「花群」其の二

 一道は、錆びついているかのような足を回して自転車を飛ばし、町外れにある西の林へと向かった。

 自分は家に帰ってから、どのくらい眠っていたのだろう。家で時計を見てこなかったから、正確にはわからないが、それほど長い時間ではなかったはずだ。日もまだ高いし、水溜まりに浸かって濡れたズボンもあまり乾いていない。

 だから、今なら、間に合うかもしれない。

 けれど、本当は、少し迷っていた。


 異世の国のことは、このまま忘れてしまったほうがいい。自分の中でそう囁くものがある。危機感。自分を守ろうとする防衛本能。たぶんそういったものなのだろう。

 人ひとりが生きられる世界というのは、きっと、本来一つだけなのだ。ゆえに、もし今までとは違う二つ目の世界に身を置くことがあれば、そのときは、もといた世界か、新しくやってきた世界かの、どちらかを選び取らなければならず、選ばなかったほうの世界は、やがてその人の中で、現実から切り離されてしまう。夢になってしまうのだ。

 一道にとって、数日間を過ごしただけとはいえ、異世の国は二つ目の世界である。選び取ることのなかったあの異界を「現実」の一部として自分の中に残しておくことで、自分の中のどこかが、やがてこの世界と噛み合わなくなり、将来何か、この世界で生きていくのに不都合なひずみが生まれそうな気がする。それが、怖い。


 ならばどうして、今、こうやって西の林を目指し、懸命に自転車を漕いでいるのか。

 里哉に対する償いのつもりなのか。自分でもよくわからなかった。自分は里哉を置いてあの世界から逃げ帰った。もう戻る気はない。里哉と一緒には行けない。だけど。だから。せめてこうして――。

 ――いや、どうだろうか。もしかすると、償いとかそんなことは関係なく、ただ単に、これが自分の望むことなのかもしれなかった。今里哉がいるあの世界を、これから先も里哉が生きていくあの世界を、自分も里哉と共有し続けていたい。だからなのかもしれない。


 林に着いて、一道はまだ新しい駐輪場に自転車を止め、林の中に入った。

 この林にまともな道のりで来るのは小学校のとき以来だ。あのころ無造作に木々の茂っていた林の入口は、今ではすっきりと整備されて、入口付近には案内板が設けられ、ハイキングコースの地図が描かれていた。

 一道はポケットに手を突っ込み、自分も家から持ってきた地図を広げる。

 画用紙にペンと色鉛筆で描かれ地図。ところどころ、下書きの鉛筆の線をこすった跡が、どうしてもきれいに消えずに残っている。

 それは小学校の頃、里哉と一緒にこの町を探検して作った地図だった。里哉の分と自分の分と、同じものを二枚ずつ作っていって、町中全部を描いたら一人分が何十枚もなった。その地図の中から、この西の林を描いたものを持ってきたのだ。

 地図には、昔理土と土遊びをした場所の位置が、半分は当てずっぽうだが記されている。再びそこを訪れようとしたとき、途中で道に迷ってたどり着くことができなかったので、ちゃんとした位置を記せなかったのだ。加えて、途中までの道のりにしても、ハイキングコースとして整備されたこの林に、当時と同じ道がどのくらい残っているかはわからない。だがそれでも、この地図を見れば、あの場所へのだいたいの方角くらいは割り出すことができる、はずである。あとは自身の記憶と勘が頼りだ。


(道を覚えるのは、昔から得意なんだ――)

 一道は、昔たどった道の景色の記憶を一つ一つ引き出しながら、それを目の前にある景色と照らし合わせつつ進んでいった。やはり道が整備されているせいで、小学生の頃遊んだ林とはだいぶ印象が違っている。しかしそうでなくとも、林は生きている植物の固まりだ。人が手を加えるまでもなく、木が伸びたり枯れたりして、年々その風景を変化させているのだろう。

 とはいえ、大きな木の姿は数年かそこらでそうそう変わりはしない。目指す場所までの中間地点に何本かあった巨木の、瘤や洞(うろ)の数、位置を、一道は今でも案外よく覚えていた。理土に連れられて林の奥へ行ったあのとき、巨木が見えるたびにそこに近寄って、瘤に足を掛けて木に登ろうとしたり、洞の中に枝を突っ込んだりしてさんざん遊んだからだった。

そうして、途中までは目印の巨木と思われる木を何本か発見し、道順が合っていることを確信しながら進んでいった。

 しかし、ハイキングコースの道を外れてしばらく歩いたところで、その先の道筋がわからなくなってしまった。昔もこの辺りで迷ったのだろうか。だとしたら、地図を頼りにできるのもここまでが限界だ。かといって、ここから先の道筋はもう思い出せないし、勘というのもそうそう都合よく働くものではない。


 どうにもならず立ち往生して、一道は、溜め息と共に地面に目を落とした。

 そのとき、視界の端に、林の風景にそぐわない人工的な色彩が映り込んだ。

 それがなんなのか、一道にはすぐにわかった。

 飴だ。飴を個包装した小さな袋だ。

 もしや、と思ってそちらを振り向く。だが、その辺りの草群に視線を這わせてみても、何もあるようには見えない。

 飴が見えたと思った場所に移動して、一道はあらためて地面や木の枝の上を探してみた。すると、その近くには何もないが、少し離れてまた別の場所に飴の袋らしき色が転がっている。しかし、そこへ目を向けると途端に飴は見えなくなる。その場所へ移動してまた探すと、少し離れた所に、今度は一口チョコレートの包みが落ちている。

 その飴もチョコレートも、ちらと目の端に入る瞬間はあるのだが、はっきり見ようとすると視界から消えてしまうのだ。

 それらは、一道が異世の国を出るとき道標とした菓子に、間違いなかった。

 あのときたどった陽の沈み灯の道は、異世の国の中でも、こちらの世界にほど近い場所だった。あの道から町の景色が見えたように、あの道の脇に今もある菓子が、里哉が自分のために敷いてくれた道標が、視点を合わせようとすると消えてしまう幻のような形で、こちらの世界に現れているのだ。

 一道は、もう迷うことなく、林の奥へと進んでいった。

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