「逃走譚」其の二

「あっ……」

 逃走の助けを失った一道は、青ざめながらも、とりあえず起き上がって走り出した。こうなったらもう、とにかく早く林に行くしかない。

 しかし、いくらも走らないうちに、鍬と香炉のおかげで引き離せた理土との距離が、また見る間に縮まってきた。このままではすぐに追いつかれてしまう。何かないか、逃げるのに役立つものは……。

(そうだ……!)

 と、一道は、背中に負っていたリュックを下ろした。

(土人形は……理土は、水に弱いんだ。それならこれで……)

 ファスナーを開けて中を探り、そうして一道がリュックから取り出したのは、昨日飲み残した水の入ったペットボトルだった。

 理土がもう、すぐ後ろにまで迫っている。

 一道はペットボトルの蓋を開け、その中の水を、振り向きざまに理土の顔に浴びせかけた。

 理土は短く悲鳴を上げて、両手で顔を覆い、その場にうずくまった。

「う……。一……道……」

 理土は、顔を拭うように指を下ろして、一道を見上げた。指の下から瞼の溶けた、眼窩まで剥き出しの目玉が現れ、一道を見据える。その瞳も、表面からとろとろと溶けて流れ出し、白土色の泥水が、肌の上を伝って地面に垂れ落ちた。

 一道は悲鳴を上げる間も惜しんで、そこから逃げ出した。

 その直後。

 背後で、理土の声が響いた。


「みんな。一道と一緒に、広庭へお食事に行きましょう」


 朗々と伸びていくその声は、国の端々にまで聞こえ渡るかと思われるような、大きな声だった。

 一道は、思わずぎょっとして振り返った。

 理土の姿勢は先ほどと変わらず、地面にうずくまったまま、立ち上がる様子はない。だが――。

 今走っているこの道は、辺りに民家も少なく民の姿も見えないため、林へ向かうのを民たちに邪魔されることなく、ここまで来れた。しかし、さっきの理土の声が、屋敷の向こう側にある民家の人々にまで届いていたとしたら。

 この国の主である理土の言葉。それを聞いた民たちが、こぞってここへやって来て、みんなで自分を捕まえようとするのではないか? そんなことになったら――。

 一道の危惧は、ほどなくして現実のこととなった。

 大勢の人々の走る足音が、最初は遠くからかすかに聞こえてきて、それがだんだんと大きくなってくるのである。

 林まではもうすぐだった。前を走っていた青い傘は、すでに林の中に入り、木々の影に隠れて見えなくなっていた。

 せめて里哉に追いつくまでは、絶対に捕まりたくない。里哉はきっと、自分にこの国から脱出する方法を教えてくれるつもりなのだろう。そのために自分を呼び出したに違いないのだ。国を出る方法さえわかれば、たとえそのあと国の民に捕まっても、この国の食べ物を食わせられる前に、意地でも隙を見て逃げ出してやる。里哉を連れて、もとの世界へ――。


 国の出口まで一気に逃げ切る自信は、今やあまりなかった。自分の足の速さなら、こんなときでなければ、あるいはなんとかなったかもしれない。しかしいかんせん、何日もまともな食事をしていないせいで、力が出ないのだ。ここから国の出口まで、どのくらいの距離があるのかはわからないが、そこまで走り切る体力が、果たして自分の体に残っているだろうか。

 いや、余計なことは考えまい。

 とにかく――とにかく今は、里哉の所へ。

 一道は、あとほんの少しの距離まで近づいた林を見つめ、ただ一心に足を前へと進めた。


 そのときであった。

 突然、目の前で、空から人影が降りてきた。

 天跳だった。

 それまで傘の天井に登っていたらしい天跳は、天井から釣り下がった縄を伝って、林のいちばん外側に生えている木の一本へと、降り立った。

 しまった。挟み撃ちだ。

 体力が残り少ないこの状態で、傘の天井を自由自在に移動できる天跳の手をかいくぐることは、どう考えても不可能であろう。

 胸の中に広がるあきらめが、一道の足を鈍らせた。 

 しかし。


「足を止めるな! 林へ走れ、一道!」

 意外なことに、当の天跳がそう叫んだのである。

 一道はわけのわからぬまま、最後の力を振り絞って足を速めた。

 木の上の天跳が、手に持った縄を、両手でぐいと引いた。

 瞬間、縄の先にある天井の一点が、引かれるままに下へとへこんだ。

 傘と傘との間に隙間の開いた天井は、まるで細かくひび割れたかのようになる。そのひびから、外の光が国の中へと差し込む。幾本もの光の糸が伸び、幾枚もの光の薄布が、下方へ突き出した色とりどりの逆さの山の周囲を覆った。

 天跳がさらに縄を引っぱると、へこみは帯状に左右へ広がって、その部分に組まれた天井の傘が、ばらばらばらと崩れ落ちた。

 何百という大量の傘が、まばゆい光と共に地上へと降り注ぐ。柄を下にして、あるいは上下逆さになって、重なりつつ、弾き合いつつ地面に落ちてきたそれらの傘は、一道と、それを追ってきた土人形たちとの間を埋め尽くし、道を隔てた。土人形たちは傘の波に足を取られ、思うように先へ進めない。傘の骨を折ったり布を破ったりするのを恐れて、乱暴に傘を蹴散らしては来られないようだった。

 その隙に、一道は林の中へと逃げ込んだ。

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