第二十話
「天跳に似ていない人」
仄美は体を固まらせる。
次の瞬間。
「おお、いたいた」
木の陰から顔を出したその人物は、天跳だった。
「ああ、なんだ、天跳さん……」
仄美は全身の緊張を解いて、胸に手を当てて大きくため息をつき、傘を下ろした。
「追っ手と思ったか。やつらなら、まだそれほど近くには来てないぜ」
「そうですか……。でも、向こうは人数がありますから、早く林の奥へ進まないと、この場所ではいずれ……。あの、天跳さんは、なぜここに?」
「一道が林を抜けるまで走り切れるかどうか、心配になってよ。来てみてよかったぜ」
天跳は、依然として地面に膝を付いたままの一道に歩み寄る。そして、その体をひょいと抱え上げて、そのまま自分の背中に負ぶさらせた。
「仄美。おまえは作戦通り、ここで追っ手を待って、やつらを別の方向へ連れていけ。一道のことは俺に任せろ」
「はい」
「よし。そんじゃあ、行くぜ、一道。しっかり掴まってな」
そう言うと、天跳は前傾姿勢をとり、ふっと短く息を吹くやいなや勢いよく地面を蹴り踏んで、前に飛び出した。
とても人ひとり背負っているとは思えない速さで、天跳は林の中を駆け抜ける。
「天跳……なんで?」
小さな声で、一道は呟く。
「俺が、里哉と一緒に、この国にいればいいって、言ってたじゃないか。この国のほうが、外の世界よりも、ずっといい所だって」
走っている振動で舌を噛まぬよう、一道はゆっくりと、短く言葉を切りながら尋ねた。
少ししてから、天跳の声が返ってくる。
「でも、一道は、外の世界に帰りたいんだろ?」
一道はうなずいた。そして、前を向いている天跳にうなずいてみせても仕方ないことに気づき、すぐにうんと声を出して答えた。
それに対して「そうかい」と囁くような小声で言ったきり、天跳はまた寸刻黙る。
一道も何も言わないでいると、今度は、天跳のほうから口を開いた。
「正直言って、おまえが、なんでそうまでして外つ国に帰りてえのか、俺にはわからねえ。……けど、おまえがそう望むんなら、その望みが叶うのが、いちばんいいんじゃねえかと思うんだ」
「……天跳」
でも、天跳は。
仄美だって。
彼らはこの国に生を受けた、この国で生きる土人形なのに。どうして。
「……しきたりに、そむくことに、なるんじゃないのか?」
この国のしきたりだから――それを理由に、天跳も以前、自分が里哉を追って国の外へ出る道を探そうとするのを、邪魔したではないか。
一道の問いに、天跳は「なんでだろうな」と呟いた。
「この国の民たる者、しきたりは、守らなきゃならねえ」
きっぱりと、天跳はそう言い切る。
「けど、それ以上に、俺はおまえを守らなきゃならない。そんな気がするんだ」
さらに力強く言い切った、その言葉を聞いたとき。
一道の胸の奥で、何かがやわらかく弾けた。
それは、埋まっていた記憶の一粒だった。ずっと昔、こんなふうに、自分を守ろうとしてくれた人がいた。その人が残してくれた「お守り」を、今も自分は持っている。
一道はやっとわかった。
天跳が誰の作った土人形なのか。
天跳を作った人間。それは、一道が幼い頃に死んだ父なのだ。
生前、父は語ってくれたことがある。父がまだ子どもだったときにあった一つの話を。
ある日、父は西の林へ遊びに行った。そこで一人の女の子と出会い、その子と一緒に土遊びをして、一つの土人形を作った。父はその人形にアマトビと名を付けた。
『女の子に、このアマトビという人形はどんな性格で、どんな得意なことを持っているの、と聞かれてな。僕はちょっと考えて「アマトビは明るくて、とても元気で、病気一つしない健康な体で、運動がすごく得意な大人なんだ」って答えた。大きくなったらそんな大人になれますように、なんて思っていたからさ』
布団の上で、上半身だけ起こして語る父の姿が、甦る。一道は、父の膝を覆う掛け布団の端に寝転がって、その話を聞いていた。
天跳が誰に似ているのか、いくら考えてもわからなかったはずである。天跳を作った父は、天跳に、作り手自身とはまったく正反対の性質を持たせたのだから。
天跳とは似ても似つかない、穏やかで、物静かで、弱々しかった父。けれど、天跳と話していて不思議な懐かしさを覚えたのは、天跳の中に、確かに父の宿したものがあるのを感じたからだった。
父は生まれつき病弱な体だった。一道にとってはなんでもない、家から少し遠い西の林に遊びに行くというだけのことでも、家に帰ったあと、疲労で熱が出て寝込んでしまったという。だから土人形にあんな願いを込めたのだ。
しかし、願いとは裏腹に、大人になっても、一向にその体は丈夫にならなかった。一道が物心ついた頃には、重い病を患って、外に勤めにも行けず、いつも家で布団に横になってばかりいた。そんな父であったから、一道がうんと幼い頃でさえ、こんなふうに一道を負ぶって走り回ることなど、とてもできなかった。
父の病状は時が経つにつれて悪化の一途をたどり、寿命が削られていくのが目に見えるかのような状態が、しばらく続いたあと、最後の一日を自宅で迎えた。その日も登校する前に見た笑顔は、小学校から帰ってきたときには、もう二度と戻ることのないものになっていた。
父が死んだのちも、母は家を出なかった。今も義父母と一道と四人で、あの家で暮らしている。再婚相手の候補がいるわけでもなく、義父母と折り合いが悪いわけでもなく、先立つものがなかったのだろう。あとは、子どものために生活環境を変えたくなかったとか、家族が多いといつでも子守りを頼めたりして何かと便利だとか、母の実家には兄夫婦が住んでいて、母が一道を連れて帰っても部屋が余っていないとか、アパートなどを借りるよりも義父母と一緒の家に住んでいたほうが経済的な負担が少ないとか――いくつか理由はあったに違いないが、いちばんの理由は、たぶん、他のどの場所よりも父の思い出をたくさん宿すあの家から、離れたくなかったからだ。母にとって、父がどれだけ特別で、大切な人間だったかということを。そこにいようといまいと、誰より母を支えられる存在であるということを。ずっとそばで見ていた一道は、よく知っていた。
いつだったか、父の死後、母はふと思い出したように話してくれた。
『ねえ、一道。この話、あんたにしたことがあったっけ。あんたの名前は、お父さんが付けてくれたんだって話。一道――っていうのはね。いつか、あんたが道に迷ってどうすればいいかわからなくなったときも、必ず進むべき一筋の道を見つけられるように――って意味があるんだよ。その名前は、お父さんがあんたに残してくれた、お守りなんだよ』
父は、こんなふうに我が子を負ぶって走ることはできなかった。たとえ今この場にいたとしても、天跳のように一道を助けることは、決してできない。けれどそれでも、父は父なりのやり方で精一杯、一道を守ろうとしてくれたのだ。
父の痩せた背中を思い出しながら、一道は、土の感触がする、天跳の硬く大きな背中に頬を寄せた。
しばらく天跳に負ぶさって進むと、やがて里哉の待っている場所にたどり着いた。
仄美に洋服と傘を貸したからだろうか、里哉は和服姿で、一道の傘とは別の傘を持ってそこにいた。
里哉の前まで来て立ち止まり、天跳は、自分の背から一道を下ろす。とっさに足に力の入らなかった一道は、軽く地面に尻もちをついて、天跳の顔を見上げた。
国の出口まで連れて行ってはくれないのだろうか。そう尋ねたい一道に、天跳は言った。
「こっから先の道は、俺の足を使うわけにはいかねえよ。俺がおまえを負ぶってっても、もう国を出る邪魔にしかならねえ。一道が、自分の足で行かなけりゃ」
天跳は手を貸す素振りもなく、両腕を組んで一道を見下ろした。
その眼差しを真っすぐに受け止めて、一道は、うなずき、立ち上がった。
一道はその場で二、三回足踏みをする。大丈夫だ。足は動く。
一つ、大きく息を吸い込んで、一道は目の前に立つその男の顔をもう一度見上げた、
天跳。今はもういない父の作った、土人形。
「じゃあな、一道」
「うん。……ありがとう」
笑みを交わし合ってから、一道は、天跳に背を向けた。
「行こう、一道」
里哉の促しにうなずいて、一道は里哉と共に駆け出した。
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