自販機通りの夜<後編>

 少女は息を呑んだ。

〈そいつ〉の姿は、人間のものではなかった。


〈そいつ〉には、顔がなかったのだ。――いや。ない、というよりも、見えない。顔だけではなく、間近で見た〈そいつ〉の姿は、全身に暗いもやのようなものを纏っていて、その輪郭が、街灯の明かりの下で、絶え間なく小刻みに揺らめいていた。

 そんな中で、唯一、鮮明に見えるものがあった。それは、暗い靄の中から突き出した、つのだった。〈そいつ〉の頭には、やけに歪な形をした、ひょろりと細い角が生えていた。


〈そいつ〉は、少女の入っている「箱」に向かって、おもむろに片手を伸ばした。

 その指は、今しがたそいつらに引き裂かれ、小さくばらばらにされた影の欠片を、摘まみ持っている。ちらりと少女の目に映ったその欠片は、二つあった。一つは、少し大きめの木の葉ほどの切れ端。もう一つは、小銭ほどの小さな破片――。


 二つの影の欠片は、音もなく投入口に吸い込まれた――のだろう。


 その直後、少女の目の前の窓に、何十もの小さな赤い光が、一斉に灯った。


 整然と並んだ光の列。それは、商品ボタンのランプだった。窓の内側にいる少女にも、それは見えていた。ランプの光の下に浮かび上がった、そこに書かれた文字も、また。少女のいる側から見ると、それらの文字は、すべて左右が反転した、裏文字になっていた。


 少女の前に立つ、黒い靄を纏った〈そいつ〉が、人差し指を立てた手を、迷うように揺らす。その指が、少しずつ近づいてくる。

 やがて、〈そいつ〉は一つのボタンに狙いを定めて、それを押した。


【腕】という文字の上にあるボタンを。


 ピ。


 シンプルな電子音が鳴った、その瞬間。

 少女の片腕が、ぶちり、と音を立てて千切れた。

「ぎゃああああああああっ」

 少女が悲鳴を上げると同時に、千切れた腕が、ぼとりと足元に落ちる。落ちたそれは、少女の爪先の向こうへ転がって、見えなくなった。

 黒い靄を纏う〈そいつ〉が、窓の前で身を屈めた。

 そして、すぐに再び身を起こした〈そいつ〉は、窓に背を向けて、少女の前から去って行った。


 去り際に見えた〈そいつ〉の手は、手を握っていた。

 肩から先のない、腕だけの手を。




 それからも、夜が来るたび、〈やつら〉は自販機通りにやってきた。

 各々の手に影の欠片を持ったそいつらは、の前まで来て立ち止まることもあれば、の前を素通りすることもあった。目の前で立ち止まられ、影の欠片を持った手を伸ばされても、少女にはどうすることもできなかった。どうすることもできないのは、〈やつら〉のやってくる夜の間だけではなく、昼間であっても同じだった。夜だろうと昼だろうと、少女はずっと動くことができず、閉じ込められたから抜け出すことはできなかった。


 少女の前にやってきて立ち止まった〈やつら〉は、いろいろなボタンを押していった。【目玉】【足】【頭髪】【指】【耳】【爪】【背骨】【血液(200ml)】【血液(500ml)】【歯】【舌】――。


 商品ボタンの中には、一度か二度押されただけで「売切」の文字が表示されるものもあり、ひとたび「売切」になったボタンはそれきりもう、二度とランプを灯すことはなかった。


「売切」と表示されたボタンは、日が経つにつれ、どんどん増えていった。


 そして。

 一つ目のボタンが押された日から、どのくらいの月日が経った頃か。 

 何カ月か。あるいは何年か。あれから自分が、果たしてどれだけの間「ここ」に閉じ込められたままでいるのか。少女には、もうわからなかった。


 この日は、よく晴れた日だった。

 その陽射しも、すでに西の向こうへ遠のき、もはや少女の目に映ることのない「窓」の外の景色は、次第に色彩を失っていく。やがてそれは、街灯の明かりが届くわずかな範囲を残して、闇に呑まれ。


 ――また、夜が訪れた。

 ――夜と共に、〈やつら〉がやってきた。


〈やつら〉の一人が、の前で、足を止める。

 影の欠片を摘まみ持つ、黒い靄を纏った手が、に向かって、ゆっくりと伸ばされた。

 一つ、間を置いて、商品ボタンのランプが灯る。

 少女の目の前にある商品ボタンは、


「売切」「売切」「売切」「売切」「売切」「売切」「売切」「売切」「売切」「売切」「売切」「売切」「売切」「売切」「売切」「売切」「売切」「売切」「売切」「売切」「売切」「売切」「売切」「売切」「売切」「売切」「売切」


 もはや、暗いままのボタンの中に、その電光の二文字が表示されているものばかりだ。


 そんな中、まだランプを灯すボタンが、一つだけあった。

 最後に残った、その【首】のボタンを、黒い靄を纏う指は、ためらいなく押した。


 ピ。


 その指が、ボタンを離れると同時に、すべてのボタンの表示が「売切」となった。


 ぼとり。


 が、取り出し口に落ちてくる。

 生温かなそれが、黒い靄の手によって取り出され、ぽたり、ぽたりと、アスファルトの道路に染みを垂らした。

 その染みが、夜風に吹かれて冷え切るかどうかのうちに。

「販売中」のランプが、二、三度短く点滅したあと、静かに消えた。



          +



 明くる日。

 朝の陽射しに照らされ、再び色彩を取り戻した自販機通りを、登校途中の学生二人が歩いていた。

 そのうちの一人が、道の端に並ぶ、大量の自販機の一つに目を留めて、こう言った。


「ねえ。この自販機って、昨日までは、赤色じゃなかった?」


 その学生が指差したのは、四十九番目に並ぶ、灰色の自販機だった。

「販売中」のランプも、ボタンの「売切」表示も、すべての明かりが消えたその自販機を、二人は少しの間、立ち止まって見つめる。


「ええ? そうだっけ。どこにある自販機が何色かなんて、いちいち覚えてないなあ」

「そっか。でも、間違いないと思うんだけど。端のほうにある自販機だから、この辺の何台かなら、私はけっこう色の並び、覚えてるんだ」

「ふうん。確かに、言われてみればそんな気も……。そういえば、昨日までよりこの辺、ちょっとだけ、景色の色味が暗くなったというか」

「でしょう? やっぱり、そうだよね」

 同意を得られたその学生は、嬉しそうな声を上げた。二人は、また歩き出す。


「それにしても、赤色の自販機を灰色の自販機に置き換えるって、なんの意味があるんだろうね」

「え? 置き換えてるんじゃなくて、塗り替えてるんじゃないの? ほら、使用可能な自販機ともう使えなくなった自販機と、区別しやすいようにさ」

「そうかなあ。わざわざ塗り替えるなんて、さすがに手間だと思うけど。使えなくなった自販機なら、撤去すればいいだけじゃない」

「そういえば、ここにある自販機って、ぜんぜん撤去はされないよね。どんどん増えてく一方で。半分以上が灰色の自販機なのに、それもずっとそのまんま」

「何をいくらで売ってるかも、わからないような自販機なのにね。ここの自販機を使ってる人って、ほんとにいるのかな」

 謎だよね。と、二人は顔を見合わせた。


 赤色、灰色、赤色、赤色、灰色、赤色、灰色、灰色、灰色……。

 二色ふたいろが混ざり並ぶ、自販機の並木の間を歩きながら。


「ところで、さ」

 と、学生の片方が、また口を開く。

「この灰色の自販機って、何かに似てない?」

「何か、って?」

「えーと。ほら、あれだよ、あれ。灰色で、四角いのが、こうして立って並んでる――」


 その学生は、少しの間考え込んだ。そして、いくつかの自販機の横を通り過ぎたあと、ふと頭の中にが浮かび上がって、「そうだ」と手を打った。

 その学生は、行く手に並び立つ自販機の中から、灰色の自販機を目で拾いつつ、一言。


 墓石だ。


 と、呟いた。






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