第二十二話

「花群」其の一

 それから先の道中の記憶はなかった。気がつくと、一道は自宅の庭の隅に座り込んでいた。どうやらそこで眠っていたらしかった。

 目覚めてすぐ、自分の体に目をやると、服にも、手足や顔にも、あちこち乾いた泥が付いていた。……異世の国にいたとき、土でできたいろいろなものを触ったから……土の食器を手に持ったし、土の家の中に入って、土の座布団に腰を下ろしたし、土の布団にくるまれて寝たり、土の服を身に纏ったりさえした……そのときに付いた泥か。向こうでは体が汚れていることなどわからなかったが、それがあの国のまやかしの力なのだ。

 一道はあくびをした。

 まだ眠い。眠り足りない。

 瞼を閉じたかった。けれど。

 仄美に言われた言葉が甦る。

 ――外の世界に帰ったら、ゆっくり眠ってくださいね。どうか、途中で無理やり目を覚ますようなことはしないで――。

 途中。今は、眠りの途中なのだ。本来ならばまだ目覚めるべきときではない。それなのに、自分は目を覚ましてしまった。

 今すぐ再び眠りの中に戻ることはできる。

 でも――。


 眠りの作用、のようなものを。仄美の言ったあの言葉の意味を。一道はなんとなく理解した。

 目を覚ましたその瞬間から、一道は、異世の国でのことが、自分の中で急速に現実味を失っていくのを感じていた。それはちょうど、長い夢から覚めたときの感覚に似ていた。

もう一度眠りについて、目覚めるべきときがくるまで、気の済むまで眠ってしまったら――傘に覆われたあの異界で起こったあらゆることは、自分にとって、夢の中の出来事と同じになる。そんな気がしてならなかった。そして、夢はたいていいつまでもはっきりと覚えていられないように、異世の国で見たもの、聞いたもの、感じたことは、きっとこの世界で得た思い出よりもずっと早く、記憶から薄れていくのだろう。もしかしたら、大人になった自分は、そんなことさえ、すっかり忘れているかもしれない。


 それで、いいのか。

 一道は自分に問いかけた。

 この世界で行方不明になった里哉は、異世の国の民となって暮らしている。今の里哉の居場所であるあの世界を、そこで里哉が生きているということを、自分にとって夢にしてしまって、それで、いいのか。

 一道は、まだ全然疲れの取れていない体に無理やり力を込めて、立ち上がった。その途端、仄美が別れ際に指を触れた額から、強烈な眠気が頭の中に広がった。目眩が襲い、意識が溶け去りそうになる。一道は必死にこらえ、壁に手を付いて歩き出した。

 たとえ今眠らなくとも、眠りは必ず訪れる。一生眠らずにいることなどできないのだ。次の眠りを終えて目覚めたとき、異世の国は、今よりも遥かに自分から遠ざかっているに違いない。それはきっと、もう二度と手が届くことのない距離だ。そうなる前に……。


 玄関を開けて、一道は家の中に入った。

 少しして玄関先に現れた祖母が、一道の姿を見て息を呑む。

「か、一道、あんた……」

 目を見開いて、その存在を確かめるようにしばらく一道を見つめたあと、祖母はゆっくり振り返ると、ふらふらと頼りなげな足取りで、また家の奥へと戻っていった。

 祖母が祖父を呼ぶ叫び声を聞きながら、一道はそれには構わず階段を上った。二階には一道の自室がある。

 部屋に入った一道は、自分の部屋を懐かしむ暇もなく、勉強机の引き出しを開けた。確か、この引き出しのどれかにしまい込んだはずだ。横長の引き出し、上下に重ねられた引き出しを、上から順に探していく。

 祖父と祖母の足音が階段を上がってくる頃、一道は、引き出しの奥から数十枚の紙の束を見つけ出した。その中から一枚を選んで抜き取り、折り畳んでズボンのポケットにねじ込んだ。ついでに自転車の鍵も、反対側のポケットに入れる。


 祖父と祖母が部屋に入ってきた。

 祖母が一道に駆け寄って、その体を抱きしめた。

「よかった、よかったよぉ、戻ってきて……。今までどこ行ってたんだい。なんで、こんなどろどろになって……。今、お風呂沸かすからね。怪我はしてないかい? なんだかちょっと痩せたみたいじゃないか。お腹、すいてるんじゃないかい?」

「ばあちゃん……」

「ああ、そうだ。お母さんにも知らせないと。仕事が終わるまでまだかかるだろうけど、どうだろうねぇ。途中で帰ってこれるかねぇ。一道、おまえ、電話するかい?」

 祖母は一道を放し、電話のある一階へと向かった。

 一道も部屋を出た。祖父がそのあとに続き、一道と共に階段を下りた。

 祖母が階段の横で母の仕事先に電話をかけている。しかし、一道の向かう先は電話機ではなかった。

 電話機の横を通り過ぎて、そのまま三和土に降りようとする一道を、祖父が肩を掴んで止めた。

「どこ行く気だ」

「ちょっと」

 それだけ答え、一道は祖父の手を振りほどいて靴を履く。

「一道、おとなしく休んでろ」

 祖父は強い口調で言ったが、一道は黙って首を横に振った。

 歩き出そうとする一道の手を、祖父は慌てて掴んで引き止める。

「行かせねぇぞ。ちゃんと、家にいろ」

「じいちゃん」

 一道は振り向いて、体を返し、祖父と向かい合った。

「俺、行かなきゃならない所があるんだ。どうしても、今行かなきゃならないんだ。でも、絶対また帰ってくるから」

 祖父は、眉間に深くしわを寄せて一道を睨む。

 一道は祖父に笑いかけた。

「大丈夫だって。今だってさ、ほら、こうしてちゃんと帰ってきただろ?」

 それから、一道は、電話を終えて不安げにこちらを見ている祖母にも笑みを向けて言った。

「夕飯までには帰ってくるからさ。おいしいもの用意しといてよ。俺、すっごい腹へってんだ。あ、甘いものは、今日はいらないから。えっとね……そうだな、カレー! カレー食べたいな。でっかい鍋にいっぱい作っといて。頼んだよ、ばあちゃん」

「あ、ちょっと……」

 一道に近づこうとする祖母を、祖父が、無言で制した。

 祖母は祖父の顔を見る。数秒間、祖父と目を合わせたのち、祖母はひそめた眉をゆっくりと緩めてうなずいた。

 玄関の戸を開ける一道に、祖父が声をかけた。

「カレー、肉は鶏でいいか?」

 一道は振り返って「うん」と大声で返事をした。

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