。
『ストラーイク!』
伊能の右手が大きく上がる。
武田は横須賀の術中にまんまと嵌り、見送り三振ワンアウト。
続く二番、比企はボテボテのショートゴロ。三番、河津は大振りの空振り三振! あっという間に攻守交代。横須賀投手、上々の滑り出し。
午後六時半から七時半。二〜五回の表裏。
横須賀、北条ともに打者を寄せ付けない好投。このカードではめったに見られない投手戦に観客は酔いしれ、手に汗握る。秋なのにビールが飛ぶように売れる。みんな喉が枯れるほど両チームを声援しているのだ。
午後八時三十五分。九回の表。
初回にマリンズに二点を取られた後、北条は完全に立ち直り、所詮はぼんくら打線のマリンズを完璧に抑えた。一方の横須賀もよれよれになりながら、キング打線を零封。試合は終盤まで膠着状態となった。息詰まる熱戦。両チームのファンも予想外の展開に興奮し心拍数が上がっている。キング側は九回、ピッチャーを北条からクローザーの和田達也にスイッチした。
和田投手は三十一歳、武衛監督と同じ西海大学出身である。そのため昨年までは中継ぎやローテーションの谷間での先発など過酷な起用をされ、それでも黙々とチームのため、監督のために体を張って勝利に貢献してきた。そして今季、昨年まで抑えだったパトリオットが解雇され、様々な投手が抑え候補に挙げられた中、武衛監督のお眼鏡にかかったのが和田だった。彼は期待に応え、セーブ数でトップのカーボーイズ、春日井の三十五セーブに続く二十九セーブを挙げていた。そんな和田が二点ビハインドの場面で登場だ。マリンズ打線は錨、甲板、鵠沼の代打、鳴門と簡単に抑えられついに最終回裏を迎えた。
午後八時四十六分。九回の裏。
マリンズファンは抑えの切り札、大陸広志投手の登場を今か今かと待っていた。対するキングファンは、「大陸が出てきたらダメかもしれないな」と軽く意気消沈の模様。なぜなら大陸投手、先発が崩れっぱなしなのでめったに登板しないが、出てきたときは必ずセーブを挙げ、防御率0・00。被安打もわずか七本しかない。そのうち四本は内野安打だ。まさにスーパーストッパー。一部では「先発にまわせばマリンズは多少強くなるんでないかい?」
と言う声が聞こえるが、マリンズの尾根沢監督は、
「彼は力を抜くことを知らない。いつも全力投球だ。ストッパーだからこそ、その力が生きる。先発にしたら抜きどころを知らないから中盤で崩れる」
と大陸の先発転向をしなかった。その大陸がライト側のブルペンからリリーフカーに乗って、やって……来ない! しかもマウンドには八回までで百四十七球投げてヘロヘロのはずの横須賀が立っている。マリンズファンのいるライトスタンドはマリンブルーを通り越して真っ青にフリーズしている。
一方、大喜びなのはキングファンのいる、ライトスタンド以外の全部だ。
「やったー、これで逆転サヨナラの可能性が出てきた」
「ありがとう! 元キング投手総合コーチの尾根沢さまー」
「正義は必ず勝つのだー」
キングファンの大騒音の中、マウンドに立つ横須賀投手はランナーなしにも関わらず、セットポジションの姿勢をとった。完全に疲労している証拠だ。
打順は、きり良くトップの武田。
横須賀の第一球、ああー中途半端なストレート。
『カキーン』
三遊間にきれいなレフト前ヒット。
続くは比企。カウント2‐2からのフォークボールを、
『ドッカーン』
と打ち返した。
わー、レフト線にツーベース。武田は三塁ストップ。一打同点の場面に早変わり。
「わっしょい、わっしょい」
盛り上がるキングファン。オレンジのタオルを振り回す。ここで、一塁ベンチから尾根沢監督登場。主審に何事か告げる。
『ピッチャー、横須賀に代わり大陸、ピッチャーは大陸。背番号11』
ウグイス嬢の声がして、やっと大陸広志がリリーフカーでやってきた。
「もしかしたらですねぇ」
テレビ解説をしている元ミスター・タワーズの掛布団氏がアナウンサーに、いや全国の視聴者に語りだした。
「尾根沢監督はぁ右バッターの一、二番を右腕の横須賀にまかせてぇ、左の河津、土肥のところでぇ左腕の大陸を持ってこようとぉ思ったのではぁないでしょうかぁ」
元ミスター・タワーズはどこかの戦場カメラマンばりにゆっくりと喋った。
「しかし、常識的には考えがたいですねえ」
実況のジャパンテレビ下重アナウンサーがほぼ全ての視聴者とマリンズファンが考えていることを代弁する。
「常識ではぁ語ることがぁできないのがぁ野球のぉ面白さですねぇ」
掛布団氏にディレクターから巻きが入った。フリップには『もう、喋らないでいいです』と書かれている。
その間に、大陸は三番、坂東を敬遠。満塁策をとった。勝負は四番、土肥新之丞だ!……と思ったら、武衛監督がベンチから現れ、
「代打、大森退助!」
と一昨年の高校ドラ一、しかしまだ一軍ではヒットを打っていない、《未発掘の遺跡》こと大森を出してきた。土肥は「最低です」と憤慨しながらベンチに下がった。
「武衛監督なにを血迷って……」
キングファンのテンションは急下降。
「これで、勝てるかも」
マリンズファンの顔色が戻る。
大陸、セットポジションから渾身のストレート百五十一キロ!
《グワガラゴーン》
大森の一振りはレフト場外に消え、そのまま星になった。代打逆転サヨナラ満塁優勝ホームラン! この一打は永遠に球史に残るだろう。
そして横浜マリンズの七年連続最下位&九十敗以上も永遠に負の歴史として残るであろう……。
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