「脱出」其の二
進むにつれて、はじめは地面の付近だけにあった陽の光が、だんだんと高い所へ伸びていき、周りの景色は明るさを増していった。
陽は、濃い影を地に塗りつける、焼けつくような夏の陽射しだ。梅雨の明けた外の世界の光だ。外の世界が、近づいているのだ。
その陽射しに肌をあぶられながら、一道は、ふと思った。
なぜだろう。
なぜ、自分は帰るのだろう。
考えてみれば「里哉と一緒にもとの世界に帰る」か「自分一人でもとの世界に帰る」か、いつだって、その二つの可能性しか自分の頭の中にはなかった。「里哉と一緒に異世の国に残る」という選択肢は、存在しなかったのだろうか。
――そんなことができるはずない。今帰ろうとしているその世界には家族がいる。家族とはかけがえのないものだ。だから、そこに帰ろうとしているのではないか。
――本当にそうか? 確かに、家族は生まれたときからずっと一緒にいる、最も近しい人間だ。けれど、同じ家にいても、特に会話する必要のないときは、お互い黙ってそこにいるだけのことも多い。そういうときは相手がそばにいようがいるまいが、あまり変わらない。その点、物心ついた時分からの遊び相手で、会うたび話を弾ませることのできた里哉は、もしかしたら家族よりも、他の誰よりも、この世でいちばんたくさんの会話を交わして、いちばんたくさんの感情や経験を共有してきた相手かもしれない。
家族と里哉。その二つを、比べることなどできない。そのどちらが大切かなど、選ぶことはできないのだ。
それならどうして、自分は迷うことなくもとの世界に帰ろうとしているのか。二つの世界の、一体何を比べて、何を選び取ろうとしているのか。
それは――。
そうだ。
それは、娯楽だ。
異世の国にも娯楽はあった。素朴な遊び。美しい沈み灯。しかしそれらは一道には、刺激も面白みも足りない、最初は新鮮に感じたとしてもそのうち飽きてしまいそうな、そんなものに思えた。あの国は、いずれ自分に耐えがたい退屈をもたらす。漫画も、ゲームも、テレビもない。おまけに、お気に入りの市販の駄菓子も、コンビニのファーストフードもない。そんな世界に一生いなければならないなんて、自分にとっては拷問以外の何物でもない。
里哉を失ってでも捨てられないものは、結局のところ、それなのだ。
自分は、漫画やゲームやテレビのために、いちばん大切な友達を見捨てたのだ。
さっき里哉と別れたとき、言えなかった言葉、伝えたかった言葉は「ありがとう」だけではなかった。そのあと最後に浮かんだ「ごめん」の意味に、一道は自分でも今になって気づいた。
異世の国のフタリメさまは、外つ国は穢れの国だと言った。
漫画やゲームやテレビの大概は、きっと、フタリメさまが語った「魂の隙間にむなしく入り込むもの」なのだろう。
けれど、自分はそれを求めている。純粋な世界にはない、雑味だらけの面白さ、楽しさ。その中で生きていきたいと望んでいる。たぶん自分は、魂の隙間というやつから呼吸しているのだ。隙間がないと、それに入り込んでくるものがないと、息が詰まって、苦しくて苦しくてたまらないのだ。
辺りの風景は、もう一道の背丈よりずっと高い所まで、まばゆい陽射しに塗られていた。異世の国にあった里哉の家の、地下室の沈み灯。あの静謐な月の光とはまるで違う、幻想的なものも、神秘的なものも、明るみの中に呑み込んで腐らせてしまいそうな、その陽射し。それが自分の中の卑俗さを現しているかのように思え、一道は嫌気がさした。だが、それでもなお、一時たりとも一道の足が止まることはなかった。
いつしか周囲の景色は林ではなく、町中(まちなか)のそれへと変わっていた。しかし、足元の地面は舗装された道路ではなく、依然として土の道のままだ。透明なシートに描かれた二枚の絵を重ねたように、本来は別の場所にあるはずの、道と、道の脇の景色とが、重なっている。
一道は走りながら周りに目をやった。
はんこ屋の看板の、「こ」の字の上側だけがなくなってしまって、剥がれたその部分の形が薄い跡になって残っている……小さな畑の隅に二本の園芸用スコップが突き刺してあり、いつから雨風に晒されっぱなしなのか定かでないそれは、すっかり錆びついて茶色くなっている……他に場所はなかったのか、用水路のフェンスに近所の家のものであろう布団が干されている……屋根のない駐輪場に停めてある自転車のサドルに、雨除けのためだろう、近くのスーパーマーケットのマークが入ったビニール袋が被せてある……草の生い茂る道端にトラックの荷台だけが置かれていて、それがそのままゴミの集積所になっている……線路脇の、柵も踏み切りもない場所に「危険ですので線路横断はしないで下さい」と書かれた立札があるが、線路の横の溝には板が掛け渡してあり、線路を越えてさらに溝を渡るための道ができている……。
いろんな人々のごちゃごちゃした人生が、ごちゃごちゃと混ざり合ってこの世を埋めていき、ごちゃごちゃした町の景色を造り出す。決して洗練されることなく、澄み渡ることのない空間。それは、一道が、生まれたそのときからずっと慣れ親しんできた世界だった。
突然、目の前で道が途切れた。
ついさっきまで、まだ先へ続いていると思っていた道が、不意に切り取られて、他の場所と継ぎ合わされたかのように、なくなってしまった。
途切れた道の先にあるのは、流れのない川だった。
見覚えのある川――いや、よくよく見ると、それは川ではない。窪んだ細い路地に雨の溜まった、水溜まりだ。
異世の国へ来る前の日、一道はこの水溜まりの前で引き返した。あのとき、雨粒に打たれて隙間なく波紋をぶつけ合っていた灰色の水面は、今は艶やかに周囲の景色を映し込み、色濃い夏の陽射しを反射していた。
後ろで気配がする。
靴、草履、下駄。様々な履物がめいめいに土を踏む、大勢の足音が近づいてくる。
雨を恐れる土人形。
雨の溜まった水溜まり。
そうだ――土人形たちは、この水溜りの中までは追ってこられない。
一道は、水溜まりとなった道に飛び込んだ。
瞬間。
背後の足音が、ふつりと消えた。
土人形たちが立ち止まったのか。それとも、異世の国の領域から完全に抜け出したのか。
振り向いて確かめることもなく、一道は、膝の半分ほどまである水を掻き分けて、前へ、前へと進んでいった。
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