バッドエンド・ラベル<後編>
ところがである。
それから何日経っても、ラベルを貼ったその司書の身には、何事も起こらなかった。彼は、事故に遭うでもなく、病気になるでもなく、少女が図書館へ行くと、いつも相変わらずの元気な姿で働いていた。
こんなことは初めてだった。〈バッドエンド・ラベル〉が、その効力をいっこうに発揮しないなどということは。
(いったい、どういうことなの? 確かにあのとき、あの人に、ちゃんとラベルを貼り付けたはずなのに)
原因がわからないまま、少女は悶々と日々を過ごした。
あの司書が死んだら、それをひと区切りとして、また新しい〈バッドエンド・ラベル〉を買いに行こうと思っているのに。
(でも、ここまで待ってもラベルが効かないんだもの。これ以上あの司書にこだわっていたら、新しいラベルを買いに行くのがいつのことになるか、わからないわ。最後に残ったあのラベルが、たまたま不良品だったのかもしれないし。……それならもう、あの司書のことはきっぱり見切りを付けて、明日にでも新しいラベルを買いに行こうかしらね)
折しも、明日は町立図書館の休館日だ。
このところ、あの司書の様子を確認するため、毎日のように図書館に通っていたが、明日はその必要もない。区切りを付けて気持ちを切り替えるには、ちょうどいいタイミングかもしれない。
よし、そうしよう。明日は、新しいラベルを買いに行こう。
また、あの路地裏の古本屋に――。
(あ……。そうだ)
少女は、そこでふと思い出した。
そういえば。〈バッドエンド・ラベル〉を買ったとき、あの古本屋の老店主は、おまけだと言って、もう一枚ラベルをくれたのだった。
そのラベルを、少女は机の引き出しの中にしまったまま、すっかり忘れていた。
なぜなら、おまけにもらったそのラベルは〈ハッピーエンド・ラベル〉だったからだ。
(「どんな本でもハッピーエンドにしてしまうラベル」なんて、興味も使い道もないから、忘れていたのよね。あの古本屋の店主も、要らなければ誰かほかの人に譲ればいい、と言っていたけど……)
しかし、ラベルが本だけでなく、生きている人間にも使えることがわかった以上、話は別だ。人に譲るなんて、もったいない。どうせなら……。
少女は、机の引き出しから〈ハッピーエンド・ラベル〉を取り出した。
そして、一枚しかないそのラベルを、ぺたり、と自分の手の甲に貼り付けた。
ラベルは「HAPPY END」の文字だけを薄く残して、たちまち少女の手の甲に溶け込み、皮膚と一体化した。これでもう、どうやっても剥がれることはない。
「自分の人生だけは、やっぱり、ハッピーエンドのほうがいいものね」
手の甲の文字を指で撫でながら、少女は、そう呟いて笑った。
+
その翌日の放課後。
少女は予定どおり、新しい〈バッドエンド・ラベル〉を買うために、帰り道を遠回りして例の古本屋へと向かった。
道中、少女は携帯端末機器にイヤホンを差し込み、ラジオドラマを聴いていた。
退屈しのぎになんとなく聴き始めたそれは、短編のサスペンスドラマで、なかなかに面白いストーリーのようだった。
しかし、そうはいっても、ドラマはしょせんフィクションだ。どんなに面白いストーリーでも、リアルの出来事にはかなわない。〈バッドエンド・ラベル〉を、現実世界の、生きている人間に使って楽しむことを覚えた少女は、もはや、フィクションのもたらす刺激と興奮では、とうてい満足することができなくなっていた。
(それにしても、なんだか、やけに外を歩いてる人が少ないわね。前に来たときは、この道、こんなにもひと気のない場所だったかしら?)
ラジオドラマを聴きつつ道を歩きながら、少女は、そのことに多少の違和感を覚えた。
(もしかしたら、この前の通り魔事件のせい? あの事件の犯人、まだ捕まっていないって話だものね。それでみんな、怖がって外出を控えてるのかしら)
学校の図書室で、少女の落とした〈バッドエンド・ラベル〉を踏んづけた、あの女子生徒。彼女を殺害した通り魔は、いまだ正体もわかっておらず、この町のどこかで潜伏しているかもしれないその殺人者に怯え、住民たちは不安な日々を送っている。
(でも、私は大丈夫! だって、〈ハッピーエンド・ラベル〉を貼ってあるんだもの。私の人生の幸福は――少なくとも、不幸な死に方をしないことは、保障されているんだから)
そう思うも、少女は気持ち足を速めて、古本屋への道を急ぐ。
自分に貼った〈ハッピーエンド・ラベル〉が、本当に効力のあるものかどうかは、わからない。〈バッドエンド・ラベル〉の最後の一枚が効力を発揮しなかったように、自分に貼ったあのラベルが、たまたま不良品である可能性だって、なくはないのだ。
(古本屋に着いたら、今日は〈バッドエンド・ラベル〉だけじゃなく、〈ハッピーエンド・ラベル〉のほうも、いっしょに買うことにしましょう。もちろん、〈バッドエンド・ラベル〉は、ぜんぶ他人用に。〈ハッピーエンド・ラベル〉は、ぜんぶ自分用にね)
手の甲に浮かぶ「HAPPY END」の文字を眺めて、少女はそんなことを考える。
そうして、古本屋まであと少しというところまで来た頃。イヤホンで聞いていたラジオドラマが、エンディングを迎えた。
その結末は、少女にとっては不満の残るものだった。
快楽殺人者が主人公のサスペンスドラマ。その物語は、途中までは、ダークな展開と惨たらしい描写が魅力的で、面白そうな話だった。しかし、物語のラストは、快楽殺人者の主人公が、殺そうとした相手の返り討ちにあって逆に殺され、町に平和が戻るというハッピーエンドだったのだ。
(あーあ、つまらない。この悪魔みたいな主人公が、最後にあっけなく死んで終わっちゃうなんて、それまでの盛り上がりが台無しだわ。こういう話だったら、死んだかに思われていた殺人鬼が実は生きていて、再び町の人々を恐怖に陥れる――ってラストのほうが、ずっと刺激的ですてきなのに。こんな刺激の抜け切った結末なんて。これだからハッピーエンドは……)
イヤホンをはずして、少女は大きく溜め息をついた。
(ん? ……あれ? ちょっと待って)
そこで、少女はハタと気がついた。
先ほどのラジオドラマでは、物語の最後で、主人公が死んだのだ。
にもかかわらず、その物語は、ハッピーエンドだった。
なぜならそれは、主人公が凶悪な殺人鬼――悪人だったからだ。
改心の余地のない悪人が生き長らえて、その後も人々を殺害し続けることを示唆する結末であれば、その物語は、一般的に「バッドエンド」とみなされるだろう。
一方で、「悪が滅びる」という結末は、ハッピーエンドの一つのパターンである。
だとしたら。
ここで、一つの疑問が浮かぶ。
〈バッドエンド・ラベル〉によってもたらされるのは、果たして、誰にとってのバッドエンドなのか?
そして――。
少女は、〈ハッピーエンド・ラベル〉を貼った自分の手に、ちらりと目を落とした。
そのとき。
不意に、少女の前に、人影が立ちはだかった。
曲がり角の向こうから現れたその人影は、どん、と勢いよく少女にぶつかった。
「……!」
少女は、衝撃に息を詰まらせる。
その直後。
腹部に、焼けるような激痛が走った。
痛みの箇所に、ゆっくりと目を向けて。少女は、その目を見開いた。
少女にぶつかった、その人物の手には、ナイフが握られていた。
ナイフの刃が、少女の腹の肉の中に、ぶっすりと食い込んでいる。
ナイフを握る手は、その刃を一捻りして、少女の腹から引き抜いた。抉られた傷口から、血が噴き出す。
傷口を手で押さえながら、少女は、その場に崩れ落ちた。
叫ぼうとするが、声が出ない。喉の奥がひゅうひゅうと音を立てるだけだ。
少女は、口から赤い泡を吐き、腹から流れ出る血と共に失われていく力を、必死に振り絞って顔を上げ、ナイフを持つその人物を見上げた。
歪んだ笑みを浮かべて少女を見下ろす、その顔には、見覚えがあった。
それは、図書館で〈バッドエンド・ラベル〉を貼り付けた、あの司書の男だった。
男は、少女に向かってナイフを振り下ろす。
赤く濡れた刃を防ごうと、少女は、とっさに顔の前に手をかざした。それが無駄なあがきにすぎないと、わかっていながら。
かすむ視界の中。
少女が最後に見たものは、己の手の甲に刻まれた、血まみれの「HAPPY END」の文字だった。
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