「逃走譚」其の三
道のない林の中を、一道は走る。青い傘が再び視界に現れたので、またそれを追う。
向こうの足は決して速くない。里哉はもともと運動神経のいいほうではないし、それに、あっちだって、林までの長い距離を駆けてきて疲れているのだろう。だが今の一道には、青い傘との距離を少しずつ縮めることさえ、死に物狂いの思いだった。
苦しさで半ばぼんやりとする頭の中、時おり浮かんだり途切れたりする思考は、先ほどの出来事を思い返して、疑問と混乱にぐるぐる掻き回されていた。
(天跳が……俺のこと、助けてくれた? どうして……)
わからない。
天跳は以前、外の世界に帰る必要なんてないと、外の世界よりもこの異世の国のほうがずっといい世界だと、いつまでのこの国で暮らせばいいと、そう言っていたではないか。なのに、自分が国の外に逃げるのを、手伝ってくれるというのだろうか。
もしかすると罠かもしれない。そんな疑念も頭をよぎったが、もうそれ以上のことを冷静に考える余裕などなかった。今は、自分を導いているあの青い傘に賭けるしかない。
ある程度林の奥まで来たところで、青い傘は不意に立ち止まった。
一道はよろけながらも残りの距離を走り切り、やっとのことで青い傘に追いつく。
足を止めるなり、一道は膝に手をついて体を折った。渇き切った喉を吹き抜ける息の音が、寸刻の間、林の中に響いた。
少ししてから、一道は顔を上げた。
それに応えるように、ゆっくりと青い傘が下ろされる。
傘の下から現れた、その顔は――。
「仄美?」
一道は、思わず声にならない声を上げた。ほとんど聞き取れない声になったのは、驚きのせいでもあり、喉がひどくかすれているせいでもあった。
一道は呆然として目の前の少女を見つめる。
どこか里哉に似た土人形。昔里哉の手によって作られた、仄美。彼女は今、里哉の着ていた洋服を身にまとっていた。背格好が里哉と大差ないので、頭を傘で隠した後ろ姿を追っていても、それが里哉でないなどとは気づけなかった。
「なんで、仄美が……。里哉は? 里哉はどこなんだ?」
混乱が上乗せされ、足を止めたにもかかわらず、一道の呼吸は落ち着くどころかさらに短く乱れる。大声を出す体力が残っていれば、己の居場所が他の土人形たちに知れるのも構わず叫んでいたかもしれなかった。
そんな一道に、仄美は、
「大丈夫ですよ、一道さん。わたしは里哉さんに頼まれたんです」
そう言って、一道の心を鎮めるように微笑んだ。
仄美はその細い指で、林の奥を指差した。
「あちらで里哉さんが待っています。行ってください。わたしは、追っ手が来るまでここにいて、彼らがわたしの姿を見つけたら、この傘を差したまま、一道さんとは反対の方向へ逃げますから。そうすれば、彼らはこの傘を目印に追ってきます。その間に、一道さんは少しでも遠くへ行ってください」
「あ……」
仄美はもう一度微笑んで、心配いらない、というように小さくうなずいてみせた。
一道の胸に安堵が広がる。
思わず一つ大きく息をついた、その途端、ぐらりと体が揺れた。一道は慌てて近くにあった木の幹に手を付いた。気を抜くにはまだ早い。
「一道さん……」
仄美が、一歩、二歩、一道のほうへ歩み寄り、手を伸ばして、その指先で、そっと一道の額に触れた。
「仄美……?」
「あの……一道さん。外の世界に帰ったら、ゆっくり眠ってくださいね」
「え……?」
一道は戸惑いを含めて聞き返した。そんなこと、わざわざ今ここで言うようなことだろうか。不思議に思って仄美の言葉を繰り返す。
「ゆっくり、眠る?」
「はい。目覚めるべきときが来るまで、いくらでも、ぐっすり眠っていてください。どうか、途中で無理やり目を覚ますようなことはしないで……」
仄美は、一道の額から指先を離した。
土の指の冷たい感触が、肌の上に残された。
「お元気で、一道さん」
仄美は、再び青い傘を持ち上げ、頭上にかざした。
「ありがとう、仄美」
一言そう告げて、一道は、林のさらに奥、先ほど仄美が示した方向へと体を向けた。
再び走り出そうと一歩を踏み出す。――が、その一歩が、もはや耐えきれなかった。
一道は膝を崩し、地面に倒れた。
足が重い。早く、走らなければと、上半身だけなんとか起こしてみるものの、両足は鉛でも埋め込まれたかのように持ち上がらない。体の疲労がいよいよ限界に達していた。
「一道さん……!」
仄美がうろたえた声で呼ぶ。
大丈夫だ、と笑って立ち上がりたいが、なんとか笑顔を作ることはできても、足が動かない。もう少し、あとほんの数分でいいから、休みたかった。しかし、追っ手の土人形たちがそれを許してくれるだろうか。
「わたし……向こうへ戻ります。ここより手前で追っ手に傘を見つけさせて、彼らがここへ来ないようにします。一道さんは、動けるようになるまで休んで――」
そう告げながら、仄美が一道に背を向けて走り出そうとした、そのとき。
木々の向こうから足音が近づいてきた。
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